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日本の女性漫画家 (1920-1992) ウィキペディアから
長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年(大正9年)1月30日 - 1992年(平成4年)5月27日)は、日本の女性漫画家。日本初の女性プロ漫画家[1]。代表作に『サザエさん』・『いじわるばあさん』・『エプロンおばさん』など。
佐賀県小城郡東多久村(現・多久市)で父・勇吉と母・貞子との間の3人姉妹の次女として生まれる。実際は姉との間に夭折した2番目の姉がおり、戸籍上は4姉妹の三女になる。[2]当時、多久で操業していた三菱炭坑の技師であった勇吉が独立、ワイヤーロープの事業開業[3]に伴い福岡県福岡市春吉(現在の同市中央区)に転居春吉尋常小学校に小学1年生から通った。
小学生時代は成績が良く男子生徒と交代で学級長を務めていたが「悪ガキ」だったと妹の洋子に語っている[4]。小学校時代は卒業までクラス替えがなく、担任の教員も替わらず、家族のような組だった[5][6]。授業中にはよく教員の似顔絵を描いており、それを見つけた教員の松本善一にチョークを投げつけられ、罰として廊下に立たされた。そうした松本の癖などを漫画にして、級友に授業中回して遊んでいた[5]。掃除時間になると掃除を怠けて男子とチャンバラごっこをして遊んだ。女子が男子に泣かされた時にはその男子を屋上に連れ出して仕返しをした[5]。得意科目は図画と作文[5]。男子生徒と交替で級長(学級委員長)を務めたが、自習時間の監督を任されると、自習を怠けている生徒の頭を定規で叩いて教室を歩き回った[7]。それが原因でよく喧嘩になった[7]。小学校卒業式の朝、男子生徒と喧嘩した挙げ句、校庭の物置に閉じ込めそのまま式に出たあと家に帰ってしまう。卒業式終了後にその男子生徒に気づいた学校の用務員により助けられた[7]。なお、その男子生徒とは成年後の同窓会で和解している。
小学校卒業後は旧制福岡県立福岡高等女学校(現在の福岡県立福岡中央高等学校)に2年生の1933年(昭和8年)まで在籍。同年3月父・勇吉が肺炎から膿胸を併発し、5年間の闘病生活の末亡くなる[8]。町子の父への思い入れは深く「ハンサムで、素敵な紳士」だったと語っている[9]。一方で「短気な性格を娘達が受け継いだ」と振り返る[3]。父の死から一年後の1934年(昭和9年)、娘たちを東京で教育を受けさせたい、という母の貞子の意向で14歳の時に一家揃って上京[10]。私立山脇高等女学校の3年生に編入[1]。同校は「お嬢様学校」のため、方言やお行儀の違いを周囲から奇異の目で見られ[5][11]、腕白な性格から内向的な性格になった。娘の変化に貞子は心痛めていたという[11]。
当時漫画『のらくろ』が一世を風靡しており[1]、「(原作者の)田河水泡の弟子になりたい」という町子の独り言に姉と母は奔走、山脇高女在学中に田河水泡に師事する[12][13]。その後、田河の引き立てにより『少女倶楽部』1935年10月号に掲載された見開き2ページの『狸の面』で漫画家デビューする。「天才少女」と題したグラビアも同時に掲載された[14][15][16]。田河夫妻に子供がなかったことから[1]、内弟子として田河家で生活するが、ホームシックになり11カ月で出戻る[17]。
1939年に初連載作品となった『ヒィフゥみよチャン』で漫画家としての地位を確立。1940年からは、3人の女学生を描いた『仲よし手帖』という人気連載を持っていた(1942年まで少女倶楽部に連載、戦後は少女にて1949年から1951年まで連載[18])。
1944年に入り、空襲からの疎開と徴用回避のため、長野県佐久郡に赴き児童の絵の教師を務める話が一旦まとまった。その後、知人の勧めにより3月に長谷川一家は福岡市百道(現在の同市早良区)に疎開、西日本新聞社に絵画部[注 1]の校閲係として勤務。昼に出勤、4時に退社という軽作業であり、残りの時間は畑仕事をしていたという[19]。
