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日本の作家 (1888-1948) ウィキペディアから
菊池 寛(きくち かん、旧字体:菊池 寬、1888年〈明治21年〉12月26日 - 1948年〈昭和23年〉3月6日)は、日本の小説家、劇作家、ジャーナリスト。本名:菊池 寛(きくち ひろし)。実業家としても文藝春秋社を興し、芥川賞、直木賞、菊池寛賞の創設に携わった。帝国芸術院会員。
菊池 寛 (きくち かん) | |
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誕生 |
菊池 寛(きくち ひろし) 1888年12月26日 日本・香川県香川郡高松七番丁六番戸の一(現・高松市天神前4番地) |
死没 |
1948年3月6日(59歳没) 日本・東京都豊島区雑司が谷 |
墓地 | 多磨霊園 |
職業 | 小説家、劇作家、実業家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 文学士 |
最終学歴 | 京都帝国大学英文科 |
活動期間 | 1913年 - 1948年 |
ジャンル | 小説、戯曲、随筆、評論 |
文学活動 | 新現実主義(新思潮派、新技巧派) |
代表作 |
『屋上の狂人』(1916年) 『父帰る』(1917年) 『無名作家の日記』(1918年) 『忠直卿行状記』(1918年) 『恩讐の彼方に』(1919年) 『藤十郎の恋』(1919年) 『真珠夫人』(1920年) 『半自叙伝』(1928年 - 1929年) |
デビュー作 | 『鉄拳制裁』(1914年) |
配偶者 | 包子 |
子供 | 瑠美子(長女)、英樹(長男)、ナナ子(次女) |
親族 | 武脩(父)、カツ(母) |
ウィキポータル 文学 |
生家は高松藩の儒学者の家柄。幼少期より旺盛な読書家であった。京大英文科卒。芥川龍之介などの『新思潮』に参加。
著作に『屋上の狂人』(1916年)、『父帰る』(1917年)などの戯曲のほか、『忠直卿行状記』(1918年)、『藤十郎の恋』(1919年)(のち脚色)などの小説がある。人生観や思想を基盤とした明快な主題を打ち出した、いわゆるテーマ小説が特徴である。『真珠夫人』(1920年)のヒット後は通俗小説で健筆を揮った。
香川県香川郡高松七番丁六番戸の一(現・高松市天神前4番地)で7人兄弟の四男として生まれる。菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄で、日本漢詩壇に名をはせた菊池五山は、寛の縁戚に当たる。しかし、寛の生まれたころ家は没落し、父親は小学校の庶務係をしていた[1]。高松市四番丁尋常小学校を経て高松市高松高等小学校に進学。しかし家が貧しかったため、高等小学3年生の時は教科書を買ってもらえず、友人から教科書を借りて書き写したりもした。このころ、「文芸俱楽部」を愛読し、幸田露伴、尾崎紅葉、泉鏡花の作品に親しむ[2]。
1903年(明治36年)高松中学校に入学。寛は記憶力が良く、特に英語が得意で、外国人教師と対等に英会話ができるほどだった。図画や習字は苦手だったが一念発起して勉強に取り組み4年の時に全校で首席になった。中学3年の時、高松に初めて図書館ができるとここに通って本を読み耽り、2万冊の蔵書のうち、歴史や文学関係など興味のあるものはすべて借りたという[3]。
中学を卒業した後、成績優秀により学費免除で東京高等師範学校へ進んだものの本人は教師になる気がなく、授業を受けずテニスや芝居見物をしていたのが原因で除籍処分を受けた[4]。地元の素封家の高橋清六から将来を見込まれて養子縁組をして経済支援を受け、明治大学法科に入学するも3か月で退学。徴兵逃れを目的として早稲田大学に籍のみ置く。文学の道を志し第一高等学校受験の準備をする。これが養父に発覚し、縁組は解消。進学が危ぶまれたが、実家の父親が借金してでも学費を送金すると言ってきたことで道が開ける[5]。
1910年(明治43年)、第一高等学校第一部乙類に22歳で入学。同期入学には後に親友となり彼が創設する文学賞に名を冠する芥川龍之介、久米正雄、井川恭(後の法学者恒藤恭)がいた。しかし卒業直前に、盗品と知らずマントを質入れする「マント事件」が原因となり退学[6][7]。その後、友人・成瀬正一の実家から援助を受けて京都帝国大学文学部英文学科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず選科に学ぶことを余儀なくされた。本来は一高の友人らと同じく東京帝国大学に進みたかったが、上田萬年の拒絶のため叶うことはなかった。京大選科の時に『萬朝報』の懸賞に応募した短編小説「禁断の木の実」が当選。翌年旧制高等学校の卒業資格検定試験に合格し本科に移る。
