Loading AI tools
ウィキペディアから
宮本 伊織(みやもと いおり、慶長17年10月21日(1612年11月13日) - 延宝6年3月28日(1678年5月18日)、65歳没)は、江戸時代初期の武士。諱は貞次(さだつぐ)。剣豪宮本武蔵の養子として知られるが、出自や養子の経緯に関しては諸説ある。
伊織は宮本武蔵の推挙により寛永3年(1626年)15歳の時に播州明石藩主・小笠原忠真(当時忠政)の近習に出仕、出頭人となり弱冠20歳で執政職(家老)。翌9年(1632年)肥後熊本藩主加藤忠広の改易に伴い肥後へ移封された細川忠利の跡の豊前小倉藩へ移封の時、2500石。同15年(1638年)の島原の乱には侍大将と惣軍奉行を兼ね、戦功により1500石加増、都合4000石。家中の譜代・一門衆を越えて筆頭家老となる。
その出自は「小倉宮本家系図」や由緒書に記されている通り、播磨国印南郡米堕邑、田原久光の次男であったことが、伊織が出身地で再建した泊大明神社や米田天神社の棟札(「泊神社棟札」)記載「田原家傳記」の発見などでほぼ確実とされている。
また、伊織は武蔵没後9年目の承応3年(1654年)小倉郊外赤坂・手向山の山頂に巨石をもって武蔵の彰徳碑を建てている。その小倉碑文(漢文)一千百余文字は以後の『武州伝来記』『二天記』など武蔵伝記の基となり、石碑は後に歌川広重の「諸国名所百景」にも描かれる豊前の名所となった。「巌流島の決闘」や「吉岡一門との決闘」などもこの碑文によって史実と考えられている。
伊織の子孫は、代々小倉小笠原藩の筆頭家老を世襲した。宮本家の知行地であった手向山山麓に、義父武蔵、伊織を始め、累代の墓所がある。なお、宮本家の子孫は、現在も小倉藩士族の末裔として、小倉を中心に居住している。
なお、宮本武蔵には伊織の前に三木之助(宮本三木之助)という養子がおり、姫路藩本多家に仕えていたが、寛永3年に主君本多忠刻に殉死している。
伊織が武蔵死後8年目の承応2年(1653)に播磨の故郷に再建した泊大明神社の棟札、通称「泊神社棟札」には伊織の先祖附が書かれている。裏面に「願主、源貞次・舎弟玄昌、田原家傳記を當社・米堕天神宮別書収め入れ畢」と明記されているので正式には『田原家伝記』と称すべきであろう。「余の祖先は…」と伊織の述懐様式で田原家の先祖附が書かれ、子孫世々米堕邑に産せりとして、曽祖父貞光、祖父家貞、父は久光であり、伊織が武蔵の養子になったいきさつなどが記されている。
すなわち、作州の名族神免(新免)氏に跡継ぎがなく、遺言によってその神免家を継いだのが武蔵玄信である。のち宮本武蔵と称したが、また子がなかったので自分が義子(養子)になり宮本を称するようになったと述べている。
播磨の地誌『播磨鑑』に伊織の記事がある。
『小倉宮本家系図』には、武蔵と伊織が同姓の叔父・甥の間柄となっているが、伊織の地元の地誌に書かれていないことが注目される。武蔵が伊織を養子にしたのは、屋敷に召使っていて器量が勝れていたからであるとしている。伊織の出自、経歴、事象、子孫の事、及び子供のころ伊織が天狗にさらわれた天狗伝説まで詳しく書いている所は、編著者の平野庸修が伊織と同じ印南郡の人であることから、同郷出身の偉人としてよく知っていたものであろう。また文中に、米堕に今も子孫(田原氏は代々米田の庄屋)が居住していると紹介していることから、隣村平津の医者であった平野は、田原氏の子孫を訪ねて調査したものと考えられる。
また、別項目で、武蔵と伊織を並べて紹介し、わざわざ同じ播磨内の別の出自として紹介している。
伊織の「舊蹟(ふるあと)の部に委く記す」というのは先の文である。この地誌が書かれた宝暦十二年(1762年)まで、播磨地方に武蔵が伊織と同じ田原氏の出自であるという伝承はなかったようである。
筑前黒田藩の二天一流師範・立花峯均(丹治峯均)が編纂した武蔵の伝記『武州伝来記』にも伊織の記事がある。ここには武蔵が小笠原公の側近に出仕させた時のいきさつが書かれているのが注目される。
後半には伊織の小笠原藩での出頭ぶりと、忠真、忠雄二代の君公に深く信頼された名臣であったこと、将軍・幕閣にまで名を知られた名宰相であったことを伝えている。
『二天記』の記事から、出羽の正法寺村の孤児、父は奥州最上家の浪人とされていた。武蔵が正法寺原を通りかかった折り泥鰌を取っていた少年伊織を養子にした話は「泥鰌伊織」として有名である。
江戸後期の小倉藩の藩士で、御書院番や御近習頭を勤めた小島禮重が小倉藩の逸事、風俗、地誌を記録したものに『鵜之真似』がある。ここに伊織に関する逸事が実に10あまりも記録されており、具体的な人物像を知ることができる。ここでは2例だけ紹介する。
豊前における伊織の知行地はどこであったのか、これまでの研究で触れられたものはなかったが、伊織の生前、延宝五年「小倉藩知行帖」記載の宮本家所領が『豊前叢書・副楫第一号』に書かれていることがわかった。
南方は今の小倉南区、白野江は門司区の周防灘に面した海岸地帯、弁城、神崎は田川郡内にいまもその地名が残っている。宮本家の領地は豊前の全域に散在していたようである。7ヵ村の合計は4085石余になる。このうち2000石は「上り知」であるという。「上り知」とは藩へ返納した知行という意味である。差し引くと2085石余が残る。宮本家は5代貞陳の時知行2100石になって以来、明治維新時の小倉藩最後の家老左織貞介までずっとこの家禄(家臣筆頭)であった。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.