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日本の江戸時代初期の剣術家、兵法家、二天一流兵法開祖 ウィキペディアから
宮本 武蔵(みやもと むさし)は、江戸時代初期の剣術家、大名家に仕えた兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名である。
後世には、演劇・小説・漫画・映画やアニメなど様々な映像作品の題材になり、現代では「剣豪」または「剣聖」と称されている[2]。特に吉川英治の小説『宮本武蔵』が有名であるが、史実と異なった創作が多い。 外国語にも翻訳され出版されている自著『五輪書』には十三歳から二十九歳までの六十余度の勝負に無敗と記載[注釈 1]がある。
絵画や武具・馬具制作も頻繁にしていた過去があり、国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』といった水墨画や鞍、木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。
島田美術館が所蔵する有名な肖像画は作者不詳[1]だが、身体を緩めている様は『五輪書』が説く極意に一致しており、自画像とする説もある[2]。
本姓は藤原氏[注釈 2]、名字は宮本、または新免。幼名は辨助[注釈 3](べんのすけ)、通称(百官名)は武蔵、諱は玄信(はるのぶ)である。号は二天、また二天道楽。著書『五輪書』の中では新免武蔵守・藤原玄信と名乗っている。
熊本市弓削の墓碑は「新免武蔵居士」、養子・宮本伊織が武蔵の死後9年目の承応3年(1654年)に建てた「新免武蔵玄信二天居士碑」(以下、小倉碑文)には「播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士」とある。
武蔵死後71年目の『本朝武芸小伝』(1716年)で政名なる名が紹介された。これを引用した系図や伝記、武蔵供養塔が広く紹介されたことから諱を「政名」とする武蔵の小説や紹介書が多数あるが、二天一流門弟や小倉宮本家の史料にこの「政名」は用いられていない。逆に史的信頼性が完全に否定された武蔵系図等で積極的に用いられている。
『五輪書』の冒頭にある記述「歳つもりて六十」に従えば、寛永20年(1643年)に数え年60歳となり、生年は天正12年(1584年)となる。
江戸後期にまとめられた『小倉宮本家系図』[注釈 4]、並びに武蔵を宮本氏歴代年譜の筆頭に置く『宮本氏正統記』には天正10年(1582年)に生まれ、正保2年(1645年)享年64で没したと記されている。
『五輪書』に「生国播磨」の記載があり、養子・伊織が建立した『小倉碑文』、江戸中期の地誌『播磨鑑』や泊神社棟札(兵庫県加古川市木村)等の記載による播磨生誕説(現在の兵庫県高砂市米田町)と、江戸時代後期の地誌『東作誌』の美作国(岡山県東部)宮本村で生まれたという記載による美作生誕説がある。
父[注釈 5]は赤松氏の支流・新免氏の一族・新免無二とされているが異説もある。
『小倉宮本系図』には武蔵の養子・伊織の祖父で別所氏の家臣・田原家貞を実父とし、武蔵はその次男であるとされているが、伊織自身による『泊神社棟札』や『小倉碑文』にはそのことは記されていない。また、武蔵や伊織に関する多くの記事を載せている江戸中期に平野庸脩が作成した地誌『播磨鑑』にも武蔵が田原家の出であるとはまったく触れられていない[注釈 6]。
『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利し、16歳で但馬国の秋山という強力な兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を行い、全てに勝利したと記述される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書[3] が存在することから、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い[注釈 7][注釈 8][注釈 9]。
『五輪書』には21歳の頃に[注釈 10]、京都で天下の兵法者(吉岡一門と考えられる) と数度戦ったが全てに勝利した旨の記述がある。この内容は吉川英治『宮本武蔵』をはじめ多くの著名な文芸作品の題材とされている。
