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日本の編集者、翻訳家 ウィキペディアから
延原 謙(のぶはら けん、本名読み:ゆずる[1]、1892年9月1日 - 1977年6月21日)は、日本の編集者、翻訳家。シャーロック・ホームズなど探偵小説の翻訳で知られる。別名に小日向 逸蝶。
1892年9月1日、京都で生まれた[1]。父は竹内(旧姓馬場)種太郎、母は竹内文で、謙は二男である[2]。父の種太郎は謙出生の翌年に死去し、母と兄とともに暮らすことになった。この際、戸籍上では母方の祖母の妹の養子となり、姓は延原となった[3]。母の文は学校教師をしながら下宿屋を営み生計を立てた[4]。1894年、母と兄とともに、母の実家である岡山県津山に引っ越した[5]。1899年、文は津山に女学校を建て英語などを教えつつ2人の息子を育てた[6]。
謙は津山中学校に通っていたが、1903年に津山高等女学校が開校すると文は自分の女学校を閉校し、一家は東京へ引っ越した[7]。謙は東京で早稲田中学に入学し[8]、1911年に早稲田大学高等予科に入学、1912年に同校を卒業し早稲田大学理工学部に進学した[9]。
大学では電気工学を学び、大学卒業後、大阪市電鉄部に就職した[10][11]。その後、日立製作所など、職を転々とし、1921年には逓信省の電気試験所に就職した[12]。海野十三は早稲田大学及び電気試験所時代の後輩にあたる。後に延原は、海野が書いた小説を当時新青年編集長だった横溝正史に紹介し、それによって海野はデビューを果たしている[13]。
延原は中学上級の頃からモーパッサンの短編を翻訳して友人に見せるなどしていた[11]。会社員になると、偶然見つけたコナン・ドイルの『四つの署名』を翻訳した。この原稿が友人の慶應義塾大学教員だった井汲清治の目に留まり、井汲は雑誌「新青年」の編集長森下雨村のもとに持ち込んだ[14]。この原稿自体は「新青年」に掲載されなかったが、森下は延原の翻訳を高く評価し、1922年ごろから「新青年」に延原が翻訳した小説が掲載されるようになった[15]。翻訳家デビューの背景には、当時延原が母親の病気(母の文は翻訳デビューと同時期の1921年に死去している)などにより資金が必要だったこともあったとされている[16]。
その後、「新青年」や他の雑誌に翻訳や創作小説を発表し、1928年には博文館に入社して、1928年10月号から1929年7月号まで「新青年」の編集長をつとめた[17]。1929年には「朝日」、1931年には「探偵小説」の編集長となった[18]。1932年に「探偵小説」の編集長を辞し、同じ時期に博文館を退社した[19]。
満州事変以降の情勢変化に伴い英米文学の翻訳が難しくなると、延原は翻訳業に見切りをつけ、1938年中国に渡った[20][21]。また同年の5月10日に、勝伸枝(本名延原克子、旧姓岸田)と結婚した。ただし、入籍は1938年であるが、実質的にはそれ以前の1928年から1929年ごろには婚姻状態にあったと推定されている[22]。なお、謙はそれ以前に、詳細は不明であるが婚姻暦があり1928年に離婚しているので、これが2度目の結婚となる[23]。中国では、はじめ上海の同仁会病院に短期間勤務し、その後貿易業と映画館の経営に携わった[24]。経営は成功し、江戸川乱歩によれば、中国貨で数億円の財を成したといわれている[25]。しかし終戦によって財産を大陸に残したまま帰国した[21]。
帰国後は、春山行夫の跡を継いで1947年に「雄鶏通信」編集長をつとめた[21][26]。ホームズの翻訳に関しては、一時期権利の関係で頓挫していたが、後に解消され、1952年に月曜書房よりホームズ全集を完結させた[27]。1958年に信濃追分に別荘を建て、「ホームズ庵」と名付けた[28]。
晩年は病気のため9年間にわたり寝たきりの生活となった[29]。その間は妻の克子が看病した。克子は、自分が病気のときに夫が看病してくれたので、そのお礼だと思い看病を続けたという[30]。そして1977年6月21日、急性肺炎により享年84で死去した[31]。墓地は、生前に気に入っていた場所という理由で、鎌倉市の極楽寺にある[32]。
アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ全作品やドイルの短編・中編小説を大多数翻訳したほか、1925年にアガサ・クリスティの作品を訳したことで、最初期の紹介者の栄誉も担っている。
クリスティの和訳については、『新青年』1924年5月号に「河野峯子訳」名義で掲載された「メンタルテスト」という短編が最も早い時期の翻訳と考えられているが、この河野峯子は延原の別名と考えられている[33]。その後も河野峯子名義によるクリスティの短編は『新青年』6話掲載され、1925年にはこの6話を含む短編集が延原訳名義として単行本として出版された[34]。同書は、クリスティの初の邦訳本といわれている[35]。
延原は、他人から依頼されて翻訳したのは、森下雨村に依頼されたアーサー・モリスン『緑のダイヤ』(『十一の瓶』として「新青年」大正11年夏季特別増刊に掲載)のみであると述べている。すなわち、ほとんどの作品は延原自身が見つけ出して翻訳したものであり、その鑑識眼も特筆されている[36]。
妻の克子によれば、無口で頑固な人だったという[37]。編集長としては厳格で、「雄鶏通信」の記者は、「とにかくおっかない編集長でした」と語っている[38]。
トランプ遊びや野球観戦を好んだ[39]。また、日本酒が好きで、晩年は唯一の趣味となった。入院後も1日1合弱を昼食時に飲んでいた[40]。
元々電気工学を専攻していたにもかかわらず、探偵小説の翻訳に身を転じたことに関して、自身は「電気を勉強したからこそ探偵小説の理屈っぽさに興味が湧き、飽きずにミステリー一すじに翻訳をしつづける事が出来たと思う。即ち電気も探偵小説も原因があって結果が出、伏線が複雑な程面白いものである。そして嘘、ごまかしは一切ゆるされない。殊にシャーロック・ホームズは犯人の嘘、ごまかしをそれこそ小気味よくさばき、正してくれる。私はこの世の中で嘘、ごまかしが一番きらいである[15]」と述べている。
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