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日本の政治家・軍人 (1827-1877) ウィキペディアから
西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体:西鄕 隆󠄁盛󠄁、1828年1月23日(文政10年12月7日)- 1877年(明治10年)9月24日)は、幕末から明治初期の日本の政治家、軍人[1]。
薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。西郷隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門・大島吉之助などの変名も名乗った。
西郷隆盛は生涯「敬天愛人」の言葉を大切にしていた。
本項で、年月日は明治5年12月2日までは旧暦(太陰太陽暦)である天保暦、明治6年1月1日以後は新暦(太陽暦)であるグレゴリオ暦を用い、和暦を先に、その後ろの()内にグレゴリオ暦を書く。
西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。西郷隆盛の生家の詳細は西郷隆盛家を参照。
薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職[2]。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務した[3]。明治6年(1873年)、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中に発生した朝鮮との国交回復問題では開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し[4]、帰国した大久保らと対立、この結果の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野[5][6]、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動[7]から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。
死後十数年を経て名誉を回復され、位階は贈正三位[8]。功により、継嗣の寅太郎が侯爵となる[9]。
文政10年12月7日(1828年1月23日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛(のち吉兵衛隆盛に改名、禄47石余)の長男(第一子)として生まれる。西郷氏の家格は御小姓与であり、下から2番目の身分である下級藩士であった。本姓は藤原姓(系譜参照)を称するが明確ではない。先祖は肥後国の菊池氏の庶家とされ、その家臣であったと伝わる。江戸時代の元禄年間に島津氏が支配する薩摩藩士になる。
天保10年(1839年)、郷中(ごじゅう)仲間と月例のお宮参りに行った際、他の郷中と友人とが喧嘩しそうになり喧嘩の仲裁に入るが、上組の郷中が抜いた刀が西郷の右腕内側の神経を切ってしまう。西郷は三日間高熱に浮かされたものの一命は取り留めるが、刀を握れなくなったため武術を諦め、学問で身を立てようと志した。刀が握れないなりに武術の部分に関しては相撲を習った[10]。
天保12年(1841年)、元服し吉之介隆永と名乗る。この頃に下加治屋町(したかじやまち)郷中の二才組(にせこ)に昇進した。
弘化元年(1844年)、郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、御小姓与(おこしょうあずかり 一番組小与八番)に編入された。弘化4年(1847年)、郷中の二才頭となった。嘉永3年(1850年)、高崎崩れ(お由羅騒動)で赤山靭負(ゆきえ)[11]が切腹し、赤山の御用人をしていた父から切腹の様子を聞き、血衣を見せられた。これ以後、世子・島津斉彬の襲封を願うようになった。
伊藤茂右衛門に陽明学、福昌寺(島津家の菩提寺)の無参和尚に禅を学ぶ。この年、赤山らの遺志を継ぐために、近思録崩れの秩父季保愛読の『近思録』を輪読する会を大久保正助(利通)、税所喜三左衛門(篤)、吉井幸輔(友実)、伊地知竜右衛門(正治)、有村俊斎(海江田信義)らとつくった[注釈 3]。
嘉永4年2月2日(1851年3月4日)、島津斉興が隠居し、島津斉彬が薩摩藩主になった。嘉永5年(1852年)、父母の勧めで伊集院兼寛の姉・須賀[注釈 4]と結婚したが、7月に祖父・遊山、9月に父・吉兵衛、11月に母・マサが相次いで死去し、一人で一家を支えなければならなくなった。嘉永6年(1853年)2月、家督相続を許可されたが、役は郡方書役助と変わらず、禄は減少して41石余であった。この頃に通称を吉之介から善兵衛に改めた。12月、ペリーが浦賀に来航し、攘夷問題が起き始めた。
安政元年(1854年)、上書が認められると斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓として御供するよう任ぜられ、江戸に赴いた。4月、「御庭方役」となり、当代一の開明派大名であった斉彬から直接教えを受けるようになり、またぜひ会いたいと思っていた碩学・藤田東湖にも会い、国事について教えを受けた。鹿児島では11月に、貧窮の苦労を見かねた妻の実家、伊集院家が西郷家から須賀を引き取ってしまい、以後、二弟の吉二郎が一家の面倒を見ることになった。
安政2年(1855年)、西郷家の家督を継ぎ、善兵衛から吉兵衛へ改める(8代目吉兵衛)。12月、越前藩士・橋本左内が来訪し、国事を話し合い、その博識に驚く。この頃から政治活動資金を時々、斉彬の命で賜るようになる。安政3年(1856年)5月、武田耕雲斎と会う。7月、斉彬の密書を水戸藩の徳川斉昭に持って行く。12月、第13代将軍・徳川家定と斉彬の養女・篤姫(敬子)が結婚。この頃の斉彬の考え方は、篤姫を通じて一橋家の徳川慶喜を第14代将軍にし、賢侯の協力と公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り[12]、開国して富国強兵をはかって露英仏など諸外国に対処しようとするもので[13]、西郷はその手足となって活動した。
安政4年(1857年)4月、参勤交代の帰途に肥後熊本藩の長岡監物・津田山三郎と会い、国事を話し合った。5月、帰藩。次弟・吉二郎が御勘定所書役、三弟・信吾が表茶坊主に任ぜられた。10月、徒目付・鳥預の兼務を命ぜられた[注釈 5]。11月、藍玉の高値に困っていた下関の白石正一郎に薩摩の藍玉購入の斡旋をし、以後、白石宅は薩摩人の活動拠点の一つになった[要出典]。12月、江戸に着き、将軍継嗣に関する斉彬の密書を越前藩主・松平慶永(春嶽)に持って行き、この月内、橋本左内らと一橋慶喜擁立について協議を重ねた。翌安政5年(1858年)1-2月、橋本左内、梅田雲浜らと書簡を交わし、中根雪江が来訪するなど情報交換し、3月には篤姫から近衛忠煕への書簡[要出典]を携えて京都に赴き、僧・月照らの協力で慶喜継嗣のための内勅降下をはかったが失敗した。
5月、彦根藩主・井伊直弼が大老となった。直弼は、6月に日米修好通商条約に調印し、次いで紀州藩主・徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に決定した。7月には不時登城を理由に徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎・隠居、徳川慶喜に登城禁止を命じ、まず一橋派への弾圧から強権を振るい始めた(広義の安政の大獄開始[要出典])。この間、西郷は6月に鹿児島へ帰り、松平慶永からの江戸・京都情勢を記した書簡を斉彬にもたらし、すぐに上京し、梁川星巌・春日潜庵らと情報交換した。7月8日、斉彬は鹿児島城下天保山で薩軍の大軍事調練[注釈 6]を実施したが、7月16日、急逝した。斉彬の遺言により、斉彬の弟・島津久光の長男茂久を仮養子とし、家督相続することになるが、藩の実権は茂久の祖父・斉興や、後見人として国父となった父・久光が握った。
安政5年7月27日(1858年9月4日)、京都で斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしたが、月照らに説得されて斉彬の遺志を継ぐことを決意した。8月、近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩・尾張藩に渡すため江戸に赴いたが、できずに京都へ帰った[要出典]。以後9月中旬頃まで諸藩の有志および有馬新七、有村俊斎、伊地知正治らと大老・井伊直弼を排斥し、それによって幕政の改革をしようと謀った。しかし、9月9日に梅田雲浜が捕縛され、尊攘派に危機が迫ったので、近衛家から保護を依頼された月照を伴って伏見へ脱出し、伏見からは有村俊斎らに月照を託し、大坂を経て鹿児島へ送らせた。
9月16日、再び上京して諸志士らと挙兵を図ったが、捕吏の追及が厳しいため、9月24日に大坂を出航し、下関経由で10月6日に鹿児島へ帰った。捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助と改名させられた。11月、平野国臣に伴われて月照が鹿児島に着くが、幕府の追及を恐れた藩当局は月照らを東目(日向国)へ追放するという名目で道中での斬り捨てを企図した。月照・平野、付き添いの足軽阪口周右衛門らとともに乗船したが、前途を悲観して、16日夜半、竜ヶ水沖で月照とともに入水した。すぐに平野らが救助したが、月照は死亡し、西郷は運良く蘇生し同志の税所喜三左衛門がその看病にあたったが、回復に一ヶ月近くかかった。藩当局は死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せたので、捕吏は月照の下僕・重助を連れて引き上げた。