この京大時代では文科大学(文学部)教授となっていた上田敏に師事した。当時の失意の日々については(フィクションを交えているが)「無名作家の日記」に詳しい。1人京都の地で孤独や焦燥の日々の中、ジョン・ミリントン・シングなどのアイルランド戯曲を読破する。東京にいる芥川、久米らの好意により第三次『新思潮』創刊同人となり、菊池比呂士、草田杜太郎の筆名で戯曲を発表する。卒業を間近にひかえた1916年(大正5年)5月、第四次『新思潮』では本名の菊池寛の名で「屋上の狂人」を発表。
1916年(大正5年)7月、京大卒業。卒業論文は「英国及愛蘭土の近代劇」。上京して、芥川、久米と夏目漱石の木曜会に出席する[8]。成瀬家の縁故で時事新報社会部記者となり、月給25円のうち10円を毎月実家に送金する。また第四次『新思潮』に「父帰る」を発表するも、特に反響はなかった。
寛は生活のため資産家の娘と結婚することを考え、郷里に相談。1917年(大正6年)、高松藩の旧・藩士奥村家出身の奥村包子(かねこ)と結婚。1918年(大正7年)、『中央公論』に発表した「無名作家の日記」や「忠直卿行状記」が高評価され文壇での地歩を築いた。1919年(大正8年)、『中央公論』に「恩讐の彼方に」を発表。時事新報を退社し、執筆活動に専念する。翌年大阪毎日新聞・東京毎日新聞に連載した大衆小説「真珠夫人」が大評判となり、一躍人気作家となった[9]。
1923年(大正12年)1月、人気作家となった寛は若い作家のために雑誌『文藝春秋』を創刊する。発行編集兼印刷人は菊池寛、発売元は春陽堂、定価は10銭で、『中央公論』が特価1円、『新潮』が80銭の時代に破格の安さだった。巻頭を飾ったのは芥川龍之介のエッセイコラム「侏儒の言葉」[10]。創刊号3000部はまたたくまに売り切れ、次号も売り上げを伸ばし、「特別創作号」を銘打った5号は1万1千部の売り上げとなった[11]。1926年(大正15年、昭和元年)から春陽堂を離れて「文藝春秋社」として独立し『文藝春秋』は総合雑誌となる[12]。初期の編集部に石井桃子、桔梗利一らがいる。また大衆作家として、婦人雑誌や新聞に多くの小説を発表していたが、1927年(昭和2年)7月25日、芥川龍之介が自殺。葬儀では友人代表として弔辞を読み上げたが、読む半ばから涙が止まらなかった[13][14]。 1935年(昭和10年)、新人作家を顕彰する「芥川龍之介賞」「直木三十五賞」を創設した際には11人の選考委員の1人となった[注釈 1]。1926年(大正15年)日本文藝家協会を設立。
1925年(大正14年)、文化学院文学部長就任。1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に、東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。しかし1937年(昭和12年)には、東京市会議員に当選した。
言論の自由を何よりも重んじた菊池は、「左傾にしろ、右傾にしろ、独裁主義の国家は、我々人類のために、決して住みよい国ではない」と主張し[15]、政治家として、「反資本、反共産、反ファッショの三反主義」を掲げる穏健派の社会主義の社会民衆党で活動した[16]。
日本が数年来、反動的な右傾時代になつたに就いては、政党政治の堕落も、その一つの原因であるが、もう一つは共産主義者の妄動である。彼等は、日本に対する正当なる認識を欠き、自己の力量をも知らず、実現不可能な理想をふりかざして、社会不安を醸成したゝめに、却つて反動的勢力の擡頭に、口実を与へてしまつたのである。彼等の妄動のために、合理的な労働運動や、正当なプロレタリヤ解放運動までが、オヂヤンになつてしまつた。十年前までは、あんなに盛んであつた改造とか解放とか云ふ言葉が、今ではどこにも聞こえなくなつた。日本の社会改革運動は、合法的な社会民衆党的な主張に依つて、穏健に確実に行はるべきであつたのである。 — 菊池寛「話の屑籠」(昭和10年5月)[17]
1938年(昭和13年)、内閣情報部は日本文藝家協会会長の寛に作家を動員して従軍(ペン部隊)するよう命令。寛は希望者を募り、吉川英治、小島政二郎、浜本浩、北村小松、吉屋信子、久米正雄、佐藤春夫、富沢有為男、尾崎士郎、滝井孝作、長谷川伸、土師清二、甲賀三郎、関口次郎、丹羽文雄、岸田國士、湊邦三、中谷孝雄、浅野彬、中村武羅夫、佐藤惣之助総勢22人で大陸へ渡り、揚子江作戦を視察[18]。翌年は南京、徐州方面を視察。帰国した寛は「事変中は国家から頼まれたことはなんでもやる」と宣言し、「文芸銃後運動」をはじめる。これは作家たちが昼間は全国各地の陸海軍病院に慰問し、夜は講演会を開くというもので、好評を博し、北は樺太、南は台湾まで各地を回った[19]。1942年(昭和17年)、日本文学報国会が設立されると議長となり、文芸家協会を解散。翌年、映画会社「大映」の社長に就任[20]、国策映画作りにも奮迅する[21]。
