東北医科薬科大学病院
仙台市にある病院 ウィキペディアから
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東北医科薬科大学病院(とうほくいかやっかだいがくびょういん)は、宮城県仙台市宮城野区福室一丁目に所在する、東北医科薬科大学が運営する病院。東北医科薬科大学福室キャンパス内にある[2][3]。当院(600床)を本院として、東北医科薬科大学若林病院(127床)を分院とする。
東北医科薬科大学病院 | |
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情報 | |
英語名称 | Tohoku Medical and Pharmaceutical University Hospital |
前身 |
保生病院 → 宮城第一病院 → 健康保険宮城第一病院 → 社会保険宮城第一総合病院 → 東北厚生年金病院 → 東北薬科大学病院 |
許可病床数 |
600床 一般病床:554床 精神病床:46床 |
機能評価 | 一般病院2(3rdG:Ver2.0)[1][注 1] |
開設者 | 学校法人 東北医科薬科大学 |
管理者 | 佐藤賢一(病院長) |
開設年月日 |
1946年(昭和21年)5月1日[注 2] → 2013年(平成25年)4月1日 |
所在地 |
〒983-8512 |
位置 | 北緯38度16分9.4秒 東経140度58分1秒 |
二次医療圏 | 仙台 |
PJ 医療機関 |
江戸時代には武家屋敷だった現・仙台市都心部の名掛丁において、明治期に(現)東北本線開業に伴って仙台駅近接の旅館兼下宿屋が開業した(仙台出身の土井晩翠と共に「晩藤時代」を築いた島崎藤村が居住)。これ以降、同地には不特定多数の人々が集まるようになるが、1904年(明治37年)に個人経営の保生医院となり、不特定多数の人々が集まるのは変わらないながら、業態変更して医業の歴史が始まった。
終戦後、買収されて厚生労働省の外郭団体の病院になった。同地で規模拡大してきたが、土地区画整理事業に伴い、仙石線沿いで仙台郊外の福室に移転。2012年(平成24年)に(学)東北薬科大学に買収されて民間運営に戻ると同時に大学病院となった。これは、東北大学病院、東北福祉大学せんだんホスピタルに続き、大学単位で県内3番目の大学病院である。
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明治維新の廃藩置県(1871年)や秩禄処分(1876年)等によって武士が没落したため、かつての城下町の面積の多くを占めた武家地は転売されていった。また、仙台の経済中心であった芭蕉の辻を南北に通ずる奥州街道(現・国分町通り)では、北側の国分町、南側の南町の両町人町において、廃藩置県で仙台藩の後ろ盾が無くなった藩内各寺社が没落する中で京都等の大寺院が支部を設けたり[注 3]、金融・病院[注 4]・妓楼・乗合馬車といった新たな資本が進出したりした。一方、かつての城下町の多くを占める武家地では、1875年(明治8年)から始まる医術開業試験により、西洋医学を修得した医師たちが、小資本の医院を各所に開業していった。
1887年(明治20年)、いわゆる街はずれだった仙台区東六番丁に仙台駅が開業すると、その周辺に旅館・ホテル・商店が集積し始め、芭蕉の辻周辺に次ぐ区内の拠点として発展していった。
仙台城大手門から東に延び、芭蕉の辻を東西に通る大町の東に続く新伝馬町のその隣の名掛丁(その東に石巻街道が接続)は組士(仙台藩の家格参照)が居住する武家屋敷だったが、1894年(明治27年)に宮城県仙台市名掛丁62番地(仙台駅の北東隣接地)に、旅館兼下宿屋の三浦屋が開業した。すると東北学院(仙台市)に勤務し、当館に居住した島崎藤村が、代表作『若菜集』を同地にて執筆した(後に仙台出身の土井晩翠と共に「晩藤時代」を築く)。
1904年(明治37年)、同地の下宿屋が医院となった。これが現在まで続く当院の医業としての出発点となる。同院は約40年同地で続いた。
1945年(昭和20年)の仙台空襲の被災も免れると、終戦後に運営母体が社会保険協会となり、「宮城第一病院」の名称で敷地・設備を拡張していった。
同地の土地区画整理事業(仙台トンネル参照)に伴って1982年(昭和57年)、仙石線沿いかつ国道45号(石巻街道の後継)沿いの福室に移転して「東北厚生年金病院」に改称し、約30年運営された。
