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日本の文芸雑誌 ウィキペディアから
『文藝時代』(ぶんげいじだい)は、日本の文芸雑誌。1924年(大正13年)10月に金星堂から創刊された[1][2][3]。誌名は「宗教時代より文藝時代へ」という意図で、発起人の川端康成により名付けられた[4][3][5]。
創刊号に掲載された横光利一の「頭ならびに腹」の独特な文体により、同人らは「新感覚派」と命名され注目を浴びたが[6][7][2]、その後の主要な有力同人の個別活動の活発化や、左傾化した一部同人の離脱、売上げ不振などにより1927年(昭和2年)5月号(第4巻第5号)をもって終刊した(通巻32冊)[8][9][10][11]。
第一次世界大戦期のヨーロッパで興ったダダイスム、芸術の革命が目指されたアバンギャルド運動、ドイツ表現主義に触発されて創刊された『文藝時代』は、従来の自然主義文学や客観主義を超える独自の新主観主義的な新しい感覚表現を目指した[12][13][2][14]。主要同人の川端康成、横光利一らの作品はモダニズム文学として評価され、『文藝時代』は、青野季吉らプロレタリア文学派の『文藝戦線』とともに、大正後期から昭和初期にかけての大きな文学の二大潮流となった[2][14][15][16]。
20世紀初頭、約4年にもわたりヨーロッパ中の人々を戦禍に巻き込んだ第一次世界大戦期の混乱状態にあったヨーロッパ諸国では、フォーヴィスム、キュビスム、未来派、表現主義、ダダイズム、シュールレアリスム、抽象主義、シュプレマティスム、ネオ・プラスティシズム、構成主義など、既成の価値観や形式を否定するアバンギャルド系の芸術運動が隆盛となっていた[17][7][18][注釈 1]。
1918年(大正7年)の世界大戦終結後、連合国側にいた日本にも、そうしたヨーロッパのダダイスム、ドイツ表現主義などの前衛芸術理論が各分野に盛んに移入されてきていた[20][2][17][7]。さらに、その前年にロシアで起った共産主義革命(1917年)により、本格的にマルクス主義思想も流入し[20][17][21][22]、日本初の「日本社会主義同盟」が1920年(大正9年)12月に結成された[15][22]。
当時の日本文学界にも、これら欧州の思潮を模倣した前衛芸術や革命運動と連動する形で、旧来の自然主義文学や静的な写実主義とは違った、新しい方法論を模索する動きが起っていた[2][17][16]。大正期中頃の近代文学は、自由競争社会における「搾取する自由」や、人々が反目し合う「醜いエゴイズム」の問題を解決する術を模索しながらも一つの行き詰まり期にもさしかかっていた[23]。
自然主義文学が全盛期だった頃には、江戸文芸の流れをくむ泉鏡花の幻想性やフィクション性が冷遇されていたが[24][25]、大正期は、戯曲から出発した菊池寛や久米正雄らも出現し、谷崎潤一郎など多くの作家が戯曲にも旺盛な意欲をみせていた[26][27]。こうした戯曲の隆盛も旧来の自然主義文学に対する反動的な流れの一つであった[27]。
新興芸術の映画の世界にも小説家が関与する動きもあり、大正活映の文芸顧問となった谷崎潤一郎は1920年(大正9年)の映画『アマチュア倶楽部』の脚本を書いた[28][29]。翌年1921年(大正10年)にはドイツ表現主義の斬新な映画『カリガリ博士』が日本でも上映され、作家たちに大きな刺激を与えた[17][30]。
前衛芸術の未来派は、イタリアの詩人・マリネッティの「未来派宣言」(『ル・フィガロ』1909年2月20日掲載[31])をいち早く森鷗外が明治期に翻訳・紹介し、高村光太郎も未来派に関する論を翻訳していたが[17]、そのマリネッティを模倣する形で、大正期の詩人・平戸廉吉が「日本未来派宣言運動」と題するパンフレットを1921年(大正10年)12月に日比谷の街頭で撒布した[27][21][17][32][33][注釈 2]。
この平戸廉吉の前衛運動に感化され、萩原恭次郎・岡本潤・川崎長太郎・壺井繁治らによる「詩とは爆弾である」と標榜したアバンギャルド系雑誌『赤と黒』が1923年(大正12年)1月に創刊され、高橋新吉も同年2月に『ダダイスト新吉の詩』を出版する流れがあった[27][21][17][32]。高橋新吉と交流した吉行エイスケも雑誌『ダダイスム』を前年1922年(大正11年)12月に創刊し、会員制カフェー「ダダ」設立などの動きもあった[17]。
一方、マルクス主義の社会革命運動に支えられた革命文学(プロレタリア文学)の動きとしては、1921年(大正10年)2月に、農民の労働を尊重した雑誌『種蒔く人』が小牧近江・金子洋文・今野賢三らにより秋田県土崎港町から創刊された[34][15][35][22][注釈 3]。10月には東京版『種蒔く人』も創刊され、同人に佐々木孝丸・村松正俊・柳瀬正夢などが加わった[34]。
この頃、東京帝国大学文学部の学生だった川端康成は、1921年(大正10年)2月に同級生ら4名と第6次『新思潮』を創刊していた[36][2][37][38]。やがて川端は、英文科の時の同級で当時西欧のダダイズムや表現派の紹介をしていた北村喜八から様々な話を聞き、新たな文芸を開拓すべく「新表現と新精神の創造」の方向に舵を切ろうとしていた[39][2][7][注釈 4]。
川端の第一高等学校時代の後輩だった村山知義も、1923年(大正12年)6月に結成したグループ「マヴォ」で構成派(構成主義)の旗手として多彩な活躍をみせ、翌年の1924年(大正13年)7月に村山主導により美術系前衛雑誌『MAVO』を創刊した[21][17][32]。
「日本社会主義同盟」などの運動が興り、それまで思想とほとんど無縁だった大正文壇にも社会の中心的話題に関心に寄せざるを得ない状況が生まれる中、身辺の告白小説や旧来的な私小説の影が次第に薄くなり、島崎藤村が暗示的に述べていた「行く路は難い」「時代の難さ」[40]という「文学行路の難さ」に新たな要素が加味されつつあった[15][20][注釈 6]。
この頃は、プロレタリア系の青野季吉、平林初之輔、前田河広一郎などの論客が頭角を現わし[35]、他方では耽美派の谷崎潤一郎、新思潮系の芥川龍之介、詩人の佐藤春夫といった花形作家が才華を競い合っていた[42][7]。大手文芸雑誌の『新潮』『改造』『中央公論』も、そうした人気の中堅作家や、志賀直哉ら白樺派など大家の作品で占められ、なかなか無名作家の出る幕がなかった[42][7]。
そうした文壇に対し「上がつかえている」という閉塞感を持っていた「文士のタマゴ」の青年たちは、後輩の面倒見の良い菊池寛を慕って集まっていた[42][43]。この頃の菊池は、文壇人の一部からは純文学ではないと批判されつつも新聞連載小説「真珠夫人」が大当たりし、大正の樋口一葉を目指すべく時代の半歩先をいくような大正時代の新たな通俗小説の開拓に励んでいた[44][45]。ジャーナリズムの寵児的存在にもなった菊池は、孤立しがちな文学者の社会的地位向上を目指し、相互扶助的な「劇作家協会」や「小説家協会」(日本文藝家協会の母体)も結成していた[44][45][46]。
社会の話題にも関心を寄せていた菊池は、資本主義の不正・不当に対抗する社会主義の理論自体は否定せず、世の中がいずれ社会主義化するのは「時の問題」と考え、あとは「時と手段の問題」が残っているだけと語ったが[47][15][45][48][注釈 7]、こと階級意識を掲げるプロレタリア文学に関しては、「芸術
菊池は、どんなに政治や社会上の時代変化があろうとも音楽や絵画の芸術本体が普遍であるのと同様、「文藝の芸術的部分は階級と関係なしに、一定不変である」と主張し[50][45][46]、芸術が本来の道を外れ政治的功利に利用される時は「堕落する」と断じつつ階級芸術理論を「迷妄」と批判した上で[52]、目下のプロレタリア文学は真の労働者が要求する文藝ではないとした[53][54]。そのため菊池はプロレタリア系から反発をくらい、「ブルジョア作家」と非難を浴びていた[55][45]。
