合気道 (あいきどう・合氣道)は、武道 家・植芝盛平 が大正 末期から昭和 前期にかけて創始した武道 。植芝盛平が日本古来の柔術 ・剣術 など各流各派の武術 を研究し、独自の精神 哲学 でまとめ直した、体術 を主とする総合武道である。
この記事には独自研究 が含まれているおそれがあります。
この項目では、日本で創始した武道 について説明しています。同じ漢字で表記される韓国の武道については「ハプキドー 」をご覧ください。
「合気道」とは「天地の“気 ”に合する道」の意[1] 。
柔道 ・剣道 等と並ぶ[2] 、21世紀 初頭の日本において代表的な武道 の一つである[3] 。大東亜戦争 (太平洋戦争 )終了後、一般社会への普及が始まり、日本のみならず世界 で大きく広まった[4] [5] 。
合理的な体の運用により体格体力によらず相手を制することが可能であるとしている点が特徴。
技の稽古を通して心身を練成し、自然との調和、世界平和への貢献[6] を行う等を主な理念とする。
技・稽古の特徴
※多数会派である合気会 を基本に記述する。
理念・精神性
「精神的な境地が技に現れる」と精神性が重視される。これは神道 ・大本教 との関係など[18] 、精神世界 への志向性が強かった盛平自身の性格の反映といえる。
このように創始者個人の思想や生い立ちが個々の修行者に及ぼすカリスマ的な影響力は、他武道に比して強い。その背景には、小兵でありながら老齢に達しても無類の強さを発揮するなど、盛平に関しての超人的なエピソードが幾つも伝わっており(→ 植芝盛平・エピソード )、それが多くの合気道家に事実として信じられ、伝説的な武術の“達人”として半ば神格化されていることも大きな理由の一つである。
武術をベースにしながらも、理念としては、武力によって勝ち負けを争うことを否定し、合気道の技を通して敵との対立を解消し、自然宇宙との「和合 」「万有愛護 」を実現するような境地に至ることを理想としている[19] 。主流会派である合気会が試合に否定的であるのもこの理念による。「和の武道 」「争わない武道 」「愛の武道 」などとも形容され、欧米では「動く禅 」とも評される。
近代以降、武道の多くが「剣道 (剣)」「柔道 (投・極)」「空手 (打)」と技術的に特化していったのに対し、合気道では投・極・打(当身)・剣・杖・座技を修し、攻撃の形態を問わず自在に対応し、たとえ多数の敵に対した場合でも、技が自然に次々と湧き出る段階まで達することを求める。この境地を盛平は「武産合気 」(無限なる技を産み出す合気[20] )と表現し、自分と相手との和合、自分と宇宙との和合により可能になるとしている。[21]
武術とは一見相反する「愛 」や「和合 」という概念を中心理念として明確に打ち出した合気道の独自性は、第二次世界大戦 後・東西冷戦 や南北対立 下で平和を渇望する世界各国民に、実戦的な護身武術としてと同時に、求道的な平和哲学として広く受け容れられた。またこのような精神性は、盛平の神秘的な言動や晩年の羽織袴に白髯という仙人を思わせる風貌と相まって、盛平のカリスマ性を高める要因ともなった。
盛平の弟子の中には藤平光一 を初めとして、多田宏 、佐々木の将人 のように、ヨガ を日本に持ち込んだ中村天風 の影響を受けた合気道師範も多く、合気道の精神性重視という気風を次代に継承している。
植芝充央 による演武。第55回全日本合気道演武大会にて(日本武道館、2017年)。
技は体術・武器術(剣 ・杖 )を含み、対多人数の場合も想定した総合武術である。ただし実際には武器術を指導する師範の割合は多くなく、体術のみを指導する稽古が大半である[22] 。
技の形態
無駄な力を使わず効率良く相手を制する合気道独特の力の使い方や感覚を「呼吸力 」「合気 」などと表現し、これを会得することにより、また同時に“合理的な”体の運用・体捌きを用いて“相手の力と争わず”に相手の攻撃を無力化し、年齢や性別・体格体力に関係なく[23] 相手を制することが可能になるとしている。
合気道の技は一般的に、相手の攻撃に対する防御技・返し技の形をとる。[24]
相手の攻撃線をかわすと同時に、相手の死角に直線的に踏み込んで行く「入身 (いりみ)」 [25] や、相手の攻撃を円く捌き同方向へ導き流し無力化する「転換 」など、合気道独特の体捌きによって、自分有利の位置と体勢を確保する。
主に手刀(しゅとう)を用いた接触点を通して、相手に呼吸を合わせて接触点が離れぬよう保ちつつ、「円の動き・らせんの動き」など「円転の理 」をもって、相手の重心・体勢を崩れる方向に導いて行く。このとき無駄な力が入っていると、相手の反射的な抵抗を誘発し、接触点が外れる、力がぶつかって動きを止められる等の不具合が生じ、技の流れを阻害する。そのため「脱力 」[26] ということが特に推奨される。また脱力により、リラックスして動ける自由性や、技中に体の重さを効果的に使うことが可能になる[27] 。
また相手の側背面などの死角から相手に正対し、かつ自分の正中線上(正面)に相手を捕捉することにより、最小の力で相手の重心(中心軸)・体勢を容易にコントロールし導き崩す。
体勢の崩れた相手に対し投げ技や固め技を掛ける。崩しを行わずに技を掛けようとしても技は容易に掛からない(「崩しは厳しく、投げはやさしく」などと言い、崩しを重視する)。
このように相手との接触点を通じ技を掛ける機微と一連のプロセスを「結び ・導き ・崩し 」と言い、合気道の技の大切な要素として、また精神理念に通じるものとしても強調することがある[28] 。
稽古の形態
二人一組の約束組手 形式(何の技を使うか合意の元に行う)の稽古が中心であり、「取り (捕り)」(相手の攻撃を捌いて技を掛ける側)と「受け 」(相手に攻撃を仕掛けて技を受ける側)の役を互いに交代しながら繰り返し行う。
一般的な合気会の道場では、まず指導者が取り・その補助者が受けとなり課題である技の形を示演し、これにならって稽古生各々二人一組となり技を掛け合う。取り・受けは平等に同数回交代しながら行う。片方が10回投げればもう片方も10回投げる。技は右左と「表 」(入身で相手の死角に踏み込む)「裏 」(転換で相手の背後に回りこむ)をやはり同数回行う。
柔道 のような乱取り 稽古は通常は行われない[29] 。基本的に相手の手首・肘・肩関節を制する幾つかの形から始まり、稽古を重ねる中で多様な応用技・変化技(投げ技・固め技など)を学んで行く。立ち技と正座で行う座り技が中心で、寝技は殆ど行われない。打撃(「当身 」)は牽制程度に用いることが多く、打撃中心の稽古は行われない[30] 。蹴り技 ・脚を使った絞め技などは基本的には行わない[31] 。
この他に、一人の取りに複数の受けが掛かって行く「多人数掛け」[32] や、剣 ・杖 ・短刀 取りなど武器 術・対武器術(→「合気道の武器術 」)の稽古も行われる。
基本的な技
一教 :相手の腕を取り肘関節を可動限界まで伸展させ相手を腹這いにさせ抑える。
