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日本の剣術流派・兵法 ウィキペディアから
二天一流(にてんいちりゅう)は流祖・新免玄信(宮本武蔵)が、晩年に熊本市に位置する霊巌洞(れいがんどう)で完成させた兵法である。その理念は著書『五輪書』に著されている。二天流、武蔵流などとも呼ばれた。現在も、山東派と野田派が伝承されている。[1]
宮本武蔵の父・新免無二(當理流関係の文献には宮本無二之助藤原一真・宮本無二斎藤原一真)は、實手・二刀流などを含む當理流(肥後系の伝承)または無二流(筑前系の伝承)の使い手だったが、武蔵はそれを発展させ流名を円明流に改めたという。[要出典]晩年、伝えていた一刀、二刀、實手など多くの形を捨て、[要出典]右手に大太刀、左手に小太刀の二刀を用いる五つのおもて「五方」の五本にまとめ上げ、その兵法理念を『五輪書』に書き表した。『五輪書』では流名は二刀一流・二天一流の二つが用いられているが最終的には二天一流になったと考えられる。[要出典]後世には、二天流・武蔵流の名も用いられている。[注釈 1]
武蔵晩年の弟子には細川家家老である松井寄之などがいるが、[要出典]武蔵死後、二天一流は、『五輪書』を相伝された寺尾孫之允勝信と、その弟で病床の武蔵の世話をしていた寺尾求馬助信行を中心に伝えられた。
『武公伝』(細川家家老で八代城主松井家の二天一流師範が著した武蔵伝記。宝暦5年(1755年)豊田正脩編)には、「士水云、武公肥後にての門弟、太守初め、長岡式部寄之、澤村右衛門友好、其の外御家中御側外様及び陪臣軽士に至り、千余人なり」と書かれている。
寺尾孫之允の弟子には『五輪書』を相伝した浦上十兵衛(慶安4年・1651年)、柴任三左衛門(承応2年・1653年)、山本源介(寛文7年・1667年)、槙島甚介(寛文8年・1668年)がおり、『武公伝』は他に相伝の弟子として井上角兵衛、中山平右衛門、提沢兵衛永衛、この他弟子余多ありとしている。重臣の松井直之、山名十左衛門も高弟としている。
寺尾求馬助の四男である信盛は武蔵の再来と噂されるほどの技量で、父・求馬助から武蔵の後継者とされ、新免姓を継承し新免弁助信盛を名乗り今日まで伝わる二天一流の稽古体系を完成させた[4]。
宝暦5年(1755年)に時習館 (熊本藩)が設立されると、武芸稽古所には東榭(とうしゃ)・西榭(せいしゃ)が設けられ、志方半兵衛之経は東榭の剣術師範のひとりとして、村上平内正勝は西榭の剣術師範のひとりとして登用され[5][6][7]、この二人が当時二天一流の代表的な師範として熊本藩に認知されていたことが分かる[8]。
宝暦7年(1757年)に八代に文武稽古所を設立され、武芸所は教衛場と呼ばれた[9]。時期は不明だが、村上平内正勝の弟の村上正之が剣術の師範として登用され、村上正之の死後は弟子の豊田景英が教衛場の師範となった[10]。
村上正勝・正之から相伝を受けた野田一渓種信は、寺尾藤次の弟子筋からも学び、志方・村上両師範家の教えを統合した。[要出典]
寺尾求馬助の五男である寺尾郷右衛門勝行は、兄である新免弁助信盛からも学び、道統は後に山東家に伝えられた。[要出典]
熊本における二天一流は、志方系と村上正勝系・正之系、村上家から別れた野田系の四つの新免信盛の流れを伝える師範家に加え、寺尾求馬助の六男の寺尾郷右衛門勝行からの系を伝える楊心流柔術師範家の山東家を加えた五師範家が藩に公認された。[要出典]