12月、藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした。12月末日、菊池源吾[注釈 7]と変名して安政6年1月4日(1859年2月6日)、伊地知正治、大久保利通、堀仲左衛門(次郎)等に後事を託して山川港を出航し、七島灘を乗り切り、名瀬を経て、1月12日に潜居地の奄美大島龍郷村阿丹崎に着いた。当時、龍郷には屋入銅山があり、当地の有力者で薩摩藩から士族の身分を与えられた田畑氏(龍氏)が銅山を管理し、採掘した銅を船で鹿児島へ送る目付け役として薩摩藩士が二年交代で赴任・駐在していたが、隆盛がその役職に抜擢されて、奄美大島に派遣された。島では美玉新行の空家を借り、自炊した。間もなく重野安繹の慰問を受け、以後、大久保利通、税所篤、吉井友実、有村俊斎、堀仲左衛門らの書簡や慰問品が何度も届き、西郷も返書を出して情報入手に努めた。この間11月、龍家[注釈 8]の一族、佐栄志の娘・とま(愛加那)を紹介されて島妻とした。当初、扶持米は6石であったが、万延元年には12石に加増された。また留守家族にも家計補助のために藩主から下賜金が与えられた[要出典]。来島当初は流人としての扱いを受け、孤独に苦しんだ。しかし、島の子供3人の教育を依頼され、間切横目・藤長から親切を受け、島妻を娶るにつれ、徐々に島での生活に馴染み、万延2年1月2日(1861年2月11日)には菊次郎が誕生した。文久元年(1861年)9月、三弟の竜庵が表茶坊主から還俗して信吾と名乗った。11月、見聞役・木場伝内(木場清生[注釈 9])と知り合った。
文久元年(1861年)10月、久光は公武周旋に乗り出す決意をして要路重臣の更迭を行ったが、京都での手づるがなく、小納戸役の大久保、堀次郎らの進言で西郷に召還状を出した。西郷は11月21日にこれを受け取ると、世話になった人々への挨拶を済ませ、愛加那の生活が立つようにしたのち、文久2年1月14日(1862年2月12日)に阿丹崎を出帆し、口永良部島・枕崎を経て2月12日に鹿児島へ着いた。2月15日、生きていることが幕府に発覚しないように西郷三助から大島三右衛門[注釈 10]と改名した。同日、久光に召されたが、久光が無官で、斉彬ほどの人望が無いことを理由に上京すべきでないと主張し、また、「御前ニハ恐レナガラ地ゴロ[注釈 11]」なので周旋は無理だと言ったので、久光の不興を買った。一旦は同行を断ったが、大久保の説得で上京を承諾し、旧役に復した。3月13日、下関で待機する命を受けて、村田新八を伴って先発した。
下関の白石正一郎宅で平野国臣から京大坂の緊迫した情勢を聞いた西郷は、3月22日、村田新八と森山新蔵を伴い大坂へ向けて出航し、29日に伏見に着き、激派志士たちの京都焼き討ちと挙兵の企てを止めようと試みた。4月6日に姫路に着いた久光は、西郷が待機命令を破ったこと、堀次郎や海江田信義から受けた西郷の志士煽動の報告に激怒する。西郷以下3名を捕縛させ、10日、鹿児島へ向けて船で護送させせた。
一方、浪士鎮撫の朝旨を受けた久光は、伏見の寺田屋に集結した真木保臣(和泉)、有馬新七らの激派志士を鎮撫するため、4月23日に奈良原繁と大山格之助(大山綱良)ほかを寺田屋に派遣した。奈良原らは激派を説得したが聞かれず、やむなく有馬新七ら8名を上意討ちにした(寺田屋騒動)。この時に挙兵を企て、寺田屋その他に分宿していた激派の中には、三弟の信吾、従弟の大山巌(弥助)の外に篠原国幹・永山弥一郎なども含まれていた。護送され山川港で待命中の6月6日、西郷は大島吉之助に改名させられ、徳之島へ遠島、村田新八は喜界島[注釈 12]へ遠島が命ぜられた。未処分の森山新蔵は船中で自刃した。
文久2年6月11日(1862年7月7日)、西郷は山川を出帆し、向かい風で風待ちのために屋久島一湊で遅れて出帆した村田が追いつき、7、8日程風待ちをし、ともに一湊を出航、奄美へ向かった。七島灘で漂流し奄美を経て[注釈 13]、やっと7月2日に西郷は徳之島湾仁屋に到着した。偶然にも、この渡海中の7月2日に愛加那が菊草(菊子)を生んだ。徳之島では、間切総横目・琉仲為[注釈 14]の奨めで岡前の松田勝伝宅に身を寄せていた。8月26日、徳之島来島を知らされた愛加那が大島から子供2人を連れて岡前に上陸。西郷のもとを訪れ、久しぶりの親子対面を喜んだのもつかの間、翌27日にはさらに追い打ちをかけるように沖永良部島へ遠島する命令が届き、徳之島井之川へと移送される。
江戸へ上っていた島津久光は、家老たちが徳之島へ在留という軽い処罰に留めている事を知り、沖永良部への島替えのうえ、牢込めにし、決して開けてはならぬと厳命したという。なお、失意の愛加那たちは28日に奄美大島へと帰っている。
また、これより前の7月下旬、鹿児島では弟たちが遠慮・謹慎などの処分を受け、西郷家の知行と家財は没収され、最悪の状態に追い込まれていた[要出典]。
閏8月初め、徳之島井之川を出発し、西郷隆盛を乗せた宝徳丸が14日に沖永良部島伊延(旧:ゆぬび・現:いのべ)に着いた。
当初、牢が貧弱で風雨にさらされたので、健康を害した。この頃フィラリアに感染し象皮病により陰嚢が巨大化してしまい、生涯治ることはなかった。しかし、10月、間切横目・土持政照が代官の許可を得て、自費で座敷牢を作ってくれたので、そこに移り住み、やっと健康を取り戻した。4月には同じ郷中の後輩が詰役として来島したので、西郷の待遇は一層改善された。この時西郷は沖永良部の人々に勉学を教えている。また、土持政照と一緒に酒を飲んでいる様子がこの島のサイサイ節という民謡に歌われている[15]。
文久3年(1863年)10月、土持が造ってくれた船に乗り、鹿児島へ出発しようとしていた時、英艦を撃退したとの情報を得て、祝宴を催し喜んだ。来島まもなく始めた塾も元治元年(1864年)1月頃には生徒が20名程になった。やがて赦免召還の噂が流れてくると、『与人役大躰』[16]『間切横目大躰』[16]を書いて島役人のための心得とさせ、社倉設立の文書[16]を作って土持に与え、飢饉に備えさせた。在島中も諸士との情報交換は欠かさず、大島在番であった桂久武、琉球在番の米良助右衛門、真木保臣などと書簡を交わした。
この頃、本土では、薩摩の意見も取り入れ、文久2年(1862年)7月に松平春嶽が政事総裁職、徳川慶喜が将軍後見職となり(文久の幕政改革)、閏8月に会津藩主・松平容保が京都守護職、桑名藩主・松平定敬が京都所司代となって、幕権に回復傾向が見られる一方、文久3年(1863年)5月に長州藩の米艦砲撃事件、8月に奈良五条の天誅組の変と長州への七卿落ち、10月に生野の変など、開港に反対する攘夷急進派が種々の抵抗をして、幕権の失墜を謀っていた。
もともと公武合体派とはいっても、天皇のもとに賢侯を集めての中央集権を目指す薩摩藩の思惑と将軍中心の中央集権をめざす幕府の思惑は違っていたが、薩英戦争で活躍した旧精忠組の発言力の増大と守旧派の失脚を背景に、薩摩流の公武周旋をやり直そうとした久光にとっては、京大坂での薩摩藩の世評の悪化と公武周旋に動く人材の不足が最大の問題であった。この苦境を打開するために大久保利通(一蔵)や小松帯刀らの勧めもあって、西郷を赦免召還することにした。元治元年2月21日(1864年3月28日)、吉井友実、三弟の従道(信吾)らを乗せた蒸気船胡蝶丸が沖永良部島和泊に迎えに来た。途中で大島龍郷に寄って妻子と別れ、喜界島に遠島中の村田新八を伴って帰還の途についた[注釈 15]。
元治元年2月28日(1864年4月4日)に鹿児島に帰った西郷は足が立たず、29日に斉彬の墓を這いずりながら参ったという。3月4日、村田新八を伴って鹿児島を出帆し14日に京都に到着、19日に軍賦役(軍司令官)に任命された。京都に着いた西郷は薩摩が佐幕派と攘夷派双方から非難されており、攘夷派志士だけではなく、世評も極めて悪いのに驚いた。そこで、藩の行動原則を朝旨に遵った行動と単純化し、攘夷派と悪評への緩和策を採ることで、この難局を乗り越えようとした[17]。
この当時、攘夷派および世人から最も悪評を浴びていたのが、薩摩藩と外夷との密貿易であった。文久3年(1863年)半ばに、南北戦争(1861年-1865年)により欧州の綿・茶が不足となり、日本産の綿と茶の買い付けが盛んに行なわれた結果、両品の日本からの輸出量が極端に増加した[要出典]。このことから日本中の綿と茶は高騰し、薩摩藩の外夷との通商が物価高騰の原因であるとする風評ができたのである[要出典]。世人は物価の高騰を、攘夷派は薩摩藩が攘夷と唱えながら外夷と通商していること自体を許せなかったのである。その結果、長州藩による薩摩藩傭船長崎丸撃沈事件、加徳丸事件が起きた[17]。
こうして形成された藩への悪評や世論は薩摩藩の京都・大坂での活動に大きな支障となったので、西郷は6月11日に大坂留守居・木場伝内に上坂中の薩摩商人の取締りを指示すると[18]、往来手形を持参していない商人らにも帰国を命じ、併せて藩内の取締りも強化、藩命を以て大商人らを上坂させぬように処置した[19]。
