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遠国に属する令制国の一つ ウィキペディアから
肥前国(ひぜんのくに、旧字体:肥前󠄁國)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。
西海道に属し、現在の佐賀県と長崎県(壱岐・対馬を除く)にあたる。
火国(ひのくに)、後の肥国(ひのくに)の分割によって7世紀末までに成立した。肥後国が『続日本紀』に初めて見える持統天皇10年(696年)までのどの時点かに、肥前国(ひのみちのくち)と肥後国(ひのみちのしり)との分割があったと推定される。 以後、奈良・平安時代は肥前国と呼ばれた。平安時代の班田制による生産量から、佐賀県部分で7万人以上いたと推定される。
「肥前国風土記」によると、見通しの良い山丘に外敵の来襲を通報するための烽が計20か所、高来郡(長崎県)5つ、藤津郡(太良町大浦)1つ、小城郡(多久市と江北町の間の両子山)1つ、神埼郡(日の隈山)1つ、養父郡(鳥栖市朝日山)1つなど設けられ、城が基肄城(三養基郡基山町基山)に1か所設けられた。白村江の戦いで新羅と唐の連合軍に大打撃を被り、わが国と百済との連合軍は陸戦でも惨敗を喫した。百済が完全に滅び新羅と唐の来襲の危機に直面し、翌664年に防人と烽を対馬と壱岐に置き、筑前に水城を築き、665年に筑前に大野城、肥前に基肄城と南北相対して大宰府都城防衛のため古代山城が築かれた。
肥前国の官道西海道は、大宰府から基肄駅(基山町木山口)- 切山駅(中原町)- 佐嘉駅(肥前国府付近・大和町尼寺)- 高来駅(多久市)へ至り、杵島郡と松浦郡への二つに分かれていた。肥前国には鹿嶋馬牧(鹿島市)・庇羅馬牧(平戸島)・生属馬牧(生月島)・柏島馬牧(唐津市神集島)・極(=扌遷)野牧(島原半島)・早崎牛牧(島原半島南端)の六ケ所の官牧があり、西海道の諸国は駅馬・兵馬、牛は運搬として大宰府へ送っていた。[1]
『肥前国風土記』は、全国で5つだけの、ほぼ完全な形で残る風土記の1つである。
中世には鎌倉幕府鎮西奉行の少弐氏と室町幕府九州探題の渋川氏が争う。両氏とも本来は筑前国にあった大宰府を拠点としてきたが、大内氏や大友氏の侵入によって肥前に没落した存在であった。この他にも千葉氏・松浦氏・大村氏・有馬氏などの中小の武士が割拠しており、龍造寺氏が戦国大名化するまで、国内の大半を支配する有力武家は現れなかった。
戦国時代にポルトガル、スペインの宣教師が相次いで来訪してからは、西洋の窓口となり、天正少年使節団を出すなどした。
国府は、『色葉字類抄』によると、佐嘉郡にあり現在の佐賀県佐賀市大和町惣座(久池井)にあった。 大化の改新によって国府が置かれるようになり、肥前国の国府は大和町久池井に置かれた。行政・防衛の中心地として重要な地点を占めた。国府の長である国司の中には、遣唐使中有名人の一人である吉備真備や、大江山の酒天童子退治で「平安時代の快男子」とうたわれた源頼光もこの地に住んでいた。
8世紀前半に造営され、そのまま移転せずに規模を変化させているが、10世紀に入ると急速に縮小していく。1975年(昭和50年)から1984年(昭和59年)までの発掘で政庁などの遺跡が発見された。1989年、国の史跡に肥前国庁跡が指定された。
内陸にある国府に通じる国府津(外港)が、現在の佐賀市諸富町大津にあったと推定される。現在、惣座の国庁跡は嘉瀬川沿い、大津は筑後川沿いにあって直接通じていないが、古代は嘉瀬川(『肥前国風土記』等記載の佐嘉川に比定)の流路が異なり両地点が舟運で結ばれていた可能性がある[2]。
易林本の『節用集』では、「小城郡に府」と記載がある。なお、昭和10年頃の地図などによると、かつては現在の大和町の一部(都府楼、惣座、尼寺辺りまで)も小城郡としていたという記録もある。[3]
最も社格が高いのは田島坐神社であるが、一宮にはなっていない。一宮は中世以降、上記の2社が一宮を主張し並立した。二宮以下は不詳であるが、天山社・天山神社が三宮とされることがある。
※ 矢印→の右側は近代(1896年(明治29年))以降の郡名及び市名。
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