こうした文壇内のプロレタリア系の新動向や、文壇人の通俗小説に対する偏見、新人らの不満などを背景に、菊池は文壇に打って出る決意を固め、狭い文壇世界を越えて誰もが遠慮なく自由に物が言える雑文雑誌、無名作家のデビューの足がかりとなり得る雑誌を目指して、1923年(大正12年)1月に朋友の芥川龍之介や久米正雄とともに『文藝春秋』を私費で創刊した(当時の発売元は春陽堂)[44][20][7][45][42][注釈 8]。
当時『中央公論』が1円、『新潮』が80銭の中、『文藝春秋』創刊号は10銭という破格の安さで、わずか28頁の薄い雑誌であったが、たちまち3,000部が完売し直接購読(定期購読)の申し込みも150件以上来た[44][7][45][56]。『文藝春秋』は巻頭を飾る芥川のアフォリズム的な連載随筆コラム「侏儒の言葉」が特色でもあった[20][44][57][32][注釈 9]。
好調な売れ行きに勢いづいた菊池は、4,000部に増刷した2号にて「私が知つてゐる若い人達」と紹介しながら、新進作家の川端康成ら第6次『新思潮』同人、ほぼ無名の横光利一らを『文藝春秋』の同人に加えた[44][20][7][58][注釈 10]。この2号にはプロレタリア系作家の評論も掲載され、その呉越同舟の編集方針が人気を呼んだ[45]。1万部まで大増刷された5号は「特別創作号」と銘打ち、横光の名が一躍有名となる「蠅」が掲載された[44][20][51][7]。
将来性を予感させる横光や川端を従えた菊池の『文藝春秋』は順調に売上げを伸ばし、大正文壇の新たな転回への刺激剤になっていった[60][44][45]。横光はプロレタリア文学については菊池同様の立場をとり、「階級文学の提称は、最早や文学の世界にあつては時代錯誤である」とプロレタリア系論客に対抗した[61][51][2][62]。
川端も、「プロレタリア作品即ち下らない作品」という概念を世間に与えたプロレタリア作家の罪は「九死に価ひする」と手厳しい意見をするなどしていたが[63][60]、前田河広一郎、金子洋文、今野賢三は新しい感覚を持っていると高評価し、作品本位の柔軟な姿勢だった[2][12][15]。
当時、新進気鋭の文芸時評家として歯に衣着せぬ発言をしていた川端の目下の敵は、プロレタリア系の動きの方ではなく、「旧態依然たる」既成作家や既成文壇だった[64][2]。既成の批評家は実際の作品をよく読みもせず、あるいは読めず(文章の善し悪しも分らず)、固定観念に縛られ、若い世代の作品を評価することができないことが川端の不満であり、彼らによって若い才能の芽が摘まれてしまうことが我慢ならなかった[65][64]。
川端は『新潮』合評会の権威的なあり方(恩恵と同時に、場合によっては青年作家の将来を潰しかねない「害毒」の危険性)を率直に述べ[64][66]、程度の低い「文壇常識」から出なくなった合評会諸氏の言葉は、諸氏が進展しなくなった証拠であるとして、「やがて現れるであらう新鮮なものに席を譲るべき時が来た」と挑戦的な姿勢を示した[67][2][68]。
『新潮』合評会には、当時中村武羅夫、宇野浩二、近松秋江などがいて[68]、中村は川端の発言に対し烈火のように怒っていた[66]。中村は『新潮』の編集者として文壇に睨みをきかしていた存在でもあった[69]。横光の「蠅」ついても中村は「行き方が、まともでないやうな気がする」と低評価をしていた[70]。川端が宇野の作品「心づくし」を貶した後[71][66]、宇野も川端の作品「篝火」を貶すという対立関係もあった[72][66]。
『文藝春秋』の創刊から7か月後の1923年(大正12年)9月1日、関東一円を襲う関東大震災が起った[51][21]。地震による家屋倒壊だけでなく、3日にもわたって燃え続けた大規模火災により甚大な被災者数(死傷者約20万人)が出た[2][45][73]。焦土と化した東京には人々の絶望と様々な混乱が渦巻いていた[51][21][45][注釈 11]。
戦争による惨禍にも近い大被害は、多くの関東在住の作家たちの内面やその後の活動にも大きな影響をもたらすことになった[21][51][2][45][74][75][注釈 12]。大地震の瞬間、ちょうど神田の東京堂書店の店先で立ち読みしていた横光利一は、家々が倒壊し火の海と化した街中を駿河台方面に逃げ、辛うじて助かった(小石川区の下宿は全倒壊[79])[80][20][74][注釈 13]。
横光は、住民の多くがいずれ東京に大地震の来ることを想像していながらも甚大な被害に陥った要因を、人々が「警告し合ふ暇」を忘れ、損をしてまでその「暇」を作ることをせず、自分の存命中には大災害は起らないだろうと高をくくったからだと考え[82][74]、そうした人間の「功利」と「功利から産れた文化」を敵視すると同時に、今後益々猛烈になるであろう「かく災害を大ならしめた科学と、自然の闘ひ」を震災後に強く意識するようになった[82][51][74]。
震災の影響で休刊や廃刊となる同人雑誌も相次ぎ、大正期を代表する『白樺』をはじめ、『解放』、第二次『明星』、プロレタリア文学系の『種蒔く人』などが廃刊となった[34][83][60][注釈 14]。一時代を築いた『白樺』は、反自然主義を掲げた武者小路実篤の出現で「文壇の天窓が開け放つて、爽な空気」が入ったと、芥川龍之介に回想された雑誌であった[84][85][5]。
菊池寛の『文藝春秋』も、刷り上がっていた9月号が印刷所もろとも焼失し、10月号も休刊した[86][45][44][51]。災害の惨状を目の当たりにした菊池はすっかり悲観し大阪への移住を真剣に考え、床屋への転職や武者小路実篤の「新しき村」のような自給自足の生活に入ろうともした[86][45][41]。「生活第一」という信条を持つ菊池は[87][46]、大勢の飢えた子供らを前に芸術は無力だ、「人は、つきつめるとパンのみで生きるものだ。それ以外のものは、余裕であり贅沢である」と実感し、そのまま廃刊を決意するが[86][44][45][58]、若い同人らが復刊を望み11月号から再開された[44][51][68][45][41][注釈 15][注釈 16]。
震災前の東京は、明治後の近代化(文明開化)の歩みとともに都市開発の発展途上にあったが、まだ江戸の余光が保たれていた[51][21]。しかし、そうした江戸の名残の古い町並みや古美術・古書もほとんど灰燼となった[51][21][57]。震災被害が酷かった東京はその後意外と早く復興し始め、都市化が飛躍的に進んでいった[20][21]。震災4年前の1919年(大正8年)に都市計画法は公布されてはいたものの、実際にそれが加速・実現されたのは震災復興だった[21]。
横光は、焼け野原の東京で盛んに見るようになった「近代科学の具象物」(「自動車といふ速力の変化物」「ラヂオといふ声音の奇形物」「飛行機といふ鳥類の模型」)によって、青年期にあった自身の感覚が変容したこと自覚した[88][51][74]。また、日本人の文化や生活にとって関東大震災による災害は、第一次世界大戦の戦禍がヨーロッパ人の内面にもたらしたものと匹敵する影響を与えたと横光は感じた[89][90]。
震災以前から日本に模倣・移入されていた前衛芸術運動は、復興後の東京の本格的な都市化と連動し、さらに急激に進んでいった[17][32][7][90]。首都の交通整備による都市の著しい近代化の諸々の要素は、モダニズム文学と呼ばれる作家らの文体技法にも関与していくことになった[91][21]。
その一方、震災により失われた古い伝統に対する郷愁的な自覚も、昭和以降徐々に作家たちに再認識されることになるが、まだこの震災直後の時期には新しい日本が焼け野原から生まれるという確信を多くの日本人と等しく横光も抱いていた[90]。横光は当時を振り返り、「あの時代は何をやつても構はぬのだといふ感じがあつた」と語っている[91][75]。
震災直後、川端康成は大震災の前と後での文芸のありようを、「地震が既成文藝の終点であり、新文藝の起点となることは確であらう」と断言し、「既成文藝」に対する対抗意識を改めて鮮明に示した[92][60][17]。