終戦後の1947年(昭和22年)、GHQから寛に公職追放の指令が下される。日本の「侵略戦争」に文藝春秋が指導的立場をとったというのが理由だった。寛は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤った[22]。その年の暮れには横光利一が死去。翌年1948年(昭和23年)1月、苦難を共にした、元文藝春秋社専務の鈴木氏亨が急逝。気力の衰えた寛は、2月に胃腸障害で寝込む。回復すると3月6日に近親者や主治医を雑司が谷の自宅に集め、全快祝いを行ったが、好物の寿司などを食べたあと、2階へ上がったとたん狭心症を起こし、午後9時15分、急死。享年59歳。息子を呼ぶ「英樹、英樹」が最期の言葉だった[23][24][25]。その際、夫人の手を握りしめていたという[26]。
告別式は音羽の護国寺で行われた。葬儀委員長は久米正雄。参列者7千人の中には当時首相だった芦田均もいた。家族が発見した寛の遺書が当日公表された。
私は、させる才分なくして、文名を成し、一生を大過なく暮しました。多幸だつたと思ひます。死去に際し、知友及び多年の読者各位にあつくお礼を申します。ただ国家の隆昌を祈るのみ。 — 吉月吉日 菊池寛
高松市菊池寛記念館から『菊池寛全集』(全24巻、1993年-1995年)が、また、武蔵野書房から『菊池寛全集補巻』(全5巻、1999年-2003年)が刊行されており、ほぼすべての作品を比較的容易に鑑賞することが可能である。文春文庫と岩波文庫で諸作品が刊行されている。また、未知谷から『歴史随想』と『剣聖武蔵伝』が刊行されている。
※「少女倶楽部」連載の長編小説について扱う。
「珠を争う」が、「ふたりの女王」永見七郎作/ 江川みさお絵というタイトルの再話で、雑誌「少女」昭和29年11月号の付録書籍「少女小説名作全集」に収録 「輝ける道」が、「父かえる日まで」永見七郎作/糸賀君子絵というタイトルの再話で、雑誌「少女」昭和30年新年号の付録書籍「少女小説名作全集」に収録
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
「きくちかん」をアナグラムにすると「くちきかん」(口利かん)となる。このアナグラムは菊池の生前から、彼の交友の内外で同時多発的に話された記録がある。
永井荷風は人の好悪の激しい作家だが、とりわけ菊池寛のことを非常に嫌悪し、自身が38歳から79歳の死の前日まで42年間にわたり付けていた日記『断腸亭日乗』の中には、菊池への罵詈雑言の叙述がところどころに見受けられる[32]。荷風は菊池の噂を聞くと必ずといっていいほど罵倒の言葉を綴っては、出版界のほか社会の世相悪化の原因までも菊池のせいにして書き殴っていた[32]。
荷風が菊池を嫌うようになった原因については、はっきりしたことは判明してはいないが、菊池が自身の先祖の菊池五山の名を、荷風から悉く菊地五山と書き間違えられた不快感を1924年(大正13年)3月の『文藝春秋』誌上で表明して以降、荷風の日記上に菊池への罵詈雑言が始まっているため、それがきっかけでないかと言われている[32]。
菊池はその随筆「自分の名前」の中で、常に博識を自認し現代人の無学無文を嘲っている荷風先生にして「肝心の人の姓名を誤書するに至つては、沙汰の限り」と述べ、「難しさうな詩句などを引用するのも、非常に結構だが、それよりも前に、人の名前位は、正確に書いてもいいだらう」と忠言していた[33][32]。
荷風はそれ以降、菊池が面会を希望しても断って「交を訂すべき人物にあらず」(交流するような人物ではない)と記したり[32]、また別の日の日記では、他の雑誌社の人物が荷風に寄稿を依頼する際しきりに「礼金」のことを話して荷風が固持しても机の上に金を置いていったことを、文人に向ってあたかも材木屋に材木を注文するような「悪風」だと書き連ねながら、その編集者は「敢て咎むべきにはあらず」、「
とにかく勝つ人は強い人である、多く勝つ人は結局上手な人、強い人と云はなければならないだらう。しかし、一局一局の勝負となると、強い人必ず勝つとは云へない。定牌を覚えたばかりの素人に負けるかも知れない。そこが麻雀の面白みであらう。しかし、勝敗の数は別として、その一手一手について最善なる打牌を行う人は結局名手と云はなければならない、公算を基礎とし、最もプロバビリティの多い道を撰んで定牌に達し得る人は名手上手と云へよう、しかしさうした公算に九分まで、準據ししかも最後の一部に於て運気を洞算し、公算を無視し、大役を成就するところは麻雀道の玄妙が存在してゐるのかも知れない。
最善の技術には、努力次第で誰でも達し得る。それ以上の勝敗は、その人の性格、心術、覚悟、度胸に依ることが多いだらう。あらゆるゲーム、スポーツ、がさうであるが如く、麻雀、も技術より出で、究極するところは、人格全体の競技になると思ふ。そこに、麻雀道が単なるゲームに非る天地が開けると思ふ。 — 菊池寛、『麻雀讃』
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