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日本の女優(1909−2005) ウィキペディアから
原 ひさ子(はら ひさこ、1909年(明治42年)8月6日[4][3] - 2005年(平成17年)12月4日[1][4])は、日本の女優。本名は石島 久(いしじま ひさ)。旧芸名に原緋紗子[1]、原緋沙子。
1909年(明治42年)、静岡県静岡市に四人兄妹の末っ子として生まれた[2]。父は銀行員だったが、6歳の時に亡くなっている[2]。
不二高等女学校(現:静岡雙葉高等学校)を卒業[1]すると同時に上京し、伯父夫婦の養子となった[2]。伯父は会社のエンジニアだったが、東京大学の近くで下宿と喫茶店も経営していた[2]。この当時原は家業を手伝ったり、長唄や生け花を習うなど花嫁修業をしていた[2]。
1933年(昭和8年)、新聞の広告で見た前進座の座員募集に応募した[2]。当時は女優になろうとする気はなく、裏方にでもなれればいいと思っていた[2]。しかし、女優募集の試験であったため、周りには綺麗な人しかいなく、逃げだしたい気持ちになったという[2]。試験官には久保栄や村山知義らがいた[2]。数日後、合格通知が届いた[2]。合格の理由は「何もできないところが素直でよかった」とのこと[2]。芝居が好きだった伯父や姉は女優になることを許してくれたが、静岡で銀行員をしていた兄は猛反対し、以降3年間絶縁された[2]。
初舞台は新橋演舞場の『牛を喰う』の町娘役で[1][2]、最初に貰った給料は15円だった[2]。その後原緋紗子の芸名を名乗り、歌舞伎や股旅物、現代劇などの舞台に立った。特に、現代劇『石川啄木』では啄木の妻役で出演し、好評を博し当り役とした[2]。そのほか前進座ユニットの映画にも出演。映画初出演は1935年(昭和10年)公開の『街の入墨者』で[4]、女方として出演した河原崎国太郎の声の吹き替えをした[2]。1937年(昭和12年)には山中貞雄監督の遺作である名作『人情紙風船』に出演した[2]。
1938年(昭和13年)に同じく前進座所属の俳優・石島房太郎と結婚した[2]。
1944年(昭和19年)に夫婦揃って東宝の専属となる[2]。終戦後は役者の仕事がなかったことから親戚の所有する空き家を借りて喫茶店を経営していたが、東宝劇団山田五十鈴一座の旅公演に誘われたことで活動を再開[2]。
多くの映画に出演したが、東宝争議で契約破棄を告げられたため、同じく契約破棄された人たちと東宝演技者集団(のちに東宝映画俳優協会)を結成し、独立プロの映画を中心に出演した[4]。1950年(昭和25年)にフリーランスとなる[3]。1955年(昭和30年)以降は日活映画を中心に活躍。また、1952年(昭和27年)頃に芸名を原ひさ子に改名した。
1960年(昭和35年)に東京俳優生活協同組合の創立に参加し、晩年まで所属していた[1]。
「お婆ちゃん役の名脇役」として数多くの映画・テレビドラマに「お婆ちゃん役」で出演。150cmと小柄な体つき・か細く愛らしい声・ほのぼのとした温和な雰囲気で親しまれた。1989年(平成元年)には、芸団協 芸能功労者賞を受賞した[4]。また、1999年(平成11年)にはアメリカ紙ニューヨーク・タイムズに「日本の最高齢女優」として紹介された。
70歳を過ぎてから小堺一機が司会を務めた『ライオンのいただきます』に出演して以降、同番組の準レギュラーとして出演するほか、多くのバラエティ番組でも活躍。CMにも出演した。
70歳で俳句を始め、2000年(平成12年)、90歳で初の著書『ばばさまの俳句は日記つれづれに』を出版した。
誕生日が広島市への原子爆弾投下の日と同じである[2]。戦後、原は原爆で亡くなった人々への追悼と、原爆病でいまだに苦しむ被爆者の気持ちを考え、一生誕生日を祝わないと誓い、その日には必ずすいとんを食べることにした[2]。
2005年(平成17年)12月4日午後9時32分、家族と夕食を終えた後に意識を失い、東京都内の病院へ搬送中の救急車の中で心不全のため死去[1]。96歳没。遺作は映画『サヨナラCOLOR』[1]。
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