地震前の文藝は一つの爛熟期の頂上に達してゐた。それだけに、それの不満な点も明かに感じ初められてゐた。地震がなくとも、新しいものに代るべき文藝であつた。(中略)地震があつたからと云つて忽ち文藝が新鮮になるとは夢想も出来ない。唯地震が既成文藝の終点であり、新文藝の起点となることは確であらう。地震前派地震後派と云つた風の言葉が生きた意味を持つやうになるかもしれない。そして我々はこれを機会に一層露骨に大胆に既成文藝に対する不満を述べ、新文藝の要求を明かな形で提唱すべきであると思ふ。 — 川端康成「余燼文芸の作品」[92]
大正から昭和文学への移り変わりは、実際には昭和改元前の、この関東大震災を境とした復興後の東京の変容や、震災の惨禍による作家たちの内面の変化と関連する形で徐々に興っていくことになる[21]。そのため、新しい潮流を生むことになる川端と横光の『文藝時代』と、青野季吉らプロレタリア系の『文藝戦線』が創刊される大震災翌年の1924年(大正13年)以降からを「近代後期」と区分けするのが日本文学史の通例となっている[93]。
関東大震災後の都市復興の中、横光利一は「新時代の道徳と美の建設」に取りかかるため、都市に現われた様々な物を題材とした作品に着手し[88][62]、川端康成も「新進作家は老眼鏡を掛けて月を見る消極的視力者でなく、望遠鏡の発明者でなければならぬ」として、「若い娘の踊」のような力を持つ新しい文芸の創造を模索していた[94][5]。
既成の文芸を刷新しようとする川端の意気込みは、既成作家らからは「既成文壇破壊運動の勇士」とからかわれ、「文藝春秋意識」「新思潮意識」あるいは「所謂ブルジョア文壇意識」とプロレタリア陣営からも罵られた[5]。そうした中、大震災復興後の1924年(大正13年)6月、廃刊となっていたプロレタリア陣営の『種蒔く人』から引き継がれた『文藝戦線』が新たに創刊された[83][35][7]。
それが起爆剤にもなって『文藝春秋』の若手同人内から、自分たち新人だけの雑誌を持ちたいという雰囲気が出てきた[91][35][7]。7月頃に菅忠雄と今東光と石濱金作の3人が護国寺あたりを歩いている時に、自分たちも「新しい雑誌を出そうじゃないか」という話が出て、その発案に呼応した川端、横光、片岡鉄兵らを交えて新しい同人雑誌の創刊が具体化されていった[91][2][95][35]。東光は「若い者の力を集めて、既成文壇を打倒するんだ」と主張した[35][7]。
菊池寛の『文藝春秋』は随筆中心の雑文雑誌でもあったため、小説家志望の若い新人作家には物足りない面があった[35][7]。菊池が『文藝春秋』を創刊した頃、28頁程度の薄い雑誌なら出してもよい、という菊池の意中を東光から伝え聞いていた川端は、すぐに東光と二人で菊池の家に下相談を承りに行っていたこともあった[96][45][60]。
新たな文芸同人雑誌を若手だけで創刊する意義は、すでに新進作家としてある程度認められている新人たちが、より一層の自分たちの存在感を示すため団結することであった[66][91][2][97]。川端の世代は、二葉亭四迷の時代の「文学は男子一生の仕事にあらず」といった考え方はなく、作家というものに対する一般社会からの引け目や、文学の無力感に囚われることもなかった[65]。むしろ文学こそが世界を良い方向に導くものだという自負があった彼らは、作家が「団結」すること必要だと考えていた[66][65]。
「文藝時代」は無名作家が文壇に出るための同人雑誌ではなかつた。その意味の同人雑誌を一先づ卒業した者の集まりであつた。(中略)既に新進作家として認められてゐる新人群が、自分たちの存在を一層はつきりさせ、既成作家と戦つて、新文藝を打ち建てるための団結であつた。(中略)これらの同人の勧誘に私はよく役立つた。なぜなら、私は同人となる人たちことごとくと前から知り合つてゐたからである。 — 川端康成「あとがき」(『川端康成全集第9巻 母の初恋』)[66]
同人集めは、文芸時評家として活躍していた川端が、顔の広さの利を生かして主導し、仲間らと話し合いながら、第6次『新思潮』『蜘蛛』『行路』『無名作家』などの同人誌から新人たちが勧誘された[66][91][2][68]。片岡鉄兵は、当時のインターナショナリズムの動きなどから、人間が知らず知らずのうちに人類自滅の運命を辿っているという「人類の滅亡」説を提唱し、「インテリのマルクシズムに対する意識的な抵抗」を持っていた[91][15][注釈 18]。
誌名は、当初『金剛』という案もあったが[91]、集めた同人らの初顔合わせの席上で、川端が「『文藝時代』はどうだろう」と提案し、出席者全員の賛成で決まった[43][7]。田端のソバ屋で開かれたその会で、当時『婦人公論』記者だった諏訪三郎が、「既成文壇を打倒」というスローガンは嫌だなと片岡に言うと、「ナニそれは一部の意見で、全員の意志じゃない」と説得したという[99][43]。
発行する出版社は、当時西欧の前衛的な新文学を出版していた新進気鋭の金星堂に決まり、川端らが話を取り付けていた[66][42][35][7][68]。金星堂は『父帰る』など菊池の著作も複数出版していて、社長の福岡益雄は菊池と知り合いでもあった[42]。また、金星堂の編集部には、菊池の推挙により中河与一が勤務していた背景もあった[7][100][97]。
既成作家の主要作品の原稿は大手出版の『中央公論』や『新潮』に行ってしまっていたため、新しい文芸出版社だった金星堂にも、新進作家による新雑誌創刊の話を機に、彼らに協力して「既成文壇打倒」の気運が生まれた[101][97]。
『文藝春秋』傘下の新人による新雑誌の創刊について、金星堂の福岡は菊池から「構わぬ」と了解され、川端や横光も事前に菊池の承諾を得た[66][8][43][2]。そして、1924年(大正13年)10月に川端、横光を両雄として、既成作家やプロレタリア系に対抗する新しい文芸同人誌『文藝時代』が創刊されることが決まった[83][35][2]。
同人メンバーは、1923年(大正12年)1月に菊池寛主宰で創刊された『文藝春秋』同人の中の新進作家が主体となって組織され、川端康成の主導により創刊された[1][7][2]。
1924年(大正13年)10月の創刊号(第1巻第1号)の同人14名は以下の面々である[66][102][1][7][2][68]。雑誌の装幀には前衛雑誌『マヴォ』の主導者で、川端の一高時代の後輩でもあった村山知義などが起用された[17]。
翌月11月号(第1巻第2号)からは、以下上部の3名が加わった[66][1][9][75]。
1926年(大正15年)3月号(第3巻第3号)からは、以下の2名が加わった[66][1][9][95][75]。
金星堂や菊池寛の意見も取り入れていた川端は、牧野信一も同人に加えたかったが、菅忠雄などが反対ぎみの意向を示し、実現しなかった[103][104][105]。横光利一は、『文藝時代』で劇団を組織することも考えていたが[106]、川端が反対して実現に至らなかった[66]。
池谷信三郎も同人になる予定だったが、「望郷」が『時事新報』の懸賞小説に当選するなどして延期となり、その後『文藝時代』同人に接触してきた時には終刊近くなっていたので実現しなかった[91]。金子洋文も同人に誘われていたが、『文藝戦線』との関係で金子が断ったとされる[95]。
『文藝時代』は、芸術意識を本源的に新たにし、「新しい生活と新しい文藝」を会得することを創刊目的とし、「宗教時代より文藝時代へ。」という抱負と使命感で『文藝時代』と名付けられた[4][5]。それは、かつて人間救済の役割を果たしていた宗教が力を失った近代の世で、「宗教」に代わるものとしての「文藝」時代という願いが込められていた[4][23][19]。
従来「宗教」が占めていた位置を、将来「文藝」が占めることを信じつつ、「我々の子孫」が「文藝の御寺に詣でて生くべき道を知る」ための文藝への精進は、同人自身も使命感を鼓舞し生活感情を正しくする、と発起人の川端康成は掲げた[4][19]。
また、「文藝の分る知識階級は興味中心の読物以外に、人生観と芸術感を求めてゐる」として、「人生観と芸術感」のある文藝が生まれない限り、「いかにアメリカニズムが横行しようとも、人々は決して安らがない」と断言し[107]、新しい感覚の手法ばかりを嬉しがるのではなく、その新感覚を通して書き現わす「本体」(人生)を忘れず、「新しい人生観と生活と」が大事であるとして以下のように主張した[107][108][19]。
