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日本の千葉県野田市にある持株会社 ウィキペディアから
キッコーマン株式会社(英: KIKKOMAN CORPORATION[3])は、千葉県野田市に本社を置く、醤油を主とする調味料、加工食品の大手企業である。2009年(平成21年)10月に新設分割により3つの事業子会社を設立し、純粋持株会社に移行した。日経平均株価の構成銘柄の一つ[4]。
野田本社 | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
機関設計 | 監査役会設置会社[1] |
市場情報 |
大証1部(廃止) 2801 2013年7月12日上場廃止 |
本社所在地 |
日本 〒278-8601 千葉県野田市野田250番地 |
設立 |
1917年(大正6年)12月7日 (野田醤油株式会社) |
業種 | 食料品 |
法人番号 | 2040001071167 |
事業内容 | 持株会社としてのグループ戦略立案及び各事業会社の統括管理 |
代表者 |
堀切功章(代表取締役会長) 中野祥三郎(代表取締役社長兼CEO) 茂木修(代表取締役専務執行役員) |
資本金 | 115億9900万円 |
発行済株式総数 | 2億1038万3202株 |
売上高 |
連結:4681億19百万円 (2021年3月期) |
営業利益 |
連結:426億13百万円 (2021年3月期) |
純利益 |
連結:288億28百万円 (2021年3月期) |
純資産 |
連結:3114億02百万円 (2021年3月期) |
総資産 |
連結:4274億70百万円 (2021年3月期) |
従業員数 |
連結:7,645人 (2021年3月31日現在) |
決算期 | 3月31日 |
会計監査人 | EY新日本有限責任監査法人[2] |
主要株主 |
日本マスタートラスト信託銀行(信託口) 10.04% 日本トラスティ・サービス信託銀行(信託口) 5.50% (株)千秋社 3.19% |
主要子会社 |
キッコーマン食品(株) 100% キッコーマン飲料(株) 100% キッコーマンビジネスサービス(株) 100% 日本デルモンテ(株) 100% マンズワイン(株) 100% (株)フードケミファ 100% キッコーマン総合病院 100% |
関係する人物 |
茂木啓三郎(元社長、中興の祖) 茂木友三郎(元社長・会長、現取締役名誉会長兼取締役会議長) 山﨑孝一(元代表取締役専務執行役員兼CSO) |
外部リンク | キッコーマン株式会社 |
特記事項:東京本社は東京都港区西新橋二丁目1番1号に所在する。各種経営指標は2017年3月期。 |
江戸時代の野田周辺は水運が盛んであった。東側の利根川沿いは大豆や小麦の生産地、西を流れる江戸川下流には行徳塩田があり、大消費地の江戸にも通じているなど、醤油造りに有利な条件が揃っていた。有力醸造業者であった茂木一族と髙梨一族の8家が合同して1917年(大正6年)に設立した「野田醤油株式会社」が前身である。後述のように、複数あった醤油商標のうち亀甲萬(キッコーマン)を後に統一商標および社名とした。現在は醤油、及び醤油を使ったタレ、つゆ、ポン酢、出汁など和風醸造調味料が主力で、ウスターソースなども製造・販売している。
第二次世界大戦前から海外展開を積極的に行い、世界100ヶ国以上で醤油を販売している。また、主力の醤油のシェアは高く、日本シェア30%、世界シェア50%である。特にアメリカ合衆国でのシェアは55%と高く、「Kikkoman」は日本の醤油(Japanese soy sauce)のブランドとして広く定着している。
本店、野田工場(千葉県野田市野田110)のほか、国内拠点の約半分が創業地である野田市周辺に集中している。野田工場の敷地内には、1939年(昭和4年)に建てられた御用蔵があり、現代でも空調を使わない伝統製法で醤油を醸造している。見学ができるほか、ここで製造された「亀甲萬御用蔵醤油」が販売もされている。1991年(平成3年)は工場見学用の企業博物館「もの知りしょうゆ館」を開館。年間約13万人が訪れる[5]。西日本向けには兵庫県高砂市の高砂工場(高砂市荒井町新浜1-1-1)も主力工場としての役割を担っている。営業・販売等の社内での管理業務については、東京都港区西新橋二丁目に所在する東京本社が行う。