なお、寺尾孫之允の弟子筋の中には細川家の外に二天一流を伝えた者もいる。中でも柴任三左衛門実連は福岡藩黒田家家臣の吉田太郎右衛門に伝え、実連の弟子である立花峯均が武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』を著すなど福岡でも二天一流は盛んに行われた。[要出典]
さらに福岡藩の二天一流は江戸後期に丹羽信英によって越後に伝えられ、明治中期までは伝承された[11]。
嘉永3年(1850)5月8日に、熊本時習館の師役の山東半兵衛の弟子宮崎政賢(宮崎長兵衛)が、師の子息で、後に熊本時習館の師役となる山東新十郎清武とともに全国開国修行に出立し、同年12月に帰藩した。廻国のルートは、讃岐の多度津・丸亀両家中を振り出しに、狼華の天真館、江戸では斎藤・千葉・伊庭の大道場の他に今治・津・柳河・館林・島原の諸家中、その後は佐倉、香取、土浦、笠間、水戸、棚倉、仙台、山形、会津、白河、宇都宮、壬生、古河、安中、小諸、上田、膳所を歴遊し、最後は高槻で畢っている。手合わせした相手のほとんどは、諸藩師家や著名な大道場の門人たちである。試合数は689名に及び、最も多い日は51名(水戸・神道無念流長尾理平太門人)を数えた[12][13]。この時の長兵衛の足跡は、この3年後の嘉永6年から安政元年にかけて佐賀藩士で二刀鉄人流師範の牟田高惇が藩命を受けて廻国修行した時のルート[14][15]と重なり合う部分が多い[13]。
越後村上藩の師範役であった石黒又右衛門贇広は尊王攘夷論に賛成し、戊辰戦争中に、村上藩の奥羽越列藩同盟の加入に反対したが容れられず、村上藩は慶応4年/明治元年(1868)5月6日に加盟。石黒も従軍を命じられたが戦意はなく、明治維新後に隠遁。[16]
明治3年(1870)に熊本時習館は廃止されたが、剣術師家17家中、最大の5家を占めたのは二天一流と新陰流(疋田景兼の系統の新陰流)であった[17]。
廃藩置県後の明治5年(1872)、熊本県の山東新十郎清武は、加茂川村加惠荒目鶴に道場を開設し、二天一流や揚心流(楊心流)柔術を教授した。門弟の数は6,000名で明治6年から7年にかけて隆盛したが、明治10年に閉場した[18]。
1877年(明治10年)の西南戦争の折り、山東山東新十郎清武は熊本隊十六番隊長として西郷軍に加担。清武長男は田原坂の戦闘で戦死。宮崎長兵衛の長男八郎は協同隊総参謀として西郷軍に加担し、八代で戦死。[19]
西南戦争後に武道を見直す機運が高まり、明治15年(1882)熊本県にて振武會が設立され、山東新十郎清武は創立委員のひとりであった[20]。明治30年(1897)武徳会熊本支部の設立に伴い、振武會は解散[21]。
昭和6年11月、昭和天皇の熊本に行幸。11月18日に肥後武道の演武は天覧の栄に浴した。二天一流の演武者は打太刀を野田長三郎が、(系譜野田辰三郎と氏名が異なるが、大浦 辰男『宮本武蔵の真髄―五輪書と二天一流の極意』マネジメント社、1989年10月1日の本文と系譜も異なっている)仕太刀を志水三郎が務めた。[22][23][23]
現在、山東派と野田派が伝承されている[24]。
片手剣法であるという考え方[25]、二刀をフルに活用できるように鍛錬・稽古するという考え方[26][27]、両手で扱う一刀太刀勢法こそ宮本武蔵が実戦で使った技を集大成したもので二天一流の神髄であるという考え方[28]の3つの考え方がある。
特に出典がないところは、魚住孝至『日本人の道 宮本武蔵』ぺりかん社、2002年12月20日、424-427頁をもとに作成したが、明らかに誤りがあるところは出典を明記して訂正する。
乾坤(けんこん)を其侭(そのまま)庭に見る時は、我は天地の外にこそ住め
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