ホラー映画 (ホラーえいが)または恐怖映画 (きょうふえいが)は、映画 のジャンル の一つ。観る者が恐怖感 (英語でいうところのHorror、Fear、Terrorなど)を味わって楽しむことを想定して制作されているものを広く指す。また、ゾンビ 、殺人鬼 、幽霊 、吸血鬼 、悪魔 、怪物 、精神疾患 、非行少年 、性的逸脱 など、観客に恐怖感を与えるためにホラー映画で用いられる素材 や題材 を含むものを(それが恐怖感を与えるためのものかにかかわらず)、ホラー映画とする場合もある。ホラー映画は日本 、韓国 、イタリア 、タイ などで特に普及している。
ホラー映画のアイコン
ホラーの他に、ジャンルの名前がそのまま感情の名前でもあるものにサスペンス映画 とスリラー映画 があるが、これらはホラーと密接に関連している。あえて分けて呼ぶ場合は、ゾンビやオカルトなど超自然的要素を扱うものをホラー映画として狭義に括り、現実世界の殺人鬼や犯罪者を描くものをサスペンス映画、スリラー映画と呼ぶ場合も多いが、厳密な定義 はない。
また、スプラッター映画 は、典型的には血しぶきや惨殺死体などの直接的な描写(スラッシャー とも呼ばれる)によって定義されるジャンルだが、これも恐怖感を引き起こす手段として多用されるため、基本的にはホラーのサブジャンル と見なされる。サスペンスと同様、性行為 などのエロティシズム なども内包されているものが多い。
また、サブジャンルとして、ホラーとは対照的な存在であるコメディ をひとつの要素として取り入れたコメディ・ホラー や、祝祭日を題材としたホリデイ・ホラー などが挙げられる。
ホラー映画の誕生
映画黎明期の19世紀 末より、ホラー作品の製作記録は多くある。1891年にエジソン が「キネトスコープ 」を発明し、リュミエール兄弟 がそれを改良した「シネマトグラフ 」を発表した1895年、アメリカのアルフレッド・クラークによって発表された『メアリー女王の処刑 』(『The Execution of Mary, Queen of Scots』あるいは『The Execution of Mary Stuart』)は世界初のホラー映画として名を挙げられる。ただし本作は14秒と非常に短いものであり、のぞき窓から映像を見てひとりで楽しむという、現代の「暗所で鑑賞する大衆娯楽」という映画のスタイルとはまるで異なるものであった。
後のホラー映画に大きな影響を与えた始祖的存在としては、1920年 のドイツ映画 『カリガリ博士 』が知られている。1922年 の『吸血鬼ノスフェラトゥ 』も著作権者の許可を得ない非公式作ながら、重要な映画と位置づけられている。
1925年 のアメリカ映画『オペラの怪人 』は、千の顔を持つ男と称された名優ロン・チェイニー が髑髏のような恐ろしいメイクでファントムを演じ、サイレントホラー の伝説的作品となった。ゴシック・ロマンス を題材とし、強力な個性を持った怪奇スターが看板となるホラー映画のスタイルを決定付けた。
1970年代
スプラッター映画の浸透
しかし、1970年代 に入ると、それまで『血ぬられた墓標 』(1960年)などの古典的なゴシック怪奇映画で知られていたイタリアのマリオ・バーヴァ 監督が、特殊メイクによる過激な残酷描写を取り入れた『血みどろの入江』(1971年)を発表。素人俳優をキャスティングして作りもアマチュア臭ただようH・G・ルイス作品とは異なり国際的な知名度を持つ名優の出演と一流の技術によって制作された初のスプラッター映画として世界に衝撃を与えた。
バーヴァの『血みどろの入江』を皮切りに、当時イタリアで流行していたジャッロ とよばれる推理サスペンス映画が、生々しい残酷描写を積極的に取り入れ始める。セルジオ・マルティーノ監督による『影なき淫獣』(1973年)やダリオ・アルジェント 監督による『サスペリアPART2 』(1975年)といった70年代のイタリア製スリラーでは、犯人捜しの推理ミステリーの体裁を取りながら、血みどろのスプラッター描写を露骨に表現したことで刺激に飢えた若い観客からの支持を得た。
さらに、アメリカのトビー・フーパー 監督による『悪魔のいけにえ 』(1974年)、イギリスのピート・ウォーカー 監督による『フライトメア』(1974年)、カナダのデヴィッド・クローネンバーグ 監督による『ラビッド 』(1977年)やボブ・クラーク 監督による『暗闇にベルが鳴る 』(1974年)といった、高い技術と緻密な脚本・演出に支えられた現代的な残酷ホラーが多く製作される。これらの作品はH・G・ルイスが狙ったような単なる表面的な血みどろ描写による刺激だけではなく、残酷シーンの痛々しさを通して人間心理にひそむ狂気や異常性の恐ろしさを描き上げたという点で、当時としてはリアルで現代的な感覚を持った恐怖映画だったと言える。