武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に豊前小倉藩領(現在は山口県下関市域)の舟島(巌流島)で、岩流なる兵法者[注釈 11]と戦ったとされるものである。この内容は江戸時代より現代に至るまで芝居、浄瑠璃、浮世絵、小説、映像作品など様々な大衆文芸作品の題材となっている。
大坂の陣では水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている[注釈 12]。
その後、姫路藩主・本多忠刻と交流を持ちながら活動。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭(本松寺、円珠院、雲晴寺)を行っている。この時期、神道夢想流開祖・夢想権之助と明石で試合を行ったことが伝えられている[注釈 13]。
元和の初めの頃、水野家臣・中川志摩之助の三男・三木之助を養子とし、姫路藩主・本多忠刻に出仕させる。
寛永元年(1624年)、尾張国(現在の愛知県西部)に立ち寄った際、円明流を指導する。その後も尾張藩家老・寺尾直政の要請に弟子の竹村与右衛門を推薦し尾張藩に円明流が伝えられる。以後、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆する。
寛永3年(1626年)播磨の地侍・田原久光の次男・伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石藩主・小笠原忠真に出仕させる[注釈 14]。
寛永期、吉原遊廓[注釈 15] 開祖・庄司甚右衛門が記した『青楼年暦考』に、寛永15年(1638年)の島原の乱へ武蔵が出陣する際の物語[注釈 16]が語られ、直前まで江戸に滞在していたことが伝えられている。同様の内容は庄司道恕斎勝富が享保5年(1720年)に記した『洞房語園』にもあり、吉原名主の並木源左衛門、山田三之丞が宮本武蔵の弟子であった旨が記されている。これらの史料に書かれた内容は隆慶一郎などの文芸作品の題材となっている。
島原の乱では、小倉藩主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡藩主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。
寛永17年(1640年)、熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、鷹狩り[注釈 17]が許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。同じく客分の足利義輝遺児・足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年に忠利が急死したあとも2代藩主・細川光尚によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として、藩士がこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃、余暇に制作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。
寛永20年(1643年)、熊本市近郊の金峰山にある岩戸・霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『独行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子・寺尾孫之允に与えている。
正保2年5月19日(1645年6月13日)、千葉城(熊本)の屋敷で亡くなる。享年62。墓は熊本県熊本市北区龍田町弓削の武蔵塚公園内にある通称「武蔵塚」。福岡県北九州市小倉北区赤坂の手向山には、養子伊織による武蔵関係最古の記録の一つである『新免武蔵玄信二天居士碑』(通称『小倉碑文』)がある。
武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。また、孫之允の弟子の一人柴任三左衛門は福岡藩黒田家に二天一流を伝えている。