四方投げ :相手の手首を持ち、入身・転換の体さばきによって相手を崩し、両腕を振りかぶりつつ180度背転し、“刀を斬る”ように腕を振り下ろすことにより、相手の肘を頭の後ろに屈曲させ脇を伸ばし仰け反らせて倒す。その形が、ちょうど剣を振りかぶって、四方に切り下すように見えるところから、名称がつけられた[33] 。
入身投げ :相手の側背に入身して背後から首を制し、転換しつつ相手を前方へ導き崩し、反動で起き上がった相手の頭を肩口に引き寄せ、引き寄せた側の手刀を下方から大きく円を描くように差し上げて斬りおろし相手を仰向けに倒す。
小手返し :相手の手首を取り、入身・転換で体を捌きつつ崩し、反対の手を相手の手の甲にかぶせ、手首を返して肘関節を屈曲させ仰向けに倒す。
体の転換 :相手に片手を掴まれた状態から掴まれた手と同じ半身の足で、相手の足の外側に半歩入身 し、更にその足を軸に水平方向に180度背転し、相手と同方向を向き力を丸く捌いて前方へ導き流し崩す。技と言うよりも入身・転換という基本的な体捌きを身に付けるための鍛錬法である。「体の変更」「入身転換」とも言う[34] 。
座技呼吸法 :向かい合って正座した状態から相手に両手首を強い力で掴ませ、指先を上に向けながら手刀を振り上げることで相手の体を浮かせ、そのまま後ろに押して相手の体勢を崩す。大東流の「座捕合気上げ」に似ているが、合気道では「呼吸力 の養成法(“呼吸法”の名称はその略である)」として指導されている。
(その他の主な技:二教 、三教 、四教 、五教 、天地投げ 、回転投げ 、呼吸投げ 、腰投げ 、隅落し 、合気投げ 等。以上の技は最大公約数的なものであり、流派や道場によって細部は異なる。同じ技が別の名で呼ばれること、別の技が同じ名で呼ばれることも少なくない。)
合気会系の道場では、稽古は体の転換から始まり、座技呼吸法を行って終わることが多い。これは怪我を防ぐために体の変更で身体をほぐし、徐々に激しい投げ技を行うよう盛平が制定したからである[35] 。
技の呼び方
合気道の技は相手の攻撃に対して投げ技・もしくは固め技にて応じるのが基本である。技の呼び方は「技開始時の“受け”・“取り”の位置的関係」、「技開始時の“受け”の攻撃形態」、および「上記の固有技名」を組み合わせる。
例えば、「受け」、「取り」共に立った状態を「立ち技」、座った状態を「座り技(座技)」、そして「受け」のみ立った状態を「半身半立ち」という。稽古は基本的に立技を行うため、これらは省略されることもある。また、「受け」が右手で「取り」の左手首を掴んだ状態を「片手(首)取り」または「逆半身片手(首)取り」という。「受け」が手刀を正面から振り下ろす攻撃形態を「正面打ち」、斜め横から振り下ろすのを「横面打ち」といい、それぞれの状態から上記いずれの技も派生し得る。また、短刀などの武器を用いる場合は「突き」や「短刀取り」などもある。
例:
(位置) (攻撃) (技)
(立技) + 正面打ち + 一教 = 正面打ち一教
(座技) + 片手取り + 一教 = 片手取り一教
(座技) + 片手取り + 四方投げ = 片手取り四方投げ
(半身半立ち) + 横面打ち + 四方投げ = 横面打ち四方投げ
など
合気と呼吸力
「合気 」と「呼吸力」は合気道技法の原理であると同時に、合気道の重要な理念とされる概念。
「合気」の歴史的考察
日本における武術用語としての「合気 」は、江戸~明治・大正期の剣術書などに認められる。それらは彼我の技量や気迫などが拮抗し膠着状況に陥る、または先手を取られ相手の術中に嵌るといった、武術的には忌避すべき状態を差す言葉であった[36] 。しかし明治以降、「合気之術」など積極的な意味の使用例が現れる。この頃の「合気」には「読心術 や気合の掛け声をもって相手の先を取る」といった意味付けがなされていた。大正期には各種武術書に同様の意味合いで「合気」の使用が見られ、「合気」が武術愛好家の間で静かなブームになっていたという。[37]
大東流合気柔術 では、相手の力に力で対抗せず、相手の“気 ”(攻撃の意志、タイミング、力のベクトル などを含む)に自らの「“気”を合わせ」相手の攻撃を無力化させるような技法群やその原理を指す。
なお大東流は初め「大東流柔術」と称していた。この名称に「合気」の文字が加わったことが確認できるのは、1922年 (大正 11年)、武田惣角 が盛平 に授与した目録[38] が初めてである。
惣角は同年綾部 の大本 教団にいた盛平のもとを訪れている。この時に出口王仁三郎 が「合気」を名乗るよう盛平に勧め、盛平は「合気」を大東流の名に加えることを惣角に進言、以後惣角もこれを容れて「大東流合気柔術」を名乗った、とする証言がある。[39]
合気道においては上記の意味合いも踏まえ、そこから更に推し進めて「他者と争わず、自然や宇宙の法則(=“気”)に和合することによって理想の境地を実現する」といった精神理念を含むものになった。(盛平は「合氣とは愛なり」[40] と語っている。)
大東流における「合気の技法」的なものから、合気道の体捌きである入身・転換、技に入るタイミング、相手に掴まれた部分を脱力して相手と一体化する感覚など、相手や自然の物理法則との調和・また宗教的な意味合いでの「宇宙の法則」と和合を図ろうとする ことなど、技法から理念まで全てを広く「合気」と表現する傾向がある。
呼吸力
「呼吸力 」は盛平が自らの武道を確立する過程で生み出した造語であり、「合気」を盛平独自の主観を通して表現したものである。[41]
合気道における「合気」が主に理念的な意味で広く用いられるのに対し、「呼吸力」は主に「技法の源になる力」という意味合いで用いられる。(ただし理念面でも「呼吸」「呼吸力」は用いられることがあり、両者の違いは必ずしも明確ではない。)
この「呼吸力」が具体的に何の力を指しているかについては、様々な言説がある。盛平は弟子達に合気道の理念、理合を説明する際、古事記 の引用や神道 用語の使用が多く、難解・抽象的な表現であったため後代様々な解釈が奔出することになる。例えば「呼吸 (筋)の力である」「“気 ”の力である」「実際の呼吸のように自然で無意識的な力の使い方である」「全身の力を統一したものである」など、意見は多岐に分かれる。[42] (→「座技呼吸法 」)
合気・呼吸力について、小柄な老人がわずかな動きで屈強な大男を幾人も手玉にとり簡単に投げ飛ばしたり押さえ込んでしまう不思議な技、というイメージが一般的に流布し、しばしば怪しげなものとして疑われることも多い。
合気・呼吸力を具体的な技法原理として解明するために、脱力・体重利用・重心移動・腹腰部深層筋・梃子の原理 ・錯覚や反射 の利用・心理操作など様々な側面から説明が試みられている。また、合気道の呼吸力と大東流など他武術の合気が同一か異なるものかについても意見が分かれる。
ただし
「脱力」が合気や呼吸力を発揮する条件であること
姿勢や呼吸の重視
「臍下丹田 」の意識を重視する
などの点において、各派の意見に共通性が見られる。
合気道の武器術
