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1988年から1989年にかけて日本の埼玉県および東京都で発生した誘拐・監禁・強姦・暴行・殺人・死体遺棄事件 ウィキペディアから
女子高生コンクリート詰め殺人事件(じょしこうせいコンクリートづめさつじんじけん)は、1988年(昭和63年)11月から1989年(昭和64年)1月の間に発生した猥褻略取誘拐・監禁・強姦・暴行・殺人・死体遺棄事件の通称である。
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女子高生コンクリート詰め殺人事件 | |
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場所 |
埼玉県三郷市戸ケ崎(拉致現場)[判決 1] 東京都足立区綾瀬(監禁・殺人現場)[判決 1] 東京都江東区若洲(遺体発見現場)[判決 1] |
日付 |
1988年(昭和63年)11月25日夕方 - 1989年(昭和64年)1月5日 日本標準時 (UTC+9) |
概要 |
不良少年グループが通りすがりの女子高生を拉致して輪姦し、その後40日以上にわたって監禁して集団で暴行・強姦を行った[判決 1]。 監禁から約40日後、加害者少年らは少女に集団リンチを加えて死亡させて遺体をコンクリート詰めにし、東京湾に遺棄した[判決 1]。 |
攻撃手段 | 拉致、暴行、強姦 |
攻撃側人数 | 主犯4人、他3人が暴行に加わり1人が監禁の監視役 |
死亡者 | 女子高生1人(事件当時17歳) |
犯人 |
A(当時18歳) B(当時17歳) C(当時16歳) D(当時17歳) |
動機 | 強姦目的 |
対処 | 逮捕・起訴 |
謝罪 | 第一審最終弁論にて4被告人がそれぞれ謝罪・反省の言葉を述べた[1]。 |
賠償 | 主犯格・少年Aの両親が自宅を売却し、補償金5,000万円を被害者遺族に支払った[2]。 |
刑事訴訟 | 懲役刑(最大で懲役20年) |
影響 |
発覚当初から加害者少年らを死刑・無期懲役などの厳罰に処するよう求める声が相次いだ。 事件発覚直後に発売された『週刊文春』が、少年法への問題提起として加害者少年らを実名報道し物議を醸した。 本事件の加害者少年の1人(本文中B)は刑務所を出所後、2004年に三郷市逮捕監禁致傷事件を起こした。 週刊誌の報道に触発される形で、ネット上で本事件の加害者や事件関係者の実名や行方を突き止めようとする動きが勃発する中で、事件とは無関係な人物をも標的にされ、お笑いタレント・スマイリーキクチが、長年に渡り同様のデマ被害を受け続けた(スマイリーキクチ中傷被害事件)。 |
管轄 | 警視庁綾瀬警察署・東京地方検察庁 |
1988年11月25日夕方に埼玉県三郷市戸ケ崎を自転車で走行していた被害者女子高生(事件当時17歳)が突然、不良少年グループに拉致され、約40日間にわたってグループのたまり場だった東京都足立区綾瀬の加害者宅に監禁されて暴行・強姦を受け続けた。
1989年(昭和64年)1月4日に被害者の女子高生は加害者グループから集団リンチを受けて死亡し、その遺体はコンクリート詰めにされて東京都江東区内の東京湾埋立地に遺棄された[判決 1]。
1989年(平成元年)3月以降、別の強姦事件で逮捕された加害者少年らが事件を自供したためにその事件の全容が判明した[3][4]。
刑事裁判における事件番号は第一審・東京地方裁判所では平成1年(合わ)第72号[判決 1]、控訴審・東京高等裁判所では平成2年(う)第1058号である[判決 2]。
本事件は非常に残忍・凶悪な少年犯罪として日本社会に大きな衝撃を与え、加害者少年宅に被害者少女が長期間監禁されていたにも拘らず、その加害者の両親も含めて少女の命を救えなかった点に激しい非難・疑問の声が上がった[5]。また、昭和最後の凶悪犯罪(発覚した年月は1989〈平成元〉年3月)である。
本事件の刑事裁判で犯行への関与が認定され有罪判決を受けたのは、いずれも犯行当時「少年」の4人(A・B・C・D)である[判決 1]。この4人の少年たち(A・B・C・D)は足立区内の同じ中学校出身の先輩・後輩関係で、いずれも1988年夏頃には在学していた高校を中退・離脱して、監禁・殺害現場となった足立区綾瀬地区の周辺で無為な不良行為を続けていた[判決 1]。
加害者少年C宅の2階には監禁・殺害現場となった少年Cの部屋、及びCの兄(本文中G)の部屋がそれぞれあった。Cの家庭は両親が共働きでいつも帰宅が遅かった上、Cによる家庭内暴力が激しかったことからCの両親はCをあまり監督していなかった。