4月、西郷は御小納戸頭取・一代小番に任命された。池田屋事件からまもない6月27日、朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。これに対し西郷は、薩摩は中立して皇居守護に専念すべしとし、7月8日の徳川慶喜の出兵命令を小松帯刀と相談の上で断った。しかし18日、伏見と嵯峨、山崎の三方から、長州、因州、備前と浪人志士をまとめた長州勢が京都に押し寄せて皇居諸門で幕軍と衝突すると、西郷と伊地知正治らは乾御門で撃退したばかりでなく、諸所の救援に薩摩兵を派遣して、長州勢を退けた(禁門の変)。この時、西郷は銃弾を受けて軽傷を負った。この事変で西郷らが採った中立の方針は、長州や幕府が朝廷を独占するのを防ぎ、朝廷をも中立の立場に導いたのであるが、長州勢は来島又兵衛、久坂玄瑞、真木保臣ら多く犠牲者を出して薩摩嫌いを助長し、「薩賊会奸」[注釈 16]と呼ぶようになった。
元治元年7月23日(1864年8月24日)に長州藩追討の朝命(第一次長州征伐)が下り、24日に徳川慶喜が西国21藩に出兵を命じると、この機に乗じて薩摩藩勢力の伸張を謀るべく、それに応じた。8月、四国連合艦隊下関砲撃事件が起きた。次いで長州と四国連合艦隊の講和条約が結ばれ、幕府と四国代表との間にも賠償約定調印が交わされた。この間の9月中旬、西郷は大坂の専称寺で勝海舟と会い[26]、勝の意見を参考にして、長州に対して強硬策をとるのを止め、緩和策で臨むことにした。10月初旬、御側役・代々小番[注釈 17] となり、大島吉之助[注釈 18] から西郷吉之助に改めた。
10月12日、西郷は征長軍参謀に任命された。24日、大坂で征長総督・徳川慶勝にお目見えし、意見を具申したところ、長州処分を委任された。そこで、吉井友実と税所篤を伴い、岩国で長州方代表の吉川経幹(監物)と会い、長州藩三家老の処分すなわち切腹を申し入れた。引き返して徳川慶勝に経過報告をしたのち、小倉に赴いて副総督・松平茂昭に長州処分案と経過を述べ、薩摩藩総督・島津久明にも経過を報告した。結局、西郷の妥協案に沿って収拾が図られ、12月27日、征長総督が出兵諸軍に撤兵を命じ、この度の征討行動は終わった。収拾案中に含まれていた五卿処分も、中岡慎太郎らの奔走で、西郷の妥協案に従い、慶応元年(1865年)初頭に福岡藩の周旋で九州5藩に分移させるまで福岡で預かることで一応決着した。
慶応元年(1865年)1月中旬に鹿児島へ帰って藩主父子に報告を済ませると人の勧めもあって、1月28日に小松帯刀の媒酌で家老座書役・岩山八太郎直温の二女・イト(絲子)と結婚した[27]。この後、前年から紛糾していた五卿移転とその待遇問題を周旋して、2月23日に待遇を改善したうえで太宰府天満宮の延寿王院に落ち着かせることでやっと収束させた。これと並行して大久保利通・吉井孝輔らとともに九州諸藩連合のために久留米藩や福岡藩などを遊説して、3月中旬に上京した。
この頃、幕府は武力で勅命を出させ、長州藩主父子の出府、五卿の江戸への差し立て、参勤交代の復活の3事を実現させるために、2老中に4大隊と砲を率いて上京させ、強引に諸藩の宮門警備を幕府軍に交替させようとしていたが、それを拒否する勅書と伝奏が所司代に下され、逆に至急、将軍を入洛させるようにとの命が下された。これらは幕権の回復を望まない西郷・大久保らの公卿工作によるものであった。
5月1日に西郷は坂本龍馬を同行して鹿児島に帰り、京都情勢を藩首脳に報告した後、幕府の征長出兵命令を拒否すべしと説いて藩論をまとめた。9日に大番頭・一身家老組[注釈 19] に任命された[28]。この頃、幕府首脳は、勅書を無視して、将軍家茂が紀州藩主・徳川茂承以下16藩の兵約6万を率いて西下を開始し、兵を大坂に駐屯させたのち、閏5月22日に京都に入った。翌23日、家茂は参内して長州再征を奏上したが、許可されなかった。6月、鹿児島入りした中岡慎太郎は、西郷に薩長の協力と和親を説き、下関で桂小五郎(木戸孝允)と会うことを約束させた。しかし、西郷は大久保から緊迫した書簡を受け取ったので、下関寄港を取りやめ、急ぎ上京した。
この間、京大坂滞在中の幕府幹部は兵6万の武力を背景に一層強気になり、長州再征等のことを朝廷へ迫った。これに対し、西郷は幕府の脅しに屈せず、6月11日、幕府の長州再征に協力しないように大久保に伝え、そのための朝廷工作を進めさせた。それに加え、24日には京都で坂本龍馬と会い、長州が欲している武器・艦船の購入を薩摩名義で行うと承諾すると薩長和親の実績をつくった。また、幕府の兵力に対抗する必要を感じ、10月初旬に鹿児島へ帰り、15日に小松帯刀とともに兵を率いて上京した。この頃、長州から兵糧米を購入することを龍馬に依頼したが、これもまた薩長和親の実績づくりであった。この間、黒田清隆(了介)を長州へ往還させ薩長同盟の工作も重ねさせた。
9月16日、英・仏・蘭三カ国の軍艦8隻が兵庫沖に碇泊し、兵庫開港を迫った[要出典]。一方、京都では、武力を背景にした脅迫にひるんだ朝廷は同21日、幕府に長州再征の勅許を下した。また、10月1日に前尾張藩主・徳川慶勝から出された条約の勅許と兵庫開港勅許の奏請も一度は拒否したが、将軍辞職をほのめかして朝廷への武力行使も辞さないとの幕府及び徳川慶喜の脅迫に屈し、条約は勅許するが兵庫開港は不許可という内容の勅書を下した[要出典]。これは強制されたものであったとはいえ、安政以来の幕府の念願の実現であり、国是の変更という意味でも歴史上の大きな決定であった[要出典]。
慶応2年1月8日(1866年2月22日)、西郷は村田新八、従兄弟の大山成美[注釈 20]を伴うと、上京してきた桂小五郎を伏見に出迎え、翌9日、京都に帰って二本松藩邸に入った。21日(一説に22日[要出典])、西郷は桂と小松帯刀邸で薩長提携六ヶ条を密約し、坂本龍馬がその提携書に裏書きをした(薩長同盟)。その直後、龍馬が京都の寺田屋で幕吏に襲撃されると、西郷の指示で、薩摩藩邸が龍馬を保護した。その後、3月4日に小松帯刀、桂久武、吉井友実、坂本龍馬夫妻(西郷が仲人)らと大坂を出航し、11日に鹿児島へ着いた。4月、藩政改革と陸海軍の拡張を進言し、それが容れられると、5月1日から小松、桂らと藩政改革にあたった。
第二次長州征伐は、6月7日の幕府軍艦による上ノ関砲撃から始まった。大島口・芸州口・山陰口・小倉口の四方面で戦闘が行われ、芸州口は膠着したが、大島口と小倉口は高杉晋作の電撃作戦と奇兵隊を中心とする諸隊の活躍で勝利し、大村益次郎が指揮した山陰口も連戦連勝し、幕府軍は惨敗続きであった。鹿児島にいた西郷は、7月9日に朝廷に出す長州再征反対の建白を起草し、藩主名で幕府へ出兵を断る文書を提出させた。一方、幕府は、7月30日に将軍・徳川家茂が大坂城中で病死したので、喪を秘し、8月1日の小倉口での敗北を機に、敗戦処理と将軍継嗣問題をかたづけるべく、朝廷に願い出て21日に休戦の御沙汰書を出してもらった。将軍の遺骸を海路江戸へ運んだ幕府は、12月25日の孝明天皇の崩御を機に解兵の御沙汰書を得て公布し、この戦役を終わらせた。この間の7月12日、西郷に嫡男・寅太郎が誕生。9月には大目付・陸軍掛・家老座出席に任命された[28][注釈 21]ものの、大目付役は病気を理由に返上した。
慶応3年(1867年)3月上旬、村田新八と中岡慎太郎らを先発させ、大村藩、平戸藩などを遊説させた。3月25日、西郷は久光を奉じ、薩摩の城下1番小隊から6番小隊の精鋭700名を率いて上京した。5月に京都の薩摩藩邸と土佐藩邸で相次いで開催された四侯会議の下準備をした。
5月21日、中岡慎太郎の仲介によって、京都の小松帯刀邸にて、土佐藩の乾退助、谷干城らと、薩摩藩の西郷、吉井幸輔らが武力討幕を議して、薩土討幕の密約(薩土密約)を結ぶ[注釈 22]。6月15日、西郷は山縣有朋を訪問し、武力討幕の決意を告げた。16日、西郷と小松帯刀、大久保利通、伊地知正治、山縣、品川弥二郎らが会し、改めて薩長同盟の誓約をした。その後、乾退助が独断で江戸築地の土佐藩邸に匿っていた水戸浪士に薩摩藩邸へ移すことを密約し、伊牟田尚平・益満休之助・相楽総三らが江戸市内での幕府挑発活動の一翼をになう手はずが整うと、やがて江戸薩摩藩邸の焼討事件につながる。
土佐藩・乾退助らと薩土討幕の密約を締結した一ヶ月後の6月22日、今度は坂本龍馬・後藤象二郎・福岡孝弟らが西郷と会し、武力討幕によらない大政奉還のための薩土盟約を締結。薩摩藩と土佐藩は、西郷を通じて性格の相反する軍事同盟を結ぶこととなる。薩摩が二重契約を結んだことは、薩摩にとってはどちらの局面になっても対応できることになるという解釈も成り立つが、その後の時局の推移を考えると、薩土討幕の密約が本筋であって、大政奉還のための薩土盟約はその時局を有利に進める為の策略として締結されたものと解釈可能である。
9月7日、久光の三男・島津珍彦(うずひこ)が兵約1,000名を率いて大坂に着いた。9月9日、後藤が来訪して坂本龍馬案にもとづく大政奉還建白書を提出するので、挙兵を延期するように求めたが、西郷は拒否した(後日了承した)。土佐藩(前藩主・山内容堂)から提出された建白書を見た将軍・徳川慶喜は、10月14日に大政奉還の上奏を朝廷に提出させた。ところが、同じ14日に、討幕と会津・桑名誅伐の密勅が下り、西郷・小松・大久保・品川らはその請書を出していた(この請書には西郷吉之助武雄と署名している[28])。15日、朝廷から大政奉還を勅許する旨の御沙汰書が出された。