合気道の稽古で使用される武器 は剣 (木剣 )・杖 ・短刀 (木製・ゴム製など)の三種類である。ただしこのうち短刀は、短刀の攻撃を捌く技(「短刀取り」)の習得のためのみに用いられるものであり、短刀術を目的とするものではない。したがって「合気道の武器術」と言う場合は、剣・杖を意味するのが普通である。
剣取り
剣は
「剣取り」(剣による攻撃を素手で捌く、または剣を取りに来た相手に投げ技などをかける)と
「合気剣」(剣対剣、またそれを想定した単独の形 )、
杖は
「杖取り」(杖による攻撃を素手で捌く、または杖を取りに来た相手に投げ技などをかける)と
「合気杖」(杖対剣、またそれを想定した単独形)
がある。
盛平 は「合気道は剣の理合である」と言い、剣・杖を重要なものとして語った。徒手技は剣・杖の術理を体術の形で現したものであるとされ[43] 、たとえば徒手の投げ技などにおいては、腕を振り下ろす動作を「斬る」「斬り下ろす」などと表現する。また体術・剣術・杖術に共通する半身の構えは相手の突きを躱しつつ前方の相手を突くための槍術の構えを反映したものである。他に重い剣を速く振り上げる体の動きと呼吸力との関連を指摘する師範もいる。
盛平は茨城の岩間で斉藤守弘 と剣・杖の研究をしたが、一方盛平が具体的に合気道の剣術・杖術を弟子に教えることは限られていた。このため盛平没後の合気道界において、積極的に剣・杖を指導する道場の割合は多くない。また師範により下のように見解が分かれている。
1. 合気道の体術に剣術や杖術の理合が含まれているので、あえて剣・杖を修練する必要がない。
2. 体術のみでは不十分で剣・杖などの武器術も修練する必要がある。…またこの意見も
2-1. 開祖である植芝盛平 は体術と合わせて武器術の指導を行った。
2-2.「合気剣」「合気杖」「松竹梅の剣[44] 」などを修練する師範(斉藤守弘 、引土道雄 、小林裕和 など)と、
2-3. 他流の剣術や杖術の形を合気道の理合で解釈して修練する師範(西尾昭二 、針すなお など)とに分かれる。
合気道の武器術として最も有名なものは、斉藤守弘が盛平の武器技を整理した「合気剣」と「合気杖」である。
演武会
試合を行わない合気道では、各自の技量の向上と世間一般への普及を目的として、演武会 が開催される。師範・高段者はもとより、初級者・児童に至るまで、各地の合気道家が一堂に会し日頃の稽古の成果を披露するのである。同じ技であっても激しく叩きつけるように行う者、静かに淡々と行う者など、様々な個性が現れる。このように上下を問わず大勢の演武者が参加する形式の演武会は、戦後二代目道主・吉祥丸(当時本部道場長)の発案により始まったものである。
1950年 (昭和 25年)9月末から10月初めにかけて、東京日本橋 の百貨店・髙島屋 東京店にて合気道初の一般公開演武会が5回に渡り開催された。これは百貨店屋上階の特設ステージ上で、不特定の一般観衆に向かい、盛平を始め師範クラスの高弟から入門間もない初心者までが技を披露するという、その当時武道界全体で見ても例のない試みであった。また戦前・戦中を通じて厳しく公開を制限され、一般大衆にとって未だ神秘のベールに包まれていた合気道を、より身近な、誰もが始めることが可能な「開かれた武道」として普及をアピールするために絶好の画期的イベントであった。
この演武会は連日多くの観客を集め、またマスコミにも取り上げられるなど成功を収め、合気道が世の中に普及する大きな転換点となり、これ以降、各会派が定期的に演武会を開催することになった。中でも合気会が日本武道館 で毎年行う「全日本合気道演武大会」[45] は国内外最大規模の演武会である[46] 。また他武道でも同形式の演武会が開かれるようになった[47] 。
大東流合気柔術との相違点
大東流と合気道には、武道の目的と意味をどう位置づけるかという思想性に鮮明な相違が認められる。盛平の合気道は古来の武術と一線を画して、「万有愛護」や「宇宙との和合」を目指す、といった理念的傾向が強い。これは、大本の合気武道時代からのものと考えられる。大東流では多く伝わる逆関節技や、足による踏み技・固め技など、荒々しい技の殆どが合気道で省かれているのも、この思想性によると考えられる。[48]
柔道との交流
1930年 (昭和5年)10月、竹下勇 の紹介で講道館柔道 創始者・嘉納治五郎 が講道館幹部二人と共に盛平の道場を訪れた。この頃嘉納は、競技 スポーツ 化した柔道が勝敗に囚われる余り精神性を軽んずる弊に陥り、「武道の競技化・体育 化による人格教育の実現」という嘉納の理想が形骸化しつつある傾向に危機感を抱いていた。その反省から私的に「古武道研究会」を主宰し、古武道 諸流派の保存と伝承に務め、それを以って武道教育に精神性の復活を図ろうとしていた[49] 。そのような経緯の元、初めて盛平の技を見た嘉納は「これこそ私が理想としていた武道、本当の柔道だ」と賞賛した。[50] 盛平の技に魅了された嘉納は講道館から当時若手の有望株であった望月稔 を派遣し合気道の修行に当たらせた。盛平の有力な弟子であった富木謙治 、塩田剛三 らも、盛平に入門する前は柔道の有段者であった。特に、富木や望月は盛平の高弟となってからも柔道家としての活動もおこなっており、その理念には合気道・柔道双方の影響がみられる。
剣道との交流
盛平は剣術の研究のために、戦前自らの道場「皇武館」で剣道 の指導を行わせた。実際の指導は、親交のあった中山博道 (神道無念流 )の3人の高弟で「有信館 の三羽烏」と呼ばれた中倉清 (当時は盛平の婿養子)、羽賀準一 、中島五郎蔵 が行った。
空手との交流
空手の経験者で盛平に師事した人物も少なくなく、戦前に入門した弟子としては望月稔 、小西康裕 が、戦後の門弟では有川定輝 、千葉和雄 、西尾昭二 が知られている。いずれも空手の捌きに合気道の円転の理を応用したり、逆に空手の打撃を参考に合気道の当身と捌きの関係を研究し、より実戦的な技法を模索した。
合気道は健康法 としても人気がある。攻撃してくる相手の力を利用するので(空手や柔道のようには)強い筋力を必要とせず老若男女を問わず誰でもはじめることができ、和合の精神を重視し、また活動は〔組み手稽古〕(試合形式ではなく、二人一組で行う稽古)が中心であることから、健康法 としても人気が高く、広く定着しているのである。
例えば以下のようなことが言われている。
試合がないので、勝つための過剰に激しい稽古をする必要が無く、年齢体力にかかわらず無理なく自然に心身・足腰の鍛練ができる。
合気道の稽古は、技を左右同じ動きで同回数繰り返すため、左右の身体の歪みを取る効果がある。
受身 で畳の上を転がることにより、血行 を促す。また受身の習得で転倒による怪我 をしにくくなる。
関節技を掛けられることによってストレッチ 効果が得られ、関節・筋肉の老化防止や、五十肩 などの予防 になる。
準備運動
合気会系の多くの道場で、稽古の始まりに盛平の考案による準備運動を行うのが慣例となっている。身体各部の柔軟などと共に、古神道 の禊 の行法「天の鳥船 」(「舟漕ぎ運動」)「振魂 」(「振りたま」)[51] が採り入れられ、また「西式健康法 」や「真向法 」も取り入れられている。
