葉山 葉子(はやま ようこ、本名:同じ、 1946年7月23日 - )は、日本の女優。東京都出身。山脇学園高等学校中退。オフィス葉山所属、アイ・ドルフィン業務提携。特技は日本舞踊。
概要 はやま ようこ 葉山 葉子, 生年月日 ...
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7歳の時、母の勧めで劇団若草に入団し、子役として芸能活動をスタート。
1955年、『しいのみ学園』で銀幕デビューを果たし、映画のヒットとともに準主役として注目を浴びる。中学受験のため劇団を退団するが、ほどなく広告モデルなどに起用され芸能界に復帰し、テレビドラマに進出する。高校生時代、日本テレビの昼ドラマ『夜は新しく』に出演し、耐え忍ぶ人妻役を演じ、「メロドラマの女王」と呼ばれるようになる。その後は数多くのテレビ・舞台の時代劇に出演。
1970年代に入り、主な活躍の場を舞台へ移す。そのためテレビにおいてはレギュラー出演は少なく、ほとんどがゲストとしての出演ということになった。
杉良太郎、西郷輝彦、舟木一夫らの主演公演では、彼らのパートナーとして今も変わらぬ存在感を放っている。
- 秋田県出身の父と長崎県出身の母が、東京で出会って結婚し生まれる。しかし幼少期に父の事業が失敗すると両親は離婚。以後、母の手ひとつで育てられた。父親については、親族から「亡くなった」と教えられて育つ。
- 幼年時代は人見知りがひどく、友達が家まで遊びに来ても断るばかりで、一人絵を描いたりして過ごすのを好んでいた。それを心配した母親が周囲に相談し、当時大映に勤めていた叔母のアドバイスもあって劇団若草に入団することとなる。若草では天才子役と言われた二木てるみや北林早苗らと仲がよかった。
- 親類に元女優で現作詞家の悠木圭子がいる。悠木の妹に間違えられるほど横顔が似ていたという。
- 山脇学園高校在学中、売れっ子女優として二足のわらじを履く生活を送っていたが、連日テレビドラマの撮影で忙殺されていたため、当時のインタビューでも「身体は丈夫なので忙しいことは苦にならないけど、学校のほうが心配」と不安を覗かせている。また「仕事と学業の両立は難しいけど、高校だけは卒業しておきたい」と抱負も語っている。
- 昼メロで耐える未亡人やかげりのある不倫妻を演じたことで、いつしか"泣きの女優"というイメージが広まってしまい、街を高校の友達と歩きながら談笑していても「笑うこともあるんですね」と視聴者から言われたこともあるという。もっとも、本人によれば「本当の自分はオゲラ(笑い上戸)で三枚目」とのこと。
- テレビによって作られたイメージが定着してしまうことに懸念を持ち、「このままでいいのか? このままだと擦り切れてしまう」と悩んでいた頃、以前共演したことがあった大川橋蔵から時代劇の舞台出演に誘われる。慣れないことばかりで戸惑いながらも初舞台を無事に終え、それまで感じたことのない充実感を味わったという。以後、舞台が活躍の場の中心となる。
- 時代劇への出演が多いのは、子供時代から時代劇と着物が大好きだったことが起因している。
- 美人女優でありながらゴシップやスキャンダルとは無縁。しかし20代の頃、ある俳優と恋愛関係にあったことを後のインタビューで明かしている。一時はその俳優と結婚して女優を引退してもいいと思ったものの、結局4年で破局という結末を迎える。現在まで独身でいるが、その理由を本人は「男性とはご縁がなかったんです」とコメントしている。
- 1974年4月11日放送の『ぶらり信兵衛 道場破り』第27話以降、降板した武原英子から「おぶん」役を引き継いだが、これに際し「薄幸イメージから明るい役に脱皮したい」とコメントしている[1]。
- 若くして「メロドラマの女王」と呼ばれた頃は恋愛経験がなかったこともあり、見よう見まねで演じることに内心バカバカしく思っていたという。しかし1976年に『花は散らず』(CBC制作。TBS系で放映)で8年ぶりに昼メロの主役を務めた際は、「人並みに恋愛もして男性を知ったことで、昼メロをみる女性の気持ちが理解できるようになった」と語っている。
- 「舞台では主役の俳優に気分よくお芝居してもらうことに一番気を使います」と語るように、決して目立とうとせず、主役を立てる演技に徹している。そのため、どの主演俳優もやりやすく、公演出演依頼の声をかけ続けている。