新進作家である自分たち自身の「生活と芸術との局面打開」が、すなわち「文壇そのものの局面打開」や「文藝界の更新」になると意志表示をした川端は、新しい文藝を創造しようという信念を持つ新人を薔薇の花に喩え、遠くに咲く一輪の薔薇は人目に知られないとしても、それと同じ遠さにある「薔薇の花束は人の目を見開かせる」として、同人誌『文藝時代』は「文藝界の機運」を動かそうとする自分たちが「新しい時代の精神に贈る花束」であるとした[4][2]。
また、「いつの世どこの国に、前時代の文藝への反逆か或はそれからの飛躍でなかつた新しい文藝があつたか」と意気込みをみせながら、自分たちを登山家にも喩え、「尊敬すべき先進諸氏よりも遙かに低い麓から諸氏よりも高い山巓を仰いで一歩一歩登ろうとする今の我々に、この雑誌は六根清浄の金剛杖である」とし[4]、「文学史上に画時代的な使命」を果たす覚悟を示した[109][2]。
こうした既成文芸に対抗する新進作家の団結の意志を知った中村武羅夫は、文壇生活を長いことやってきた中でこんな乱暴な団体は初めてだと『新潮』誌上で憤慨を示した[91]。
『文藝時代』同人の資質にはそれぞれ個性や違いがあり、個々の掲載作品は様々であったが[13][2]、『文藝時代』創刊翌月の『世紀』11月号にて評論家の千葉亀雄が、横光利一の掲載短編「頭ならびに腹」の当時斬新であった文体や、同人らの大まかな傾向をみて、彼らの文体における感覚と技巧を重視する姿勢から「新感覚派の誕生」として高評価した[6][2][9][21][7][100][110]。同人らは「既成作家」と自分たちとの違いを明確にするため、千葉の「新感覚派」という命名を受け入れた[2][7]。
千葉は、室生犀星の「官能の享受においては異常な敏感があつたが、それを感覚として発表するには、まだ醇化しきらない混濁と古さとがあった」創作や、「語彙の清新や、観照の様式の溌剌さ」に主力が集中しその技巧を「脚色や態度にまで延長されるには不十分であつた」新技巧派(芥川竜之介・菊池寛・久米正雄)の芸術の、二つの未成長に終ったものをさらに発育させ「一つの合成の域にまでに達したもの」が、『文藝時代』に現われた傾向からみられるとした[6][7][110]。
彼等が、さうした芸術の傾向に、特殊な悦びを感ずるのは、彼等の心理機能が、何よりも、気分や、情調や、神経や、情緒やに最も強い感受性を持つからであり、そしてそれは、文化の芸術が、当然そこまでに導かるべき内部生命を持つからである。で、彼等の感覚の新しさは、そして生々した飛躍さは、当然新らしい文化人にそれを観賞する悦びを感ぜしめる。 — 千葉亀雄「新感覚派の誕生」[6]
人間の内面を超越する物理的な力(不測の鉄道事故)と、それに翻弄される人間との関わりを描いた横光の「頭ならびに腹」に代表される「新感覚派」の作品は、関東大震災後の新たな機械文明や交通機関のスピード感覚やリズム感、都市文学のモダニズムの要素を多く持ち、無機物(列車や車)を主語にした擬人法、人間集団の擬物化、奇抜な比喩、映画的な技法の表現を取り入れた文体で、従来の自然主義文学や写実主義文学の平板な視点にはなかった新しい感覚を表現したものであった[83][21][23][62]。
横光は震災の4か月前に『文藝春秋』に発表していた「蠅」でも映画的手法を取り入れ、人間の意志を超えた些細な外的要因によって左右される人間の運命を描いていたが、そうした感覚を「完全に表現すること」が出来きれば、「生活と運命とを象徴した哲学が湧き出て来る」と感じたと語っていた[111][112][90]。その信念を抱き始めたこの新感覚派時代以降、横光は機械論的な比喩で世界を見る傾向を強め、些細な外的要因や偶然の一致への関心を晩年まで持ち続けることになる[113][90]。
なお、一口に「新感覚派」といっても、横光と川端でも作品の微妙な発想法の違いがあり、横光における「新感覚」には「認識論的」なものがみられ、川端の「新感覚」には「生死につながる縁の深さ」を表現する川端の特性を示す「存在論的」なものがみられる[16]。
特に川端には、自身の「輪廻転生・万物一如」の世界観の夢を、前衛芸術の表現法に重ねている傾向がみられる[23][19]。そこには、人が自身の存在を、現世・現在の自分だけがかけがえのない唯一の存在だとする醜い執着や保身が、人の我欲や争いを生んでいるという、川端の思考があり、この「新感覚派」の表現法にも人間の現世我欲に対抗する川端の主客一体、汎神論的な宇宙観が込められている[23][19][114]。その川端は「新感覚派」の表現の理論的根拠を、〈一 新文藝勃興〉〈二 新しい感覚〉〈三 表現主義的認識論〉〈四 ダダ主義的発想法〉の4節から成る「新進作家の新傾向解説」と題する論で以下のように詳説した[2][7][19]。
まず新感覚派主義の作品は、その手法や表現において、美術や音楽の感覚の働き方に近づくものであるとし[12][115]、ドイツ表現主義からおもに影響された〈表現主義的認識論〉という理念を掲げて、「新主観主義的表現」という主観に絶対性をおく認識の表現法を説き、その主観を自由に流動させるところから「万物一如」といった一元世界が成立して、東洋的な「主客一如主義」にもなる、と芸術理論が説明された[12][115][2][17][19]。
新感覚派の表現は、従来の自然主義的な描き方や、見る対象と自分とが「別々にある」と考えて観察する古い客観主義の認識とは異なり[12][7]、例えば、百合を見て認識した時に、「百合の内に私がある」「私の内に百合がある」という気持ちで物を書き現そうとする表現であるとしている[12][7][19]。
自分があるので天地万物が存在する、自分の主観の内に天地万物がある、と云ふ気持で物を見るのは、主観の力を強調することであり、主観の絶対性を信仰することである。ここに新しい喜びがある。また、天地万物の内に自分の主観がある、と云ふ気持で物を見るのは、主観の拡大であり、主観を自由に流動させることである。そして、この考へ方を進展させると、自他一如となり、万物一如となつて、天地万物は全ての境界を失つて一つの精神に融和した一元世界となる。また一方、万物の内に主観を流入することは、万物が精霊を持つてゐると云ふ考へ、云ひ換へると多元的な万有霊魂説になる。ここに新しい救ひがある。この二つは、東洋の古い主観主義となり、客観主義となる。いや、主客一如主義となる。 — 川端康成「表現主義的認識論」(「新進作家の新傾向解説」)[12]
そうした表現の態度は、片岡鉄兵、十一谷義三郎、横光利一、富ノ澤麟太郎、金子洋文などの作品にみられ、特に横光の諸作品の擬人法的手法に見られるものだと説明された[12][7]。そして彼らの表現の態度は、描写を立体的に鮮明にさせ、「自然人生の新しい感じ方」、「新しい感情」であるとしている[12][7]。
横光氏の作品のどの一節でも開いて見給へ。その自然描写を読んで見給へ。殊に、沢山の物を急調子に描破した個処を読んで見給へ。そこには、一種の擬人法的描写がある。万物を直観して全てを生命化してゐる。対象に個性的な、また、捉へた瞬間の特殊な状態に適当な、生命を与へてゐる。そして作者の主観は、無数に分散して、あらゆる対象に躍り込み、対象を躍らせてゐる。(中略)横光氏の表現が溌溂とし、新鮮であるのも、このためである。横光氏の作品に作者の喜びが聞こえるのも、この見方のためである。 — 川端康成「表現主義的認識論」(「新進作家の新傾向解説」)[12]
さらに川端は、ダダイスム主義の詩や小説における、時によっては「訳の分らない」こともある芸術表現を一種の「発想法の破壊」だと捉えながら、ダダイストは精神分析学における「自由連想」法から新しい創造的発想法を見出し、それは従来の表現法に反抗した、他人には「分らない」頭の中の主観・直観・感覚そのままに近い表出であるとした上で[12][115][2][7][注釈 19]、『文藝時代』の新感覚派は、そのダダイストの「分らなさ」を喜んで真似ようとするのではなく、そこから[注釈 20]「主観的な、直観的な、新しい表現が導き出さるべき暗示」を見出し、「言語の不自由な束縛」や古い発想法から解放されることを目指すとしている[12][115][2][7]。
