日本の文芸雑誌 ウィキペディアから
文芸俱楽部(ぶんげいくらぶ、旧字体:文󠄁藝俱樂部)は、1895年(明治28年)1月から1933年(昭和8年)1月まで、博文館が出版した文芸雑誌。純文学誌として出発したが、大正期以降、大衆化した。
博文館の既刊の、『世界文庫』『明治文庫』『逸話文庫』『文芸共進会』『春夏秋冬』が統合して、この雑誌になった。
創刊時は、菊判、約240ページ。硯友社系の小説と豪華な挿画とを『売り』にした。
歴代の編集者は次。
前から博文館は、尾崎紅葉・広津柳浪・石橋思案・川上眉山・江見水蔭・大橋乙羽・巖谷小波・徳田秋声・泉鏡花・武内桂舟らの硯友社と親しく、リーダーの紅葉の斡旋で、柳浪は博文館の元社員、小波は社員、水蔭と桂舟は準社員。そして乙羽は館主大橋佐平の婿だった。従って、先ず彼らが小説などを書いていた。泉鏡花はこの雑誌から世に出た。
その後、幸田露伴・田山花袋・国木田独歩・樋口一葉らも小説を書いた。一葉は、文学界に連載した『たけくらべ』を、この雑誌に一括掲載して、文名を確かにした。
挿画は、日清戦争の報道で網目銅板写真の技術を磨き、また、梶田半古、武内桂舟・水野年方・富岡永洗・尾形月耕・鏑木清方らの木版画で誌面を飾り、芸者や役者の肖像で目を引いた。
第2次新小説と、文芸雑誌の横綱を張っていたが、1903年(明治36年)秋に尾崎紅葉が没し、硯友社は解散した。島崎藤村の『破戒』(1906年)や田山花袋の『蒲団』(1907年)など、自然主義文学が台頭して、第2次『早稲田文学』や中央公論が勢いつき、『文芸倶楽部』は大衆化へと路線を変えた。
1907年(明治40年)頃から、講談や落語を載せるようになり、大正期に入って大衆向け娯楽雑誌の色彩を濃くした。岡本綺堂の『半七捕物帳』を1918年1月から1926年12月まで連載した。1927年(昭和2年)、森下雨村の編集になってからは、松本泰・小酒井不木・森下雨村・延原謙・保篠龍緒・甲賀三郎・江戸川乱歩・大下宇陀児・濱尾四郎・水谷準らの探偵小説も載せた。
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