そのため、事件当時、Cの部屋は不良少年たちの溜まり場となっていた[判決 1]。
1988年8月以降、加害者少年Bと加害者少年CはCの兄Gを通じてつながりを持ったことをきっかけにCの部屋を中心に不良交友を始めた[判決 1]。
少年Aは1988年10月頃、Gの盗難バイクの捜索に協力したことを契機にG・C兄弟に接近し、C宅に出入りするようになった。
少年Dは中学の同学年でBと知り合いになり、それが縁で、B・Gを通じてC宅に出入りし、それぞれ不良仲間に加わるようになった[判決 1]。
少年らの先輩には足立区を根城にしている暴力団の組員がおり、加害者少年Aらはその組の青年部組織を気取って「極青会」と名乗っていた[6]。
1988年10月頃から、この4人の不良グループは少年Aを中心として順次、女性を狙ったひったくり・車を利用した強姦事件などを繰り返し起こすようになった[判決 1]。
B・C・Dの加害者少年3人は、被害者少女を部屋に監禁する一方で、1988年11月から12月頃にかけて、少年Aを通じて暴力団関係者の経営する花屋で仕事を手伝うようになり、街頭で花売りなどをした。
1988年12月中旬頃には、B・C・Dの加害者少年3人は暴力団の忘年会・組事務所の当番にも駆り出されることがあった[判決 1]。
以下、基本的に判決が認定してきた事実に基づき記載する(出典の判例については#判決文参照)。
1988年11月25日夕方[判決 3]、少年Aは少年Cとともに通行人からひったくりをするか、若い女性を狙って強姦しようとして、それぞれ原付バイクに乗って埼玉県三郷市内を徘徊していた[判決 4]。その中で自転車でアルバイト先の工場から帰宅途中の女子高生(当時17歳、埼玉県立八潮南高等学校3年生)を見つけ[10]、CはAから「あの女を蹴飛ばしてこい!」と指示を受けたため、Cは女子高生もろとも自転車を蹴倒して側溝に転倒させた[判決 4]。
Cがその場を離れた後、Aは何食わぬ顔で少女に近づいて言葉巧みに「今、蹴飛ばしたの(C)は気違いだ。俺もさっきナイフで脅かされた。危ないから送ってやる」などと親切に言って、少女を信用させて近くの倉庫内へ連れ込んだ。しかし、Aは、その後、一転して「自分はさっきのやつの仲間で、お前を狙っているヤクザだ。俺は幹部だから俺の言うことを聞けば命だけは助けてやる。セックスをさせろ!」「声を上げたら殺すぞ!」などと少女を脅迫して関係を迫り、11月25日午後9時50分頃、タクシーで少女をホテルへ連れ込み強姦した[判決 4]。
11月25日午後11時頃、Aはホテルからかねて自分たちのたまり場になっていたCの家へ電話し、Bに「狙っていた女を捕まえてセックスした」などと話したが、BがAに対し「女を帰さないでください」などと言ったことから、AはBと待ち合わせることとした[判決 4]。
また、Cは、その時、Cの家に一緒にいたDを連れて約束の待合わせ場所へ赴き、少女を連れたA・B両名と合流した[判決 4]。AはBらに対し「(少女を)ヤクザの話で脅かしているから、話を合わせろ」などと言い含め、4人は少女を連れて翌11月26日午前0時半頃、公園に移動した[判決 4]。そこでAはジュースを買いに行くという名目で、C・D及び少女のいる所からやや離れた自動販売機の置かれた場所付近にBと共に行き、Bに「あの女、どうする?」と尋ねると「さらっちゃいましょうよ」などと返されたことから、その少女を猥褻目的で略取、監禁することとした[判決 4]。
A・B・C・Dの4人は少女を拉致しつつ、その公園からCの自宅(東京都足立区綾瀬)近くの別の公園に移動する間、CはA・B両名らの意を受けて少女を自室に監禁することを了承、Dもそれまでの成り行きからAらの意図を了解し、4人は少女を猥褻目的で略取、監禁することについて共謀した[判決 4]。Aが少女に対し「お前はヤクザに狙われている。仲間がお前の家の前をうろうろしているから匿ってやる」などと嘘を言って脅迫し、4人で少女をCの自宅の2階の部屋(6畳)へ拉致し、同日から少女を殺害するまでの間、監禁した[判決 4]。
少女をCの自室に連れ込んだ後、4人は少女を交替で監視することとしたが、11月28日頃の深夜、4人に加えて不良仲間の2人の少年(E・F)がCの居室にたむろしていた[判決 4]。その時、Aは仲間たちに少女を輪姦させようと企て、Bら3人や、E・Fらと共に代わる代わる覚醒剤を飲んで半狂乱になったように装った。そして、いきなり、少女に襲いかかり、必死に抵抗する少女の口や手足を押さえ付けて馬乗りになるなどの暴行を加え、少女の着衣をはぎ取った。AはBら3人やE・Fにも裸になれと命じ、これを受けてA・B両名以外の4人は着衣を脱ぎ捨てて裸になり、E・F・Dの順に少女を強姦した[判決 4]。その際、Aは剃刀を持ち出して少女の陰毛を剃り、更にその陰部にマッチの軸木を挿入して火をつけるなどの凌辱を行った。この時、少年たちは火で熱がる少女の様子を見て、笑って面白がるなどした[判決 4]。