合気道は「非力な女性の護身術として最適」と喧伝されている[52] 。ただし、護身術としての有効性については、疑問を呈する人もいる。
これらの疑念について、合気会は「日々の鍛錬をきちんとやれば基礎を何度も修練している内に体得できる。実際に使えるようになる」という見解を示している[53] 。
※独立年次順、「組織名 (流儀名・通称):独立年~、創設者」
漫画
武富智 著『EVIL HEART 』(イビル ハート) - 心に傷を負う反抗的な中学生 の少年が、合気道に出会い成長していく姿を描く。
板垣恵介 著『グラップラー刃牙 』 - 主人公「範馬刃牙」が地下格闘技場で様々な格闘家と戦う格闘技漫画。塩田剛三 をモデルとした重要キャラクター「渋川剛気 」が登場する。渋川の師として植芝盛平 がモデルになったと思われる御輿芝喜平もでている。
安彦良和 著『虹色のトロツキー 』 - 満州国・蒙古・シベリア を舞台とする歴史劇。主人公の武道 の師匠として盛平が、また富木謙治 、天竜三郎も登場する。盛平が関わった「パインタラ事件」が物語の重要な鍵として語られる。
山岡朝 作画 植芝守央 監修 『劇画 合気道開祖 植芝盛平物語 』- 植芝吉祥丸 著『合気道開祖 植芝盛平伝 』(出版芸術社 1999年 )の劇画化。盛平の生涯をその生誕から描く。著名なエピソードはほとんど描かれている。作画者は合気会に入門し、稽古を重ねた上で本作を手がけた。
21世紀初めの時点で「合気道」と言えば、一般的には植芝盛平 の興した合気道を指すが、実は「合気道」の名を用いたのは盛平が最初ではなく、「合気道」という名称には“合気系武道(・武術)”全般を通称的に指し示す普通名詞 としての一面もある(→例 )。
「合気道」の初出と命名
大日本武徳会合気道
盛平は自らの武道の名称を「大東流」に始まり「植芝流」「相生流」「合気武術」「大日本旭流柔術」「皇武道」など目まぐるしく変え続けたが、ようやく1936年(昭和11年)頃から「合気武道」で定着しだした。
盛平は自他共に認める「忠君愛国の士」ではあったが、大東亜戦争の開戦・継続には批判的であった。しかし「愛」と「和合」を旨とする自らの武道を、その精神を封殺しただの戦闘技術としてのみ軍に供せねばならない矛盾に耐えつつ、憲兵学校武術師範等の職務を篤実に務め続けた[81] 。
昭和17年(1942年 )、戦時政策により武道界も政府の外郭団体 ・大日本武徳会 の統制化に入ることになる。盛平率いる皇武会もその例外ではなかった。一代で育て上げた自らの武道に強い誇りを持っていた盛平にとって、この統合は不本意なものであった。
統合にあたり、盛平は武徳会から「総合武術部門」設立についての協力要請を受けたが、これに対し皇武館 道場の「総務」として渉外を担当していた門人平井稔 を推薦し、同時に自らは老齢や病を表向きの理由に各団体顧問・軍での武術指導など一切の公職を辞し、東京の皇武館道場を息子吉祥丸に任せ、妻と共にかねて土地を買い集めていた茨城県岩間町 に隠遁する[10] 。平井は盛平の委任を受け、大日本武徳会の幹事に就任した。
この時武徳会に設置された「合気道部 」と、“総合武術”(体術・剣術などを総合的に扱う武術)として制定された「大日本武徳会合気道 」が固有武道名称として初めて確認できる「合気道」である。
平井がこの合気道部の運営に当たった[82] 。
「合気道」の命名は、講道館から武徳会役員となった久富達夫 が主唱したことを平井が証言している。この時久富は、「総合武術部門は剣杖などの要素も包括的に含めたい。そのため従来から在る各武術流派との軋轢を生じさせぬよう、特定流派を連想させず、また勇ましさを前面に出したものでなく、当たり障りのない柔らかい印象の名前が良い」として「合気道」を提唱したという[83] 。
吉祥丸 ・守央 ・合気会の著作物では「昭和17年(1942年 )武徳会への統合に際して、盛平は正式に『合気道』の呼称に統一すると宣言した」としている[84] 。しかし一方、盛平や門人の奥村繁信 は「合気道と名乗ったのは戦後だ」と述べている[85] 。
吉祥丸・守央の著作からも、武徳会合気道部への統合には相当の抵抗感があったことが記されており[86] 、「合気道」の呼称が実際に皇武館側に受け入れられていたかどうかについても前記の通り証言に食い違いがある。
植芝「合気道」の出発へ
昭和20年(1945年 )終戦により武道統制は消滅、翌年GHQ(連合軍総司令部) の命令により大日本武徳会は解散する。平井は大日本武徳会合気道を受け継ぐとして「光輪洞合気道 」を興すが、盛平の武道とは別系統の、平井独自の武道であるとしている[87] 。
盛平 が正式に「合気道」の名称を用い出した時期として確実なのは、昭和23年(1948年 )2月9日、財団法人合気会 の文部省 による認可の時点である。合気会認可直前は「武産合気(たけむすあいき)」と称していたとする証言がある[88] 。
「合気道」を名乗った経緯について、盛平は生前ラジオのインタビューの中で、文部省 の「中村光太郎」という人物に勧められたからであると語っている。[89] 当時のGHQの武道禁止政策[11] への対応としても、武術的な勇ましさを主張しない「合気道」という名称は好都合であった[90] 。
武道別人口数 (1993年)…「国際柔道連盟:164ヶ国・約2000万人、国際剣道連盟:31ヶ国・約780万人、国際空手道連盟:143ヶ国・約3000万人、国際合気道連盟:38ヶ国・約120万人」(出典:『武道』224p )
代表的な武道 …「武道は、武士道の伝統に由来する我が国で体系化された武技の修錬による心技一如の運動文化で、柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、銃剣道を修錬して心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、国家、社会の平和と繁栄に寄与する人間形成の道である。
平成二十年十月十日
日本武道協議会 制定
」(財団法人 日本武道館公式ウェブサイト「武道の理念」 )
合気道人口 …「海外では欧米諸国はもちろん、最近では東南アジアやブラジル、アルゼンチンといった南米の国々でも盛んに行われ、95ヶ国約160万人 にも及ぶ人々が、日々稽古に励んでいるのです。」(出典:『合気道パーフェクトマスター』18頁 )
「現在、合気道人口は大ざっぱに見て、国内では内輪に見積もって110~120万人であろう。(中略)合気会傘下の(中略)団体の加入者を加えた概算である。海外では、20~30万人修行者がいるので、世界の合気道人口は130万人から150万人というところだ。」「国内の組織の90パーセントは合気会に加盟している。」(出典:『図解コーチ 合気道』38-39頁 )。この数字は控えめすぎる。なぜならフランス一国だけで30万人の合気道人口 なので、「海外では20~30万人」という言い方は、ついつい古い昔の数字を思い出してしまって近年の状況を理解しそこなっているか、あるいは合気会以外の流派の合気道人口を把握しておらず合気会の数字だけを単純積算してしまって語っている可能性がある。 [ 独自研究? ]