密勅を持ち帰った西郷は、桂久武らの協力で藩論をまとめ、11月13日、藩主・島津茂久を奉じ、兵約3,000名を率いて鹿児島を発した。途中で長州と出兵時期を調整し、三田尻を発して、20日に大坂、23日に京都に着いた。長州兵約700名も29日に摂津打出浜に上陸して、西宮に進出した。またこの頃、芸州藩も出兵を決めた。諸藩と出兵交渉をしながら、西郷は、11月下旬頃から有志に王政復古の大号令発布のための工作を始めさせた。12月9日、薩摩・芸州・尾張・越前に宮中警護のための出兵命令が出され、会津・桑名兵とこれら4藩兵が宮中警護を交替すると、王政復古の大号令が発布された。
慶応3年(1867年)12月、武力討幕論を主張し、大政奉還論に真っ向から反対して失脚した乾退助を残して土佐藩兵が上洛。12月28日、土佐藩・山田平左衛門、吉松速之助らが伏見の警固につくと、西郷は土佐藩士・谷干城へ薩長芸の三藩には既に討幕の勅命が下ったことを示し、薩土密約に基づき、乾退助を大将として国元の土佐藩兵を上洛させ参戦することを促した。谷は大仏智積院の土州本陣に戻って、執政・山内隼人(深尾茂延、深尾成質の弟)に報告。慶応4年1月1日(1868年1月25日)、谷は下横目・森脇唯一郎を伴って京を出立、(1月3日、鳥羽伏見で戦闘が始まり、1月4日、山田隊、吉松隊、山地元治、北村重頼、二川元助らは藩命を待たず、薩土密約を履行して参戦)、1月6日、谷が土佐に到着。1月9日、乾退助の失脚が解かれ、1月13日、深尾成質を総督、乾退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣、戊辰戦争に参戦した[29]。
慶応4年1月3日(1868年1月27日)、大坂の旧幕軍が上京を開始し、幕府の先鋒隊と薩長の守備隊が衝突し、鳥羽・伏見の戦いが始まった(戊辰戦争開始)。西郷はこの3日には伏見の戦線、5日には八幡の戦線を視察し、戦況が有利になりつつあるのを確認した。6日、徳川慶喜は松平容保・松平定敬以下、老中・大目付・外国奉行ら少数を伴い、大坂城を脱出して、軍艦「開陽丸」に搭乗して江戸へ退去した。新政府は7日に慶喜追討令を出し、9日に有栖川宮熾仁親王を東征大総督(征討大総督)に任じ、東海・東山・北陸三道の軍を指揮させ、東国経略に乗り出した。
西郷は2月12日に東海道先鋒軍の薩摩諸隊差引(司令官)、14日に東征大総督府下参謀(参謀は公家が任命され、下参謀が実質上の参謀)に任じられると、独断で先鋒軍(薩軍一番小隊隊長・中村半次郎、二番小隊隊長・村田新八、三番小隊隊長・篠原国幹らが中心)を率いて先発し、2月28日には東海道の要衝箱根を占領した。占領後、三島を本陣としたのち、静岡に引き返した。3月9日、静岡で徳川慶喜の使者・山岡鉄舟と会見し、徳川処分案7ヶ条を示した。その後、大総督府からの3月15日江戸総攻撃の命令を受け取ると、静岡を発し、11日に江戸に着き、池上本門寺の本陣に入った。
3月13日、14日、勝海舟と会談し、江戸城明け渡しについての交渉をした。当時、薩摩藩の後ろ盾となっていたイギリスは日本との貿易に支障が出ることを恐れて江戸総攻撃に反対していたため、「江戸城明け渡し」は新政府の既定方針だった。橋本屋での2回目の会談で海舟から徳川処分案を預かると、総攻撃中止を東海道軍・東山道軍に伝えるように命令し、自らは江戸を発して静岡に赴き、12日、大総督・有栖川宮に謁見して勝案を示し、さらに静岡を発して京都に赴き、20日、朝議にかけて了承を得た[30]。江戸へ帰った西郷は4月4日、勅使・橋本実梁らと江戸城に乗り込み、田安慶頼に勅書を伝え、4月11日に江戸城明け渡し(無血開城)が行なわれた。
江戸幕府を滅亡させた西郷は、仙台藩(伊達氏)を盟主として樹立された奥羽越列藩同盟との「東北戦争」に臨んだ。5月上旬、上野の彰義隊の打破と東山軍の白河城攻防戦の救援のどちらを優先するかに悩み、江戸守備を他藩にまかせて、配下の薩摩兵を率いて白河応援に赴こうとしたが、大村益次郎の反対にあい、上野攻撃を優先することにした。5月15日、上野戦争が始まり、正面の黒門口攻撃を指揮し、これを破った。5月末、江戸を出帆。京都で戦況を報告し、6月9日に藩主・島津忠義に随って京都を発し、14日に鹿児島に帰着した。この頃から健康を害し、日当山温泉で湯治した[28]。
北越戦争に赴いた北陸道軍の戦況が思わしくないため西郷の出馬が要請され、7月23日に薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官)を命ぜられた。その後8月2日に鹿児島を出帆し、10日に越後柏崎に到着した。来て間もない14日、五十嵐川の戦いで負傷した二弟の吉二郎の訃報を聞いた。藩の差引の立場から北陸道本営のある新発田には赴かなかったが、総督府下参謀の黒田清隆・山縣有朋らは西郷のもとをしばしば訪れた。新政府軍に対して連戦連勝を誇った庄内藩も、仙台藩、会津藩が降伏すると9月27日に降伏し、ここに「東北戦争」は新政府の勝利で幕を閉じた。このとき、西郷は黒田に指示して、庄内藩に寛大な処分をさせた。この後、庄内を発し、東京・京都・大坂を経由して、11月初めに鹿児島に帰り、日当山温泉で湯治した。11月には大村、西郷、板垣等に行賞が施された[31]。
明治2年2月25日(1869年4月6日)、藩主・島津忠義が自ら日当山温泉まで来て要請したので、26日、鹿児島へ帰り、参政・一代寄合となった。以来、藩政の改革[注釈 23] や兵制の整備(常備隊の設置)を精力的に行い、戊辰参戦の功があった下級武士の不満解消につとめた。文久2年(1862年)に沖永良部島遠島・知行没収になって以来、無高であった(役米料だけが与えられていた)が、3月、許されて再び高持ちになった。
5月1日、箱館戦争の応援に総差引として藩兵を率いて鹿児島を出帆した。途中、東京で出張許可を受け、5月25日、箱館に着いたが、18日に箱館・五稜郭が開城し、戦争はすでに終わっていた(戊辰戦争の終了)。帰路、東京に寄った際、6月2日の王政復古の功により、賞典禄永世2,000石を下賜された。このときに残留の命を受けたが、断って、鹿児島へ帰った。7月、鹿児島郡武村(現在の鹿児島市武二丁目の西郷公園)に屋敷地を購入した。9月26日、正三位に叙せられた。12月に藩主名で位階返上の案文を書き、このときに隆盛という名を初めて用いた[28]。明治3年1月18日(1870年2月18日)に参政を辞め、相談役になり、7月3日に相談役を辞め、執務役となっていたが、太政官から鹿児島藩大参事に任命された(辞令交付は8月)。
明治3年2月13日(1870年3月14日)、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒動の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事・毛利元徳に謁見したのちに鹿児島へ帰った。同年7月27日、鹿児島藩士で集議院徴士の横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して[注釈 24]、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した[32]。12月、危機感を抱いた政府から勅使・岩倉具視、副使・大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。
明治4年1月3日(1871年2月21日)、西郷と大久保は池上を伴い「政府改革案」を持って上京するため鹿児島を出帆した。8日、西郷・大久保らは木戸を訪問して会談した。16日、西郷・大久保・木戸・池上らは三田尻を出航して土佐に向かった。17日、西郷一行は土佐に到着し、藩知事・山内豊範、大参事・板垣退助と会談した。22日、西郷・大久保・木戸・板垣・池上らは神戸に着き、大坂で山縣有朋と会談し、一同そろって大坂を出航し東京へ向かった。東京に着いた一行は2月8日に会談し、御親兵の創設を決めた。この後、池上を伴って鹿児島へ帰る途中、横浜で東郷平八郎に会い、勉強するように励ました[33]。
2月13日に鹿児島藩・山口藩・高知藩の兵を徴し、御親兵に編成する旨の命令が出されたので、西郷は忠義を奉じ、常備隊4大隊約5,000名を率いて上京し、4月21日に東京市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した。この御親兵以外にも東山道鎮台(石巻)と西海道鎮台(小倉)を設置し、これらの武力を背景に、6月25日から内閣人員の入れ替えを始めた。このときに西郷は再び正三位に叙せられた。7月5日、制度取調会の議長となり、6日に委員の決定権委任の勅許を得た。これより新官制・内閣人事・廃藩置県等を審議し、大久保・木戸らと公私にわたって議論し、朝議を経て、14日、明治天皇が在京の藩知事(旧藩主)を集め、廃藩置県の詔書を出した。また、この間に新官制の決定や内閣人事も順次行い、7月29日頃には以下のような顔ぶれになった[34](ただし、外務卿岩倉の右大臣兼任だけは10月中旬にずれ込んだ)。
この経緯については、各藩主に御親兵として兵力を供出させ、手足をもいだ状態で、廃藩置県をいきなり断行するなど言わば騙し討ちに近い形であった。
明治4年11月12日(1872年1月1日)、特命全権大使・岩倉具視、副使・木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ら外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した(随員中に宮内大丞・村田新八もいた)。留守政府の首班は太政大臣三条実美であり、三条は政治的手腕の高い参議大隈重信を頼りとしていた[35]。大隈はこの時期を回想して、西郷は政治方針については任せきりで、無条件に承認していたとしている[36]。さらに西郷は病気がちとなり、青山の別荘に籠もりきりで、各参議はそれぞれ勝手な行動を行う状況であった[37]。