醤油以外にも様々な事業展開を行っており、調味料、健康食品、バイオ事業、外食・中食事業、食料品卸売事業を幅広く展開している。かつては利根コカ・コーラボトリング(コカ・コーラ国内ボトラーの一社)に出資していた。
1985年(昭和60年)、農林水産省果樹試験場とキッコーマンの共同研究でオレンジとカラタチを融合した世界初のバイオ果実「オレタチ」という果実が誕生した。現在は食用には至ってないが、野田工場内「もの知りしょうゆ館」の中庭に植えられている。
現社名は、前身8家の合同による野田醤油会社創立に際し、醤油統一商標「亀甲萬」とする[6]。前身の1つ、茂木佐平次家の用いた商標「亀甲萬」は香取神社の亀甲と「亀は萬年」をかけたとされる。あるいは、元々の考案者は第4代鈴木万平であり、譲渡されたという説もある[7]。
2008年(平成20年)6月にコーポレート・ブランドを刷新した。制定から20年以上にわたって使われてきたコーポレート・マークは、これまでの大文字(KIKKOMAN)から小文字(kikkoman)に変更し、ブランドカラーは赤からオレンジに、マークの右上には伝統の六角形のマーク(六角形の中に「萬」)が添えられた。製品に記載されるコーポレート・マークについては、刷新後に、これまで記載されていなかったパッケージ正面にも記載されるようになった。
コーポレート・スローガンは2005年(平成17年)に食育スローガンとして制定されていた「おいしい記憶をつくりたい。」。このスローガンは日本国内向けで、世界では「seasoning your life」を用いる。
卓上醤油差しのデザインはGKデザイングループ社長の榮久庵憲司による。アメリカ合衆国で、2007年に立体商標の権利を取得している。ちなみにアメリカ向けの醤油差しには、「REFILL ONLY WITH KIKKOMAN」(詰め替えはキッコーマンに限る)と記されている。
一族8家の合同設立という経緯から、茂木家・高梨家・堀切家によるファミリービジネスの体制になっているが、家族経営の弊害を防ぐ工夫がなされている。
国 | 企業 | 事業 | 設立 |
---|---|---|---|
日本 | キッコーマン食品 | 醤油、調味料、食品、酒類などの製造・販売 | 2009年 |
キッコーマン飲料 | 飲料、チルド食品の販売 | 2009年 | |
キッコーマンビジネスサービス | 各種間接業務の提供 | 2009年 | |
日本デルモンテ | キッコーマン・デルモンテ製品(飲料・調味料・トマト加工製品など)の製造元 | 1961年 | |
マンズワイン | ワイン、ブランデーなど | 1962年 | |
太平洋貿易 | 食品の輸出入 | 1928年 | |
平成食品工業 | つゆ類、たれ類など | 2001年 | |
江戸川食品 | 加工殻類、鰹・昆布だしなど | 2003年 | |
北海道キッコーマン | 醤油、めんみ(濃縮つゆ・北海道内限定バージョン)など | 2005年 | |
流山キッコーマン | 本みりん、みりん風調味料など | 2006年 | |
テラヴェール | 輸入・国産ファインワインの仕入・販売 | 2008年 | |
宝醤油 | 醤油・調味料などの製造・販売 | 1941年 | |
キッコーマンソイフーズ | 豆乳飲料や食材などの製造・販売 | 1939年 | |
総武物流 | 物流業務 | 1994年 | |
キッコーマン・マーケティングセンター | 店頭プロモーション・販売活動など | 1973年 | |
キッコーマンレストラン | 直営レストラン | 1974年 | |
キッコーマンデリカ | 惣菜や弁当の製造・販売 | 1997年 | |
キッコーマンニュートリケア・ジャパン | 健康食品、サプリメント、治療食、食品・飲料の開発、販売。通信販売の運営 | 2009年 | |
キッコーマンバイオケミファ | 化成品の製造・販売 | 2011年 | |
アメリカ | KIKKOMAN FOODS, INC. | キッコーマンしょうゆ | 1972年 |
JAPAN FOOD (HAWAII), INC. | |||
JFC INTERNATIONAL INC. | 1958年 | ||
KIKKOMAN INTERNATIONAL INC. | キッコーマンしょうゆ、テリヤキソースなど | 1957年 | |