少女は当初、逃げ出そうとしたり、隙を見て自宅に電話しようとしたが、激しい暴行に加え、少年らがヤクザ言葉を使っているのに怯えて抵抗を諦めた[11]。また、最初に監禁された際にはAが仲間たちの前で「しばらくしたら帰してやる」と話していたため、その言葉を信じた可能性もある[11]。
1988年12月上旬頃、少女はなんとか彼らの目を盗んでその場から脱出・逃走して警察へ通報しようと試みるが、彼女の脱出は3人に見つかってしまった。A・B・Cの3人は、自分達から逃げようとしたこの少女の行為に大いに腹を立て、A・B・Cの3人が少女の顔面を拳で多数回にわたって殴りつけて、Aが少女の足首にライターの火を押し付けて火傷を負わせるなどした[判決 4]。
Aらはその後も、時に別の不良仲間を加えるなどして、少女を全裸にしてディスコの曲に合わせて裸踊りさせたり、自慰行為を強要したり、少女の顔にマジックペンで髭を描いて興じたり、少女の陰部に鉄筋を挿入して何回も出し入れしたり、肛門にガラス瓶を挿入するなどの異物挿入をするなどした。さらに、少女にシンナーを吸引させてウイスキー、焼酎などの酒を一気飲みするよう強要し、寒気の厳しい夜中、少女を半裸でベランダに出して牛乳や水などを多量に飲ませ、一度にたばこ2本をくわえさせて吸わせるなど度重なる暴行、凌辱を繰り返した[判決 4]。
1988年12月中旬から下旬頃、Aは少女が失禁した尿を踏んだということを口実に、BやCが少女の顔などを拳で何度も殴りつけ、少女の顔面が腫れ上がり変形したのを見て「でけえ顔になった」などと言って笑った[判決 4]。その暴行の場にはAはいなかったが、翌日Cが「あんまり面白いからAにも見てもらおう!」などと言い、自慢気にAに少女の顔を見せた。Aはその少女の顔面の変わりように驚いたものの、これに触発されたようにA自らも少女を多数回殴打し、少女の太もも、手などに揮発性の油を注ぎライターで点火し、火が消えると更に同じような行為を繰り返して火傷を負わせた[判決 4]。この頃、少女は度重なる暴行に耐えかねて「もう殺して」などと哀願することもあった[判決 4]。Aらは同月中旬頃から、主にCの兄Gに少女の監視役をさせるようになったが、その頃から少女は少量の食物しか与えられず、年末頃には牛乳をわずかに与えられる程度であった。その結果、少女は、栄養失調とAらの度重なる暴行により心身ともに極度の衰弱状態に陥り、食欲は減退した。また、少女の顔面は腫れ上がり、手足などの火傷は膿みただれて異臭を放つようになった。その時の少女は、もう階下のトイレへ行くことも困難な状態であり、終日監禁場所であるCの部屋でぐったり横たわっていた[判決 4]。
1989年(昭和64年)1月4日、Aは前日夜から早朝にかけて行った賭け麻雀 に大敗した後、Dの家に赴いたところ、B・C両名らがDと共に居合わせていた[判決 4]。4人はそこでファミコンなどで遊んだが、麻雀に負けた鬱憤を少女へのいじめによって晴らそうと考えたAは「久し振りに、少女をいじめに行くか!」などと言い出し、まずCとDを先にC宅へ行かせ、若干遅れてBと共に自らもC宅へ赴いた[判決 4]。このように4人は相前後して監禁場所のC宅に集まったが、少女はAらの暴行などにより、前述のように顔が変形するほどに腫れ上がり、手足などの一部は焼け爛れて化膿し、栄養失調に陥り、極度の衰弱状態で横たわっていた[判決 4]。
A・B・Cの3人は午前8時頃からCの部屋において、少女にBのようかんを与えて「これは何だ?」と問い、少女が「Bようかん」と答えると「なんでBを呼び捨てにするんだ?」などと因縁をつけて再び同様の質問をし、「Bようかんさん」と答えると「なんでようかんにさんをつけるんだ?」などと詰め寄って少女へのリンチを開始した[判決 4]。3人で少女の顔などを多数回拳で殴り、背を足で蹴るなどの暴行を加え、AとBが蝋燭(Aがいじめの小道具に買い求めていた)に点火して少女の顔面に溶けた蝋を垂らして顔一面を蝋で覆い尽くし、両瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てるなどして面白がったが、これに対して少女はほとんど反応を示さず、されるがままになっていた[判決 4]。その暴行が始まった直後、DはGと共に隣室にいたが、この頃Aの指示を受けたCに呼ばれて、部屋へ入りAら3人と合流した[判決 4]。Aは、衰弱して自力で階下のトイレへ行くこともできない少女が紙パックに排泄した尿についてわざと「やばいよ、そんなものを飲んじゃあ」などと言い、BやCらに対し、暗に少女にその尿を飲ませるよう示唆した[判決 4]。これを受けてBやCらは、少女に「(尿を)飲め!」と強く言い、パック内の尿をストローで飲ませた[判決 4]。次いでBとCが少女の顔面を回し蹴りし、少女が倒れると無理やり引き起こして、さらに蹴りつけるなどしたところ、少女は何ら身を守ろうとせず、不意に転倒して室内のステレオにぶつかり痙攣を起こすなどした[判決 4]。