『五輪書』には「廿一歳にして[注釈 10]都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるという事なし」と記述される。この「天下の兵法者」は、『小倉碑文』に記された「扶桑第一之兵術吉岡」すなわち吉岡家と考えられる。
決闘の経緯は『小倉碑文』の記録を要約すると以下の通りとなる。
武蔵は京に上り「扶桑第一之兵術」の吉岡一門と戦った。吉岡家は代々足利将軍家の師範で、「扶桑第一兵術者」の号であった。足利義昭の時に新免無二を召して吉岡と兵術の試合をさせた。三度の約束で、吉岡が一度、新免が二度勝利した。それにより、新免無二は「日下無双兵法術者」の号を賜った。このこともあって、武蔵は京で吉岡と戦ったのである。最初に吉岡家の当主である吉岡清十郎と洛外蓮台野で戦った。武蔵は木刀の一撃で清十郎を破った。予め一撃で勝負を決する約束だったので命を奪わなかった。清十郎の弟子は彼を板にのせて帰り、治療の後、清十郎は回復したが、兵術をやめ出家した。
その後、吉岡伝七郎と洛外で戦った。伝七郎の五尺の木刀を、その場で武蔵が奪いそれで撃ち倒した。伝七郎は死亡した。
そこで、吉岡の門弟は秘かに図り、兵術では武蔵に勝てないので、吉岡亦七郎と洛外下松で勝負をするということにして、門下生数百人に弓矢などを持たせ、武蔵を殺害しようとした。武蔵はそのことを知ったが、弟子に傍らから見ているように命じた後、一人で打ち破った。
この一連の戦いにより、吉岡家は滅び絶えた。
『小倉碑文』などの記録は、他の史料と比べて事実誤認や武蔵顕彰の為の脚色も多く見られる。吉岡家の記述に限定すれば、武蔵に完敗し引退した清十郎、死亡した伝七郎、洛外下松の事件の記録は他の史料になく、創作の可能性がある。また、兵仗弓箭(刀・槍・薙刀などの武具と弓矢)で武装した数百人の武人を相手に一人で勝利するなどの記述は現実離れしている。同様に新免無二と吉岡家との足利義昭御前試合に関する逸話も他の史料になく、因縁を足利将軍家と絡めて描くことで物語性を高めるための創作の可能性がある。
福岡藩の二天一流師範、立花峯均が享保12年(1727年)に著した武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』にも、吉岡家との伝承が記されている。これを要約すると以下の通り。
清十郎との試合当日、武蔵は病になったと断りを入れたが、幾度も試合の要求が来た。竹輿に乗って試合場に到着した武蔵を出迎え、病気の具合を聞く為に覗き込んだ清十郎を武蔵は木刀で倒した。清十郎は後に回復したが、兵術を捨てて出家した。伝七郎は洛外で五尺の木刀を用いて武蔵に立ち向かったが、木刀を奪われ撲殺された。
又七郎は、洛外下り松のあたりに鎗、薙刀や弓矢で武装した門人数百人を集めて出向いた。武蔵側にも十数人門人がおり、若武者の一人が武蔵の前に立つが弓矢で負傷した。これを見た武蔵は門人達を先に退却させ、自らが殿となって、数百人の敵を打払いつつ退却した。武蔵は寺に逃げ込み、寺伝いに退却し、行方をくらませた。与力同心がその場に駆けつけ、その場を収めた。
この事がきっかけで吉岡家は断絶した。
この文書には『小倉碑文』の全文が転記されており、碑文の内容を基に伝承を追記し、内容を発展させたものであると考えられる。
細川家筆頭家老・松井氏の家臣で二天一流師範、豊田正脩が宝暦5年(1755年)に完成させた『武公伝』には、正脩の父・豊田正剛が集めた武蔵の弟子達が語った生前の武蔵に関する伝聞が記載されている。これには、道家角左衛門が生前の武蔵から度々聞いた話として、洛外下松での詳しい戦いの模様が記されている。これによると、
武蔵に従いたいという弟子に対して、集団同士の戦闘は公儀が禁ずるところであると断った。清十郎・伝七郎のときは、遅れたことで勝利したので、今回は逆のことをやることにした。下松に行く途中に八幡社の前を通ったとき、普段はやらない勝利祈願をしようとしたが止めた。まだ夜のうちに下松に来て松陰に隠れていた。清十郎の子である又七郎が門弟数十人を連れてやってきた。「武蔵待得タリ」と叫びながら現れ、又七郎を斬り殺した。門弟が斬り付け、また、半弓で射られ矢が武蔵の袖に刺さったが、進んで追崩したため門弟は狼狽し縦横に走散し、勝利を得た。
この説話は、武蔵が度々語ったものとして当時の細川藩の二天一流の門弟間に伝えられていた伝聞を記録したものである。『武公伝』の内容は正脩の子・豊田景英によって『二天記』に再編集され、明治42年(1909年)に熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』(通称「顕彰会本」)で『二天記』が原資料の一つとなりそのまま史実とされ、さらに吉川英治が小説『宮本武蔵』で顕彰会本の内容を用いたことから現代にも広く知られるようになった。