動物パニック映画ブーム
また、アルフレッド・ヒッチコック 監督の『鳥 』(1963年)のヒットを経て、70年代中盤には動物パニック映画 ブームが巻き起こる。中でも大ヒット作である『ジョーズ 』(1975年)を筆頭に、巨大クマの恐怖を描いた『グリズリー 』(1976年)、シャチの襲撃を描いた『オルカ 』(1977年)、殺人蜂の襲来を描いた『スウォーム 』(1978年)など、さまざまな動物や昆虫が人間を襲う作品が次々と公開された。
オカルト映画ブーム
一方で、1970年代には『ローズマリーの赤ちゃん 』(1968年)を起源として、ウィリアム・フリードキン 監督による『エクソシスト 』(1973年)が爆発的なヒット。それを皮切りに、オカルト映画 の大ブームが巻き起こる。かねてから注目を集めていた占い や自称超能力 者のユリ・ゲラー が仕掛けた超能力ブームに後押しされる形で、悪魔や心霊現象や超能力と言った神秘的な事柄に対する人々の関心が高まり、世界各国の映画会社は積極的にオカルト映画を発表。
ハリウッドは『ヘルハウス 』(1973年)、『オーメン 』(1976年)、『キャリー 』(1976年)、『家 』(1976年)、『オードリー・ローズ 』(1977年)などの心霊現象や悪魔や超能力などを扱ったオカルト映画を量産し、興業面でも批評面でも大いなる成果を得た。
娯楽映画産業 に勢いがあったイタリア映画界もブームに乗じて、悪魔や魔女の恐怖を描いたオカルト映画を量産。特にダリオ・アルジェント監督の『サスペリア 』(1976年)はハリウッドの大作に匹敵するほどの大成功を収めた。
イタリアほど話題作は多くなかったが、スペイン映画界からは『ザ・チャイルド 』(1976年)が発表されて話題を呼んだ。オカルト映画の体裁を取りながらも不条理な風刺劇といった趣の映画だが、子供たちが突然大人を殺し始めると言った寓話的でショッキングなストーリーが世界に大きな衝撃を与えた。
スプラッター映画とオカルト映画の流行に押される形で、クラシカルなハマーやAIP作品は衰退していく。ホラー映画も新しい時代を迎えつつあった。
2000年代
ソリッド・シチュエーション・ホラー
1997年 の『キューブ 』のヒットを経て、2000年代には限られた空間でストーリーが展開するソリッド・シチュエーション・ホラー が大きなブームとなる。中でも『ソウ 』がホラー映画界において異例の大ヒットを記録した。人間による人間の恐怖を徹底的に表現し、残酷なシーンの多様化、究極の苦痛を求めた映画として話題を呼んだ。また 『ホステル 』(2005年)や『ウルフクリーク/猟奇殺人谷 』(2005年)などを皮切りに、トーチャーポルノ (拷問ポルノ)と呼ばれる残酷シーンに特化したジャンルのホラー映画が勢いを付けた。
フレンチ・ホラー
また21世紀に入るまではホラー映画のイメージが薄かったフランス映画界だったが[2] 、1990年代後期からフランスを中心に過剰な性描写や暴力表現などを使用したニューエクストリミティ (英語版 ) と呼ばれる映画運動が起きたことで、2003年にその意図を汲んだ『ハイテンション 』(2003年)が公開される。本作のヒットを皮切りに、過激なゴア描写やスタイリッシュさを基調としたフレンチ・ホラー というジャンルが確立し、後に公開される『屋敷女 』(2007年)『フロンティア 』(2007年)『マーターズ 』(2008年)の3作品を含めて、4大フレンチホラー(フレンチホラー四天王)と呼ばれるようになった。これらの一連のブームを総称して、ニュー・ウェイブ・オブ・フレンチ・ホラー(New Wave of French Horror)[3] 、またはフランス新過激主義(New French Extremity)と言う。
ホーム・インベージョン
また『ファニーゲーム 』(1998年)の登場、そしてフレンチ・ホラーとソリッド・シチュエーション・ホラーの流行によって、自宅に何者かが侵入、もしくは襲撃されるホーム・インベージョン と呼ばれるジャンルも定着する。上記のフレンチホラー四天王と呼ばれる作品から、『正体不明 THEM -ゼム‐ 』(2006年)や『ゴーストランドの惨劇 』(2015年)など、多くのフレンチ・ホラーはホーム・インベージョンの形式をとっている。アメリカ映画では『ワナオトコ 』(2009年)や『サプライズ 』(2011年)『アス 』(2019年)などが該当する。