Aらは遅くともこの頃までには、このまま暴行を少女に加え続ければ少女が死亡するかも知れないことを認識したが、それでも、BとCが転倒した少女に殴る蹴るなどの暴行を繰り返した。そして、少年たちは少女に対して後述のような激しい暴行を加え続け、そのために少女は鼻血を出し、崩れた火傷の傷から血膿が出て血が室内に飛び散るなど凄惨な状況となった[判決 4]。
Dは、素手では血で手が汚れると考え、ビニール袋で拳を覆い、ガムテープでこれを留めた上、拳で少女の腹部や肩などを力任せに数十回殴りつけた。Aらもこれに倣って拳をビニール袋で包み、次々に少女の顔、腹部、太ももなどを拳で殴りつけて足蹴りするなどした。更に、Aが「鉄球」を含む総重量約1.74kgのキックボクシング練習器の鉄製脚部を持ち出し、その鉄球部分でゴルフスイングの要領で少女の太もも等を力任せに多数回にわたり殴りつけた。Bらもこれに倣って代わる代わる少女の太ももなどをその鉄球で数十回殴打し、Dは肩の高さから鉄球を少女の腹部めがけて2、3回落下させた[判決 4]。Aは繰り返し揮発性油を少女の太ももなどに注ぎ、ライターで火を点けるなどしたが、少女は最初は手で火を消そうとする仕草をしたものの、やがてほとんど反応を示すこともなくなり、そのまま、ぐったりとして横たわったままになった[判決 4]。
少年たちは、これらの一連の暴行を当日の午前8時頃から10時頃まで、約2時間にわたって休みなく続けた結果、少女は重篤な傷害により、1月4日午後10時ごろまでの間に死亡した[判決 4]。
1989年1月5日、A・B・Cは自分たちがよく出入りしていた暴力団関係者の経営する花屋にいた。その時、Gから「少女の様子がおかしい」と電話で連絡を受けて、3人がCの居室へ行くと、少女はすでに死亡していた。この重大な事態に直面したA・B・Cの3人は、自分たちの犯行が外部に発覚するのを恐れて、1月5日午後6時頃、Gと共謀して、少女の遺体をどこかに遺棄することを企てた[判決 4]。
まず少女の遺体を毛布で包み、大型の旅行かばんに入れてガムテープを巻きつけた。次に、Aはかつての仕事先からトラックを借り出して、セメントを貰い受けて、近くの建材店から砂やブロックを盗み出した。そして、トラックで少女の遺体と、付近で取ってきたごみ入れ用のドラム缶をC宅前に運び、そこでコンクリートを練り上げた。そして、少女の遺体の入ったかばんをドラム缶の中に入れ、コンクリートをドラム缶の中に流し込み、更にブロックや煉瓦を入れて固定し、ドラム缶に黒色ビニール製ごみ袋を被せてガムテープで密閉した[判決 4]。
そして、1989年(昭和64年)1月5日の午後8時頃、A・B・Cの3人はトラックでドラム缶を運び[判決 4]、東京都江東区若洲の埋め立て地に遺棄した。事件当時の現場付近は有刺鉄線に囲まれた工事現場であり、雑草が生い茂っていて、家電製品などの不法投棄が多い場所だった[12]。
1988年12月初め頃、Cが少女を自宅に監禁していた時、Cの父親は、Cの部屋で奇声が聞こえたので注意しようと2階に上がった[13]。Cの父親は「うるさいぞ」と注意して部屋に入ろうとしたが中に入れてもらえず、その際に女性の声がしたため「女の子が遊びに来ている」と思ったという[13]。
12月末のある日には被害者少女とみられる女性が2階にいることを知ったため[13]、両親は少女にドアの外から「食事をあげるから出てきなさい」と説得して1階のリビングに降りて来させ[11]、一緒に和室で夕食を摂り、その際に「家に帰りなさい」と注意したという[11]。夕食にはCと仲間の少年も同席していたが、少女はほとんど話をしなかったという[10]。両親はその後「女の子が1人だけ一階に残った隙に『帰りなさい』と声を掛け、玄関から送り出した」が、Cが間もなく逃走を知って追いかけ、連れ戻していた[11]。Cらが両親から注意を受けたのはこの1度きりで[14]、少年らから常に激しい暴行を受けていたため、怯えきっていた少女はその後、逃げ出したり助けを求めるそぶりさえできなかったとみられる[11]。