使節団と留守政府は重大な改革を行わないと合意をしていたが、留守政府は明治4年(1871年)からの官制・軍制の改革および警察制度の整備を続け、同5年(1872年)2月には兵部省を廃止して陸軍省・海軍省を置き、3月には御親兵を廃止して近衛兵を置いた。しかしこれは財政に大きな負担を強いるものであり、大蔵省を掌握していた井上馨と、改革を進めようとする他の省庁の対立も激化していった[35]。5月から7月にかけては天皇の関西・中国・西国巡幸に随行した。鹿児島行幸から帰る途中、近衛兵の紛議を知り、急ぎ帰京して解決をはかり、7月29日、陸軍元帥兼参議に任命された。このときに山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督・山縣有朋が辞任したため、薩長の均衡をとるために三弟・西郷従道を近衛副都督から解任した。しかし明治6年(1873年)4月29日、山縣は陸軍卿代理として復帰し、6月8日には陸軍卿となっている。これは西郷・大隈・井上の尽力によるものであった[38]。
明治6年1月、大蔵省と各省庁の対立は収拾不可能と判断した三条は、木戸と大久保の帰国を求めた[39]。4月19日、大隈の立案で正院が組織変更となり、司法卿江藤新平・左院議長後藤象二郎・文部卿大木喬任が参議となった[39]。これをうけて井上は大蔵省を辞任し、木戸派が中央政界に与える影響力は著しく減退した[40]。5月に徴兵令が実施されたのに伴い、元帥が廃止されたので、西郷は陸軍大将兼参議となった[41]。大久保は5月29日に帰国したが、留守政府に不満を持っていたため意図的に復帰せず、岩倉の帰国まで様子見をするため国内の視察旅行に出かけている[42]。
この頃西郷は中性脂肪やコレステロールの増加による脂質異常症が悪化し、明治天皇が派遣した医師テオドール・ホフマンの指示で下剤を服用していた[43]。しかしこれは西郷の心身を衰弱させ、外出や閣議出席も控えるような状態となり、西郷自身も不治の病ではないかと考えていた[43]。
対朝鮮(当時は李氏朝鮮)問題は、明治元年(1868年)に李朝が維新政府の国書の受け取りを拒絶したことが発端だが、この国書受け取りと朝鮮との修好条約締結問題は留守内閣時にも一向に進展していなかった。そこで、進展しない原因とその対策を知る必要があって、西郷と板垣退助・副島種臣らは、調査のために、明治5年(1872年)8月15日に池上四郎・武市正幹・彭城中平を清国・ロシア・朝鮮探偵として満洲に派遣し[44]、27日に北村重頼・河村洋与・別府晋介(景長)を花房外務大丞随員(実際は変装しての探偵)として釜山に派遣した[45]。
明治6年(1873年)の対朝鮮問題をめぐる政府首脳の軋轢は、6月に外務少記・森山茂が釜山から帰国後、李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告し、それを外務少輔・上野景範が内閣に議案として提出したことに始まる。この議案は6月12日から閣議により審議された。
参議板垣退助は居留民保護を理由に派兵し、その上で使節を派遣することを主張した[46]。西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した[47]。西郷の意見には後藤象二郎、江藤新平らが賛成した。太政大臣三条実美は丸腰では危険であり、兵を同行するべきとしたが、西郷は拒絶した[47]。ただし決定は清に出張中の副島の帰国を待ってから行うこととなった[47]。
7月末より西郷は三条に遣使を強く要求したが、三条は西郷が必ず殺害されると見ていたためこれを許そうとはしなかった[48]。一方西郷は8月17日の板垣宛書簡で「朝鮮が使者を暴殺するに違いないから、そうなれば天下の人は朝鮮を『討つべきの罪』を知ることができ、いよいよ戦いに持ち込むことができる」と述べたように、自らが殺害されることも織り込み済みであった[49][46][注釈 25]。一方で、高島鞆之助が「西郷を殺してまで朝鮮のカタをつけなければならぬことはない」と回想したように朝鮮問題がそこまで大きな問題と考えられていたわけではなく、朝鮮と戦争になれば宗主国の清との戦争になる危険もあったが、西郷はこれに対して何ら発言を残していない[50]。
8月16日、西郷は三条の元を訪れ、岩倉の帰国前に遣使だけは承認するべきと強く要請した。このため翌8月17日の閣議で西郷の遣使は決定されたが、詳細については決まっていなかった[48]。三条は箱根で静養中の明治天皇の元を訪れ、決定を奏上したが、「岩倉の帰国を待ってから熟議するべき」という回答が下された。明治天皇は当時20歳そこそこであり、内藤一成は三条の意見をなぞったものに過ぎないと見ている[51]。西郷自身は17日の閣議には出席していないが、遣使決定を「生涯の愉快だ」と喜んでいる[43]
9月13日、岩倉が帰国し、三条とともに、木戸・大久保の復帰に向けて運動を開始した[52]。岩倉・木戸・大久保はいずれも内治優先の考えをもっており[53][54][55]、また大物である西郷を失うことになる遣使には反対する声は西郷に近い薩摩派の中にすらあった[56]。大久保は維新前からの盟友である西郷と対決する意志を固め、子供たちに当てた遺書を残している[57]。一方で西郷は10月11日、決定が変更されるならば自殺すると、半ば脅迫的な書簡を三条宛に提出している[58]。10月12日、大久保と征韓派の副島種臣が参議に復帰した[59][60]。
10月14日、岩倉は閣議の席で遣使の延期を主張した。板垣・江藤・後藤・副島らは遣使の延期については同意していたものの、西郷は即時派遣を主張した[61]。このため15日の閣議では、板垣・江藤・後藤・副島らは西郷を支持し、即時遣使を要求した[62]決定は太政大臣の三条と右大臣の岩倉に一任されたが、三条はここで西郷の派遣自体は認める決定を行った[63]。しかし期日等詳細は依然として定まっておらず、単に8月17日の決定を再確認したもののにとどまった[64]。しかし17日に岩倉・大久保・木戸が辞表を提出したことで閣議は行われなかった。三条は大木喬任とともに岩倉邸を訪れて10月18日の閣議に出席するように説得したが、岩倉は受け入れず両者は決裂した[65]。夜になって三条は自邸に西郷を呼び、決定の変更を示唆したが、西郷はこれに反発していた[66]。
10月18日、三条は病に倒れた[66]。10月19日、副島・江藤・後藤・大木喬任の四人で行われた閣議は岩倉を太政大臣摂行(代理)とすることを徳大寺実則に要望し、明治天皇に奏上された[67]。10月20日、10月22日に岩倉が太政大臣摂行に就任し、西郷・板垣・副島・江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、明日にも遣使を発令するべきであると主張したが、岩倉は自らが太政大臣摂行となっているから、三条の意見ではなく自分の意見を奏上するとして引かなかった[68]。四参議は「致シ方ナシ」として退去した[69][70]。
岩倉は10月23日に参内し、閣議による決定その経緯、さらに自分の意見を述べた上で、明治天皇の聖断で遣使を決めると奏上した[69]。岩倉と大久保らは宮中工作を行っており、西郷ら征韓派が参内して意見を述べることはできなかった[71][72]。この日、西郷は参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途についた[73][74]。岩倉は西郷をなんとしても慰留したいと考えていたが、西郷の性格をよく知る大久保は無理と判断していた[71]。10月24日、岩倉による派遣延期の意見が通り、西郷の辞表は受理され、参議と近衛都督を辞職した[75][76]。ただし西郷の陸軍大将については却下され、大久保・木戸らの辞表も却下されている[77]。24日には板垣・江藤・後藤・副島らが辞表を提出し、25日に受理された[77]。この一連の辞職に同調して、西郷や板垣に近い林有造・桐野利秋・篠原国幹・淵辺群平・別府晋介・河野主一郎・辺見十郎太をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した。この後も辞職が続き、遅れて帰国した村田新八・池上四郎らもまた辞任した(明治六年政変)。特に近衛の将兵が大量に離脱したため、事実上解体に追い込まれた[78]。
このとき、西郷の推挙で兵部大輔・大村益次郎の後任に補されながら、能力不足と自覚して、先に下野していた前原一誠は「宜シク西郷ノ職ヲ復シテ薩長調和ノ実ヲ計ルベシ、然ラザレバ、賢ヲ失フノ議起コラント」[79] という内容の書簡を太政大臣・三条実美に送っている。また大久保に協力して征韓派を抑えた黒田清隆は、大久保にこの結果を慚愧する書簡を送っている[80]。大久保は私情においては耐え難いほどであるとしながらも、国家将来のために悪評をかぶるつもりで実行したと返答している[76]。
西郷が遣使を強硬に主張した理由について、西郷自身は「内乱を冀う心を外に移して、国を起こすの遠略」と述べている[81]。参議大隈重信は、西郷が政治的に手詰まりになり、旧主久光からも叱責されたことで失望落胆し、征韓論の盛り上がりのなか朝鮮宮廷で殺害されることを最後の花道としたい自殺願望ではないかと推測している[81]。
