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日本のコメディアン、俳優 (1942-2020) ウィキペディアから
小松 政夫(こまつ まさお、本名:松崎 雅臣(まつざき まさおみ)、1942年〈昭和17年〉[1]1月10日 - 2020年〈令和2年〉12月7日)は、日本のコメディアン、タレント、俳優、声優。社団法人日本喜劇人協会会長(第10代)。福岡県福岡市瓦町(現:博多区上川端町)出身[2]。
小松 政夫 | |
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『週刊平凡』第9巻第29号(1967年)より | |
本名 | 松崎 雅臣[1] |
ニックネーム |
親分さん 小松の親分 小松与太八左エ門 |
生年月日 | 1942年1月10日 |
没年月日 | 2020年12月7日(78歳没) |
出身地 | 日本・福岡県福岡市瓦町(現博多区) |
血液型 | A型 |
言語 | 日本語 |
方言 |
博多弁 標準語 |
最終学歴 |
福岡市立博多第二中学校卒 福岡県立福岡高等学校定時制課程普通科中退 |
師匠 | 植木等 |
出身 | RKB放送劇団 |
芸風 |
コント ものまね |
活動時期 | 1962年 - 2020年 |
過去の代表番組 |
『シャボン玉ホリデー』 『笑って!笑って!!60分』 『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』 など |
作品 |
『総理と呼ばないで』 『ハケンの品格』(第1シリーズ) |
他の活動 |
俳優 社団法人日本喜劇人協会会長(第10代) |
公式サイト | https://ph-aun.net/alliance/ |
愛称は「親分さん」「小松の親分(自らのコントから)」「小松与太八左エ門」。所属事務所は有限会社ドン・タック。プロデューサーハウスあ・うんとスケジュール窓口で業務提携。
7人兄妹の5番目として[3]、櫛田神社の前および鐘紡福岡工場の近くで育つ(博多の総鎮守である櫛田神社の前が自宅であることを福岡県福岡市博多区にいる仲間たちにも自慢していたことがあった[4])。子供の頃から「がまの油売り」「バナナの叩き売り」といった香具師の口上を覚えては、友達の前で披露していた[5]。
実父は地元の実業家で名士だったが、小松が13歳の時に病死し[6]、以後家族は貧窮を極めた。この頃、小松は自宅前の焼け跡で行われていた露天商の口上をよく見聞しており、サクラがいるのを知っていたという。それらが自然と身に付き、学生時代から現在に至るまでの小松の明るさや笑いのセンスは作られた[7]。
福岡県立福岡高等学校定時制課程普通科中退。高校時代の小松は陽気で努力家だったという。この頃は、亡父が懇意にしていた菓子店・石村萬盛堂で働くなどして生計を支える[8][注 1]。RKB毎日放送の劇団に所属後、1961年に俳優を目指し、一番年上の兄を頼って神奈川県横浜市に移る[9]。2つか3つの劇団を受験し、俳優座も受けて合格した[5]が入学金4,000円など月謝が高かったことで諦める[4][9]。
その後花屋、印章店、薬のセールスマン、横浜市中央卸売市場本場のマグロ店などさまざまなアルバイトを経験した後[4][9]、コピー機の会社勤務を経て[9]、横浜トヨペットのセールスマンになる[10]。セールスマン時代、週刊誌の小さな枠(三行広告)に載っていた植木等の付き人募集の公募の広告を見てこれに応募して、約600人の応募者の中から選ばれ[4][11]、1964年1月より正式に植木の付き人兼運転手となり[12]、その後、元々役者志望だったことを知った植木やクレージーキャッツのメンバーの助けもあって[13] 芸能界入りした。
