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江戸時代初期の大名。平戸藩第3代藩主。宗陽。 ウィキペディアから
松浦 隆信(まつら たかのぶ)は、江戸時代前期の大名。肥前国平戸藩の第3代藩主。官位は従五位下・肥前守、壱岐守。平戸松浦氏28代当主。曾祖父の道可と同名を名乗った。
2代藩主松浦久信の長男として誕生した。
慶長7年(1602年)、父久信の死により、12歳で家督を相続する。祖父鎮信(法印)が後見した。慶長8年(1603年)、初めて将軍徳川家康に拝謁する。
慶長17年(1612年)9月、従五位下・肥前守に叙任された。また本姓が豊臣姓であることが確認される[1]。
慶長18年(1613年)、平戸城の一部が焼失する。隆信は幼少時に父によって受洗していたが、この年に江戸幕府の禁教令が出たことで棄教した。慶長19年(1614年)、城普請に関して駿府の家康に召され、領内のキリスト教の寺院の破却を命じられた。同年、鎮信が死去し、それを機に対外政策を変更した。元和元年(1615年)、国許より大坂夏の陣に出陣。5月11日に到着した時には本戦は終わっており、二俣城で家康に拝謁。徳川秀忠より所領安堵の朱印状を貰い、以後10年江戸に住む。寛永6年(1629年)、領国に戻る。
寛永14年(1637年)没し、下谷広徳寺に葬られた。法号は正宗院殿前壱州大守向東宗陽大居士。墓所は平戸市正宗寺にもある。
跡は長男の重信(鎮信、天祥)が継いだ。
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