川端は、そうした自分たちの表現を〈ダダ主義的発想法〉と名付けた上で、「心象の配列法が、主観に忠実となり、直観的となり、同時に感覚的になつて来たのである」と説明し[12][115][7]、ベネデット・クローチェの『表現の科学および一般言語学としての美学』(1902年)にも触れ、その説を「心象即表現即芸術と云い約めることが出来る」としている[12][17]。また、その「心象をそのままの姿で文字に現はさうとする気持」を持つ自分たちの表現法は、小説の構成における「速度」と「同時性」の視点が重視され、「表現を心象の豊かな花園とし、みづみづしい感覚が直観と抱き合つて踊る世界」と化すところに創造的要素があるとしている[12][17]。
こうした新感覚派たちの作品傾向の説明などについて、当時生田長江から「旧いといふのが旧い」といった批判や「『新時代』の蛙等よ」という罵りの言葉が浴びせられ[68][15]、横光の「頭ならびに腹」は宇野浩二から「徒らに奇を衒ふ表現」と酷評された[110][33]。また、新感覚派はポール・モランの『夜ひらく』(1922年)の真似ではないかという生田の意見もあり[116][68][33]、それに対し川端は、『夜ひらく』の堀口大学邦訳(1924年7月)が出る以前から新感覚派的な文章はあったとし反駁した[116][68]。
既成作家からのそうした『文藝時代』に対する強い風当たりもあり、同人の中には自分は「新感覚派」ではないと主張して既成作家に抗議する者(佐々木味津三)も出てきた[117][13][118][68][119]。実際、同人で「新感覚派」と呼べる者は、横光、川端、片岡鉄兵、今東光、中河与一、ほか数名(佐佐木茂索、十一谷義三郎など)であり[2][118][17][90]、さらにその中でも文学的実験を真面目に続けていたのは横光だけ、という側面もあった[90][120]。
その横光本人は非難に抗する論の中で、「未来派、立体派、表現派、ダダイズム、象徴派、構成派、如実派のある一部、これらは総て自分は新感覚派に属するものとして認めてゐる」として[121][2][17]、立体派の例は川端の「短篇集」(掌の小説)を挙げつつ、「プロットの進行に時間観念を忘却させ」ていると説明し[121][17]、構成派の例は、片岡鉄兵や金子洋文の作品、芥川龍之介の「藪の中」を挙げている[121]。また、新感覚派の「感覚的表徴」とは「自然の外相を剥奪し物自体へ躍り込む主観の直感的触発物を云ふ」として、横光は認識論的な主客合一の中に感覚の新しさを希求している傾向がみられる[121][16]。
横光は自身の過去の作品で「内面的な光り」が最も出ているとする「笑はれた子」(横光が天才視する志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」に影響された作品[70][122])から、目下の「街の底」「青い大尉」といった新感覚派作品を書くに至った経緯に触れ、自身が天才ではないと悟った芸術家は「外面を愛するにちがひない」とした上で、「より多く内面を響かせる外面は、より多く光つた言葉である」ゆえ、自分は「より多く光つた外面(言葉)」を愛すると宣言した[123][124][90][120][注釈 21]。
言葉とは外面である。より多く内面を響かせる外面は、より多く光つた言葉である。此の故に私は言葉を愛する。より多く光つた外面を。さうして、光つた言葉をわれわれは象徴と呼ぶではないか。此の故に私は象徴を愛する。象徴とは内面を光らせる外面である。此の故に私はより多く光つた象徴を愛する。より多く光つた象徴を計画してゐるものを、私は新感覚派と呼んで来た。 — 横光利一「内面と外面について」[123]
横光は後年に、この「新感覚派」の時期の自身の傾向や文体を振り返り、「国語との不逞極まる血戦時代」だったとしている[125][126][90]。
なお、政治思想に裏打ちされたプロレタリア系の『文藝戦線』と、芸術至上的な新感覚派の『文藝時代』は対立的ではあったものの、既成作家の作品(身辺の日常生活の些事をそのまま描く私小説)とは違う新たな文学を求めていた点は共通し、両者ともに、都市やその中の職場・集団である工場や船舶、あるいは列車や機関車など、社会的な空間に着目し作品世界を創作していた点では似ていた[21]。
東京帝国大学文学部在学中の1921年(大正10年)2月に同志らと第6次『新思潮』を発刊していた川端康成は、その継承の承諾を第3次・第4次の先輩作家・菊池寛から快諾された経緯があり、2号に掲載した自身の小説「招魂祭一景」も菊池から賞揚され、それ以来、川端の元には菊池の吹聴により寄稿依頼が舞い込むようになった[36][127][2][38][128][129]。
伊藤初代と所帯を持とうとした際にも住む家の心配や生活費を援助されるなど、川端はその後も多大な恩顧を菊池から受け続け、幼い頃に肉親を亡くした自身の孤独な境遇から菊池の好意に精神的な利益を感じていた[36][127][2][130][131][132][128]。「才能のある若い者同士」は友だちになったらいいと、当時最も期待を寄せていた無名の横光利一を川端に紹介し、二人が無二の親友になるきっかけを作った人物も菊池であった[127][133][2][130][131]。その後菊池が1923年(大正12年)1月に『文藝春秋』を創刊した際も、川端は第6次『新思潮』同人や横光とともに期待の新人同人として迎え入れられた[20][44][20][7]。
そうした恩顧があったため、関東大震災復興後に自分たちも新たな文芸同人誌を創刊したいと考えた際も、川端は菊池を傷つけはしないかとずいぶん心を砕き、事前に菊池に了解を得て同意をとった[134][135][8][43][66]。横光も「(菊池氏は)決して悪くはお思ひなさるまいと存ぜられ候」と川端に伝えていた[136][66]。最も嘱望していた横光まで仲間に入っていることに少なからずショックを受けたとみられる菊池だったが[44]、一抹の寂しさを感じながらも彼らの巣立ちを「一言半句の反対もなし」にすぐに認めた[44][135][66][43]。
その一方、菊池はその後、今東光に対しては「君らは、明らかに『文藝春秋』に損害を与えるじゃないか」と怒気をみせていたともされる[43][7]。菊池は当初の第6次『新思潮』承認の時、うぶな帝大生の川端の仲間に「不良少年」として有名な東光が混じっていることに難色を示していたことがあった[137][44][2][138][139][注釈 22]。
若手の同人誌創刊を認めた菊池は、川端や横光らが新たな同人誌で発言しやすいように配慮し、『文藝春秋』9月号の編集記内で、「『文藝春秋』の編集が従来とも同人本位ではないのだから、今後は同人は誰々だと指定しない」と書いて、同人解散宣言を行なった[143][135][66][2][140]。同誌は菊池指揮の下に菅忠雄が編集担当になった[144][44]。
しかし、川端と横光の新雑誌『文藝時代』が近々創刊されるという噂を耳にしていた文壇の間では、菊池の『文藝春秋』同人解散処置を見て、若い作家(川端、横光ら)の叛乱の気配を察した菊池が彼らを切り捨てたと解釈したり、菊池が飼い犬に手を噛まれたと揶揄したりするなど、両者の対立事件として様々な揣摩臆測やゴシップが広まった[135][66][44][95][68][139]。ダダイズム系の萩原恭次郎・橋爪健らの雑誌『ダムダム』は、「菊池寛は育ての子に脚蹴にされた」という面白半分の野次まで飛ばし、両者の「華々しい合戦」を期待していた[95]。
『文藝時代』が創刊された同月の『文藝春秋』10月号の誌上には、『文藝時代』に対し揶揄的とも取れる一文が掲載されるなど、二者間の「微妙な関係」が第三者的にも察せられる面もあった[2]。
新進作家の団結云々の如き、創作丈 では出られない故、一緒になつて騒いで見るといふ以外に、多くの意義ありや。気力の薄弱と自信の少きを示すことにならねば幸甚也 — 『文藝春秋』大正13年10月号誌上[2]
そうした流れをきっかけに、以前から菊池との関係が芳しくなくなっていた今東光が[注釈 23]、『読売新聞』紙上で以下のような勇み足の随筆を発表した[148][44]。さらにその数日後にも東光は同紙上で、文芸の「復興」ではなく「建設」を目指す『文藝時代』のような新たな雑誌がこれまで夢想されなかったのは時代の罪であると息巻いた[149][44]。