- 中でも杉良太郎とは1969年の京都・南座公演から2005年の大阪・新歌舞伎座での杉の座長勇退公演まで、パートナーとして100ヵ月以上共演している。杉は彼女について、「女郎、長屋の娘や女房、武家の妻など、きちんと演じ分けられる腕がある」ことに加え、彼女がいることで「舞台の居心地がよくなる」と高く評価していた。
- 劇団若草在籍時代、劇団内でかくし芸パーティーが催された時、フラダンスを披露して一等賞になったことがある。人前で喋ったり歌ったりするのが苦手で、何をすればいいか困っていたところ、母親がフラダンスを提案して決まったもの。普段控え目でおとなしかっただけに、これには皆が驚いたという。ちなみに一等賞の賞品はネルの反物一反であった。
- 1964年の暮れ、ハワイ在住で現地テレビ局のアナウンサーをしていた叔母とヨーロッパ旅行に出かけ、フランスのテレビ局見学をしている。そこで現地局の規模の大きさや芝居用の小道具がきれいに整理されていることに感心したという。パリでは言葉が通じず全部身振り手振りで買い物をして、叔母からは「心臓が強い」と笑われている。また、自身にとってはイタリアが一番のお目当てだったが、着いてみると街が汚く貧富の差も激しいことがわかり幻滅したという。この際一緒に旅行した叔母は、上記のフラダンスの件でハワイから電話で助言を与えて協力している。
- 1965年7月24日から翌年3月26日までの毎週土曜日、NET(現テレビ朝日)の朝の情報番組『土曜ショー・朝です、奥さまお嬢さん』で、俳優の高島忠夫とともに司会を務めた。現在のワイドショーの草分け的番組の一つで、著名人ゲストを招いてのトークや生活情報を紹介する生放送番組であった。番組開始当初は「(ドラマ撮影などでは)カメラを見てはいけなかったのが、今度はカメラを見なくてはいけないのでドキドキします。生番組なので自分を作る時間がなく、ありのままの自分が出ちゃって…」と困惑していたが、司会ぶりはできぱきとしていて好評だった。
- 『朝です、奥さまお嬢さん』の番組内では、トーク中にうっかりミスもやらかしている。ゲストが持ってきた手作りの人形を見て、「いいお人形ですね。デパートなんかで買うよりずっと心がこもっていて、贈り物にいいですね」と褒めたのだが、当該番組スポンサーが某デパートであることを思い出し、「冷や汗をかいた」という。
映画
- しいのみ学園 (1955年6月28日、新東宝) ‐ 照子
- 次郎物語 (1955年10月25日、新東宝) ‐ 源吉の姉
- 乱菊物語 (1956年1月22日、東宝)
- 十七才の断崖 (1957年12月22日、大映) ‐ 清子
- 母 (1958年3月5日、大映) ‐ 高山咲江
※以上、子役時代
- 海軍兵学校物語 あゝ江田島 (1959年9月6日、大映) ‐ 村瀬朝子
- 明日から大人だ (1960年2月24日、大映) ‐ 稲葉典子
- 怪談せむし男 (1965年8月1日、東映) ‐ 白川和子
- 若親分兇状旅 (1967年8月12日、大映) ‐ 北川早苗
- 柔の星 (1970年12月19日、東宝) ‐ 世津子
- ごろつき無宿 (1971年6月25日、東映) ‐ 浅川あや子
舞台
- 橋幸夫特別公演「吉良仁吉・三下り半」
- 杉良太郎特別公演
- 「平手造酒と真菰の新吉」 / 「文五捕物絵図」(1969年8月、南座)※杉の初舞台
- 「忠治御用旅」 / 「遠山の金さん」
- 「拝領妻始末」 / 「殺陣師段平」
- 「大石内蔵助」 / 「吉良の仁吉」
- 「ひとり狼」
- 「旅鴉半次郎 ふりむけば夕陽」
- 千昌夫特別公演「忘れちゃならない男意気」
- 五木ひろし特別公演「人生双六」 / 「紺屋と高尾」(2010年10月1日~26日、明治座)
ドラマ以外のテレビ番組
- 青春の歌謡ショー 「西郷輝彦ショー」(1965年、NET) ‐ ゲスト ※2週連続
- ヒット・ショー (1965年、TBS) ‐ ゲスト ※舟木一夫・和泉雅子らと出演
- 土曜ショー 朝です、奥さまお嬢さん (1965年 - 1966年、NET) ‐ 司会
- ※毎週土曜日、午前8時15分から45分間の情報番組、パートナーは高島忠夫
- (1967年12月5日) ‐ ゲスト ※河津清三郎・中原美紗緒らと出演
- (1968年9月4日) ‐ ゲスト ※てんぷくトリオと出演
- (1968年10月31日) ‐ ゲスト ※ロミ山田・織本順吉らと出演
- (1969年5月26日) ‐ ゲスト ※十朱久雄・富士真奈美らと出演
- (1970年11月17日) ‐ ゲスト ※賀原夏子と出演
ほか多数