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養父郡 (佐賀県)
日本の佐賀県(肥前国)にあった郡 ウィキペディアから
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郡域
歴史
要約
視点
古代
養父郡は、古くは[3]「肥前国風土記」「和名抄」に見えて、「和名抄」では「夜不」と記す。
郡名の由来は、「肥前国風土記」[3]で景行天皇の行幸のさいに、天皇の犬がほえていたが、産婦から犬が見られたら犬はほえるのを止めた。これによって犬の声が止む国」[3]と名付けられて、それが転じて養父郡となった。
郷
「肥前国風土記」[3]は、4郷のうち
- 鳥樔(鳥栖)郷…現在の鳥栖市本鳥栖町を中心する地域と比定。
- 曰理(屋田)郷…鳥栖市南東の水屋・高田付近で筑後川流域に比定。
- 狭山郷…鳥栖市西南の旭町一帯に比定。
- 養父郷…鳥栖市麓町牛原の養父一帯で比定。
鳥樔(鳥栖)[3]は、応神天皇のときに、鳥屋をこの郷に造り多くの鳥を飼っていて、朝廷に献上していた。これにより鳥屋郷[3]と呼ばれて、のちに改めて鳥樔郷となった。
曰理郷(後の屋田郷)[3]は景行天皇が行幸のさいに、生葉山(後の浮羽)で船の材料を集めて、高良山で船をこぐ梶の材料を集めて船を造った。その船で人々が川を渡れるようになったので、曰理郷となった。
狭山郷[3]は景行天皇が行幸したさいに、この山にある狭山の仮宮から四方を眺望すると見渡しが良かった。これによって分明村(さやけむら)と呼ばれるて、狭山郷と呼ばれた。
式内社
Template:肥前国養父郡の式内社一覧
中世
荘園と公領
『河上神社文書』の正応5年(1292年)の河上宮造営用途支配惣田数注文[3][4]によると、
安楽寺御領(安楽寺天満宮)
- 鳥栖荘45丁2反
荘園分
公田分
- 養父東郷…232丁2反
- 養父西郷…193丁6反内[7]
とある。
武家の勢力
室町時代の主な勢力は少弐氏の一族の筑紫氏と朝日氏である。筑紫氏は基肄郡、養父郡および筑前にも勢力[8] を広げていた。同族の朝日氏は、鳥栖市の朝日山城を拠点としたが筑紫氏に従属している。
近世
江戸時代には佐賀藩領と対馬藩領に分かれた。郡内の11村のうち、北半分の真木村、藤木村、鳥栖村、宿村、牛原村は5村は対馬藩領。南半分の轟木村、下野村、儀徳村、江島村、立石村、山浦村は6村は佐賀藩領である。
佐賀藩は、蓑原村、原古賀村、白壁村、東尾村、中津隈村の5村を西方の三根郡から編入[9]して、11村に再編している。
鳥栖市村田には、佐賀藩「親類」の村田鍋島家(肥前藩内6000石(物成2400石)・藩主一門)があり、初代は鍋島茂英である。みやき町白石には、佐賀藩「親類」の白石鍋島家(佐賀藩内2万277石(物成8111石)・藩主一門)があり、初代は鍋島直弘である。また、みやき町簑原には佐賀藩「家老家」である深堀鍋島家の地米高327石の所領があり、初代は深堀純賢[10]である。
近世以降の沿革

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行政
- 長崎県基肄・養父・三根郡長
- 佐賀県基肄・養父・三根郡長
脚注
参考文献
関連項目
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