福住道祐の伝記物『宇喜多伝』等を執筆した伝記作家が貞永元年(1684年)に著した『吉岡伝』に武蔵と吉岡家の対決の異説が記されている。この文書には吉岡源左衛門直綱・吉岡又市直重という二人の吉岡側の人物と、松平忠直の家臣で無敵流を号し二刀の名手で北陸奥羽で有名であるとの肩書きの宮本武蔵が登場する。洛外下松のくだりは記されていない。また試合内容が碑文と全く異なるため、直綱が清十郎で直重が伝七郎であると単純に対応づけすることはできない。要約すると以下の通り。
「源左衛門直綱との試合の結果、武蔵が額から大出血し、直綱勝利と引分けの2つの意見が出た。直綱は再試合を望んだが武蔵はこれを拒否し、又市直重戦を希望した。しかし直重戦では武蔵が逃亡し直重の不戦勝となった。」
これは宮本武蔵と吉岡家が試合をし引き分けたという内容の最初の史料である。ただし、『吉岡伝』は朝山三徳・鹿島林斎という原史料不明の武芸者と同列に宮本武蔵が語られ、前述のようにその肩書きは二刀を使うことを除き現実から乖離しており、創作の可能性がある。この史料は昭和になり司馬遼太郎が小説『真説宮本武蔵』の題材にしたことから、武蔵側の記録に対する吉岡側の記録として紹介される機会が多い。
また巷間には、武蔵吉岡戦を引き分けとする逸話が伝承されている。
また『武公伝』には道家角左衛門の説話として、御謡初の夜の席での雑談で、志水伯耆から武蔵が先に清十郎から打たれたという話があるが本当か、と武蔵が訊ねられ武蔵が否定する話が記述されている。『武公伝』の話に従えば、晩年の武蔵は弟子等に盛んに吉岡に勝利したことを語っていたが、武蔵の生前に巷間に「吉岡が勝利した」という異説があったと考えることができる。
『小倉碑文』や『兵法大祖武州玄信公伝来』『武公伝』には武蔵との戦いで吉岡家が絶えたとあるが、吉岡家がその後も存続したことは『駿河故事録』等、いくつかの史料からも推測できる。それらの史料によると、慶長19年(1614年)に禁裏での一般にも開放された猿楽興行で、吉岡清次郎重賢(建法)なる者が警護の者と諍いを起こして斬り殺されるという事件があって、これにより兵術吉岡家は滅んだとあり、武蔵戦以降も吉岡家は存続している。
『本朝武芸小伝』にも猿楽興行の異説があり、事件を起こしたのは吉岡又三郎兼房であり、京都所司代・板倉勝重は事件の現場に吉岡一族の者が多く居たが、騒ぎたてず加勢しなかったため吉岡一族を不問にしたとある。この説を取るならば武蔵戦・猿楽興行事件以降も吉岡家は存続している。
『吉岡伝』にも同様の記録があり、吉岡清次郎重堅が事件を起こし、徳川家康の命により兵術指南は禁止されたが吉岡一族の断絶は免れたとある。更に翌年の大坂の陣で吉岡源左衛門直綱・吉岡又市直重の兄弟が豊臣側につき大坂城に篭城、落城とともに京都の西洞院へ戻り染物を家業とする事になったとあり[注釈 18]、この説でも武蔵戦・猿楽興行事件以降も吉岡家は存続している。
文書名 | 執筆年 | 執筆編者 | 第一戦 | 第二戦 | 第三戦 | 吉岡家 | |||
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対戦者 | 結果 | 対戦者 | 結果 | 対戦者 | 結果 | ||||
小倉碑文 | 承応3年 (1654年) | 宮本伊織 | 吉岡清十郎 | 吉岡清十郎 引退 宮本武蔵 勝利 | 吉岡伝七郎 | 吉岡伝七郎 死亡 宮本武蔵 勝利 | 吉岡亦七郎[注釈 19] | 宮本武蔵 勝利 | 断絶 |
吉岡伝 | 貞永元年 (1684年) | 福住道祐 | 吉岡直綱 | 宮本武蔵 出血 吉岡直綱 勝利 引分両論 | 吉岡直重 | 宮本武蔵 逃亡 吉岡直重 不戦勝 | なし | 存続 | |
本朝武芸小伝 (二説) | 正徳4年 (1714年) | 日夏繁高 | 吉岡 | 引分 | なし | 存続 | |||
兵法大祖 武州玄信 公伝来 | 享保12年 (1727年) | 二天一流師範 黒田藩士 丹治峯均 | 吉岡清十郎 | 吉岡清十郎 引退 宮本武蔵 勝利 | 吉岡伝七郎 | 吉岡伝七郎 死亡 宮本武蔵 勝利 | 吉岡亦七郎[注釈 19] | 宮本武蔵と門人 退却に成功 | 断絶 |