芸能界入りする前にはさまざまな営業職を転々としたが、自動車セールスマンの職は他業種から引き抜かれて就職したものだった。自動車セールスマン時代の小松はセールストークに長けていたようで、教習所と交渉し、受講者に免許を5日で取得させる手筈まで整えて、免許を持たない人にまで車を買わせるなどし[14]、自動車がまだ高嶺の花だった当時に、月22台も売ったこともあった[11]。持ち前の話術でトップセールスマンとなり、大卒の初任給1万円の時代に月給12万円を稼いでいた[5]。そういった顧客とのセールストークや会社内での上司との丁々発止のやりとりにより、小松は周囲から人気を獲得。周囲から押し上げられる形で、小松はコメディアンを志す。その一方、知人の中には「セールスマンで稼いでるのに今更カバン持ちになるの?」と言う者も少なくなかったが、芸能界への夢を諦め切れなかった[5]。
セールスマン時代の体験は、後に数々のギャグの礎となった。なお、植木の付き人兼運転手時代の月給はわずか7,000円だった[注 2] 上、1週間の睡眠時間の合計が10時間しかないほど多忙なこともあったものの「全然つらくなかった」「尊敬する一流の師のそばにいて、お世話ができる。それだけで幸せでした」という[11]。
植木からは付き人として入門する際に「お父さんを早くに亡くされたそうだが、これからは僕を父と思えばいい」と声を掛けられたという[15]。また「おい、オレのことを何と呼ぶ?」「いいか、『先生』なんて呼んだら張っ倒すからな」とも言われ、小松が前の一言も考慮して「オヤジさん」という呼び方を提案したところ「それはいいな」と目を細めたとも語っている。
運転手として東京オリンピックの開会式に招かれた植木を国立競技場に送った際には、植木の配慮で急遽小松の席も用意され、「錚々たる名士が居並ぶ中」開会式を見ることができた[11]。その後34歳で結婚した時は、植木が仲人を務めた[5]。
小松のコメディアンとしてのデビューは、付き人時に出演した『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)であった。この番組に出演したきっかけは、同番組に出演していた植木に付いていった際、休憩中にメンバー及びスタッフと談笑していた際にふとしたことからセールスマン時代のエピソードを披露したことによる。その時に当時の課長(50歳ぐらいで、威張りくさって小松に活を入れるが逆にその様子を見ていた34歳の部長に一喝され、途端にシュンとしてしまう)の真似をして「見ろ!お前のせいで怒られちゃったじゃないか。もう、知らない、知らない、知らなぁーい、もー!」とオカマっぽく体をクネクネさせながら言った芝居がプロデューサーの目に留まり、翌日の収録時には台本に小松の出番が設けられていたという[16]。
また、付き人だった当時は『シャボン玉ホリデー』に松崎真がレギュラーで出演しており、植木が「松崎ー!」と呼ぶと、本名が松崎の小松も一緒に返事をしてしまうケースが多々あったことから「小さいほうの松崎」という意味で「小松」と呼ばれるようになり、やがてメンバーやスタッフの間で定着した[17]。そのうちに前座や端役などで出演が増えて視聴者にも顔を覚えられるようになり植木より正式に「小松政夫」(当初は「雅夫」)と芸名を命名されることになった。なお、この芸名を考えたのは姓名判断に凝っていたという植木の祖母であり、小松という苗字に合うということで下の名前を決めたという[18]。ただ、小松は当初「コメディアンなのに、こんな二枚目みたいな名前でいいのか」と一瞬当惑したという。
なお、芸名の候補としては植木と同じクレージーキャッツのメンバーだった犬塚弘が考えた「どん・たくお」(博多どんたくから)や、自身がコントで演じた外国帰りの怪しげな美容師の役名だった「ジェームス本堂」などがあり、小松もそれなりに気に入っていたが、植木に相談した際「将来大河ドラマの主役を張るようになるかもしれないのに、そんな名前じゃ苦労するだろう!」と却下になったという。