転居後は、終戦直後の1945年9月に西日本新聞社発行の雑誌に読み切り6コマ漫画『さあ!がんばらう』を掲載するまで漫画作品を発表していない[20]。徴用回避の必要がなくなった終戦の翌日、西日本新聞社を退職した[21]。
1946年(昭和21年)4月22日、西日本新聞の僚紙としてフクニチ新聞社から創刊された「夕刊フクニチ」で連載漫画の依頼が舞い込み引き受けた。自宅の近所である百道海岸付近を妹と散歩をして海辺の風景を眺めているときに登場人物に海にちなんだ名前をつけて『サザエさん』の家族構成や名前を思いついた[22][1]。磯野家の日常を描いた『サザエさん』は、彼女のファッションも話題となり、人気を博した[1]。当初、本人は「アルバイト感覚で引き受けた」と語っている[23]。
有名出版社から町子と姉・毬子への仕事のオファーがあったため、『サザエさん』は8月22日[24]にサザエの結婚で一旦打ち切りとし、同年の暮れに一家そろって上京する。当時東京都への転入は戦後事情のため制限されていたが、新聞記者という名目で許された[25]。上京直前、母親の貞子が家を売った資金で「サザエさんを出版なさい」と毬子と町子に命じる[26]。
1946年12月に家族4人で出版社「姉妹社」を設立[1]。翌年の1947年1月1日、『サザエさん』第1巻を出版する(定価12円)[27][28]。1947年1月3日、夕刊フクニチへの連載を再開している[29]。連載を再開する際、打ち切り直前に登場させたマスオの顔を作者本人が忘れていて、西日本新聞社東京支局まで行き確認している。さらに地方紙にも掲載されるようになる[30]。
第1巻は初版2万部を日本出版配給(日配)に持ち込むと全て引き取ってくれたため、毬子は重版をかけさらに2万部を刷った[31]。しかしB5判の横綴じという第1巻の形状が書店に並べにくいと不評で、長谷川家は返品に占拠される事態となった。しかし、母の貞子が「次はB6判で出せば良い」と励まし、知り合いの出版関係者から借り入れた資金で『サザエさん』第2巻を出版。これが1か月に17万部も売れるベストセラーになる[32]。B5判の第1巻も書店からの注文がくるようになり、返品は全て引き取られた[33][34][35]。以降、『サザエさん』の第1巻はB6判に改訂されて再出版され、姉妹社で全68巻が刊行された。
1948年11月21日より『サザエさん』の連載先を新夕刊に移す[29]と、磯野家も東京を舞台として描くようになる[36]。
1949年、朝日新聞社が創刊した夕刊朝日新聞に『サザエさん』の連載の場を移し、週刊朝日に連載していた『似たもの一家』を打ち切る[37]。1951年から『ブロンディ』の後を承けて朝日新聞の朝刊を飾り[38]、新聞4コマ漫画の第一人者となる。この頃になるとファンレターも来るようになったという[39]。同漫画は後に何度か中断期間を挟みつつ1974年(昭和49年)まで連載された。
胃痛や風邪による休載はしばしばあったが、1960年には漫画家廃業を宣言し、一年近く断筆した[40]。漫画考案に苦悶する町子を見かねていた家族[41]は廃業に賛成する。朝日新聞社に毬子を通じて連載終了を申し出るが、広岡知男編集局長[注 2]は休載扱いとした。約半年後に町子の心境が変わった後に朝日新聞社から打診があり、連載を再開している[42]。
「ヒューマニズムに飽きていた」[41]町子は、1966年からブラックユーモア路線の『いじわるばあさん』の連載を開始する。善良なキャラクターの作品と違い、『いじわるばあさん』は自分の地のままでいいから気楽に描けるという[43]。主人公のおばあさんは、町子自身の性格をモデルにしたとの説もある[1]。