KIKKOMAN MARKETING AND PLANNING, INC | 市場調査 | 1984年 | |
ドイツ | JFC RESTAURANT GmbH | 料理・飲食 | 1997年 |
KIKKOMAN TRADING EUROPE GmbH | キッコーマンしょうゆ | 1979年 | |
JFC INTERNATIONAL (EUROPE) GmbH | 1998年 | ||
JFC Deutschland GmbH | 2004年 | ||
シンガポール | KIKKOMAN (S) PTE. LTD. | キッコーマンしょうゆ、テリヤキソースなど | 1983年 |
DEL MONTE ASIA PTE. LTD. | デルモンテ製品 | 2001年 | |
KIKKOMAN TRADING ASIA PTE. LTD. | キッコーマンしょうゆ | 2001年 | |
イギリス | JFC (UK) LTD. | 1992年 | |
フランス | JFC FRANCE S.A.R.L | 1996年 | |
オーストリア | JFC AUSTRIA GmbH | 2008年 | |
カナダ | JFC INTERNATIONAL (CANADA) INC. | 1973年 | |
オーストラリア | JAPAN FOOD CORP. (AUST) PTY.LTD. | 1986年 | |
KIKKOMAN AUSTRALIA PTY. LTD | 1992年 | ||
メキシコ | JFC DE MEXICO S.A. DE C.V. | 1997年 | |
ニュージーランド | JFC NEW ZEALAND LIMITED | 2004年 | |
オランダ | KIKKOMAN FOODS EUROPE B.V. | キッコーマンしょうゆ、テリヤキソース等の製造 | 1996年 |
台湾 | 統萬股份有限公司 | キッコーマン及び統一ブランドのしょうゆ | 1990年 |
中国 | 昆山統万微生物科技有限公司 | 2000年 | |
上海亀甲萬貿易有限公司 | キッコーマンしょうゆ | 1995年 | |
中国香港 | JFC HONG KONG LTD. | 1984年 |
野田市の本社近くには、従業員向けの養生所を由来とする直営医療機関、キッコーマン総合病院がある。同病院で勤務する院長以下職員はキッコーマンの社員である。企業立病院であるが、野田市には公立病院は無く、国立病院や大学病院はまして存在せず、過去にはキッコーマン総合病院が事実上の市民総合病院としての役割を果たしてきた。現在は他に私立の総合病院もある。2012年に建物が建て替えられ、病床数129床になった[40]。
アメリカ合衆国等では醤油(Soy Sauce ソイ・ソース(= 大豆ソース))のことを「キッコーマン」と呼ぶ場合がある。
但し、日系人の歴史が古く、また比率の高いハワイ州では、"Shoyu"(醤油)という名詞が一般的に通用するため、"Shoyu"の一ブランドとして有名ではあるが、醤油そのものの代名詞として「キッコーマン」と呼ぶ事はない。
アメリカにおける食文化向上の貢献を称え、また同社の米国事業50周年を記念してアメリカ合衆国議会から感謝決議案が採択された。
アメリカのバイヤーから「アメリカでもキッコーマン醤油はよく知られていますが、日本には「野田醤油」と言う別の大手醤油メーカーがあるそうですね」と言われたため、社名とブランドを一致させることが必要と考え、「野田醤油」の社名を「キッコーマン醤油」へ変更したと言われている。
2013年時点では、キッコーマンの国内売上が1638億円なのに対して、海外での売り上げは1384億円に達し、その中で北米市場では1084億円売り上げている。国内シェアは30%強だが世界では50%のシェアを占めている。利益に及んではキッコーマンの国内営業利益は70億円であるのに対し、海外での営業利益は131億円、その中で北米では88億円の利益を上げている。キッコーマンは日本食に欠かせない醤油メーカーであるが、その利益の7割を海外で上げている。その背景には日本食に拘らず、現地の料理の中に取り入れられる調味料として普及させることに取り組んだ成果である[41]。