1989年(平成元年)3月29日、謎の女性の遺体が東京都江東区若洲の工事現場で発見されたことから[判決 5]、本事件が発覚した。
警視庁綾瀬警察署と同庁少年二課は、1988年12月に発生した別の婦女暴行事件及び、さらに別の婦女暴行1件・ひったくり20件の容疑で、少年A・Bの2人を既に逮捕していた。警察はそのA・Bの2人を少年鑑別所で余罪について取り調べたところ、A・Bの2人は少女の遺体をドラム缶に入れて、そのドラム缶を江東区若洲の埋め立て地に遺棄したことを供述した。そして、警察はその現場を捜索すると、2人の供述通り、江東区若洲の埋め立て地にそのドラム缶を発見し、その中から少女の遺体を発見した。
翌3月30日、警察は少年A・Bの2人を殺人・死体遺棄容疑で逮捕した[7]。発見当時の少女の遺体の衣服は少年らが監禁中に与えたものらしく、失踪当時に着ていたものとは違った上[15]、遺体の腐敗がかなり進んでおり、少女の家族もその遺体が自分の娘かどうかよく確認できなかった。そこで、遺体の指紋を少女の所持品の指紋と照合するなどして身元確認を進めた結果[7]、その殺害された女性の遺体が、その家族の娘であると断定した[15]。
綾瀬警察署と少年二課は同日、犯行現場となった「足立区綾瀬のC宅」を現場検証し、この家に住む兄弟ら少年3人(C・D・G)らが少女の殺害に関与し、他2人の少年らが少女の監禁・連れ去りに関与しているとみて、この5人を取り調べる方針を決めた[15]。
事件当時、少女の遺体が入ったコンクリート詰めのドラム缶は重さ計305kgあった。これは、とても大きく、2、3人の少年で持ち運べる重さではなかったため、綾瀬署は多人数でワゴン車やトラックなどの車を用いて運搬・遺棄したとみて捜査した[15]。
近隣住民によれば、犯行現場の「足立区綾瀬のC宅」は1988年の末頃まで夜中にバイクの音がしたり、現場宅の2階で騒ぐ声が聞こえたりした[15]。また、玄関脇の電柱をよじ登って2階の部屋に出入りする少年の姿や、ベランダに脚立が置いてあるのが目撃されており、近所の主婦は「玄関を通らずに出入りしていて、両親も気づかなかったのではないか」と話していたため[15]、綾瀬警察署と少年二課は少年らが、Cの家族の留守中を狙って出入りしたり、電柱を伝って部屋を出入りすることで、Cの家族と顔を合わせないようにしていたとみている[14]。
警視庁少年二課・綾瀬署は1989年4月1日付で、少年A・Bの両名を東京地方検察庁に送検した。また、盗みなどの容疑で少年院に収容されていた当時17歳の無職少年ら3人も犯行に加わっていたとみて、3人の逮捕状を請求して取り調べ、うち1人を逮捕した[14]。
40日間も被害者の少女を「Cの部屋」に監禁した理由について、取り調べの中で少年らは「警察に捕まるのが怖かったから」としか供述しておらず、捜査員から「怖いだけなのか?」と聞かれると、少年の1人は「それ以外に理由があるんですか?」と問い返したという[11]。
警視庁少年二課・綾瀬署は6月5日、加害者少年ら4人を、前年12月23日から4日間にかけて深夜まで銀座・数寄屋橋交差点近くの路上で花を売らせていたとして、足立区舎人3丁目在住の暴力団準構成員の男(当時43歳)を児童福祉法違反容疑で書類送検した[16]。
東京地方検察庁は最初に逮捕された少年Aら3人を、1989年4月20日付で「刑事処分相当」の意見書付きで、殺人、わいせつ目的誘拐・略取、逮捕・監禁・強姦、死体遺棄の各罪で東京家庭裁判所に送致した[6]。
警視庁少年二課・綾瀬署は1989年4月24日、監禁現場となった家の長男であるCの兄G(当時17歳、都立高校3年生)を殺人、死体遺棄容疑で、同家に出入りして被害者に乱暴を働いたとして足立区内の当時16歳有職少年2人を婦女暴行容疑で、それぞれ東京地検に書類送検した[17]。3人は、先に逮捕されたAら4人に比べて犯行への関与が軽く、在宅のまま任意で取り調べられていた[17]。
4月26日付で東京地検は、足立区内の当時17歳少年を殺人、わいせつ目的誘拐など5つの罪で身柄を東京家裁に送致し、Gも殺人、死体遺棄容疑で東京家裁に書類送致した[18]。
東京家裁はその後、1989年5月18日までに送致されていたA・B・C・Dの4被疑者少年を少年審判の結果、「刑事処分が相当」として東京地検に逆送致する決定を出した[19][20]。
東京地検は1989年5月25日、殺人・猥褻目的略取誘拐・逮捕監禁・強姦などの各罪状で被疑者A・B・C・Dの少年4人を東京地方裁判所に起訴した[21][22][23]。
1990年6月25日・翌26日の2日間にわたり開かれた公判で弁護人側の最終弁論が行われた[1][34]。最終意見陳述で4被告人はそれぞれ被害者・遺族に対する謝罪、事件について反省の言葉を述べた[1]。