世界平和への貢献 …「争いもない、戦争もない、美しいよろこびの世界を作るのが合気道である。」(出典:『武産合気』140頁 )
盛平の小柄な体躯 …ただし肩幅・胸板の厚みなど骨格・筋肉は非常に逞しく、怪力の持ち主であった。体重は壮年期でも75kgに達していたという。日露戦争 出征時(21~22歳)「五尺一寸五分の短身ながら体重は二十貫」(156cm, 75kg)とある。(出典:『合気道』177頁 )
上京の経緯 …大本教団内の有力者であった浅野和三郎 の兄・海軍中将 浅野正恭 が竹下勇に盛平を紹介したことが大きなきっかけとなった。盛平は槍で米俵を持ち上げ別の場所に積み替えるという技を披露し、山本から「明治維新以来これほど素晴らしい槍使いを見たことがない」と激賞された。(出典:『植芝盛平伝』182-184頁 )
入門者の制限 …無頼の輩による合気道の悪用を恐れた盛平は、入門にあたり、身元の確かな二人以上の保証人があることを条件とした。(出典:『植芝盛平伝』307頁 )
岩間隠棲 …盛平は軍への協力には消極的であったといい、1942年(昭和17年)大日本武徳会への統合を機に、病気などを理由に東京での一切の職を辞し、昭和10年頃から土地を買い集めていた茨城県岩間町に移住した。その際「このたびはどうやら、祖国苦難の戦となりそうじゃ」と、半ば敗戦を予測し、「わしは祖国復興に備えて岩間に合気道の拠点を確保する」と語ったという。(出典:『戦後合気道群雄伝』20頁 )
武道禁止政策 …昭和21年暮にGHQより発された。ただし全面的な禁止ではなく、「学校での授業・対抗試合」などが「軍国主義の鼓舞」であるとして禁止されただけであった。しかし刀剣保持禁止令も発されるなど武道に対する警戒感は強く、無用にGHQを刺激せぬよう、多くの武道家が表立った活動を自粛したのであった(出典:『合気道一路』93-94頁 )。なお合気会本部は認可当初から昭和28年まで、東京ではなく岩間に置かれた。「当分はその方が、GHQを刺激しないでよかろう」という文部省の判断であった(出典:『合気道一路』106頁 )。
フランスの合気道人口 および 各国の人数の内訳 Paris Aïkido Club, L’Aïkido aujourd’hui( パリ 合気道クラブのウェブページ「今日の合気道」) 。フランス語 で書かれたページではあるが、このウェブページの上から1/3ほどの位置に各国の有段者の人数と合気道人口の表 が掲載されている。その表の最上段に「Pays(国名)」「Nombre de détenteurs de dans(有段者の人数)」「Nombre de pratiquants(稽古をしている人々の人数)」「Population (millions) その国の人口(百万人単位)」と表示されており、フランス(France)の行には有段者3000人、稽古者人数30万人と明記されている。{{独自研究範囲|(フランス人と接すればわかるが)フランスにおける合気道人気はきわめて高い。どれほどの人気度か理解するためには、人口比(住民数あたりの合気道人口)で評価する必要があるが、フランスの総人口は現在6700万人にすぎず、つまり日本のおよそ半分の人口なのだが、それにもかかわらず30万人もの人々が合気道をしているのである。(発祥地である日本の合気道人口でも100万人相当なのだが)地理的に遠く離れたフランスなのに、日本の人口に換算すると60万人相当の人々が合気道をしているくらいに人気があり、知られているわけである。
試合を行なわない理由 …合気会の見解Q :合気道にはなぜ試合がないのですか。
A :現代における武道の価値というものを考えましたときに、現代に生きている一般の人が行えて何かしら生活に結びつく点がなければ、その意味はないに等しいのではないのではないでしょうか。この現代にあって、誰かと武術で勝負をし、その勝敗にこだわることにどれほどの意味があるのでしょう。
『合気道では試合はしない』という立場を一貫してきました。
何故かというと、合気道には『相手を倒す』という思想がないからです。もし試合を行えば、必ず『勝ちたい』『相手を倒したい』という執着心が生じるでしょう。そうした思いがあっては、自然と一体にはなれません。それは天地自然の調和に反しているのです。
自然と一体になり天地自然と調和するということが合気道の要諦です。したがって試合を行えば、それは合気道にとっての一番大事な理念自体を否定してしまうことになるのです。ですから、試合は行わないのです。
— 『規範 合気道 基本編』17-18頁
袴 …袴を着ける理由としては、「足捌きを隠すため」「五倫五常 の教えに基づく」等が言われる。また道場によっては、女子は初段前・入門時からでも袴の着用が許される場合がある。これは稽古中に女性の身体の線が袴によって隠れるよう盛平が気遣ったためという。(出典:『氣の確立』93頁 )
盛平の精神世界への志向性 …盛平は戦前大本 の出口王仁三郎 に師事し多大な影響を受けた。また青年時代故郷の和歌山で南方熊楠 に出会い神社合祀 反対運動に取り組んだことや、戦時中茨城県 岩間町 (後・笠間市 )に合氣神社 を創建したことに見られるように、神道 への親しみが深く、合気道の技や理念を語る際も『古事記 』や神道用語を多く用いた。盛平は自らの武道を「禊ぎ 」「神楽舞 」などと表現している。「合気道は言葉ではなく禊 であります。」(出典:『合気神髄』49頁 )「合気道は気の御業であります。言霊の妙用であります。(中略)わたしはいま『天の浮橋』に立ち、世界人類の大和大愛を希いつつ神楽舞い 昇り、舞いくだろうと思います」(出典:『植芝盛平伝』294-295頁 )
盛平自身の言葉による合気道の理念 …合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の働きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。私はそのことを、武を通じて悟った。
いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。
敵が、「宇宙そのものである私」とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私と争おうという気持ちをおこした瞬間に、敵は既に破れているのだ。そこには、速いとか、おそいとかいう、時の長さが全然存在しないのだ。
合気道は、無抵抗主義である。無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。邪気ある人間、争う心のある人間は、はじめから負けているのである。
ではいかにしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?