古老茶話 | 1740年代 | 柏崎永以 | 吉岡兼房 | 引分 | なし | ||||
武公伝 | 宝暦5年 (1755年) | 二天一流師範 松井氏家臣 豊田正脩 | 吉岡清十郎 | 吉岡清十郎 引退 宮本武蔵 勝利 | 吉岡伝七郎 | 吉岡伝七郎 死亡 宮本武蔵 勝利 | 吉岡亦七郎[注釈 19] | 吉岡亦七郎 死亡 宮本武蔵 勝利 | 断絶 |
武蔵が行った試合の中で最も広く知られているものは、俗に「巖流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に当時豊前小倉藩領であった舟島で、岩流[注釈 11]なる兵法者と戦ったとされるものである。
試合が行われた時期については諸説あり、定かではない。
これらの説では武蔵が京に上り吉岡道場と試合をする前の十代の頃に巖流島の試合が行われたこととなる。
一方、熊本藩の二天一流に伝わる武蔵伝記、『武公伝』では試合は慶長17年(1612年)とされる。同様に熊本藩の二天一流に伝わる武蔵伝記、『二天記』では慶長17年(1612年)4月とされる。これらの説では武蔵が京に上った後、巖流島の試合が行われたことになる。また『二天記』内に試合前日に記された武蔵の書状とされる文章に4月12日と記されており、ここから一般に認知され記念日ともなっている慶長17年4月13日説となったが、他説に比して信頼性が高いという根拠はない。
この試合を記した最も古い史料である『小倉碑文』の内容を要約すると、
岩流と名乗る兵術の達人が武蔵に真剣勝負を申し込んだ。武蔵は、貴方は真剣を使用して構わないが自分は木刀を使用すると言い、堅く勝負の約束を交わした。 長門と豊前の国境の海上に舟嶋という島があり、両者が対峙した。岩流は三尺の真剣を使い生命を賭け技術を尽くしたが、武蔵は電光より早い木刀の一撃で相手を殺した。以降俗に舟嶋を岩流嶋と称するようになった。
とある。
『小倉碑文』の次に古い記録は試合当時に門司城代であった沼田延元(寛永元年(1624年)没)の子孫が寛文12年(1672年)に編集し、近年再発見された『沼田家記』がある。内容を現代語で要約すると以下の通り。
宮本武蔵玄信が豊前国に来て二刀兵法の師になった。この頃、すでに小次郎という者が岩流兵法の師をしていた。門人同士の諍いによって武蔵と小次郎が試合をする事になり、双方弟子を連れてこないと定めた。試合の結果、小次郎が敗れた。小次郎の弟子は約束を守り一人も来ていなかったが、武蔵の弟子は島に来ていて隠れていた。勝負に敗れ気絶した後、蘇生した小次郎を武蔵の弟子達が皆で打ち殺した。
それを伝え聞いた小次郎の弟子達が島に渡り武蔵に復讐しようとした。武蔵は門司まで遁走、城代の沼田延元を頼った。延元は武蔵を門司城に保護し、その後鉄砲隊により警護し豊後国に住む武蔵の親である無二の所まで無事に送り届けた。
武蔵が送り届けられたのが豊後国のどこであったのかには以下の説が挙げられる。
様々な武芸者の逸話を収集した『本朝武芸小伝』(1716年)にも巖流島決闘の伝説が記されており、松平忠栄の家臣・中村守和(十郎右衛門)曰くと称して、『沼田家記』の記述と同様、単独渡島の巖流に対し武蔵側が多くの仲間と共に舟島に渡っている様子が語られている。
『武将感状記』(1716年、熊沢淡庵著)では、武蔵は細川忠利に仕え京から小倉へ赴く途中、佐々木岸流から挑戦を受けたので、舟島での試合を約し、武蔵は櫂を削った二尺五寸と一尺八寸の二本の木刀で、岸流は三尺余りの太刀で戦って武蔵が勝ったとしている。
江戸時代の地理学者・古川古松軒が『二天記』とほぼ同時代の天明3年(1783年)に『西遊雑記』という九州の紀行文を記した。ここに当時の下関で聞いたという巖流島決闘に関する民間伝承が記録されている。あくまでも試合から100年以上経った時代の民間伝承の記録であり、史料としての信頼性は低いが、近年再発見された『沼田家記』の記述に類似している。内容を現代語訳すると以下の通りである。
岩龍島は昔舟島と呼ばれていたが、宮本武蔵という刀術者と佐々木岩龍が武芸論争をし、この島で刀術の試合をし、岩龍は宮本に打ち殺された。縁のある者が、岩龍の墓を作り、地元の人間が岩龍島と呼ぶようになったという。赤間ヶ関(下関)で地元の伝承を聞いたが、多くの書物の記述とは違った内容であった。岩龍が武蔵と約束をし、伊崎より舟島へ渡ろうとしたところ、浦の者が「武蔵は弟子を大勢引き連れて先ほど舟島へ渡りました、多勢に無勢、一人ではとても敵いません、お帰りください」と岩龍を止めた。