いったんは最終弁論をもって結審したが1990年7月6日、東京地裁刑事第4部で補充審理が行われ、弁護人側の追加弁論・証拠提出が行われた[2]。
主犯格の少年Aは川越少年刑務所で一定期間を過ごし、後に千葉刑務所へ移送された[51]。仮釈放された無期懲役受刑者・金原龍一(2009)は同じ千葉刑務所に服役していたころの少年Aについて以下のように述べている。
元受刑者Aは2009年(平成21年)に刑務所を出所した後、養子縁組をして名前を変えた。Aはキックボクシングのジムに通い、よく後輩をバーベキューやキャバクラに連れて行っていた。また、BMWをよく乗り回して高級腕時計やブランド品を身に着けていた。Aは「暴力団とつながりがある」「都内の振り込め詐欺グループには知り合いが多い」と吹聴し、マルチ商法で儲けていた。また、Aはセックスの話が大好きで、「100均の縄で女を縛るのが好き」と語っていた[54]。
2013年(平成25年)1月、Aが振り込め詐欺で警視庁池袋警察署に逮捕された[55]。無作為に全国の個人宅に電話をかけ、『パチンコ必勝法』の情報料名目で現金を騙し取る詐欺グループの一員として、池袋の銀行で金をおろす「受け子(出し子)」をしていたとみられるが、完全黙秘を貫いたため、詐欺グループの解明が出来ないまま、2013年(平成25年)1月31日付でAは不起訴処分となり釈放された。
その後、Aは消息不明となった[55]。
主犯格少年A以外の少年たちは、出所あるいは退院後にそれぞれマスコミのインタビューを受けている。
少年Bは1999年(平成11年)に刑務所を出所してから保護観察関係者の女性と養子縁組を結び姓を変えた。Bは受刑中にパソコンのスキルを学び、出所後はIT関連の仕事をしていたが、その後、Bの前科が周囲に知られ人間関係に行き詰まり、その職場を退職した。その後は、暴力団の構成員になった[54]。
2004年(平成16年)5月19日、元少年B(当時33歳)は再び同じ足立区や三郷市で一般男性に言いがかりをつけ、監禁し負傷させた事件(三郷市逮捕監禁致傷事件)を起こした。この時のBは、自分が「女子高生コンクリート詰め殺人事件」で逮捕された加害者であることを誇らしげに語り、それを相手男性に脅し文句に使うなどして、更生した様子を見せなかった。
2004年(平成16年)6月4日、Bは警視庁竹の塚警察署に逮捕された。
2005年(平成17年)3月1日、東京地裁(菊池則明裁判長)は、被告人の元少年Bに懲役4年の実刑判決を言い渡した。しかし、Bはこれを不服として3月15日、東京高裁に控訴した。
2005年(平成17年)5月13日、Bは控訴を取り下げ、懲役4年の実刑判決が確定した。
2009年(平成21年)、Bは2度目の出所をした。この時、Bの成人後の監禁・致傷というコンクリート事件と同一手口、類似手口による再犯ということで、大手新聞社では「実名報道」及び「過去の少年時代の犯行(コンクリート事件)」に触れるか否かで対応が分かれた。
2022年(令和4年)7月16日、自宅で事故死[56]。享年51。
三郷市逮捕監禁致傷事件から14年3か月後となる2018年(平成30年)8月19日夕方、元少年C(事件当時45歳、無職)が埼玉県川口市内の路上で一般通行人の32歳男性に対し、肩を警棒で殴る・首をナイフで刺すなどして殺害しようとした事件が発生した。埼玉県警察武南警察署は殺人未遂容疑で、この元少年Cを緊急逮捕した。
『デイリー新潮』(新潮社)の2018年8月21日配信記事、およびその続報に当たる『週刊新潮』2018年9月6日号(8月30日発売)はこのニュースをすぐに報道した[8][9][57]。
この事件は、元少年Cが被害男性と車両の駐車トラブルで揉めたことが原因であり、元少年Cは被害男性に対して、警棒で殴りつけ、刃物で相手男性の首を切りつけた。その後、被害男性は首から血を流してすぐ110番通報して、駆け付けた警察は元少年Cを緊急逮捕した。
この時、元少年Cが犯行に使った2つの凶器は、全長41センチの伸縮式の警棒と、刃渡りが8センチ、広げると全長19センチになる折り畳み式のナイフだった[58]。
『デイリー新潮』および『週刊新潮』は、その被疑者元少年Cを実名報道した上で「今回逮捕された男は両親が日本共産党党員で、29年前の「女子高生コンクリート詰め殺人事件」では被害女性を監禁する為に自宅の部屋を提供した人物(元少年C)である。刑事裁判では懲役4年以上6年以下の不定期刑判決を受けた」と、元少年Cの前科を、元週刊文春記者の勝谷誠彦のコメントも併せて詳しく報道した[9][57]。
2019年(令和元年)11月22日、元少年Cはさいたま地方裁判所から懲役1年6月、保護観察付き執行猶予3年の判決を受けた。