それには、まず神の心を己の心とすることだ。それは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまでにおよぶ、偉大なる「愛」である。「愛は争わない。」「愛には敵がない。」何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(たけむす:神道の真理の言葉)ではない。
だから武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは絶対に何ものとも争わぬことである。勝つとは己の心の中の「争う心」にうちかつことである。あたえられた自己の使命をなしとげることである。しかし、いかにその理論をむずかしく説いても、それを実行しなければ、その人はただの人間にすぎない。合気道は、これを実行してはじめて偉大な力が加わり、大自然そのものに一致することができるのである。
— 『武産合気』13-14頁
また盛平は「魄(肉体)は魂(精神)の生き宮であり、魄の修行を土台にして魂を成長させ、最終的に魂が表、魄が裏にならなくてはならない」と語り、肉体鍛錬と精神修養のどちらかに偏らないよう戒めた。 [ 要出典 ]
広まらぬ武器術指導 ……最近の合気道界を見ますと、合気道は武道でありながら、「武道の根元は武術にある」ということを忘れたのか知らないのか、その技法の中に武道性をまったく見ることができず、「合気道は剣だ、また投げ抑えは当てだ」と言うだけで、その説明もなく、なかには当てや武器技は必要ないと言う者さえ出て来ている状態で、いまやまさに合気道は老人婦女子の健康法となりさがってきております。
— 『許す武道』3頁
年齢・性別・体格体力に無関係 …初対面の人が発する質問の第一は、必ず申し合わせたように、「私のような力のない者でもできるでしょうか」(中略)である。これに対し私は「(中略)力はいかにして全身より抜ききって、気力を充実さすか、ということに日頃の練習法があるのですから、非力な婦人、子供の方でも立派にこなせるのです」と言っている。
すなわち合気道の練習法においては、力に拘泥し力づくで技法を学ぼうとする態度は、最もさけねばならぬことである。
— 『合気道』98頁
死角と入身 …ここでいう「死角」とは、側面・側背部・背後など、相手の視野から外れ、且つ自分からの攻撃は届くが相手からの攻撃は届きにくい位置のことである。「武道における入身は相手の死角にどう入るかです。(中略)相手に分からないように自然にスッと入身になっていなければ、合気道の技は生まれてきません。」(出典:『許す武道』16頁 )このように一瞬で相手の攻撃を逸らし死角に入ることを「入身一足(いっそく)」という。(出典:『図解コーチ 合気道』46-47頁 )
導き と脱力 …「開祖盛平翁が(中略)『力で導くのではない。気で導くのだ』といっておられた」(出典:『合気道教範』17頁 )。脱力部位は、上半身、特に腕肩の脱力が言われる。合気道における力の使い方は、先ず第一に肩、首等上半身の力を全く抜き、臍下丹田に気力を充実すること、第二に手を開き五指を張って指先に力を入れる、ということである。指先に力を入れるのは、自然に重心をさげ、全身を硬直から救うことを意味している。
— 『合気道』98-99頁
接触点 …なお技に熟達すると、直接相手に触れずに、相手の攻撃のタイミングや勢いを利用し導き崩す場合もある。また状況やタイミングが合えば「結び・導き・崩し」を瞬時に、直線的に行い技を決める。盛平は「合気道は一撃克(よ)く死命を制するもの」(出典:『合気道』163頁 )「触れ合う前に勝負は決まってるんだよ。」(出典:『許す武道』 )などと述べていた。
打撃 …
「牽制」とは言っても、相手の急所を狙って打つものであり、本質的には武術としての厳しさを表すものでもある。
「合気道の当ては、空手のように一撃で勝敗を決するものではなく、受けの一瞬の気を抜いて、体を崩すために使います。従って、人の鍛えられない部分、例えば首、目、脇の下などの急所に対して、主に貫手や掌底の当てを使います。」(出典:『許す武道』22頁 )
また、合気道の体捌きは常に敵の急所にいつでも打撃を加えこれを制する可能性を持つ(体捌き・関節技の動きの中に当身の理合が隠されている)と言われている。
「通常、二教は手首をつかんで関節を極めるというように、突きと関係がないように思われていますが、この技は完全に『突き』を意識した技になっています。入った時すでに相手の突き蹴りの攻撃を受けない体勢になっていなければいけません。相手の顔面へ、掌底と同時に指頭で目を潰す当てが入っています。」(出典:『許す武道』48頁 )
「相手が手を取りにくるその前に当てが入っていなくてはなりません。それが当ての呼吸です。」(出典:『許す武道』56頁 )
「大切なことは常に当てが入る状態にすることです。そして相手の蹴りも突きも受けないことです。これが入身です。」(出典:『許す武道』64頁 )
「こうした当てを、合気道では流れの中にうまく溶け込ませています。」(出典:『許す武道』202頁 )
「当身が七分で技(投げ)三分 」という盛平の言葉も残されている。
蹴り技 …佐々木の将人 の証言では、佐々木が他の弟子と蹴り技を捌く稽古をしていたところを盛平が見咎め「きたならしい」と叱責されたという(出典:『開祖の横顔』22頁 )。
