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永田 熊吉(ながた くまきち、天保6年(1835年)? - 明治33年(1900年)12月25日)は、幕末から明治時代にかけての西郷氏の家人。西郷隆盛に仕えた人物である。
父親の永田熊次郎が西郷家に仕えていたこともあり、鹿児島城下加治屋町に住んでいた。元々は西郷家の下男として働いていたが、西郷が江戸や京都に行ってた時には西郷家全般をとりしきり、食糧が足りない時には家から野菜などを持ってきたり、西郷が沖永良部島に流されていた時には、鹿児島城の御庭方の人足として働き、西郷家の家計を助けていた。
西郷隆盛に同行し、京都、江戸、鹿児島を往来した。戊辰戦争では江戸城無血開城に向けての西郷隆盛と勝海舟との会談の際に西郷に同伴して薩摩藩の蔵屋敷に行っている。 長岡山の戦いでは撃たれた仲間を助けようとした際に左大腿部を貫通する銃撃を受けたことが「西郷隆盛一代記」に書かれている。
明治維新後、西郷が明治政府に呼ばれた時には日本橋の西郷邸(現在の中央区立日本橋小学校付近)に住み、身の回りの世話から金銭管理、下男の雇用までを任されていた。西郷が征韓論で下野し、東京から鹿児島に戻る際には日本橋の土地や家を売るのに尽力した。
西南戦争でも西郷に同行し、延岡・和田越えの際には右足に銃弾を受け膝下を切断する負傷をおった西郷菊次郎を背負い、隆盛の弟である西郷従道のもとへ投降したことで知られる。従道は甥の投降を喜び、熊吉に礼を言ったとされる。その時は熊吉も額に軽い怪我を負っていた。
西郷隆盛が亡くなった後、しばらく鹿児島で西郷家に仕え、川口雪篷とともに西郷家を支えていた。明治19年(1886年)には西郷従道に呼ばれ、再上京し、以後、目黒の西郷従道邸に住み、西郷邸の管理や庭師などをして、現在の西郷山公園や菅刈公園の原形を作ったと言われる。また御殿山にあった西郷従道邸でも働いたり、大田原市加治屋の開拓にも参画したことがある。
明治33年(1900年)12月25日、死去。墓は東京青山霊園にある。
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