ジャパニーズホラーの大ブーム
1998年 に『リング 』がヒットすると後に続くジャパニーズホラー ブームの火付け役となり、以降『仄暗い水の底から 』(2002年)や『呪怨 』(2003年)、『着信アリ 』(2003年)なども立て続けに成功した。Jホラーブームが世界中で巻き起こると、その後も『ザ・リング 』(2002年)や『THE JUON 呪怨 』(2004年)、『ダーク・ウォーター 』(2005年)、『ワン・ミス・コール 』(2008年)などのJホラーのリメイク作品がアメリカで次々に製作された。『ザ・リング』は4800万ドルの低予算の制作費に対して興行成績が約1億2900万ドルと予想以上の高回収率で成功を収め、『THE JUON 呪怨』も1,000万ドルの制作費に対して興行収入が1億1000万ドルと、低予算であることを考慮するとビジネス的には成功した。また、『ザ・リング』のDVD はアメリカでは初日のみで200万枚売れたことも話題になった。
『リング』をはじめとするジャパニーズホラーは香港 を席巻したが[4] 、その理由として、日本と香港の文化的同一性があげられており、登場人物が黒髪 ではなく金髪 で、アーモンド色の目をしていたら、「信憑性がない」「私たちが彼らに夢中になるのは難しい」という意見がある[4] 。
日本映画研究者でハーバード大学 准教授 のアレクサンダー・ザルテンは、こうしたJホラーが誕生した背景には1989年に発覚した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件 の影響が大きいと分析している[5] 。1980年代当時の日本では、『死霊の罠 』(1988年)や『スウィートホーム 』(1989年)、オリジナルビデオ 作品の『ギニーピッグ 』(1985年)、テレビドラマ『魔夏少女 』(1987年)など、海外のスプラッター映画と同様のグロテスク な残酷描写を描いた作品が徐々に製作され始めていた時代であったが、前述の事件をマスメディア が「犯人はオタク ・ホラーマニア で現実と空想の区別が付かずに犯行に及んだ」「ホラー映画を犯行の手本にした」などと盛んに報道したことで残酷描写がタブー 視されるようになり、自主規制が強化されメジャーシーンではスプラッター作品が製作されなくなってしまい、直接的な残酷描写ではなく雰囲気や心理的に怖がらせるJホラーが副産物的、偶発的に誕生したとされる。このため、Jホラーというジャンルは日本人の感性から生まれたというよりも、そうした歴史的な背景の基に生まれたのものだと指摘している。
モキュメンタリー作品の流行
一方、1999年に公開された『ブレア・ウィッチ・プロジェクト 』のヒットを経て、2000年代には全編ビデオカメラを用いたP.O.V 方式によるモキュメンタリー 、もしくはファウンド・フッテージ 作品が増える。2007年には『パラノーマル・アクティビティ 』が超低予算ながらも口コミ で話題となり、社会現象 とも言える大ヒットを記録した。他に『REC/レック 』(2007年)、『クローバーフィールド/HAKAISHA 』(2008年)、『THE 4TH KIND フォース・カインド 』(2009年)、『グレイヴ・エンカウンターズ 』(2011年)などがある。
クロスオーバー作品のヒット
2003年には『フレディvsジェイソン 』のようなクロスオーバー作品 も登場し、世界中で反響を呼んだ。この作品は映画界において一つの新しい型を生み出し、本作を皮切に以降『エイリアンVSプレデター 』(2004年)のような他の作品同士のキャラクターを対決させるという映画会社の垣根を超えた作品が製作されている。また2012年に公開された『キャビン 』は、ある種その最終形態的な作品とも言える。
往年の名作のリメイク
洋画においては『悪魔のいけにえ 』、『ハロウィン 』、『13日の金曜日 』、『エルム街の悪夢 』など、70年代~80年代にかけての有名なホラー作品が相次いでリメイクされ、いずれの作品もおおむね好意的な評価を得た。
特に、『IT 』(1990年)のリメイクである『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。 』(2017年)は、ホラー映画史上No.1の興行収入を記録する大ヒットとなった。
海外
1900年代前半
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
『世界サブカルチャー史 欲望の系譜』2023年10月24日放送回