多人数掛け …「二人掛け」「三人掛け」から十人以上の受けを相手にする多人数掛けもある。
体の転換・体の変更 …「体の転換」が片方の足を軸(1点軸)にもう片方の足が弧を描くように回転するのに対し、両足の位置を変えず両足裏それぞれを軸(2点軸)に体の向きだけを180度回転させることを「体の変更」と称する場合もある(出典:『身体づかいの「理」を究める』25頁 )
日々の練習に際しては体の変更より始め逐次強度を高め身体に無理を生ぜしめざるを要す然る時は如何なる老人と雖も身体に故障を生ずる事なく愉快に練習を続け鍛錬の目的を達する事を得べし(合気道練習上之心得)(出典:『合気道』164頁 )
江戸~大正期の合気 …
寛政12年(1800)の「剣術秘伝独習行」(蒨園(せんえん)述)には、「双方体気満々として立向かいたるは、相気なり。孫子に云く、能く戦うものは鋭気を避くと」とあります。(中略)名著といわれる
高野佐三郎 著「剣道」(大正4年)のなかで、「合気を外づして闘うを肝要とす」と記しているように、その後も一般的には剣術書などの中で積極的な意味で用いられることはなく、勝負上で注意すべき点として記されています。
— 『合気道教室』9頁
「合気」の名称 …井上鑑昭 の証言合気武道という名前は出口王仁三郎先生が付けてくれたのです。大東流柔術ではおかしいんじゃないかと言ってね。植芝叔父(盛平)を呼んで、『大東流柔術というのはやめとけ、合気という名前にしたらいい』といったわけです。(中略)それまでは皇武武道といってました。
— 『植芝盛平と合気道1』45頁
植芝吉祥丸 の証言大正十一年頃(一九二二)、武田惣角さんが植芝塾へ来たわけです。武田さんが、三、四ヵ(ママ)月おって、その時に父(盛平)と話をし、『大東流合気柔術』として、はじめて“合気”をその中に入れたわけです。それまで合気の術というのはあちこちにあることはありましたが、ひとつの流派として、何々流合気というのはぜんぜんありませんでした。それまでは大東流は大東流柔術でした。(中略)
(聞き手:大東流合気柔術と“合気”を加えたのは出口先生の提案ですか、大東流のほうで付けたのですか。)
私は小さかったですからはっきりしたことはいえません。文献からいえば大正十一年の前半期までは『大東流柔術』で、惣角先生が来てしばらく経って大正十一年の暮れ、後半期から『大東流合気柔術』になりました。父は出口さんに合気じゃといわれ、また惣角先生にも話をもっていったらよかろうといわれたのです。
父が合気という言葉をいい出したのは、大正十一年です。これは文献ではっきりしております。今そういう真相を知っている者は誰もいない。(中略)ですから私は父がいったことを信用するしかないわけです。
— 『植芝盛平と合気道1』11頁
なお『合気道教室』11頁 は「植芝(盛平)が武田に改称を提言した説」を「植芝が大東流においても『合気』なる語を付与した創案者であることを示唆」するものであるとし、「生前の植芝(盛平)がそのこと(惣角への提言)を明言していないことや、当時の師弟間の厳しい関係を考えれば、成り立ちがたい説」と断じる一方、「出口や、大本に出入りし武田から指導を受けた軍人たちが(中略)『合気之術』の静かなるブームを背景に(中略)門人たちの誰かが『合気之術』の達人として武田を理解し、その技法の流名に『合気』の語を加えることを進言したことも推察」できるとしている。しかしその「門人たち」が「当時の師弟間の厳しい関係」を如何に乗り越えたかについては、特に考察がない。
また佐川幸義 は「惣角は合気という言葉を大正二年以前から使っていた」と証言している。
これは私の父が武田先生に教わった技をまとめたノート。ここに、『アイキをかける……』という言葉が随所に出てくるでしょう。これは、大正二年五月十四日に記されたものです。父は当時数え年で五十歳ぐらいで、武田先生は五十五歳でした。だから、合気という言葉はその当時から使われていました。武田先生は合気柔術と柔術を区別して教えていました。
— 『武田惣角と大東流』54頁
呼吸力の定義 …なお盛平の著書では、呼吸とは呼吸活動を指すのではなく、呼と吸のような相反する二つの物から生み出される力といった意味合いで語っている場合が多い。「水火」と書いて「いき」などと読ませそれが「呼吸」である、といった具合である。(出典:『「技」と「言葉」』145-148頁 )
具体的に呼吸力と言われる代表的なものは「座技呼吸法 」などの、強く捕まれた状態から手刀を立てる動作の際に用いられる力として語られる。
呼吸力とはどのようなことを言うのであろうか?生理的に息を吸い息を吐くことを呼吸と言うが、ここに言う呼吸法も全くその通りである。しかしながら、これは、頭の先から足の爪先まで、からだ全体で、天地と共に呼吸することを意味する。即ちこの場合、天地の流れと一体化し、自然と一体化した姿そのものが呼吸であるのであるから、かかる心境を養うことにより、自然力の充分なる集中発揮が可能となるのである。人間の気持ち、気というものが、その万事に重大なる影響のあることには、今更言うまでもない。
(中略)気力を充実し必勝の信念を以て事に当たれば、普段に数倍する威力を発揮することができる。その気の力を平素常に保持し、臨機応変たくまずして自然に出し得るように自己を鍛錬するのが、呼吸力の養成である。
— 『合気道』152-153頁
(聞き手)改めて伺いますが、先生が言われている“呼吸力”とは一体どういうものなのでしょうか?