しかし岩龍は「武士に二言はない、堅く約束した以上、今日渡らないのは武士の恥、もし多勢にて私を討つなら恥じるべきは武蔵」と言って強引に舟島に渡った。
浦人の言った通り、武蔵の弟子四人が加勢をして、ついに岩龍は討たれた。しかし岩龍を止めた浦人たちが岩龍の義心に感じ入り墓を築いて、今のように岩龍島と呼ぶようになった。
真偽の程はわからないが、地元の伝承をそのまま記し、後世の参考とする。ある者は宮本の子孫が今も小倉の家中にあり、武蔵の墓は岩龍島の方向を向いているという。
『武公伝』には、巖流島での勝負が詳述されている。これによると
巖流小次郎は富田勢源の家人で、常に勢源の打太刀を勤め三尺の太刀を扱えるようになり、18歳で自流を立て巖流と号した。その後、小倉城主の細川忠興に気に入られ小倉に留まった。慶長17年に京より武蔵が父・無二の縁で細川家の家老・松井興長を訪ね小次郎との勝負を願い出た。興長は武蔵を屋敷に留め、御家老中寄合で忠興公に伝わり、向島(舟島)で勝負をすることになった。勝負の日、島に近づくことは固く禁じられた。
勝負の前日、興長から武蔵に、勝負の許可と、明日は小次郎は細川家の船、武蔵は松井家の船で島に渡るように伝えられた。武蔵は喜んだが、すぐに小倉を去った。皆は滞在中に巖流の凄さを知った武蔵が逃げたのだと噂した。武蔵は下関の問屋・小林太郎右衛門の許に移っていた。興長には、興長への迷惑を理由に小倉を去ったと伝えた。
試合当日、勝負の時刻を知らせる飛脚が小倉から度々訪れても武蔵は遅くまで寝ていた。やっと起きて、朝食を喰った後、武蔵は、太郎右衛門から艫を貰い削り木刀を作った。その後、太郎右衛門の家奴(村屋勘八郎)を漕ぎ手として舟で島に向かった。
待たされた小次郎は武蔵の姿を見ると憤然として「汝後レタリ(来るのが遅い!)」と言った。木刀を持って武蔵が汀より来ると小次郎は三尺の刀を抜き鞘を水中に投げ捨てた。武蔵は「小次郎負タリ勝ハ何ゾ其鞘ヲ捨ント(小次郎、敗れたり。勝つつもりならば大事な鞘を捨てはしないはずだ。)」と語った。小次郎は怒って武蔵の眉間を打ち、武蔵の鉢巻が切れた。同時に武蔵も木刀を小次郎の頭にぶつけた。倒れた小次郎に近づいた武蔵に小次郎が切りかかり、武蔵の膝上の袷衣の裾を切った。武蔵の木刀が小次郎の脇下を打ち骨が折れた小次郎は気絶した。
武蔵は手で小次郎の口鼻を蓋って死活を窺った後、検使に一礼し、舟に乗って帰路に着き半弓で射かけられたが捕まらなかった。
この話は、武蔵の養子・伊織の出自が泥鰌捕りの童であったという話と共に、戦いの時に武蔵が島に渡るときの船の漕ぎ手であったとする小倉商人の村屋勘八郎なる人物が、正徳2年(1712年)に語ったものと記されている。『武公伝』で慶長17年(1612年)に行なわれたとされる巌流との戦いで漕ぎ手だった者が100年後に正脩の祖父の豊田正剛に語った話とされている。仮に、この勝負の内容が、事実であれば、細川家でこれだけの事件が起こったにもかかわらず、それについての記述が『武公伝』の編集当時に、細川家中や正剛・正脩の仕える松井家中になく、藩外の怪しげな人物からの伝聞しかなかったことになる。また、前述の『沼田家記』の内容とも大きく異なっている。
『武公伝』では武蔵の弟子たちが語ったとされる晩年の武蔵の逸話が多く記載されているが、岩流との勝負については、村屋勘八郎の話以外、弟子からの逸話はなく、松井家家臣の田中左太夫が幼少の頃の記憶として、松井興長に小次郎との試合を願い出た武蔵が、御家老中寄合での決定を知らず下関に渡り、勝負の後に興長に書を奉ったという短い話のみ記載されているのみである。これは、晩年の武蔵が度々吉岡との勝負を語っていたという逸話と対照的であり、『五輪書』に岩流との勝負についての記述が全くない事実を考えると晩年の武蔵は舟島での岩流との勝負について自ら語ることが殆どなかったと推測することができる。