クレージーキャッツのリーダー・ハナ肇からもたいへん可愛がられ、1967年にクレージーが梅田コマ劇場(大阪市北区)での公演に出演した際、途中15分の休憩を嫌ったハナから「5分つないでくれ」と命じられたことがあった。しかし2日目までの出し物がまったく客に受けず、背水の陣で挑んだ3日目に生まれたのが今日まで小松の十八番となっている淀川長治の物真似である。この時はハナや植木のみならず苦労を知っていた舞台裏のスタッフも一緒になって喜び、翌日以降にメガネ(ひもを引くとピクピク動く眉毛が付いている)やテレビフレームなど芸を盛り上げる小道具・大道具をわざわざ作って用意してくれたといい、それらを活用することでさらに客からのウケが良くなったと述懐している[19]。
付き人兼運転手を約4年間[注 3] 務め上げた。独り立ちの際に植木からかけられた言葉は、「お前、明日からもう俺のところには来なくていいからな」というあまりに突然なものだった。この言葉に小松は驚くとともにクビなのかと一瞬当惑したが、続けて植木は「実はな、社長(渡辺晋)と話してお前を正式にタレントとして一本立ちさせてやりたいってお願いしたんだ」、「そうしたら社長も大賛成でな、お前のマネージャーも給料も、全部決めてきたから」とその真意を語った。「そろそろデビューする頃か」などの前フリも無く、何年ぐらいで独り立ちできるかも知らず、覚悟すら出来ていなかった時期での発言であった。植木から言葉をかけられ、運転中に涙がボロボロとこぼれて運転ができなくなってしまい、一度路肩に車を停めて大泣きしながらそれを植木に謝る有様だったが、植木は「うん、べつに急いでないけど、そろそろ行こうか」と優しく宥めたという。この時のことを、小松は「目にワイパーが欲しいぐらいだった」と後に述懐している[11]。
その後は学校の担任やキャバレーでのホステスの会話など、これまで接してきた人たちからヒントを得たギャグや、レギュラー番組のコーナーからヒットした「電線音頭」(1976年発売)、「しらけ鳥音頭」(1978年発売、30万枚超え[20]、または60万枚[21] を売り上げた)、「タコフン音頭」(1980年発売)、淀川長治の物真似などで一躍人気コメディアンとなる。植木も認める観察眼の持ち主だったといい、それが数多くのギャグや物真似芸を生み出した原動力であったと評される。
正式なコンビというわけではなかったが、伊東四朗との息の合ったコンビ芸は、1970年代を代表するギャグの一つとして今もなお語り継がれている。1975年の『笑って!笑って!!60分』、1976年の『みごろ!食べごろ!笑いごろ!』の両バラエティ番組では、「小松の親分さん」、「悪ガキ一家の鬼かあちゃん」など数々の名コントを演じた(先のデンセンマンによる「電線音頭」や「ずんずんずんずん〜小松の親分さん♪」、「ニンドスハッカッカ マー、ヒジリキホッキョッキョ」など)。また前述の身近な人にヒントを得たギャグの誕生には伊東も大きく貢献しており、楽屋で伊東は「てんぷくトリオ時代の地方回りでこんな面白い人がいたよ」と話した。すると小松は「面白いですね。それいただきます!」と言って、その人の会話などをヒントにギャグのフレーズを作り出した[5][注 4]。ちなみに『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』では「しらけ鳥音頭」[注 5]が一世を風靡したが、放送中これを真似した子供たちがこたつの上で踊りだして、親に叱られるという事態が全国で頻発したという[5]。
一方で、東八郎とも植木のもとから独立して以降共演の機会がある毎に交遊を深め、後年東が東八郎劇団を立ち上げた際には、「お前を副座長として迎えたい」と直々に口説き落とされ、東が逝去する当年まで本多劇場(東京都世田谷区)や新宿コマ劇場(東京都新宿区)での公演にて、息の合った共演をみせ人気を博した。小松は東のことを「植木等が小松政夫の生みの親なら、育ての親は東八郎」と述懐している[22]。
植木は、自身の代表的なギャグ「お呼びでない」について、多くのインタビューでは次のような趣旨の発言をしていた。
