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日本の歌手、女優、タレント (1967-) ウィキペディアから
堀 ちえみ(ほり ちえみ、1967年〈昭和42年〉2月15日[1] - )は、日本の歌手、女優、タレント。本名、尼子 智栄美(あまこ ちえみ)旧姓、堀。芸名は本名の『智栄美』を平仮名表記の『ちえみ』にしたもの。
大阪府堺市東区出身。ホリプロ(アイドル時代)を経て、松竹芸能所属。実子5人、現夫の連れ子2人の計7人の子どもが居ることでも知られる。
1981年に開かれた第6回ホリプロタレントスカウトキャラバンの優勝をきっかけとして芸能界入り。このオーディションの模様は全国放送され、終了直後に通っている学校の教師から電話がかかってきたが、その内容は学校に無断でテレビに出たことに対する叱りの電話だった[注釈 1]。
オーディション翌日、ホリプロ社員を交えてデビューについて話そうとした所、両親に芸能界入りを反対された[注釈 2]ため泣きながら「どうしても芸能界に入りたい!」と主張した。それでも両親から断固反対されたが、祖父の説得により無事芸能界入りが決まった[注釈 3]。
1982年3月に『潮風の少女/メルシ・ボク』で、アイドル歌手としてデビューする。なお、デビュー当時のキャッチフレーズは「GOOD FRIEND」。堀の代表曲としては、1983年『さよならの物語』、1984年『クレイジーラブ/愛のランナー』、1985年『リ・ボ・ン』など。また同期生のデビューでは、小泉今日子、松本伊代、早見優、石川秀美、三田寛子、シブがき隊、中森明菜らが居り、「花の82年組」とも言われた。さらに、1984年末の『第35回NHK紅白歌合戦』には『東京Sugar Town』で初出場を果たしている。
1983年にTBS系列で放送されたドラマ『スチュワーデス物語』(原作:深田祐介)で大映ドラマ初主演し、本作のヒットにより一躍人気アイドルの仲間入りをした[2]。劇中での「教官!、私はドジで間抜けでノロマな亀です。 だけど、スチュワーデスに絶対なるという気持ち、教官が大好きだという気持ちは、誰にも負けません!」の台詞(太字部分)は流行語になり、翌1984年に新語・流行語大賞(第1回)候補に推され、大衆賞を受賞した。
この『スチュワーデス物語』以外にも、『スタア誕生』や『花嫁衣裳は誰が着る』でも主演し、「少女がいじめや冷酷な仕打ちに耐えながら、終いに幸運を手に入れる」という、1980年代の大映ドラマを象徴するキャラクターを演じた[3]。
ドラマの出演依頼はたくさんあったが、当時本人は歌手業に重きを置いて活動していた。しかし徐々にレコード売上が落ち、年下の後輩アイドルたちも現れたことから今後について悩むようになった[注釈 4]。
この様子に慌てたホリプロから、ニューヨークへの歌留学を提案された。色々考えすぎた結果、急性胃腸炎になり病院に運ばれたが、マスメディアに“拒食症で入院”などと報じられてしまった。前述のアイドルとしての悩みに加え、上記の報道により実家にマスコミが押しかけて家族に迷惑がかかったことから芸能界引退を決意した。
1987年3月、20歳の誕生日を迎えた直後、堀自ら電撃的に歌手活動を含め、芸能界を引退する事を表明した(アイドル歌手としてのラストシングルは『愛を今信じていたい』)。
1989年、松竹芸能に所属し芸能活動を再開する。大阪の外科医の男性と結婚[4]、1990年に長男、1992年に次男、1993年に三男と3児をもうけたが、1999年に離婚。
2000年5月、雑誌社勤務の男性と再婚、2000年に四男、2002年に長女と2児をもうけた。
2001年、14年ぶりのシングル『ピンクのアオザイの裾を夜風にあそばせ -サウスウインド-』をリリース。2005年から歌手活動を本格的に再開。大阪(9月17日)・東京(9月24日)で、18年ぶりのソロコンサート『青春の忘れ物』を行う。そこではタップダンスなどダンスパフォーマンスを披露した。東京公演ではゲストの中村あゆみと中村の代表曲『翼の折れたエンジェル』のコラボレーションも披露。また、この年には、『うたばん』(TBS)の企画『うたばんスター誕生』にて、早見優、松本伊代とともにキューティー★マミーを結成した。
2007年11月には、大阪Big Cat(13日)・東京duo MUSIC EXCHANGE(23日)でデビュー25周年記念ライブ『君といる世界』を開催。初めてのライブハウスでの公演となった。2009年には、SHIBUYA・AXでバースデーライブを開催、夏には23年ぶりの映画出演となる『色即ぜねれいしょん』が公開された。
2011年12月11日、SANKYO執行役員(2022年からはビスティ社長)の尼子勝紀[6]と結婚[7][8]。尼子はファンの一人だったという。堀は3度目の結婚であり、東京・明治神宮にて挙式。相手の連れ子が2人(当時中学生の長女と小学6年生の長男、自分の子は、21歳、19歳、18歳、11歳、9歳)[9]いるので、7人の母となった[10]。
2017年3月20日、デビュー35周年記念ライブ『Chiemi Hori 35th Anniversary Live 〜ちえみちゃん祭り2017〜』を品川ステラボールで開催した[11]。
2018年6月頃、舌の裏側の小さな口内炎に気付き通院治療を続けていたが、当初は「2016年から患っているリウマチ治療薬の副作用ではないか」と診断され、別の医者からも「ビタミンB不足ではないか」[2]と判断されていた。7月にいったん症状は治まったが、10月に入ると大きな口内炎が再発。それ以降は痛みが酷くなる一方で、年明けからは更にしこりが増加して会話や食事も辛くなり、激痛による不眠にも悩まされていたという。
2019年2月19日、自身のオフィシャルブログにて、口腔癌(舌癌)に罹りステージ4と診断され、左首のリンパ節にも転移していることを公表し、同日に入院、当面は芸能活動を休業して療養に専念するとした[12][13]。
2019年2月22日に受けた11時間に及ぶ手術では、頸部リンパ節や舌の6割を切除し、太ももの組織を移植する舌の再建手術が行われた[14]。同日放送の『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』に入院前の収録でゲスト出演しており、病気の経緯を詳細に語った[14]。25日、ICU(集中治療室)から一般病棟へ戻り[15][16]、26日には術後初めて本人が自身のブログを更新した[17][18]。3月16日、外泊許可を得て一時帰宅[19]。3月26日に退院[20]。
4月15日、検査によって新たにステージ1の食道がんが発見されたことを公表[21][22]。16日、内視鏡による切除手術を行った[23][24]。24日、退院[25][26]。病理検査の結果、食道がんはステージ0の初期がんと判明[27][28]。
10月21日、闘病生活についてつづった著書『Stage For〜舌がん『ステージ4』から希望のステージへ』を刊行[29][30]。同月3日に行われた出版社のパーティに参加し、術後初めて公の場に姿を見せた[31][32]。当日のあいさつでは、あらかじめ自身で書いた文章を代読してもらう形となった[31]。
2020年1月3日、芸能活動復帰を報告[33][34]。同月7日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日)が復帰後初仕事となった[33][34][35][36]。
2020年8月23日、『24時間テレビ43』にて手術後初の歌を披露した。以降メディア出演や講演活動、ブログや書籍を通し、がんの実体験を精力的に伝えている[2]。ちなみにオフィシャルブログ『hori-day』のフォロワーは、約34万人(2022年10月時点)[2]。
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