『本朝武芸小伝』(1716年)、『兵法大祖武州玄信公伝来』(1727年)、『武公伝』(1755年に完成)等によって成長していった岩流の出自や試合の内容は、『武公伝』を再編集した『二天記』(1776年)によって、岩流の詳しい出自や氏名を佐々木小次郎としたこと、武蔵の手紙、慶長17年4月13日に試合が行われたこと、御前試合としての詳細な試合内容など、多くの史的価値が疑わしい内容によって詳述された。『二天記』が詳述した岩流との試合内容は、明治42年(1909年)熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』で原資料の一つとなりそのまま史実とされ、さらに吉川英治が小説『宮本武蔵』でその内容を用いたことから広く知られるようになった。
また、様々な文書で岩流を指し佐々木と呼称するようになるのは、元文2年(1737年)巖流島決闘伝説をベースとした藤川文三郎作の歌舞伎『敵討巖流島』が大阪で上演されて以降である。この作品ではそれぞれに「月本武蔵之助」「佐々木巖流」という役名がつけられ、親を殺された武蔵之助が巖流に復讐するという筋立てがつけられている。
史料を比較すると記述に以下のような差異が認められる。
文書名 | 執筆年 | 執筆者・編者 | 宮本武蔵 | 巖流 | |||
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年齢 | 加勢 | 名称 | 年齢 | 出自 | |||
小倉碑文 | 承応3年 (1654年) | 宮本伊織 | 不明 | 武蔵一人 | 岩流 | 不明 | 兵術の達人 |
沼田家記 | 寛文12年 (1672年) | 熊本藩士・沼田家家人[注釈 21] | 不明 | 武蔵の弟子達が隠れて来ていた | 小次郎 | 不明 | 豊前の兵法師範 |
江海風帆草 | 宝永元年 (1704年) | 吉田重昌 | 十八歳 | 武蔵一人 | 上田宗入 | 不明 | 武蔵を批判し、無二と因縁がある長門の兵法師範 |
本朝武芸小伝 | 正徳4年 (1714年) | 日夏繁高 | 不明 | 「武蔵一人(小倉碑文の転記)」「仲間を連れてきていた」の両論併記 | 巖流 | 不明 | 兵法遣い |
兵法大祖武州玄信公伝来 | 享保12年 (1727年) | 丹治峯均 | 十九歳 | 武蔵一人 | 津田小次郎 | 不明 | 無二が恐れた長門の兵法師範 |
武公伝 | 宝暦5年 (1755年) | 豊田正脩 | 二十九歳 | 武蔵一人 | 巖流小次郎 | 不明 | 富田勢源の弟子で細川忠興が登用した豊前の兵法師範。 |
二天記 | 安永5年 (1776年) | 豊田景英 | 二十九歳 | 武蔵一人 | 巖流小次郎 (佐々木小次郎) | 十八歳 | 富田勢源の弟子で細川忠興が登用した豊前の兵法師範。 |
兵法先師伝記 | 天明2年 (1782年) | 丹羽信英 | 十八歳 | 武蔵一人 | 津田小次郎 | 不明 | 無二と幾度も戦い決着しなかった豊前の兵法者。 |
西遊雑記 | 天明3年 (1783年) | 古川古松軒 | 不明 | 門人の士四人與力 | 佐々木岩龍 | 不明 | 伊崎から渡島した(長門側の)武芸者。 |
武蔵にゆかりのある土地、武道の場などで語られる事があるが、明確な根拠や史実を記したとされる史料に基づくものではない。
武蔵没後21年後の寛文6年(1666年)に書かれた『海上物語』に武蔵が絵を描く話が既に記されている。また『武公伝』には、「武公平居閑静して(中略)連歌或は書画小細工等を仕て日月を過了す、故に武公作の鞍楊弓木刀連歌書画数多あり」と書かれている。
現在残る作品の大部分は晩年の作と考えられ、熊本での作品は、細川家家老で八代城主であった松井家や晩年の武蔵の世話をした寺尾求馬助信行の寺尾家を中心に残されたものが所有者を変えながら現在まで伝えられている。
水墨画については「二天」の号を用いたものが多い。筆致、画風や画印、署名等で真贋に対する研究もなされているが明確な結論は出されていない。
主要な画として、『鵜図』『正面達磨図』『面壁達磨図』『捫腹布袋図』『芦雁図』(以上は「永青文庫蔵)、『芦葉達磨図』『野馬図』(以上は松井文庫蔵)、『枯木鳴鵙図』(和泉市久保惣記念美術館蔵)、『周茂叔図』『遊鴨図』『布袋図』(以上は岡山県立美術館蔵)、『布袋観闘鶏図』(福岡市美術館蔵)などがある。
書としては、『長岡興長宛書状』(八代市立博物館蔵)、『有馬直純宛書状』(吉川英治記念館蔵)、『独行道』(熊本県立美術館蔵)、『戦気』(松井文庫蔵)が真作と認められている。