少年Dは、1996年(平成8年)に刑務所を出所したが、出所後は自宅に引きこもるようになった[59]。『毎日新聞』東京社会部記者・井上英介は[60]、2001年(平成13年)1月から少年D(当時29歳)と同居する母親と接触を図り、同年春ごろから取材を開始、2001年4月8日朝刊にて少年Dの当時の状況を記事として発表した[59]。記事には50通を超える反響があったが、その内容は共感・批判が相半ばし、批判には「加害者に同情的すぎる」「被害者遺族の心情を逆なでするものだ」などといったものが多かった[60]。
一方、井上英介自身も「遺族の痛みは想像を絶する。取材前に裁判記録・事件を記録したルポ・過去の新聞記事などを可能な限り調べたが、事件の惨たらしさから目を背けたかったし、取材を終えてもまだ迷いがある。今は読者の皆様からいただいた批判を読みつつ、『罪を償うことの難しさ』を実感している」と綴った[60]。
2021年5月、自宅で呼吸困難に陥り、病院へ搬送されたが死亡が確認された。享年49[61]。
主犯以外の少年で他にも覚醒剤で逮捕された者もいる。
この事件の加害者が、4名とも未成年者であったことなどから、本事件は大々的に報道された。しかし刑事裁判で事実関係が明らかになるまで、新聞・週刊誌・テレビなどの報道においては、少女の実名・顔写真が報道される報道被害が発生したばかりか、以下のようなセカンドレイプ同然の記事が掲載されていた[62]。
大道万里子は、事件当時の報道について「『被害者少女も不良グループの一員であり、被害者少女にも非があった』という論調が主流だった」と述べた上で[62]、これらの報道を「下品で低劣な想像力によって生み出された『断言』、もしくは巧妙なレトリックまやかしで『少女にも非がある、少女の育て方にも問題があり、両親にも責任の一端はある』=『被害者であった少女やその家族に、世間から逆に白い目を向けられるようなマイナスのイメージが付与されてしまっている』。こんなパラドックスが許されていいはずがない」、「本音はこの事件を単なる『材料』として扱っているだけなのだ」「少女を『モノ』としていたぶり続けた少年たちと、自分たちの『はじめに死刑ありき』の目論見のための格好の材料として、やはり『モノ』として被害者を利用するだけのこれらのマスコミは、全く同質だ」と非難した[62]。
少年法では、家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、第61条の規定により本人の類推に資する全ての情報(関係者全員の名前、学校名、地名等)を報道することを禁止している。
しかし、事件直後に発売された文藝春秋の『週刊文春』(担当記者:勝谷誠彦、編集長:花田紀凱)は、この事件に関わった加害者少年たちを実名報道した[63]。
『週刊文春』は2週連続で、1989年4月13日号にて「女子高生監禁・殺人の惨 彼らに少年法が必要か」[64]、次号の1989年4月20日号にて「女子高生惨殺事件 第2弾 加害者の名前も公表せよ!」と銘打った特集記事を組み[63]、後者では加害者少年らの実名を紙面に掲載した[63]。
週刊文春編集長の花田紀凱は『朝日新聞』(1989年4月30日の朝刊)のインタビュー記事で「第1弾の記事では匿名表記したが、第2弾の取材をしているうちに事件の凄惨さがわかってきたため、編集部内部で『これは実名報道すべきでは』という声が出てきた」「野獣に人権は無い」と説明した。読者の反響について花田は「正直言って『反発の方が強いかな』と予想していたが、意外にも抗議の声は2件程度と少なく、逆に『よくやってくれた』と称賛する投書が何十通も来た。人権云々を言う人たちには『それじゃあ、殺された被害者の親御さんの前でそのセリフが吐けますか』と問いたい気持ちです」と答えた[65]。 他にも『月刊ゼンボウ』平成元年11月号のp19-p26に冒頭陳述書が掲載され、加害少年グループ9人の実名が掲載された。
この事件報道をきっかけに『週刊文春』は売上部数ナンバー1の週刊誌になった。
その後、同年に発生した「名古屋アベック殺人事件」や、後に発生した「市川一家4人殺害事件」、「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」、「神戸連続児童殺傷事件」、「堺市通り魔事件」、「光市母子殺害事件」などの凶悪少年犯罪が発生する度に、『週刊文春』や、そのライバル誌の『週刊新潮』(新潮社)など週刊誌各誌が、次々と加害者少年を実名報道し、少年法改正論議に火をつけた。