小松が植木の付き人時代、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)でのショートコントの最中に勘違いをして、出番前ではないのに「出番です」と植木に言ってしまい、植木がつい舞台に出てしまった。当然、周囲は植木の場違いな登場に唖然としたが、その瞬間に植木は機転を利かせて「お呼びでない……? ……こりゃまた失礼致しました!」とアドリブを放った[23]。傍で見ていたプロデューサーはこのアドリブに大笑いし、以後、「お呼びでない」は毎回のように使われるギャグとなった。
青島幸男も引用していたこのエピソードについて小松自身は、「自分は(付き人になる以前の)サラリーマン時代にあのギャグで大笑いしていた」[24]「あの聡明な植木等が、いくら私に言われたからといって、自分の出番を間違えるはずがありません」と語るなどして否定している。植木の「お別れの会」での弔辞でも、以下のように発言をしている。
「『お呼びでない』は小松がきっかけだとオヤジさん(植木)はおっしゃっていたようですが、私はオヤジさんの出番を間違えるようなことはしていないと思うのです」[25]
その上でこの様に締めくくっている。
「事実でなくても、自分のため(小松を売り出すため)に作ってくれたエピソードであり、本当に感謝している」[25]
植木の死後、TBSテレビで放送された追悼特番で小松は、付き人時代から小松単独での番組出演オファーがあった時期のことを「自分は当時まだ勉強中の身でありながら、番組に出るなんてとんでもないと思っていたんです。しかしそれを植木さんに相談したら、すごく喜んで頂いて『結構なことじゃないか。行って来い。行って勉強してきなさい』と、笑顔で背中を押してもらいました。一人で番組に出ることを咎められたことはありませんでした。あの優しさは今も忘れられませんね」と懐古している。
ほかにも小松は、
など、芸には厳しいがその一方では立場に関係なく真摯に向き合い、なおかつ面倒見が良くて優しく温かい植木の人柄ぶりをインタビューや著書で語っている。
なお、植木の死去に際して、小松は公演のため東京都にはおらず臨終には間に合わず、出発直前には植木の自宅にあいさつに出向いて植木本人と会ったのが最後となった。それでも、入院後の容態については植木の妻から逐一電話連絡を受けており、公演終了直後に急いで東京都の植木のもとに駆け付け、納棺に際して遺体の衣服を着替えさせるという弟子としての最後の仕事を務め上げた。
その後も小松はバラエティ番組やテレビドラマ、舞台など多方面で活躍した。1970年代後半から1990年代にかけては、『パナソニック ドラマシアター』(旧『ナショナル劇場』)や『月曜ドラマランド』の常連キャストでもあった。時代劇では悪党の子分役などが多かったが、後に善人役を多く演じるようになった。伊東は小松のことを「こんなに引き出しのある人はいないんだから」と評し[29]、引き続き数多くのギャグの引き出しを保った。
地元の博多祇園山笠には出身の岡流に属してしばしば参加していたが、岡流が途絶えた後は知り合いの多い中洲流に参加した[30]。
1995年の朝ドラ『走らんか!』では、頑固なラーメン屋の主人を演じ、大量の塩を舐めて味覚障害を治そうとする演技が話題となった[5]。
2011年6月20日には、日本喜劇人協会の第10代会長に選出された[31][32]。
2006年から2007年にかけて自伝的小説『のぼせもんやけん』を上梓、2017年には同作を原案として『植木等とのぼせもん』と題しテレビドラマ化された[33]。
2018年7月2日から10月6日まで中日新聞・東京新聞 夕刊 『この道』に連載されたコラムをもとに、2019年3月さくら舎から『ひょうげもん ―コメディアン奮戦!』が刊行された[34]。
2019年4月5日に封切られた映画『麻雀放浪記2020』(東映)では伝説の雀士・出目徳を演じたほか、スペシャル予告映像では淀川長治に扮し、往年の日曜洋画劇場解説モノマネを披露した[35]。