1967年、47歳の時に胃潰瘍になり、胃の5分の4を摘出した。実際は胃潰瘍でなく胃癌であったが、妹・洋子の夫が癌で夭折していることを知っていた町子は「癌になったら自殺する」と周囲に述べていたため、家族は胃潰瘍で貫き通した[44]。胃癌だった事実は町子に生涯知らされることはなかった。これを機に家族は漫画執筆をやめさせようとするが、主治医の中山恒明に説諭され、渋々執筆協力を再開する[45]。
1970年(昭和45年)に知的財産権に関する先駆的行動として、作者に無断でキャラクターを使用していた立川バスを提訴し、勝訴(サザエさんバス事件)。 同年11月19日、東京都世田谷区桜新町一丁目にあった自宅が放火される。
1974年2月22日付で『サザエさん』を3年間の休載とするが、その後再開される事は無かった[46]。
1978年、『サザエさんうちあけ話』を朝日新聞日曜版に連載。翌1979年には単行本として姉妹社から出版されるとともに、これを原作とし、姉毬子を主役としてNHKの朝の連続ドラマ『マー姉ちゃん』が放送された[46]。姉を熊谷真美、町子を田中裕子が演じて、田中が注目されるきっかけとなった。
1982年(昭和57年)11月、紫綬褒章受章。このときのインタビューで新作発表の質問に対し「もう漫画は描かない」と答えている。それでもエッセイ風の漫画をときおり発表することもあり1987年(昭和62年)3月22日の朝日新聞に掲載された『サザエさん旅あるき』が最後の作品となった。
1983年(昭和58年)の春の園遊会に招待され、その席で昭和天皇と会話している[1]。
1985年(昭和60年)東京都世田谷区桜新町に「長谷川美術館」を建て、初代館長を務めた[1]。本館は町子の没後、現名称である「長谷川町子美術館」に変更された。
1990年(平成2年)4月、勲四等宝冠章を受章。1991年(平成3年)には日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。
1992年(平成4年)5月27日、死去。享年73(満72歳没)。当時の報道では「自宅の高窓を閉めようとして机から落ち全身を打撲、打撲の痛みで体調を崩し、通院治療を受けていた。徐々にろれつが回らなくなり、食欲がなくなるなど衰弱した末、死去の前日にはほとんど食事をとらず、翌朝までに息を引き取っていた」という[47]。『長谷川町子思い出記念館』の年表によれば死因は冠動脈硬化症による心不全[48]。また、長谷川洋子の自伝『サザエさんの東京物語』によれば死の一週間前に脳血腫の診断を受けており[49]、往診医に大病院での入院手術を指示されるも「町子自身が治療を拒否したので、本人の意志を尊重した」と毬子がマスメディア上で述べている[50]。遺言により葬儀は肉親のみの密葬で済ませ、訃報は1か月間公表されなかった[47]。告別式は行われず、弔問・供花なども毬子は固辞した[47]。火葬も遺体を棺桶に入れず、毛布に包み、霊柩車でなく、乗用車で運んだ[51]。
訃報は1カ月後の6月末に朝日新聞社とフジテレビの両社から公表された。フジテレビでは、公表後もっとも早い放送である火曜日の『サザエさん』再放送のラストでブルーバックのテロップで哀悼の意を表し、かつ故人の遺志で今後も放送を続ける旨を伝えた。同年7月28日、漫画を通じ戦後の日本社会に潤いと安らぎを与えたとして国民栄誉賞が授与された。他に第8回(1962年・昭和37年度)文藝春秋漫画賞、第20回(1991年・平成3年度)日本漫画家協会賞を受賞。
急な仕事で同窓会に出席できなくなったエピソードを『サザエさん』の本人登場回で描かれている。小学校時代の同級生から、みんな私が腕白だった頃の話ばかり、と苦笑いしていたというくだりがある[5]。
旧友たちが集団上京してきたエピソードが遺作『サザエさん旅あるき』に描かれている[6]。
RKB毎日放送が『サザエさんふるさとへ帰る』という番組を企画した際、町子本人は出演拒否した。同級生に「あなたたち私のかわりに出てよ。何を言ってもいいから」と説得、小学校時代の同級生たちがその番組に出演した[5]。