或る有力な作家の傘下に寄集する某々等がこの挑戦の途について朋党を結んだのは、恬然として恰も恥なきものであるといふのは、明らかに事理を逸した誤解である。何人がこの里巷の小人の言辞を弄するのだ。さういふ言葉を面白がらずに聞くならば、其こそ無理慮外の憎悪が籠つてゐると解釈する。妄りに醜辞を弄するのは士君子の執らないところだ。僕達は慎戒するところと、さうでないことの区別をちやんと知つてゐるのだ。(中略)僕の解釈だと、将来の日本文壇のために勇ましく巣立ちをしようといふ僕等だ。喜んでこそくれるのが然るべきのに、無遠慮にポアンダンテロガシヨンをくつつけるのは甚だ香ばしくないことだと思ふ。 — 今東光「人生を甞める舌」[148]
その空気の中、さらにアナーキスト詩人の橋爪健が『読売新聞』紙上で、菊池の『文藝春秋』の「功罪」を追及しはじめ、「『文藝時代』が新進作家の大同団結によつて、一菊池のみならず既成文壇へのある種の挑戦を意味してゐると見られるならば、吾々は刮目してその将来を期待すべきであらう」と述べた[150][44]。そして、「ともかく此の『文藝時代』の誕生によつて、文藝春秋はすでに“故”となつた」と二者の対立を煽り[150][44]、その後も追及を続けた[151][44]。
川端康成は、これらの対立を煽る醜聞や憶測に対して完全否定し、『文藝春秋』と『文藝時代』の不仲説が事実無根であることを説明しながら、事態を収拾するために菊池寛を以下のように完全擁護した[135][44]。その後中河与一も、川端同様に事態の収束を図った[152][44]。
私達が没個性を強ひられ、菊池寛氏の勢力扶植に利用されたと見るのは誤りである。若し没個性と見えたなら、それは私達が力足らなかつたのである。(中略)私達が菊池寛氏から受けた精神的並びに物質的恩恵は世間の想像する以上であらう。(中略)例へば、菊池寛氏の家を眺めても、街で菊池氏の家人に遇つても一種の感慨が湧く程に、深く沁みた感情を持つてゐるのである。一「文藝春秋」や、一「文藝時代」なぞに左右されるものではないのである。芸術的立場や世間的損得を超越して動かされない敬愛の念を持つてゐるのである。第三者からの余計な中傷や忖度は止して貰はう。 — 川端康成「『文藝時代』と『文藝春秋』」[135]
横光利一も川端同様に噂を否定し、「私は文藝春秋のために多大の恩恵を受けて来てゐる。それに何故に足蹴にするか。足蹴にするべき理由は少しもない。これは私だけでは決してないと思ふ」として、「菊池師はわれわれの此の我儘を了解して赦されたのである」と菊池を気づかい[153][9][7]、片岡鉄兵も、元『文藝春秋』同人の川端らが菊池を尊敬する点においては「従来と変りはないと信じる」とし、「立派な認識の上に立つた人と人との交渉には、ひろい、智的に自由な道徳がある」と両者の不仲説を『時事新聞』紙上で否定した[154][153]。
しかし、同年『文藝春秋』11月号に載った「文壇諸家価値調査表」(文士採点表)をめぐり、その遊びの行き過ぎた誹謗に底意を感じた今東光と横光利一が怒り心頭した[155][156][66][44][9][68]。
東光は、「人を軽蔑するのも甚だしいもんだ。若し、これを白日の下で、天下の衆に披露して憚らないならば、菊池寛こそ怪しむべき編集者である」として、「こんな下劣で野卑な『文藝春秋』に執筆しないことだ……損傷された作家達よ。この名誉恢復のために立ち給へ」と煽動した[157][97]。
その採点表は、直木三十三(のち「三十五」と改名)が作成したもので[146]、各文士の〈学殖〉〈天分〉〈修養〉〈度胸〉〈風采〉〈人気〉〈資産〉〈腕力〉〈性慾〉〈好きな女〉〈未来〉を、100点満点中の何点なのか採点し、60点以上を及第、60点以下50点迄を仮及第、80点以上を優等、と判別していた[9][158]。
横光は、「俺は自分一個の腹立たしさではないのだ。こんなことを平気で文藝春秋がやつたと云ふことは第一、君(川端)と僕との顔をもうめちやくちやに踏み潰したんだ。君と俺との文藝時代の者達に対する苦境なんかも全然無視したやり方だ」と憤慨した[156][97]。「文壇諸家価値調査表」で、川端は〈修養〉〈性慾〉だけが優等。東光は〈腕力〉100点、〈資産〉が「不良性」、〈好きな女〉が「女優」、〈修養〉〈人気〉が劣等。横光は〈修養〉〈度胸〉だけが優等で、〈資産〉の欄に「菊池寛」と書かれていた[158][44][注釈 24]。
無名時代の横光は、一日一食(10銭のラーメン一杯)といった切りつめた貧乏生活をし、横光を気に入っていた菊池が牛鍋などをおごって「君食えよ、食えよ」とすすめても、空腹をこらえて遠慮していたほどのストイックな性格であった[127][20]。そんな生真面目な横光だったからこそ菊池は横光を一番可愛がり援助を惜しまなかったが[20]、その好意や恩恵に甘えるきることを潔しとしなかった横光にとっては、他人から指摘される辛辣な採点表は彼のプライドを傷つけるものであった[127][66]。
東光は『新潮』12月号の誌上で、この採点表掲載を許可した菊池寛と『文藝春秋』に対し、「日々、春秋社に寄集する大たわけ、一人で喧嘩の出来ない奴、鼻毛を読みながら生きてゐる四十男、才能のない文学狂、それらの中に坐して、恰もユーゴーを気取る菊池寛が、憂鬱にならないで嬉々としてゐるならば、余は彼の神経を疑ふのだ」と毒舌を吐いた[145][95][44]。
さらに、「文壇の北条高時よ」と菊池に呼びかけ、「御身はもう衰亡の
横光も同様に、東光の家で書いた反駁の投書原稿を『読売新聞』に速達で送り、その足で川端の下宿に立ち寄り報告するが、それを知った川端に、東光は菊池の弟子でもなく世話にもなっていないから怒っても当然だが、君は可愛がってくれている恩人に背いてはいけないと諌められた[155][9][75][68]。横光はなんとか昂奮を鎮め、川端と一緒に急遽読売新聞社に出向き、その原稿を撤回した[66][75]。読売は返還を拒んだが、代りのものをその場で書いて渡し、事なきを得た[66][155][97][44][注釈 25]。
東光の文が『新潮』12月号に掲載されるのを知った川端は、同月号の『文藝時代』に、「『文壇諸家価値調査表』を書いたのは直木三十三だ。(中略)ケシカラヌデタラメである」と表明しつつも、「しかしそれを掲載したからと云つて、例へば今東光君のやうに菊池寛氏や文藝春秋を責めやうとは、私は思はない」という一文を書いた[160][68]。
菊池寛は、今東光の中傷に対してすぐさま反論し、東光のことを「小人邪推」「ユダ」と一刀両断に切り捨てた[146][44]。そして直木三十三の書いた「文壇諸家価値調査表」の非礼に陳謝しつつも、その表を『文藝時代』同人を傷つける目的だと邪推することは「自惚れも甚しい」と東光を叱った[146][95]。また、自分は多忙のため最近の編集担当は菅忠雄に一任していたため、その表は一瞥したにすぎないと述べた[146]。
『文藝時代』対『文藝春秋』との問題についても菊池は言及し、『文藝春秋』の同人制を廃止した理由を、「既成文壇反対の『文藝時代』と、既成文壇肯定の『文藝春秋』の同人が、同一である不体裁を、彼等の為にも、『文藝春秋』の為にも除きたかつたのだ」と説明し、以下のように語った[146][44][95]。
「文藝時代」の創刊は、彼等にとつては当然の行動であり、必然のうごき方であらう。「文藝春秋」は、彼等同人の「文藝春秋」である前に、菊池寛の「文藝春秋」であり、「侏儒の言葉」の「文藝春秋」であり、直木三十三の「文藝春秋」であつた。殊に自分が、独裁を振つてゐたから年少気鋭の同人が、他に自由の新天地を、憧憬するのは、当然である。自分は、彼等に新雑誌創刊の企てあるを知るや、自分にとつては、やゝ寂しき必然として委細を問はず承諾したつもりである。殊に、自分との情誼を重んずる一、二の同人は「貴下が不賛成ならば自分は加入を拒絶する」とまで、云つて呉れた。だが、自分には、賛成不賛成を考える余地はなかつた。川端が了解を求めに来た時、あまりに軽く一諾し去つた為に、現「文藝時代」同人某氏の如きは、「もつとお考へになつては」と、注意してくれた程である。 — 菊池寛「小人邪推」[146]