同年10月31日からは自身の芸能人生の集大成として舞台「『うつつ』小松政夫の大生前葬」を中目黒キンケロ・シアターで上演。大生前葬というタイトルになぞらえ、制作発表会見では小松を除く6名の役者は喪服姿で登場した[36]。だが、この公演後に受診した定期健診で肝細胞がんが発覚、その後は入退院を繰り返し、抗がん剤治療を受けながらも仕事を続けた[37]。
2020年8月18日、6月に起こした人生初の物損事故を理由に運転免許を自主返納した[38]。
2020年11月14日、容態悪化のため再入院[37]。同年12月7日6時51分、肝細胞がんのため東京都三鷹市の病院で死去した[39][40]。78歳没。法名は「釋芸歓」[41]。伊東によると、小松とは亡くなる数か月前にも何度もあっていたが、全く病気の事も聞かされておらず、いつもの飄々とした様子で変わらなかった為に突然の訃報だったという[42]。
人間観察に優れ、植木等の付き人時代に彼の演技やコメディの動きなどを身近で学び、独立後はユニークなギャグで時代の寵児となった[5]。その後も周りで見聞きした人の面白い会話や個性的な仕草の特徴を掴み、それを誇張してギャグに活かした[5]。伊東四朗は後年、小松について「プライベートでも常に笑いのアンテナを張っていて、よく『満足なんかしたら終わりだ』と言っていた」と回想している[5]。また伊東は、「彼は練り上げた『しらけ鳥』などのギャグを私の前で歌ってみせ、ウケるかどうかを判断してからテレビで披露していた」とのこと[注 7]。
ドラマ『前略おふくろ様』で共演経験のある女優・丘みつ子は、小松について以下のように語っている。「本番前に共演者たちと世間話をしていると、小松さんは輪の中に入るけど決して自分から発言することはありませんでした。いつも聞き役に徹して、人々の会話のやり取りからネタや演技のヒントを探していました」[5]。
一部マスコミからはドラマやコントで演じる小松のキャラクターについて、「ひょうきんだが哀愁が漂い、どこか憎めない所がある」と評される[5]。本人は、インタビュー本『小松政夫 遺言』の中で以下のように語っている。「笑いの裏にある人間の哀しみを表現することこそ大事と気がついたのです。哀愁こそ人間が背負う人生そのものと思ったのです」[5]。
若い頃は喫煙者だったが、植木等の付き人時代に「明日からタバコをやめろ」と言われ、以後吸わなくなった[5]。
喜劇人のジェリー・ルイスや俳優のジャック・レモンに憧れていた[5]。
お笑いタレントのタモリとは彼の無名時代に新宿のバーで出会い、「福岡出身」、「面白いことが好き」、「(この時までに)様々な職業を経験した」という共通点から意気投合し、以降長年にわたり親交があった[5]。その後1982年にスタートしたフジテレビのバラエティ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』において、プロデューサーの横澤彪から「タモリと二人で司会を」というオファーがあった。しかし、当時ゴルフに熱中していた小松は、「(平日毎日の生放送に出演していたら)ゴルフに行けなくなっちゃう」として断ったということがあった[44]。
伊東四朗とバラエティ番組で共演していた頃、小松はネタ作りに真面目に取り組む一方、時々ダブルブッキングをして生放送に現れず、急遽他のタレントを呼ぶなど周りを困らせたことがあった。
結婚後に出演番組のスタッフなどを30人ほど毎日家に連れて帰って妻に面倒をかけることもあった[注 8]。
小松は、これらの言葉を「ギャグ」とは言わず「はやり言葉」と呼んでいる。小松によれば、ギャグというのは「自分で考えて歳月を重ね練り上げてきたもの」とのことであり、小松の場合は周囲にその「はやり言葉」のモデルとなった人物がおり、あくまで拝借したに過ぎないからといい「世に出しては次々打ち捨ててきた」「長い芸能生活の中でたった数年しか使っていないのに、それを今でも皆さんに覚えて頂いていることが有難い」と語っている。またここに挙げたのはあくまで著名な一例で、実際世に送り出したギャグは80本以上ともいわれている。
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