下野した西郷は、明治6年(1873年)11月10日、鹿児島に帰着し、以来、大半を武村の自宅で過ごした。猟に行き、山川の鰻温泉で休養していた明治7年(1874年)3月1日、佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪し、翌日、指宿まで見送った(江藤は土佐で捕まった)。
鰻温泉滞在中の生活と江藤が来訪したときの様子を、九十八歳まで存命した温泉宿の女将福村ハツが昭和になってから毎日新聞社の記者の取材に答えている。
西郷隆盛は明治七年二月十五日の夕方から三十日間滞在した。従者二人を伴い、一人は弥太郎と呼んで身の回りの世話をし、他の一人は愛犬の世話係だった。犬は十五六匹連れてきていて、家の周囲に大きなすり鉢を犬の数だけ並べ、兎の肉を食わせる。狩にはそのうちから三匹くらいづつ交代につれて行き、(夫の)市左衛門がその道案内を勤めた。西郷さんは毎朝七時ごろに起床。温泉に浸ってから朝の食事。雨の降らない限り必ず猟に出かける。開聞嶽が大好きで、大抵はその山麓方面に犬をつれて出かけ、夕方に帰ってくる。獲物はほとんど兎である。『今日は二つ獲りもした』『今日は三つ獲りもした』と西郷さんはいつも笑顔で、帰ると早々獲物の数を報告した。そして、その兎を従者が料理して犬に与える。晩酌には焼酎を少しづつ飲んだ。一般には西郷さんは禁酒家のように伝えられているが、必ずしもそうではなかった。少々ながら晩酌は嗜んだ。夜になるといろいろの人が訪ねて来た。訪問客との対談の際には宿の者はいつも遠慮してその席をはずした。居間は六畳の部屋だった。客が帰ると、大抵十一時ごろ寝についた。これが西郷さんの鰻温泉における一ヶ月間の日課だったが、雨の日には、一人壁にもたれて静座瞑想しているか、または読書にふけっていた。愛読の書は、神皇正統記、十八史略、唐詩選だった。ある夜のこと、正確にいえば三月一日(旧暦正月十三日)の午後七時ごろ、色の浅黒い、目の大きなヨソモンが訪ねて来た。みすぼらしい袷(あわせ)一枚着て、袴もつけず、古びた下駄をはいた、やや小柄の男だった。いつもの訪問客だと思っていた。男は一時間ばかり西郷さんと話しをして帰って行った。男はその夜、隣家の福村庄左衛門方に一泊した。その翌日朝八時ごろ、再びその男が訪ねて来た。西郷さんはその時、表の間にいた。その男は昨夜と同じみすぼらしい袷一枚着ていたが、縁先から西郷さんに何か話していた。西郷さんは低い声でそれに応答していたが、その男の声はだんだん高くなっていった。何やら気がかりになって、そっと襖の隙から覗いて見た。男の声はますます高くなって最初西郷さんとの距離が大分隔っていたのに、いつしか男はヂリヂリと近寄って、ほとんど膝と膝とが摺り合うくらいになっていた。話の内容は全然わからないが、随分の激論らしい。『今一度出やったもし』というその男の言葉が何度も聞かれた。ハツさんは、はらはらした気持ちで、しかし再び自分の座に戻った。暫くの時間が経過した。でも気になってならないので、何事も手につかず、そのほうばかり注意していた。突然ぞっとする身震いがするのと同時に『ユーテンユーテン、キキレガゴザラント、サツマヲトコハ、アイテガ、チゲモンド!』と怒号する西郷さんの大きな声が鳴り響いた。ハツさんはわれ知らず立上りながら、いつの間にか襖をひき開けて、部屋の中へ踊りこんでいた。男はやにわに縁先から飛ぶように走り去った。その時、西郷さんは、部屋の中で端坐しながら、その両目はゴム鞠の如く大きく剥き出していた(とハツさんは両手の指を大きく輪にして、形を作ってみせた)。明治太平記には『いつしかまたもとの如く静かになり、笑い声さえ漏れたりという』とあるが、わが貴重なる「生きている歴史」ハツさんの言によれば、少なくともその場は、決してもとの如く静かにはならず、江藤新平は、脱兎の如くその場を走り去ったのである。ハツさんはもとよりその男が江藤新平であるとは知る由もなく、後日になってはじめて真相を知ったということである。ユーテンユーテン云々の鹿児島言葉を、念の為に翻訳すれば、『いうてもいうても聞き入れがござらぬと、薩摩男は承知しませぬぞ!』という意味になる。ハツさんは大きな声で幾度もこのユーテンユーテンを私に聞かせてくれた。新平がハツさんの家を脱兎の如く飛び去った後、鰻部落の川道で、再び彼が西郷隆盛に飛び掛ったので、隆盛がその場に彼の腕を捉えて何か話していたのを村人が見たそうだが、そのまま二人ともいづれへか姿が見えなくなったという — 『生きている歴史』
これ以前の2月に閣議で台湾征討が決定した。この征討には木戸が反対して参議を辞めたが、西郷も反対していた。しかし、4月、台湾征討軍の都督となった次弟・西郷従道の要請を入れ、やむなく鹿児島から徴募して、兵約800名を長崎に送った[82]。
西郷の下野に同調した軍人・警吏が相次いで帰県した明治6年末以来、鹿児島県下は無職の血気多き壮年者がのさばり、それに影響された若者に溢れる状態になった[注釈 26]。そこで、これを指導し、統御しなければ、壮年・若者の方向を誤るとの考えから、有志者が西郷にはかり、県令・大山綱良の協力を得て、明治7年6月頃に旧厩跡に私学校がつくられた[83]。私学校は篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、県下の各郷ごとに分校が設けられた。この他に、明治8年(1875年)4月には西郷と大山県令との交渉で確保した荒蕪地に、桐野利秋が指導し、永山休二・平野正介らが監督する吉野開墾社(旧陸軍教導団生徒を収容)もつくられた[84]。
明治8年から明治9年(1876年)にかけて[5]の西郷は自宅でくつろぐか、遊猟と温泉休養に行っていることが多い[85]。西郷の影響下にある私学校が整備されて、私学校党が県下最大の勢力となると、大山綱良もこの力を借りることなしには県政が潤滑に運営できなくなり、私学校党人士を県官や警吏に積極的に採用し、明治8年11月と翌年4月には西郷に依頼して区長や副区長を推薦して貰った。このようにして別府晋介、辺見十郎太、河野主一郎、小倉壮九郎(東郷平八郎の兄)らが区長になり、私学校党が県政を牛耳るようになると、政府は以前にもまして、鹿児島県は私学校党の支配下に半ば独立状態にあると見なすようになった[6]。
明治9年(1876年)3月に廃刀令が出され、8月に金禄公債証書条例が制定されると、士族とその子弟で構成される私学校党の多くは、徴兵令で代々の武人の身分を奪われたことに続き、帯刀と知行地という士族最後の特権をも取り上げられたと憤慨した。10月24日の熊本県士族の神風連の乱、27日の福岡県士族の秋月の乱、28日の萩の乱もこれらの特権の剥奪に怒っておきたものであった。11月、西郷は日当山温泉でこれら決起の報を聞き、書簡を桂久武に出した。
この「起つと決する」が国内での決起を意味するのか、西郷がこの時期に一番気にかけていた対ロシア問題での決起を意味していたのかは判然としない。
一方、政府は、鹿児島県士族の反乱がおきるのではと、年末から1月にかけて警戒し処置にあたらせた。
これに対し、私学校党は、すでに陸海軍省設置の際に武器や火薬・弾薬の所管が陸海軍に移っていて、陸海軍がそれを運び出す権利を持っていたにもかかわらず、本来、これらは旧藩士の醵出金で購入したり、つくったりしたものであるから、鹿児島県士族がいざというときに使用するものであるという意識を強く持っていた[87]。 また、多数の巡査が一斉に帰郷していることは不審であり、その目的を知る必要があると考えていた。なお、まだこの時点では、川路利良が中原尚雄に、瓦解・離間ができないときは西郷を「シサツ」せよ、と命じてあったことは知られていなかった[注釈 28]。
明治10年(1877年)1月20日頃、西郷は、この時期に私学校生徒が火薬庫を襲うなどとは夢にも思わず、大隅半島の小根占で狩猟をしていた[88]。一方、政府は鹿児島県士族の反乱を間近しと見て、1月28日に山縣有朋が熊本鎮台に電報で警戒命令を出した。29日、従来は危険なために公示したうえで標識を付けて白昼運び出していたのに、陸軍の草牟田火薬庫の火薬・弾薬が夜中に公示も標識もなしに運び出され、赤龍丸に移された。これに触発されて私学校生徒が、同火薬庫を襲った[7]。
2月1日、小根占にいた西郷のもとに四弟・小兵衛が私学校幹部らの使者として来て、谷口登太が中原尚雄から西郷刺殺のために帰県したと聞き込んだこと、私学校生徒による火薬庫襲撃がおきたこと[7]などを話した。これを聞いて西郷が鹿児島へ帰ると、身辺警護に駆けつける人数が時とともに増え続けた。3日に中原が捕らえられ、4日に拷問によって自供すると[注釈 30]、6日に私学校本校で大評議が開かれ、政府問罪のために大軍を率いて上京することに決したので、翌7日に県令・大山綱良に上京の決意を告げた。このようにして騒然となっていた9日、川村純義が高雄丸で西郷に面会に来たので、会おうとしたが、会えなかった。同日、巡査たちとは別に、大久保が派遣した野村綱が県庁に自首した[注釈 31]。西郷は、その自白内容から、大久保も刺殺に同意していると考えるようになったらしい。
募兵、新兵教練が終わった13日、大隊編制が行われ、一番大隊指揮長に篠原国幹、二番大隊指揮長に村田新八、三番大隊指揮長に永山弥一郎、四番大隊指揮長に桐野利秋、五番大隊指揮長に池上四郎が選任され、桐野が総司令を兼ねることになった。淵辺群平は本営附護衛隊長となり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。別府は加治木で別に2大隊を組織してその指揮長になった[注釈 32]。