『週刊文春』による実名報道を受け、日本弁護士連合会(日弁連)の藤井英男会長は1989年6月23日付で「立ち直り援助という少年法の原則を無視した実名報道は極めて遺憾である。また、マスコミは被害者の実名などを必要以上に報道しているが、死者の名誉、家族のプライバシーなども尊重されるべきだ」と談話を出した[66][67]。
『週刊文春』のライバル誌である『週刊新潮』は、事件当時は「犯人グループのうち、誰がどう手を下したのか、はっきりしない部分があった」として少年たちの実名報道は見送った[68]。しかし『週刊新潮』も、1989年4月13日号にて特集記事を組み、監禁場所を提供したCの両親について「日本共産党員だという話もある」と報道した[69]。これに対し、日本共産党は機関紙『しんぶん赤旗』で、同両親が党員であったことを認めた上で「同事件は暴力団との関係も指摘されている、許すことのできない残虐な事件であり、もちろん日本共産党とはいっさい関係ありません」との記事を掲載した[70]。その1ヵ月半後には同両親の対応を検証した特集記事が『しんぶん赤旗』に連載された[71]。
なお『週刊新潮』は3年後の1992年、「市川一家4人殺害事件」の発生時には「少年による凶悪事件が増加している今、20歳未満ならばどんな犯罪を犯しても守られる現行の少年法は時代遅れ。問題提起する意味で実名報道すべき」[72][73]、「犯人がはっきりしており(実名報道という形で少年法への)問題提起をしやすい」として[68]、加害者少年の実名報道を行った[68]。
評論家の赤塚行雄は、この種の犯罪を、通り魔的「狂宴的犯罪」と名付け、先駆としては本事件に加え、1983年の横浜浮浪者襲撃殺人事件、本事件と同年に発生した名古屋アベック殺人事件を挙げた[74][75]。
小田晋(当時・筑波大学精神衛生学教授)は、『朝日新聞』1989年4月21日夕刊記事の中で「少年らの成熟が早まってきている。少年犯罪を未然に防ぐためにも扱いを変えるべきで、重大事件では厳しく処罰すべきだ。今回の事件は、親も含めて(加害者らを)すべて実名で報道すべきだろう」とコメントした[76]。
事件当時の犯人が全員、未成年の少年たちであったことから、この事件は同年代の子供を持つ親に計り知れない衝撃を与えた。
『朝日新聞』(1989年4月8日朝刊)の投書欄には「同じ未成年でも、被害者は実名・顔写真・住所まで新聞で報道されたのに対し、加害者は実名も顔写真も少年法を理由に掲載されない。これでは殺された方の人権が無視されている一方、殺した方の人権ばかりが尊重されている」「同じ少年犯罪でも窃盗・傷害などの衝動的な物ならば、本人の将来を考え匿名とすることもやむを得ないだろうが、今回のような凶悪犯罪に限っては成人も未成年も関係ない。少年A・Bなどのような匿名ではなく、実名を掲載すべきだ」という投書が掲載された[63][77]。
発覚当初から加害者少年らに対し、死刑・無期懲役などの厳罰を求める声があり、事件を捜査した警視庁には「加害者少年らの実名を公表せよ」「極刑に処せ」などの投書や電話が相次いだ[76]。また、東京地方検察庁が第一審の論告求刑で、主犯Aへに無期懲役などを求刑してからは、東京地検に「刑が軽すぎる」「『公益の代表』としてあえて死刑を求刑し、その威嚇効果によって、少年の集団による凶悪事件が相次いでいる[注 1]、昨今の風潮に歯止めをかけるべきだ」など、量刑の軽さを批判するかなりの数の投書・電話が寄せられた[78]。また検察庁のみならず、東京地裁に対しても「判決の量刑が軽すぎる」などの批判の投書・電話が多数寄せられた[79]。
一方で本事件と同年(1988年2月)に発生した「名古屋アベック殺人事件」の刑事裁判では、第一審・名古屋地裁の1989年6月28日・判決公判で主犯格の犯行当時19歳少年に死刑、準主犯格の犯行当時17歳少年にも「死刑相当」とした上での無期懲役といった極刑がそれぞれ言い渡された[注 2][80]。このことから同事件は、最高でも懲役17年(求刑無期懲役)だった本事件の第一審判決との対比でも注目された[81]。
その決定的な違いについて、当時・日本大学法学部教授の板倉宏は「名古屋では殺害被害者が2人、本事件は1人という殺害人数の違いがある。殺害被害者数1人では(永山基準の影響もあり)死刑判決はほとんど出ない」「確定的殺意と『未必の故意』の差が大きい。名古屋の事件では『殺してしまえ』という明確な殺意があり、事前に殺害用のロープを購入するなどの計画性もあった。それに対して本事件は『死ぬかもしれない』という未必の故意だった」と『週刊文春』1990年8月2日号の特集記事で解説した[82]。
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