伝来が確かな武蔵作の工芸品としては、黒漆塗の「鞍」、舟島での戦いに用いた木刀を模したとされる「木刀」一振。二天一流稽古用の大小一組の「木刀」が松井家に残されている。また、武蔵作とされる海鼠透鐔(つば)が島田美術館等にいくつか残されているが、武蔵の佩刀「伯耆安綱」に付けられていたとされる、寺尾家に伝来していた素銅製の「海鼠透鐔」(個人蔵)が熊本県文化財に指定されている。
『兵法大祖武州玄信公伝来』は、武蔵の身の丈を5.94尺(換算:曲尺で約180センチメートル相当)であったと記している。
武将・渡辺幸庵[注釈 23]の対話集『渡辺幸庵対話』の宝永6年9月10日(グレゴリオ暦換算:1709年10月12日)の対話によると、武蔵とは以下のような者であったという。
これによれば、剣術の名人であるが、欠点が1つある。足を洗うことや行水は嫌いで、ましてや沐浴をすることなどあり得ない。裸足で外を出歩き、体などの汚れは布や何かで拭って済ませている。汚れを隠すために天鵡織で両面仕立ての衣服を着ているが、隠しおおせるわけもなく、それ故に偉い方々とお近付きになれない、という。武蔵が生涯風呂に入らなかったといわれているのは、この史料に基づいた話である[注釈 25]。もっとも、『渡辺幸庵対話』の記述には他の多くの史料によって知られている当時の世相と相容れない矛盾点も多く、係る武蔵の人となりに関しても、実際に幸庵が語ったものかどうか、疑問視する研究者もある(※詳細は「渡辺幸庵」参照のこと)。
『二天記』は、大和国(現在の奈良県)人で宝蔵院流槍術の使い手である奥蔵院日栄、伊賀国(現在の三重県西部)人で鎖鎌の使い手である宍戸某、江戸の人で柳生新陰流の大瀬戸隼人と辻風左馬助らとの試合を記しているが、『二天記』の原史料である『武公伝』に記載が無く、また、他にそれを裏付ける史料が無いことから、史実ではないと考えられている。
細川家家老で後に八代城主になった松井寄之の依頼により、巌流島の試合で使用した木刀を模したと伝えられる武蔵自作の木刀が現在も残っている。1984年(昭和59年)には、熊本県がNHK総合テレビの時代劇『宮本武蔵』の放送を記念してこの木刀の複製を販売した。
巌流島の戦いなど、武蔵に関わる物語は江戸時代から脚色されて歌舞伎、浄瑠璃、講談などの題材にされ、吉川英治が1930年代に朝日新聞に連載した小説『宮本武蔵』によって最強の青年剣士武蔵のイメージが一般に広く定着した。
タイトル | 公開年 | 配給 | 監督 | 武蔵役 |
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宮本武蔵 地の巻 | 1936年 | 新興 | 滝澤英輔 | 嵐寛寿郎 |
宮本武蔵 地の巻 | 1937年 | 日活 | 稲垣浩 | 片岡千恵蔵 |
宮本武蔵 風の巻 | 1937年 | 東宝 | 石田民三 | 黒川弥太郎 |
宮本武蔵 草分けの人々 | 1940年 | 日活 | 稲垣浩 | 片岡千恵蔵 |
宮本武蔵 栄達の門 | 1940年 | 日活 | 稲垣浩 | 片岡千恵蔵 |
宮本武蔵 剣心一路 | 1940年 | 日活 | 稲垣浩 | 片岡千恵蔵 |
宮本武蔵 一乗寺決闘 | 1942年 | 日活 | 稲垣浩 | 片岡千恵蔵 |
宮本武蔵 決戦般若坂 | 1942年 | 大都 | 佐伯幸三 | 近衛十四郎 |
宮本武蔵 二刀流開眼 | 1943年 | 大映 | 伊藤大輔 | 片岡千恵蔵 |
宮本武蔵 決闘般若坂 | 1943年 | 大映 | 伊藤大輔 | 片岡千恵蔵 |
宮本武蔵 | 1954年 | 東宝 | 稲垣浩 | 三船敏郎 |
続宮本武蔵 一乗寺の決斗 | 1955年 | 東宝 | 稲垣浩 | 三船敏郎 |
宮本武蔵 完結篇 決闘巌流島 | 1956年 | 東宝 | 稲垣浩 | 三船敏郎 |
宮本武蔵[4] | 1961年 | 東映 | 内田吐夢 | 中村錦之助(萬屋錦之介) |
宮本武蔵 般若坂の決斗[4] | 1962年 | 東映 | 内田吐夢 | 中村錦之助(萬屋錦之介) |
宮本武蔵 二刀流開眼[4] | 1963年 | 東映 | 内田吐夢 | 中村錦之助(萬屋錦之介) |
宮本武蔵 一乗寺の決斗[4] | 1964年 | 東映 | 内田吐夢 | 中村錦之助(萬屋錦之介) |
宮本武蔵 巌流島の決斗[4] | 1965年 | 東映 | 内田吐夢 | 中村錦之助(萬屋錦之介) |
宮本武蔵 | 1973年 | 松竹 | 加藤泰 | 高橋英樹 |
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