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日本の俳優 (1934-2020) ウィキペディアから
白木 みのる(しらき みのる、1934年〈昭和9年〉5月6日 - 2020年〈令和2年〉12月16日[4])は、日本の俳優、実業家。本名、
島根県八束郡八束村(大根島、現在の松江市)出身[2][5]。幼少期に、父の仕事の関係で日本と満洲を往復して育った[2]。3歳の頃に肝炎を患った影響で脳下垂体の機能が低下し、発育不全となる[5]。また、小柄な体躯を活かせる騎手を夢見るが挫折する[1]。
絵のコンクールで入賞したことをきっかけに美術を進路に定め、絵の具代を稼ぐために地元ののど自慢大会や、ラジオの素人参加番組で賞金を得ることを思い立つ[5]。そこで美声を買われ、地元の温泉街で流しとして活動するようになる[2]。やがて歌で身を立てることを決意し、中学卒業を待たずにコントの幕間に歌を披露する歌謡劇団[2]「泉四郎劇団[5]」に専属歌手として入る。まもなく独立し、自ら座長として関西から九州を巡業するドサ回り生活を送る[5]。兵庫県尼崎市で巡業中、代役で大阪のキャバレーに歌手として出演した際、大阪劇場(大劇)の支配人に声をかけられ、「ミサイル小僧」の芸名で大劇の専属歌手となった[2]。この間、「少年田端」「十勝一男」「十代一夫」「ミサイル小僧」「正司彰夫」などと芸名を変えている[1]。
23歳の時[2]に吉本興業にスカウトされ「白木みのる」の芸名を自ら考案。芸名の由来は、本名の姓「柏」の「つくり」と「へん」を分けて「白木」、「なんでも実らなあかん」との理由で「みのる」[1][2][5]。改名直後の1959年、ミヤコ蝶々主演の『あっぱれ蝶助無茶修業』(関西テレビ)のレギュラーとなる[1]。これを機にミヤコ蝶々の押しかけ弟子となった[2](日向企画所属、マネジメントは吉本興業)。1961年には朝日放送テレビの『スチャラカ社員』に「こまっしゃくれた[1]」事務員役でレギュラー出演。1962年より、『てなもんや三度笠』(朝日放送)に珍念役でレギュラー出演し、藤田まこと・財津一郎らと絶妙な掛け合いを展開して人気を集めた[1]。吉本新喜劇の出演本数も300本以上にのぼり、芝居では白羽大介、ルーキー新一、花紀京との共演が多かった。
1968年、『てなもんや三度笠』の終了とともに吉本興業を去って上京、次第にテレビから舞台へ活躍の比重を戻し、島倉千代子や三波春夫の歌謡ショーに出演したほか、北島三郎の歌謡ショーで30年以上にわたり不動のゲストとして活躍。1年のうち、160日間は北島の特別公演の舞台に立つ日々を送った[2](2011年、芸道生活50周年記念北島三郎特別公演を最後に出演なし)。2000年代以降、CM出演などでテレビに復帰した。
2014年公開の映画『テルマエ・ロマエII』に出演して以降芸能活動を行わず、事実上引退した[3]。2015年以降は近所にも姿を見せることはなくなり、2020年4月頃の週刊誌の取材で、取材時点で兵庫県芦屋市の自宅近くにある老人ホームで暮らしていると報道された[3]。
2022年11月11日、SNSで関西の芸能関係者が訃報を流したため[4]スポーツニッポンが親族へ取材したところ、2年前に死去していたことがこの日に明らかとなった[6]。その後に掲載された週刊新潮の記事によると、2022年7月に白木と連絡をとれなかった編集部が、白木が所有するマンションの登記簿の記載から死去を確認していたものの、この時は親族が死去を認めず記事にできなかった[4]。
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