キッコーマンは第二次世界大戦前から海外に住む日本人向けに醤油を輸出し、また、戦後徐々にアメリカ人にもその味が受け入れられていたが、原料の大豆・小麦をアメリカから輸送コストをかけて輸入して日本で醤油にし、またアメリカに輸送費をかけて送る構造では利益が確保しにくかった。醤油は装置産業でもあり、ある程度の販売数量がないと利益が出ない。当時の資本金は36億円、それに対してアメリカ工場建設には40億円が必要と見込まれた。アメリカ工場は1971年に建設を開始し1973年に稼働を開始した[19][18]。当時のキッコーマンにとっては巨額の投資で、もしも売り上げが計画見込みを下回るならば、経営の危機にもなりかねなかったが、アメリカでの醤油の売り上げは順調に増える。1977年には計画より1年早く累損を一掃して利益をあげることができた。1998年にカリフォルニア州に第二工場を開設[19]。2007年には半世紀に及ぶアメリカでの活動にアメリカ議会両院から感謝状を贈られるまでになった[42]。
南米ブラジルでは2020年にM&Aで取得したアズマキリンの工場で醤油生産に乗り出し、2021年には「KIKKOMAN SHOYU」ブランドの生産開始を発表した[43]。
1922年5月、野田市内で上水道の供給事業を始めた。当時、キッコーマンの工場が市内に17ヶ所あり、それぞれが仕込み水などに井戸水を使用していたが、製品にムラが出てきた。そこで当時の金額で420万円を投じて深井戸を2本掘り、1日4000リットルを供給できる水道網を作り上げた。これは工場の使用量を大きく上回るものであったため、社内に水道課を設けて市内2500世帯に有料で供給を始めることとなった。供給当初の使用量の比は、会社と一般家庭で8:2であった。次第に一般家庭への供給量は増加、1965年には5億円以上をかけて江戸川から取水施設も建設したが、供給量が追い付かなくなることが見えてきた。1972年、野田市がキッコーマン側に施設の有償譲渡を働きかけたこともあり、キッコーマンの上水道事業は1975年に野田市へと移管された[44]。
給水所は2007年に経済産業省の近代化産業遺産に認定されている。当初作られた水道施設の中で高さ22mで円筒形の給水塔は老朽化のために使用されなくなり、キッコーマンも歴史的建造物なので耐震補強工事を検討したが、結局は2010年に解体されている。
昭和時代から平成初期にかけて、系列企業「むらさき観光」で貸切バス事業を展開していたが、1998年7月に日の丸自動車興業グループに事業譲渡されている[45]。
1908年(明治41年)には野田町民有志によって野田戊申会が設立されている。野田戊申会は1918年(大正7年)頃に図書館の設置を企画し、高梨・茂木一族の協力を受けて1921年(大正10年)に戊申会簡易図書館を開館させた。これは板の間12畳、座敷5畳という小さな図書室であったが、各界から本の寄贈を受けて蔵書も増えていった。
有志での運営に限界があったことで、1923年(大正12年)、野田町は戊申会簡易図書館を買収して野田町図書館に改称した。1925年(大正14年)には千葉県から優良図書館として表彰され、1926年(大正15年)には文部省からも優良図書館として表彰されている。しかし、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災では野田町にある醤油工場も大きな被害を受け、野田町は図書館経営に充てる余力に乏しくなった。一方、野田醤油は社会事業を計画し、昭和天皇の即位を機に合名会社千秋社(現株式会社千秋社)、財団法人興風会などの傘下団体を通じて、教育や育英、厚生、および図書館事業を進めることにした。
1929年(昭和4年)、野田町は野田町図書館の蔵書を興風会に移管し、興風会館の1階に財団法人興風会図書館が開館した。野田町の図書館は野田醤油の資金で運営されることになった。民間企業が行政に代わって図書館事業を行ったのである。1941年(昭和16年)には独立施設が完成して興風会館から移転した。
1979年(昭和54年)4月には興風会設立50周年を記念して、興風会図書館の施設・蔵書の一切が野田市に無償譲渡され、野田市立興風図書館に改称した[46]。1998年(平成10年)には野田市役所跡地に欅のホールが完成し、野田市立興風図書館は欅のホールに移転した。
など
テレビ番組
ラジオ番組
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