社会保険庁改革により東北薬科大学に買収され、2013年(平成25年)より同大薬学部の実習を目的とした「東北薬科大学病院」となった。その後、東日本大震災(2011年)からの復興と東北地方の医師不足解消を目的とした医学部新設の政策が議論・実施され、同大に医学部が新設された2016年(平成28年)より「東北医科薬科大学病院」となった。
名掛丁は江戸時代、石巻街道(塩竈街道)が城下町に入る道沿いにあり、組士が居住して警備していた(石巻街道は現在、国道45号に受け継がれている)。
1894年(明治27年)より、宮城県仙台市名掛丁62番地(現・宮城県仙台市宮城野区名掛丁)には旅館並びに下宿屋の「三浦屋」があった[5]。ここに島崎藤村が、仙台市での住居を支倉町10番地の田代家から移し、1896年(明治29年)11月から翌年7月に仙台を離れるまで居住した[6]。この下宿屋で藤村は代表作『若菜集』を執筆し、後に仙台県仙台(現・宮城県仙台市)出身の土井晩翠と共に「藤晩時代」あるいは「晩藤時代」と呼ばれる一時代を築いた。
平田屋酒店になってから約3年後の1904年(明治37年)より、名掛丁62番地は「伊藤保生病院」となった[5]。住所の改称年月日は不明だが、同地は「名掛丁120番地[注 5][注 6]」となった。
1946年(昭和21年)、名掛丁120番地にて40年以上続いた医院を受け継ぎ、宮城県社会保険協会が、病床数15床の内科医院「宮城第一病院」を開設した[7][8]。当時は戦後占領期にあたり、当院が開設された宮城野橋(X橋)周辺は進駐軍のGIたちの歓楽街だった。
1950年(昭和25年)に「健康保険宮城第一病院」(36床)に改称[8]。さらに同地で敷地を拡大[注 7][9]し、1965年(昭和40年)には「社会保険宮城第一総合病院」(275床)に改称した[8]。なお、敷地拡張により、1952年(昭和27年)に西口側地下から東口側地上に移設された国鉄(現・JR東日本)仙石線・仙台駅[注 8]と接することになった[9]。因みに、藤村の居住していた三浦屋の2階は、同院の2階、眼科診療室辺りとされる[5]。
1982年(昭和57年)、仙台駅東第二土地区画整理事業[10]施行予定地内にあった当院は、直線距離で東に7km以上離れながらも仙石線沿いである陸前高砂駅から徒歩圏の福室に移転し、「東北厚生年金病院」に改称(350床)[8]。1993年(平成5年)に500床まで拡大したが、その後は縮小した。
2011年(平成23年)3月11日に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生すると、直ちに災害医療体制を整えたが、ライフラインの途絶や建物の被災、物資不足、そして救急患者ではない避難者が集中して「避難所化」してしまい、災害拠点病院としては機能不全に陥った。
2012年(平成24年)、社会保険庁改革に伴って進められてきた厚生年金病院および社会保険病院の譲渡方針に従い、当院が(独)年金・健康保険福祉施設整理機構から(学)東北薬科大学に譲渡された[11][12]。2013年(平成25年)、「東北薬科大学病院」として開設された(466床)[8]。
「東北薬科大学病院」時代は、日本では唯一の薬学の単科大学が運営する病院だった[13]。この時期は「薬科大病院」と省略して呼ばれることがあった[14]。
2013年10月、国が東北地方への医学部新設方針を受けて、東北薬科大学は医学部新設構想を発表[15]。脳神経疾患研究所(福島県郡山市)・宮城県との3者競合の末[16]、2014年8月に、東北医科薬科大学[注 9]が選定された[17]。2016年4月の開設をめざし、2015年3月に文部科学省へ医学部の設置認可を申請した[18]。
2016年(平成28年)4月1日、医学部新設に伴い、東北薬科大学が東北医科薬科大学に改称し、同時に当院も「東北医科薬科大学病院」に改称した。また、東日本電信電話(NTT東日本)より譲渡を受けたNTT東日本東北病院を東北医科薬科大学若林病院(199床→2020年9月より127床)に改称した[14][19][20][21]。
2018年(平成30年)、病院西側隣接地に医学部新キャンパスが建設され[22]、2019年(平成31年)1月には新大学病院棟が建設された。現在の病床数は600床。将来的には全面建替を実施する構想を持っている[19]。
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