町子は生前、評論家・樋口恵子[注 5]の著書『愛しきは老い』を愛読し、彼女と電話や手紙でやり取りしていた。また樋口も全68巻ある『サザエさん』の原作本を「生涯最高の書」と評している[注 6]。
アニメ『ちびまる子ちゃん』が1990年1月に『サザエさん』の直前の時間枠での放送が開始した後、原作者・さくらももこと対面の話が企画された。町子は非常に楽しみにしていたが、本人の死により叶わなかった。
当初は聖公会のクリスチャン。父の病気を機に家族で入信した。母のような熱心な信徒ではなかった町子が、日曜日に里帰りする口実として「礼拝したい」と言い出したところ、田河水泡夫妻に付き添われて隣のメソジスト教会に通う羽目となった。のちに、付き添った夫妻の方が熱心なクリスチャンになった[66]。
戦後は母の影響から妹や母とともに無教会主義の集会に参加するようになり[67]、集会で講義をしていた矢内原忠雄と母が交友関係を持つようになった[注 7]。矢内原から海外探訪の誘いがあった時には畏敬のあまり反射的に断ってしまい、啓発の機会を逸したことを後に悔やんだ[68]。矢内原没後の1970年の対談では自らの宗派を「無教会派」と答えている[69]。
上京後の住まいは世田谷区用賀2丁目にあった(現在もそこに長谷川家がある)。毬子の夫が戦死した後、1961年に洋子が夫を亡くしたことをきっかけに、洋子家族が暮らす離れを母屋まで移動して連結した[70]。それ以降は町子・母・毬子・洋子・洋子の娘2人(隆子と彩子〈さいこ〉)・家政婦という計7人の女性が一つ屋根で生活した[1]。
東京の男性と結婚したいと考えていた時期、好みをいくつか挙げており[71]、容姿にはこだわらなかったが[72]、生涯独身だった。洋子が2008年に出版した回想録『サザエさんの東京物語』によれば、何度かお見合いをしており、一度は婚約までいったが後日破棄した[1]。その理由について、夫や子供の世話で一生を送るなんて我慢できない、と妹に述べている[43]。一時期は子供が欲しかったが、姪ができて母性本能が満たされたという[72]。
町子はアシスタントなしで1人で作品を書き続けた。上京後は毎日自宅2階の書斎で『サザエさん』の原稿を4案ほど執筆した後、その中から一番気に入ったものを1つを選んだ。夕方4時にやってくる朝日新聞のバイク便に、選んだ原稿を渡すという日々を送った[1]。
長谷川町子美術館の学芸員によると「長谷川は漫画のアイディアを日常の中から得ていました。彼女は家の中での家族とのやり取りや、時々外出した時に目にするもの全てがアイディアのヒントとなっていました。長谷川は日常の中のちょっとした笑いに対する鋭い観察眼と、それを漫画に昇華する表現力を持ち合わせていたのです」と評している[1]。
仕事の依頼や作品の管理は姉の毬子があたり、パーティには出席せず、連載を持っていた朝日新聞社や毎日新聞社にもほとんど顔を出さなかった[80]。
日本漫画家協会賞の受賞パーティに出席した時は、どよめきが起こったと参加した漫画家・加藤芳郎が後年証言している[注 10]。
同業者などからは「孤高の漫画家」と称されていた[1]。
長谷川は以下の漫画作品以外にも、趣味で製作した絵画や焼き物、陶器や粘土細工による人形等の作品も幾つか遺している[85]。
姉妹社の廃業後は、朝日新聞社(2008年(平成20年)に出版部門を朝日新聞出版に分社)で、長谷川町子全集(全33巻 + 別巻1)が刊行した。また、戦中に小学館の学習雑誌などに掲載された短編作品は『長谷川町子の漫畫大會』が、2016年(平成28年)に小学館で書籍化された。
詳しくはサザエさん#映画を参照。
長谷川町子もしくは、長谷川町子をモデルとしたキャラクターを演じた人物
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