翌14日、私学校本校横の練兵場[注釈 33]で西郷による正規大隊の閲兵式が行われた。15日、薩軍の一番大隊が鹿児島から先発し(西南戦争開始)、17日、西郷も鹿児島を出発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。
2月20日、別府晋介の大隊が川尻に到着。熊本鎮台偵察隊と衝突し[91]、これを追って熊本へ進出した。21日、相次いで到着した薩軍の大隊は順次、熊本鎮台を包囲して戦った。22日、早朝から熊本城を総攻撃した[92]。昼過ぎ、西郷が世継宮に到着した。政府軍一部の植木進出を聞き、午後3時に村田三介・伊東直二の小隊が植木に派遣され、夕刻、伊東隊の岩切正九郎が乃木希典率いる第14連隊の軍旗を分捕った[93]。一方、総攻撃した熊本城は堅城で、この日の状況から簡単には陥ちないと見なされた。夜、本荘に本営を移し、ここでの軍議でもめているうちに、政府軍の正規旅団は本格的に南下し始めた。この軍議では一旦は篠原らの全軍攻城策に決したが、のちの再軍議で熊本城を長囲し、一部は小倉を電撃すべしと決し、翌23日に池上四郎が数箇小隊を率いて出発したが、南下してきた政府軍と田原・高瀬・植木などで衝突し、電撃作戦は失敗した[94]。
これより、南下政府軍、また上陸してくると予想される政府軍、熊本鎮台に対処するために、熊本城攻囲を池上にまかせ、永山弥一郎に海岸線を抑えさせ、篠原国幹(六箇小隊)は田原に、村田新八・別府晋介(五箇小隊)は木留に、桐野利秋(三箇小隊)は山鹿に分かれ、政府軍を挟撃して高瀬を占領することにした。しかし、いずれも勝敗があり、戦線が膠着した。
3月1日から始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次など)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、篠原国幹ら勇猛の士が次々と戦死した。このような犠牲を払ってまで守っていた田原坂であったが、20日に、兵の交替の隙を衝かれ、政府軍に奪われた[95]。この戦いに敗れた原因は多々あるが、主なものでは、砲・小銃が旧式で、しかも不足、火薬・弾丸・砲弾の圧倒的な不足、食料などの輜重の不足があげられる[96]。これらは西南戦争を通じて薩軍が持っていた弱点でもある。こうして田原方面から引き上げ、その後部線を保守している間に、上陸した政府背面軍に敗れた永山弥一郎が御船で自焚・自刃し、4月8日には池上四郎が安政橋口の戦いで敗れて、政府背面軍と鎮台の連絡を許すと、薩軍は腹背に敵を受ける形になった[97]。そこで、この窮地を脱するために、14日、熊本城の包囲を解いて木山に退却した。この間、本営は本荘から3月16日に二本木、4月13日に木山、4月21日に矢部浜町と移され、西郷もほぼそれとともに移動したが、戦闘を直接に指揮しているわけでもないので、薩摩・大隅・日向の三州に蟠踞することを決めた4月15日の軍議に出席していたこと以外、目立った動向の記録はない。
薩軍は浜町で大隊を中隊に編制し直し、隊名を一新したのち、椎葉越えして、新たな根拠地と定めた人吉へ移動した[98]。4月27日、一日遅れで桐野利秋が江代に着くと、翌28日に軍議が開かれ、各隊の部署を定め、日を追って順次、各地に配備した。これ以来、人吉に本営を設け、ここを中心に政府軍と対峙していたが[99]、衆寡敵せず、徐々に政府軍に押され、人吉も危なくなった[100]。そこで本営を宮崎に移すことにした。西郷は池上四郎に護衛され、5月31日、桐野利秋が新たな根拠地としていた軍務所(もと宮崎支庁舎)に着いた。ここが新たな本営となった[101]。この軍務所では、桐野の指示で、薩軍の財政を立て直すための大量の軍票(西郷札)がつくられた[102][103][104]。
人吉に残った村田新八は、6月17日、小林に拠り、振武隊、破竹隊、行進隊、佐土原隊の約1,000名を指揮し、1ヶ月近く政府軍と川内川を挟んで小戦を繰り返した。7月10日、政府軍が加久藤・飯野に全面攻撃を加えてきたので、支えようとしたが支えきれず、高原麓・野尻方面へ退却した。小林も11日に政府軍の手に落ちた。17日と21の両日、堀与八郎が延岡方面にいた薩兵約1,000名を率いて高原麓を奪い返すために政府軍と激戦をしたが、これも勝てず、庄内、谷頭へ退却した。24日、村田は都城で政府軍六箇旅団と激戦をしたが、兵力の差は如何ともしがたく、これも大敗して、宮崎へ退いた(都城の戦い)。
31日、桐野・村田らは諸軍を指揮して宮崎で戦ったが、再び敗れ、薩軍は広瀬・佐土原へ退いた(宮崎の戦い)。8月1日、薩軍が佐土原で敗れたので、政府軍は宮崎を占領した。宮崎から退却した西郷は、2日、延岡大貫村に着き、ここに9日まで滞在した。2日に高鍋が陥落し、3日から美々津の戦いが始まった。このとき、桐野利秋は平岩、村田新八は富高新町、池上四郎は延岡にいて諸軍を指揮したが、4日、5日ともに敗れた。6日、西郷は教書を出し、薩軍を勉励した。7日、池上の指示で火薬製作所と病院を熊田に移し、ここを本営とした。西郷は10日から本小路、無鹿、長井村笹首と移動し、14日に長井村可愛に到着すると、以後、ここに滞在した[105]。その間の12日、参軍・山縣有朋は政府軍の延岡攻撃を部署した。同日、桐野・村田・池上は長井村から来て延岡進撃を部署し、本道で指揮したが、別働第二旅団・第三旅団・第四旅団・新撰旅団・第一旅団に敗れたので、延岡を総退却し、和田峠に依った。
8月15日、和田峠を中心に布陣し、政府軍に対して西南戦争最後の大戦を挑んだ。早朝、西郷が初めて陣頭に立ち、自ら桐野、村田、池上、別府ら諸将を随えて和田峠頂上で指揮したが、大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退いた。これを追って政府軍は長井包囲網をつくった。16日、西郷は解軍の令を出し、書類・陸軍大将の軍服を焼いた[106]。この後、負傷者や諸隊の降伏が相次いだ。残兵とともに、三田井まで脱出してから今後の方針を定めると決し、17日夜10時、長井村を発し、可愛岳(えのたけ)に登り、包囲網からの突破を試みた。突囲軍は精鋭300-500名で、前軍は河野主一郎と辺見十郎太、中軍は桐野と村田、後軍は中島健彦と貴島清が率い、池上と別府が約60名を率いて西郷隆盛を護衛した[105][注釈 34]。突囲が成功した後、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破すること14日、鹿児島へ帰った。
9月1日、突囲した薩軍は鹿児島に入り、城山を占拠した。一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が3日に城下の大半を制し、6日には城山包囲態勢を完成させた。19日、山野田一輔・河野主一郎が西郷の救命のためであることを隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって参軍・川村純義のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は城山決死の檄を出した。23日、西郷は、山野田が持ち帰った川村からの返事を聞き、参軍・山縣有朋からの自決を勧める書簡を読んだが、返事を出さなかった。また、敵である陸軍の中にも西郷を慕う者は多く、城山総攻撃の前夜には、陸軍軍楽隊が城山に向けて葬送曲を演奏し、市民も聞き入ったという。現代になっても、自衛隊の吹奏楽団が、同じ日時に葬送曲を同じ場所で演奏している[107]。
9月24日、午前4時、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷と桐野利秋、桂久武、村田新八、池上四郎、別府晋介、辺見十郎太ら将士40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。まず国分寿介[注釈 35]が剣に伏して自刃した。桂久武が被弾して斃れる(たおれる)と、弾を受けて落命する者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼しながら、別府に首を打たせる形で自害した[注釈 36]。介錯を命じられた別府は、涙ながらに「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねたという。享年51(満49歳没)。
西郷の首はとられるのを恐れ、折田正助邸門前に埋められた[注釈 37]。西郷の死を見届けると、残余の将士は岩崎口に進撃を続け、私学校の一角にあった塁に籠もって戦ったのち、自刃、刺し違え、あるいは戦死した。
午前9時、城山の戦いが終わると大雨が降った。雨後、浄光明寺跡で山縣有朋と旅団長ら立ち会いのもとで検屍が行われた。西郷の遺体は毛布に包まれたのち、木櫃に入れられ、浄光明寺跡に埋葬された(現在の南洲神社の鳥居附近)。このときは仮埋葬であったために墓石ではなく木標が建てられた。木標の姓名は県令・岩村通俊が記した[108][要文献特定詳細情報]。明治12年(1879年)、浄光明寺跡の仮埋葬墓から南洲墓地のほぼ現在の位置に改葬された。また、西郷の首も戦闘終了後に発見され、検分ののちに手厚く葬られた[注釈 38][要文献特定詳細情報]。