東光はこれに対して再び菊池に「卑しい書き方だ。唯物主観の現世主義者が、まるで恩を売るやうな書き方だ」と反論し、「『貴下が不賛成ならば自分は加入を拒絶する』若しくは『もつとお考へになつては』などと
どれほど世話になつた子分でも、愛想をつかすと親分に杯をつき返して他人になる法もある。(中略)
然もそれは恩を忘れたのではない。
且つ、人生に於ける恩誼といふものは可成りに儚いものだ。僕自身が叛くやうに、僕も叛かれる。
菊地氏よ。僕のやうに直言しないで、君に叛いてゐる者のあることを忘れ給ふな。
凡てが貴下に服してゐると思つては不可 ません。ローマを焼いたネロでさへ殺される。
また、欺る人の許にあつて、卑屈に、媚び、いじけた振舞ひを振舞ふ人よ。必ず叛きたまへ。寂しい叛反人になつて独りで生きてみたまへ。
これ等は両者の共に処世の訓戒とするに足るところのものだと思ふ。
所詮、新時代は反逆だ。 — 今東光「ユダの揚言」[147]
東光が反論を載せた同号には、「文壇諸家価値調査表」を書いたのは俺だと自白した直木三十三による「さあ来い」と題する一文が寄せられ、「さあ、殺すなら殺してくれ」「さあ殴るなら殴りに来い」と東光を挑発しながらも、「今君は僕の敬愛する友人である」とも書き、陰で悪口を言う連中は気に食わないとした[161][68]。
東光はその後『文藝時代』同人から脱退し[162][66][97]、『新潮』誌上で「文藝時代の三屑物は一に菅忠雄、二に南幸夫、三に○○○○、また文藝時代の三馬鹿は一に中河与一、二に加宮貴一、三に酒井真人」と(○○○○は伏字)、これまでの仲間も罵倒した[163][95][68]。7月には、『文藝春秋』『文藝時代』に対抗する新潮社の『不同調』(中村武羅夫主宰)の創刊同人に参加し、東光はアンチ『文藝春秋』の急先鋒となった[44][140]。『不同調』9月号は「菊池寛罵倒号」と言ってもいいほど菊池を激しく罵倒攻撃する号となった[44][140]。
この東光と菊池の対立は文壇で大きな反響となり、東光はその後、村山知義、佐藤八郎、金子洋文らとプロレタリア系の『文党』を創刊して移籍した[137][97][44][95][68]。東光ら同人は村山が描いた看板を胸と背に掛けながら、メガホンで桃太郎の歌の節で「既成文壇討たんとて」とチンドン屋まがいの行列で街を練り歩いた[95]。
一方、川端の粘り強い説得で、『文藝春秋』との仲違いを免れた横光だったが、その時の怒りは、「いづれあんな背競べをマークされてゐて黙つてゐる奴ばかりもなからうと思ふが。もし黙つてゐる奴ばかりなら、そのときは俺一人、文壇と角力を取つて、負けても勝つてもいい、打ち死する覚悟」であった[156][68]。
横光が川端の説得を聞き入れ、採点表を掲載した『文藝春秋』に対する怒りを収めた理由について東光は、「老母と若い細君を抱えた三文文士の生活では菊池寛の庇護を離れてはどうすることも出来なかったに相違ない」とし[155]、当時の横光の貧乏だった境遇に触れて同情を寄せた[155][9]。そして自分が横光と一緒に川端の下宿に行かなかったことを、「僕が横光と同行しなかったという事実は、まさに運命的だったと思う」と述懐している[155][140]。
なお、川端が横光だけを守り抜き、東光の行動を止めなかったのは、血の気の多い東光が聞く耳を持たなかったであろうことと、マイナスからプラスに転じられる東光の激烈な強い性格や陽性の気質を熟知していたから、彼を放任したのではないかと研究者諸氏は見ている[97][44][75][注釈 26]。
この一連の騒動で、東光が『文藝時代』まで脱退してしまい、新潮社の『不同調』やプロレタリア系『文党』に流れていったことで、期せずして、当初は微妙なところも察せられた『文藝時代』と『文藝春秋』の関係が完全修復し、以前よりも結成力が強くなるという皮肉な結果をもたらした[44][95][164][68]。
騒動が終ってみれば、喧嘩っ早い東光一人が割を食った形となり、その後作家の地位を固めていった川端や横光を味方につけて盤石となった菊池は「文壇の大御所」として力を増し、『文藝春秋』は昭和の文壇において一時代を築いていくことになる[44][95][68]。その後の昭和文壇の『文藝春秋』は左翼陣営から「ブルジョア文壇」の代名詞として猛攻撃されるようになるが、プロレタリア文学が文壇で幅を利かせるようになると、対立ぎみだった『新潮』陣営と『文藝春秋』陣営の不仲は完全に解消され、芸術派の作家らはその後新興芸術派などで大同団結するようになっていくことになる[165][10]。
映画との結びつきについては、同人のうち横光利一、川端康成、片岡鉄兵、岸田国士が、映画監督の衣笠貞之助とともに、1926年(大正15年)4月に「新感覚派映画聯盟」を結成した[1][30][166][167]。
新感覚派映画聯盟では、横光が題名をつけた無字幕の映画『狂つた一頁』のシナリオを川端がまとめて『映画時代』7月・創刊号に発表し、9月に映画公開された[168][9]。無字幕にしたのは映像の純粋性を保つためで横光の主張であった[166]。この作品は、ドイツ表現主義映画の『カリガリ博士』(1920年日本公開)から触発されたもので、日本的家族観を投入している工夫が見られる[30]。
この映画製作がきっかけで、『文藝時代』1926年(大正15年)10月号(第3巻第10号)は特集映画号となり、稲垣足穂ら7名がシナリオ作品を掲載した[169]。『狂つた一頁』は全関西映画協会から優秀映画となりメダルも授与されたが[170][169][171]、興行的には振るわず、新感覚派映画聯盟はこの一作のみで終った[170][169]。『狂つた一頁』は日本初のアバンギャルド映画として、世界映画百年史の中に位置づけられ[30]、多くの国々の映画界でよく知られている作品である[120]。
出典は[1][9][2][172][119][17][15][100][169][171][173]
『文藝時代』の主要メンバーの横光利一などが作家として成功し、他の大きな商業雑誌にも迎えられるようになるにつれ、「既成」「新進」といった区別が実質上なくなり、同人の『文藝時代』への寄稿が遅れたり、次第に同人があまり書かなくなったりという状況にもなった[10][8][91][97][11]。新感覚派的表現について川端康成は、1925年(大正14年)3月号で「少女時代に洋装してゐたからと云つて、大人になつてからまで洋装するかどうかは、今後の問題だ」とも語っていた[174][17]。
また、次第に隆盛になってきたプロレタリア文学の方に共鳴していった片岡鉄兵が左傾化したのをはじめ、新感覚派と親しかった学生の藤沢桓夫や武田麟太郎もプロレタリア文学運動に加わっていった[10][8][17]。石濱金作も転換し、今東光と鈴木彦次郎も旧労農党に加入してしまい、横光はかなり動揺した[10][8]。
泰然自若としていた川端は、プロレタリア文学は否定してはいなかったが、元々唯心論や心霊的な世界観を持っていたためマルクス主義の唯物史観には馴染めなかった[175][10]。また、プロレタリアの正義が「知識階級の生活感情に新しい芸術的な触れ方を見出してゐない」ことを疑問視していた川端は、「知識階級の人々の苦悶を新しく解決するのでなければ」、人は文芸として満足することができないとしていた[107][164]。
当初は同人の輪番制だった編集も、大正末ごろから金星堂の編集に変り、1926年(大正15年)12月号の編集後記には、「今月号は同人の名がタッタ三人しか見当らない。寂しい気がする、ぐらゐで勘弁願へればいゝが、これでは同人雑誌の意味をなさぬ、怪しからん、と云はれたら一言もない」といった不満が書かれた[176]。
翌年1927年(昭和2年)3月号の編集後記では、「毎号同じ顔触も、いたづらに読者を倦怠にみちびく恐れあり、ひいては雑誌の売行上多大の影響を与へる点から、同人の方達に諒解の上、今月の本誌から、同人雑誌の概念を一掃した」という告知もなされた[176][97]。この頃、プロレタリア系の『文藝戦線』が発禁となったため、左翼系の作家が『文藝時代』に小説を連載するなど、実質的には「新感覚派」の雑誌ではなくなっていた[176]。
