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菊池寛の短編小説 (1919) ウィキペディアから
『恩讐の彼方に』(おんしゅうのかなたに)は、大正8年(1919年)1月に発表された菊池寛の短編小説である。初出は『中央公論』1919年1月号[1][2]。翌1920年(大正9年)、菊池自身の手によって『敵討以上』(かたきうちいじょう)として戯曲化されている(3幕、初出『人間』1920年4月)[1]。このほか、1932年(昭和7年)には『恩讐の彼方に』と『敵討以上』を組み合わせて改作した短編小説『青洞門物語』(『冨士』1932年1月号)も発表されている[1]。
江戸時代後期に、豊前国(大分県)の山国川沿いの耶馬渓にあった交通の難所に、青の洞門を開削した実在の僧である禅海の史実に取材した作品。しかし禅海は、小説の主人公である市九郎(了海)のようにこれを独力で掘り続けたわけではなく、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇って掘った。また敵討ちの話も菊池による創作である。
越後国柏崎生まれの主人公、市九郎は、主人である浅草田原町の旗本、中川三郎兵衛の愛妾であるお弓と密通し、それが三郎兵衛の知るところとなり、手討ちされそうになる。とっさに反撃に出た市九郎は、逆に三郎兵衛を斬ってしまう。市九郎は、茶屋の女中上がりのお弓にそそのかされて出奔、中川家は家事不取締に付き、お家断絶と沙汰される。
東山道の鳥居峠で茶屋を開いた市九郎とお弓は、表の顔は茶屋の夫婦であるが、その裏で人斬り強盗を生業として暮らしていた。
江戸出奔から3年目の春、自らの罪業に恐れをなした市九郎は、お弓の許を離れ、美濃国大垣在の真言宗美濃僧録の寺である浄願寺で、明遍大徳の慈悲によって出家を果たし、法名を了海と名乗り、滅罪のために全国行脚の旅に出た。
享保9年(1724年)8月、赤間ヶ関、小倉を経て、豊前国に入った市九郎は、宇佐八幡宮に参拝し、山国川沿いにある耆闍崛山羅漢寺を目指した。樋田郷に入った市九郎は、難所である鎖渡しで事故によって亡くなった馬子に遭遇した。そこで、その難所の岩場を掘削して、事故で命を落とす者を救おうという誓願を立てる。
近在の人々は、そんな市九郎を狂癡の僧として扱い、見向きもしなかった。しかし、それが多年にわたると、何度か石工を雇って力を合わせようとするが、難工事のゆえに、長続きすることはなく、また、市九郎一人に戻る始末であった。
月日が経って、18年目の終りになり、中津藩の郡奉行の計らいにより、ようやく石工を雇って、掘削作業を進めることができるようになった。
三郎兵衛の子、中川実之助は、父の死んだ時は3歳であった。親類の許で養育され、13歳で父の非業の死の顛末を知る。実之助は、柳生道場に入門し、19歳で免許皆伝、仇討ちのため、27歳まで諸国を遍歴し、九州に入って福岡城下から中津城下へ来た。そこで、市九郎と素性が一致する了海という僧が、山国川の難所で艱難辛苦の最中であることを知り、現場に急行する。
市九郎は、親の仇を名乗る実之助の前で、素直に斬られることを望むが、石工たちが必死に止めに入ったため、石工の統領の計らいで、洞門の開通まで仇討ちは日延べすることとなる。実之助は、本懐を遂げる日を1日でも早めるべく、石工たちに混じって掘削を始めた。
市九郎が掘り始めてから21年目、実之助が来て1年6ヵ月、延享3年(1746年)9月10日の夜九つ近く、ようやく洞門は開通する。
約束通り市九郎は実之助に自分を討たせようとするが、市九郎の大慈大悲に心打たれた実之助は仇討ちの心を捨て、市九郎に縋り付いて号泣するのだった。
1961年4月22日にNHK総合テレビの『NHK劇場』(土曜20:00 - 23:00)で放送。
この節の加筆が望まれています。 |
1962年6月24日にNHK総合テレビの『こども名作座』で放送。
1968年5月28日に、毎日放送制作・NET(現:テレビ朝日)系列の『テレビ文学館 -名作に見る日本人-』(火曜22:00 - 23:00)の第9回に放送。
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