西郷は挙兵直後の明治10年(1877年)2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され[109]、死後、賊軍の将として遇された。その後、西郷の人柄を愛した明治天皇の意向や黒田清隆らの努力があって明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈された[8]。天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたとされるほど西郷のことを気に入っていたようである。戒名は、南州寺殿威徳隆盛大居士[要出典]。
諱は隆永であったが明治2年8月、明治政府樹立の功で正三位が送られる際、その文書には諱を書く必要があったが西郷は箱館戦争を終えて薩摩に帰る船に乗っていたため、政府の役人が吉井友実に聞くも、吉井はいつもは西郷を吉之助と呼んでいたため思い出せず、頭に浮かんだ隆盛を政府側に伝えて文書が作成された。だがそれは西郷の父、吉兵衛の諱だった[110][要ページ番号]。西郷隆盛として正三位が贈られて以降、その名を使った[110]。
愛称の「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。最敬意を表した呼び方は「南洲翁」である。
身長は五尺九寸八分(約180cm)[113]、体重は二十八貫(約105kg)[112]と伝わっている[114]。遺品の陸軍大将大礼服(鹿児島市維新ふるさと館収蔵)を、巡業に来た東西両横綱が試しに着てみたが、少しだぶつく大形で、特に肩幅が広く、首も太く、カラーも十九半形を用いていたという[要出典]。
大隈重信 「身始末は宜かった。身体は彼の通の大兵肥満で、この節散髪した西ノ海にも譲らぬ。人格は世間で大西郷と呼ぶ程な堂々たる英雄であるが、さればとて着物などには普通に小薩張したものを着、汚れたものなどは着けぬ。勿論綺麗な物を着た訳ぢゃ無いが、といって決して弊縕袍を着ては居らぬ。ただ自己の地位からみれば、御粗末な物だというだけで、おもに木綿物を用いて居った。それをダラシなく着こなして居たよ。まず相撲取りという可きだったろう」[115]
大久保利通ら維新の立役者の写真が多数残っている中、西郷は自分の写真はなく、明治天皇から要望された際も断っている[116][要ページ番号]。現在のところ西郷の写真は確認されていない[117]。理由は西郷が写真嫌いだからとも[116]、顔が知られる事による暗殺を恐れたからとも言われている。
死後に西郷の顔の肖像画は多数描かれているが、全ての肖像画及び銅像の基になったと言われる絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、比較的西郷に顔が似ていたといわれる実弟の西郷従道の顔の上半分、従弟大山巌の顔の下半分を合成して描き[116]、親戚関係者の考証を得て完成させたものである。自身は西郷との面識が一切無かったキヨッソーネだが、上司であった得能良介を通じて多くの薩摩人と知り合っており、得能の娘婿であった西郷従道とも親しくしていたため、西郷を知る人の意見が取り入れられた満足のいく肖像画になっているのではないかと言われている[118]。
西郷菊次郎は「父は写真というものは唯の一度も撮ったことがありません。イヤ外の方と同列で撮ったというものがないのです。さアなぜ撮らなかったか分からない。強いて推測すれば、かかる微功だになき肖像を後世に遺す必要がないという謙遜から来た様にも思われる。嘗て在職中のことですが、畏きあたり(天皇)より写真を撮る様にとの御言葉もあったということです。併しこれもその儘になって終いました。今日家に伝えてありますのは、大分前のことですが、親属のものらが、父の肖像を得たいという希望がありました。やむを得ず私がその案を立てた。ソレは額は誰、眼や鼻は誰という様に、一々兄弟や、近親の顔の一部分宛ツギハギして、どうやら父の俤に似たものが出来た。ところがその時の印刷局長が得能良介でこれまた新属の一人ですが、丁度この印刷局にキヨソネというお雇い教師がありましたので、私の案をば同氏に送って描かせたのが、丈約二尺の洋服半身の鉛筆画です。これが今世の中に在る父の肖像画中、比較的正確のものです。この他にも父の知人の作ったものもあります。上野公園の銅像も、無論充分ではありません。私の案を立てた父の肖像画もこの点に就いては真を写しては居りません。上野公園に立ってある父の銅像の意匠に、なぜあんななりをさせたかということは、私は嘗て相談を受けたこともありませんから分かりませんが、頭から胴までは前にお談しをした私の案でキヨソネ氏の描いた肖像画に基づき、胴から下部は、父の用いた洋服のズボンを土台として組み上げたものだから、眼光を除くの外は先ず難がないものと云ってよろしかろう」と語っている[119][要文献特定詳細情報]。
生前に面識のあった板垣退助は、上野公園に建立された銅像に不満を持ち[120][要文献特定詳細情報]、洋画家の光永眠雷に指示して新たな肖像画を描かせ、二点が作られたが一点は大山厳、田中光顕、明治天皇の天覧を経て、西郷糸子に渡された。もう一点は西郷家から大山を経て宮内省に渡ったが、二点とも現在は行方不明である。しかし、1910年に日韓併合記念として写真版で印刷発行されており、現在岡山県立記録資料館が所蔵している[要出典]。
鹿児島郡武村(鹿児島市武町)の西郷屋敷の隣家に住んでいた肥後直熊[121]は、幼少のころ西郷に可愛がられ、「直坊」と愛称され、膝の上で遊んだという。この絵(直熊筆「西郷隆盛像」)は、昭和2年(1927年)の西郷没後50年祭の契機に、昔の思い出をもとに西郷を描いた。肥後直熊の絵は、真実の西郷に最もよく似ていると評価され、同種のものが石版刷りとなって広く頒布された[要出典]。
本多元介母 「翁の顔は世に行はるる肖像と能く似ているが、鼻が似てない。翁の鼻は立派な鼻ではなく、少し鷲鼻であった」[122]
なお、西郷が明治天皇や坂本龍馬や桂小五郎、勝海舟といった維新頃の人物と集団撮影したと称されている写真(通称・フルベッキ写真)が存在するが、西郷は当時すでに肥満しており、この写真で西郷とされている人物のように痩躯ではなかった。また、その他様々な点からこの写真はフルベッキが佐賀藩の藩校「致遠館」の学生らとともに撮った写真であることが証明されている[要出典]。さらに薩摩藩が薩英戦争の講和修好のために、島津忠義の代理として宮之城島津家当主島津久治と長崎へ派遣し、その折に上野彦馬の写場で映した記念写真「十三人写真」、明治2年に内田九一の写真館『九一堂万寿写真館』にて撮影された、薩摩藩関係者6名の写真「スイカ写真」に西郷が写されているという説が出たが、いずれも別の人物であることが判明した。
その他、明治5年(1872年)6月に明治天皇が造幣局へ行幸の際に撮影された写真に西郷が写されているという説がある。旗を持つ人物が西郷と伝えられており、当時の新聞にも西郷が錦旗を手に天皇を御先導したとの記述がある。記録にも実際に西郷が明治天皇に随行して大阪を訪れたとされる。またこの写真の左下で寝ころぶ洋犬が、犬好きであった西郷が写真中にいる根拠とする説もあり、造幣局側は本物の可能性もあるとした[123]。しかし専門家は写真の人物は小柄すぎる、明治5年時点で参議筆頭として政府の最高官位にあったことから写真の人物のような少年兵と同じ軍服を身につけていた可能性は低いとし[124]、これまでのところ西郷本人とはされていない[125]。
先生の肥大は、始めからじゃ無い。何でも大島で幽閉されて居られてからだとのことじゃ。戦争に行つても、馬は乗りつぶすので、馬には乗られなかった。長い旅行をすると、股摺(またず)れが出来る。少し長道をして帰られて、掾(えん)などに上るときは、パァ々々云つて這(は)つて上られる態が、今でも見える様ぢや。斯んなに肥つて居られるで、着物を着ても、身幅が合わんので、能く無恰好な奴を出すので大笑だった[131]。
西郷は短期間とはいえ、伊藤茂右衛門から陽明学を学んでいる。陽明学は知行合一を理念としているので、知識を世人の役立つようにしようとする点では、この学の影響を受けたかもしれない。しかし、西郷の行動は、その大半が大義名分にもとづく行動であるという面から見れば、その積極的な行動は朱子学から導き出されたものであるとも言え、どのくらい影響を受けたは判然としない。
隆盛は菊池氏が出自であることを知っていたが、菊池氏のどの家から分かれたかわからないので、藩の記録所にある九郎兵衛以下のみを自分の系譜としている。九郎兵衛より前は西郷家の出自とされる増水西郷氏の系譜に繋いでつくった系譜である(香春建一説による)。家紋は抱き菊の葉に菊。
藤原鎌足─不比等─房前─(8代)─道隆─隆家─政則─菊池則隆(肥後国菊池郡)─西郷政隆―隆基―隆季―隆房―基宗―基哉―隆邑―基時―隆任―隆吉=隆政―隆連―隆政―隆圀―武治―隆朝―太郎政隆(肥後熊本菊池郡増水城)―隆従―隆永―武国―政隆―隆盛―隆定―隆武―隆純―九郎兵衛昌隆(島津氏に仕える。無敵斎)=吉兵衛 (養子、平瀬治右衛門三男)─覚左衛門─吉左衛門=龍右衛門隆充(実は覚左衛門弟)─吉兵衛隆盛─吉之助隆永─寅太郎―隆輝=吉之助(寅太郎三男)―吉太郎
東京都台東区の上野恩賜公園、鹿児島県鹿児島市、鹿児島県霧島市溝辺町にそれぞれ銅像が建立されている。上野公園の西郷隆盛像が愛犬を連れているのは、体重の減量のため愛犬と共に散歩をしている様子だと言われている。
墓所は鹿児島県鹿児島市の南洲墓地。また西郷隆盛を祀る南洲神社が、鹿児島県鹿児島市を始め、山形県酒田市、宮崎県都城市、鹿児島県和泊町の沖永良部島にある。
西郷隆盛列伝を参照
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