『文藝時代』自体の売上げもふるわなくなって、終りの方では7割の返品にもなっていた(経営難)[66]。そうしたことからも、金星堂の社長・福岡益雄から休刊が提案され、1927年(昭和2年)5月号(第4巻第5号)をもって通巻32冊で廃刊することとなった[66][10][8][9][176][11]。
『文藝時代』の終刊後、川端と横光が一緒に同人になった雑誌は、堀辰雄・深田久弥・永井龍男・吉村鉄太郎らが1929年(昭和4年)10月に創刊した『文學』であった[10][177]。同人誌『文學』は、『詩と詩論』(1928年創刊)と同様に、ヴァレリー、ジイド、ジョイス、プルーストなどの新心理主義を紹介した雑誌で、「意識の流れ」などを取り入れた方法を模索していた[10]。
この昭和初頭の頃は、プロレタリア系の作家が「ブルジョア文学を撲滅しろ」「ブルジョア作家は抹殺しろ」と気勢を上げ、「全日本無産者芸術連盟」(機関誌『戦旗』)などの左翼文学者が文壇の跳梁となり、その圧力で純文学が凌駕されていた時期だった[126][178][10]。そうした風潮に異論を呈した堀に共鳴した川端も、それまで堪え忍んできた左翼作家の「退歩」具合に「厭気」がさし、「政治上の左翼」が今では「文学上では甚だしい右翼」になっていると怒りを表明して、横光とともに堀の同人となった[178][10][177]。
その後、川端は「プロレタリア作家が生かして」描こうとしなかった浅草を舞台としたモダニズム文学「浅草紅団」で浅草ブームを起し[179][180][10]、横光は新心理主義の手法をヒントに新しい文体に挑んだ「機械」を発表し高い評価を受けた[126][10]。
20世紀前衛芸術派の一翼を担っていた存在として活動した『文藝時代』は、プロレタリア文学系の『文藝戦線』とともに、大正後期から昭和初期にかけ、文学史的に大きな二大潮流を築いたと位置づけられている[2][14][15][16][93]。日本文学史で関東大震災翌年の1924年(大正13年)以降を「近代後期」とみなすのは、この年に時代の潮流を築いた二つの雑誌が創刊されたからである[93]。
『文藝時代』は3年足らずで終刊となったが、それまでの旧弊とした文壇に新風を吹込み、次代の昭和初期の文学への活気の源泉になったと位置づけられ[21][119]、そうした、既成文壇とは異なる新しい動きを目指したこと自体に大きな意義があったとも評価されている[15][119]。当時の文学青年や新作家たちも、『文藝時代』創刊を歓迎していたとされる[101][15]。
当時学生だった高見順は、新感覚派の『文藝時代』が『新潮』の堀木克三や藤森淳三、生田長江などの「既成作家や旧文壇御用の月評家たちから、クソミソにやっつけられていた」ことに触れつつ、40銭の『文藝時代』創刊号を大学前の郁文堂で購入した時の感激を、「ともあれ、私たちは、あの『文藝時代』の創刊号をどんなに眼を輝かして手にしたことか」と述懐しつつ以下のように語っている[15][97]。
私は『文藝時代』を買って本屋を出るとすぐ開いて、歩きながら読んだ。ここに、私たち若い世代のかねて求めていた、渇えていた文字が、初めて現われた。そんな気持で『文藝時代』の創刊号を迎えた。こうした感激を、私と同年輩の文学愛好者はひとしくその頃、味わったのではなかろうか。(中略)
現われた新文学が今からすると、たとえどんなに安手のものであろうと、それを支持したということは、とりもなおさず、そうして新文学の興ってきたことに喜びを感じたのである。(中略)新感覚派も新文学とするならば、文藝戦線派も新文学である。しかるに、私は新感覚派の方を文学的に支持した。そしてこれは私だけのことではない。これは、どういうことだろうか。『文藝戦線』の文学作品がいわゆる新文学らしい魅力がなかったことも、私をして新感覚派支持に傾けさせた。 — 高見順「昭和文学盛衰史」[15]
伊藤整は、新感覚派は「その時代精神の文学における反映」という意味を持っていたとし、新感覚派の『文藝時代』の発刊により「日本文学が初めてヨーロッパの現在の文学と歩調を共にした」と位置づけながら、第一次世界大戦後にヨーロッパ文学が突然変化したことを実感した日本文学者が、それに応じて「現在の文学」を作らなければならないと意識したことは偉大なことだったとして、「息せき切って、多くのものを見落し、飛び越えながら彼等(西欧作家)に追いついたと日本の作家が感じた」スタートがこの時(『文藝時代』創刊)ではないかと考察している[101][97]。
そして伊藤は、『文藝時代』の新感覚派文学や、それに続く新興芸術派、新心理主義系の「モダニズム」作家たちは、新たなヨーロッパ文学への「追跡の無理」のため、同時に多くの欠点や弱点もまた持たなければならなかったとし[101][11][97]、近代ヨーロッパを模倣しつつも、ヨーロッパとは近代化への変遷や文化の異なる日本では、西欧の風俗や流行、思想の名称など、日本人の生活の実質とは基本的には結びつかない現象面だけの模倣になる傾向が強いことを指摘しつつ、その文学運動が長続きしなかった根本原因を、次のように解説している[101][11][97]。
しかしながら、そうした弱点を持っていたにもかかわらず、「時には外国作家の形式を模倣すること」により、新たな形式を作り出した『文藝時代』を皮切りにした新文学運動は、「そこへ生活意識をはめ込んで育てる」という、元とは逆現象的な実験に、「血肉を注いだ」と評価し[101][97]、その実験の半分を担っていたともいえる『文藝戦線』や『戦旗』は「新しい倫理的秩序のために生活意識を作り出す」という形の実験操作をしたと伊藤は捉えている[101][97]。
高見順は、『文藝時代』同人らが表現を第一義的なものとすることによりプロレタリア派に抵抗したことを指摘しつつ、「プロレタリア派を呑み込むことによって、それに抵抗」した新感覚派系の「不断の歯痛」こそが[注釈 27]、大正文学には無かったものとして、昭和文学史に彼らの雑誌が位置づけられる所以に触れている[15][97]。
平野謙は『昭和文学史』の中で、既成文学への抵抗を試みた点において、「芸術革命」の『文藝時代』の新感覚派と、「革命芸術」のプロレタリア文学派は、同床異夢的な共同戦線を張っていたという見解を示している[182][183]。
平野は、田虫にあやつられモスクワ遠征に失敗するナポレオンを描いた横光の「ナポレオンと田虫」における「(ほとんど神のような絶対者の立場に近い)田虫にあやつられ、自立性を喪失する人間のすがた」と、疥癬によって密航を阻まれ、最終的に刑死した吉田松陰を描いた菊池寛の「船医の立場」における人間ドラマとの決定的な相違に触れつつ、そこに「一見同一のテーマを追求しながら、菊池寛が芸術の内容(素材)的価値を主張したのに対して、横光利一が形式主義的な芸術論を提唱しなければならなかったゆえん」があるとして、横光の「静かなる羅列」にも見られたその「人間性喪失」のテーマが、ある点でプロレタリア派と共通する面があったとしている[182]。
マルクス主義文学のいわゆる「自己疎外」と横光の人間性喪失とは、ある点で共通の面を所有していたのである。「静かなる羅列」(大正14年9月)のような非情な作風にいたれば、いわゆる唯物史観の公式とのちがいはほとんど一歩の差ということもできる。芸術左翼と左翼芸術とはこの程度には共存することができたのである。しかし、プロレタリア文学がマルクス主義文学にみずからのすがたを変貌させてゆく過程は、やはりそのような共存を打破せずにおかぬ過程でもあった。横光の文学的僚友・片岡鉄兵、鈴木彦次郎、今東光らのやや唐突な左翼化のうごきは、かえって横光利一の立場を反コムミュニズム文学の立場に固定化させる傾きとなった。 — 平野謙「昭和文学史」[182]
『文藝時代』が作り出した気運は、その後の新たな芸術派のグループ結成や同人誌創刊にも影響を与え[21][119]、春山行夫、北川冬彦、三好達治らによる1928年(昭和3年)9月創刊の『詩と詩論』や、淀野隆三らによる1930年(昭和5年)5月創刊の『詩・現実』が生れることにも繋がった[119]。
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