砂泊 簡単に言えば、相手の触ったところに任せて一体化するということです。(中略)力を抜くことによって相手の力がどちらに向いているか、引くか、押すか、それがすぐ分かる。そこへソッと入ってくる。もう後になってくれば相手が触れただけでそこに技が出てくる。力で押しているうちはぶつかってしまって駄目ですよ。
— 『開祖の横顔』104-105頁
徒手技は剣・杖の術理 …「四方投げは正に刀の操法の表現であり。これに刀を持てばそのまま刀法ともなり得るのである。」 (出典:『合気道』124頁 )
盛平が主に岩間以外の弟子に教えた、正面打ち・横面打ち・突きに対応する三つの型 [ 要出典 ]
他に大規模な演武会としては、全国学生合気道連盟 (合気会傘下)による「全国学生合気道演武大会」、養神館 が主催する「全日本養神館合気道総合演武大会」が知られている。
初の一般公開演武会 …同企画は吉祥丸が合気会常務理事に招いた元プロ野球セントラル・リーグ 興業本部長・徳永繁雄の助言により始まったものだった。この企画を知った盛平は、当初非常に反発した。それまで演武とは盛平一人が演武することであって、未熟な者が人前でその技を披露することなど考えられなかったからである。だが結局盛平は吉祥丸の説得を受け入れ、開催を承諾する。(出典:『戦後合気道群雄伝』164-173頁 )
嘉納治五郎の賞賛 …それを聞いた同行の永岡秀一 が「では私達がやっているのは嘘の柔道ですか?」と冗談交じりに聞き返したのに対し、嘉納は「単なる柔道ではなく広義の柔道である」と説明したという。(出典:『植芝盛平と合気道1』197頁 杉野嘉男 インタビュー)
女性の護身術として …合気道がいかに勝敗を争わぬからといって、武道である以上、護身術として役立つことはいうまでもない。
(中略)反射的に身の危険を避ける無駄のないすばやい動きは、合気道独特のものだ。女性の護身術としても最適であろう。合気道は力まかせの技法ではなく、相手の力を合理的に利用する技法を基本にしているので、非力な女性の護身術として向いている。
— 『図解コーチ 合気道』11頁
護身術の有効性に関する合気会側の見解 …Q :稽古を見ていると人がクルクル回っていて、実際に武道として使えるように思えないのですが。
A :例えば、学校の勉強をしていて基礎や基本の問題を解くとしましょう。それに対して、『こんなものが入試に出るはずがない』と言って入試問題ばかり解こうとしている学生がいたとしたら読者はどう思いますか。その学生の学力は向上するでしょうか。『しない』とは断言できませんが、基礎や基本を無視して円滑な向上は望めないでしょう。何につけ、一見、遠回りのように見えながら、基礎や基本をしっかり身につけた方が、上達は早いのです。
そのまますぐに役に立ちそうに見えることを学ぼうというのは、武道で言うと『こう来たら、こうする』式のものに堕しやすいものです。それらはすぐに役に立ちそうで、実は逆に使えません。起こり得る全てのパターンを予習することなど不可能ですし、実際の場面で、いちいち『こう来たら、こうする』などと思い出して動こうとしたら、間に合わないからです。(中略)すべてをすぐに役に立てることは不可能です。基礎を何度も修練している内に体が体得するのです。体得すれば、自ずと実際に使えるようになります。(中略)蹴り技を稽古の中で使わないのですから、合気道は蹴り技に対処できないのでは、と『こう来たら、こうする』式の発想の人は考えるに違いありません。
タイに合気道を指導しに行った人から、聞いた話です。ご存じのようにタイでは、ムエタイが盛んです。やはり、実際、試さなければ認めない人というのはどこにでもいます。この指導員は、ムエタイをやっている人に試合を申し込まれました。最初は、合気道ではそのような申し出に応じないと応えていましたが、立ち合わざるえなくなったのです。
仕方がない、と無念無想で相対した次の一瞬には、そのムエタイの人を一教で押さえ込んでいたのです。これには押さえ込んだ指導員本人もびっくりしていました。本人自身、一教が現実の場面で使えるなどとはそれまで考えていなかったからです。これは『こう来たら、こうする』などとは一切考えずに自然に体が動いた結果でした。このように日々の鍛錬がきちんとなされれば蹴り技にも対処できるのです。
— 『規範 合気道 基本編』17-18頁
藤田欽哉 …故藤田欽哉氏(1889-1970)
早稲田大学卒業後、三菱銀行に3年勤務、米国 オハイオ州マイアミ大、短期間コロンビア大に学び、
ニューヨークにて貿易商に勤務。
その時ゴルフを覚え、帰国後、貿易商を営んでいたところ、霞ケ関の地主からゴルフ場建設を依頼されて
霞ケ関CCの創始者にもなり、東コースを設計した。
他に那須GC、習志野CC、千葉CC野田コース、静岡CCなどを設計した。
故藤田氏は、東京・駒込に生まれ、六義園の邸内で育ち
大面積の土地に対する判断や処理する能力に卓越したものがあり、
土壌を動かさず自然の地形と起伏・池を生かしたコースの設計に特長がある。
— 東松山カントリークラブ
「ド軍“臨時コーチ”に広岡氏!合気道指導へ 」…「元ヤクルト、西武監督で野球評論家の広岡達朗氏(77)が 米大リーグ、ドジャースの“臨時コーチ”を務めることが8日、分かった。伸び悩む準レギュラーの選手たちに合気道の指導を行うためで、10日に渡米する。(中略)広岡氏と合気道の出合いは、巨人2年目の1995年。新人王に輝いた翌年にスランプに見舞われ、救いを求めたのが気の第一人者、 中村天風師だった。そこで「心が体を動かす」という人間の体に潜んでいる気の積極的観念を学び、さらに弟子の藤平(とうへい)光一師から長嶋、王らとともに指導を受けた。」(出典:sanspo.com 2010年1月9日付の記事 )
永倉万治 …「二〇〇〇年十月五日、我が合気道和光支部道場内で雑誌社の撮影中の出来事、道場生だった作家永倉萬治氏の死。一年ちょっとの付き合いであったが、彼は身をもって葉隠を教えてくれたような気がする。生前「死ぬのは怖い」と漏らしていたこともある彼は、生を大切にした。脳卒中の経験をもっての身体で、他の人よりも死は身近であったはず、そんな永倉氏は今できる事に常に興味をもって接していたと思う。」(出典:和光市合気道和光支部ホームページ/師範挨拶 )
大月晴明 …「ライフワークとして武道の達人を目指す大月は、実戦合気道の道場にも足を運ぶ。
『どうやったら相手のバランスが崩れるのか。そのための圧力のかけ方などを学んでいます。合気道の技術はキックでもおおいに役立つ。ボクの闘い方は、いろいな格闘技のブレンドと言ってもいいかもしれない』」(出典:@ぴあ「21世紀の骨のあるヤツ-第170回 大月晴明(キックボクシング) 」 。2015年5月1日閲覧。)
大日本武徳会に平井稔派遣 …昭和十四、五年頃の入門生に、平井稔という人がおり、丁度その後大戦となり、前記優秀なる内弟子らの相次ぐ出征の後を引き受け、道場総務をしていた。たまたま時勢の流れは合気道をも武徳会に統合し、その一翼とすることになり、武徳会の役員であった久富達夫氏から皇武会の富田健治理事に照会があり、それにより道主(盛平)の代理として、右の平井氏が合気道の代表代理格で武徳会に席を置くことになり、武徳会内に合気道部が設置され、合気道の練士、教士、範士が出現するところまで行った。これはすでに終戦直前の混乱期であった。
— 『合気道』68頁
「合気道」の命名 …(平井稔インタビューより)大日本武徳会の中における武道体系、いわゆる『武徳会流』に付けた名称が『合気道』だった。
武徳会では名称をめぐっていろいろ議論があった。幹事会を何回も何回も開いて議論しました。柔道、剣道部門が中心になって動いており、一口に総合武道といっても各流派があり、従来の流派とのあつれきを少なくするため、あたりさわりのない名称を付けることになりました。久富さんの提案で、実戦的な武道をということで、柔術を基本にした部門を作ることになった。柔というのは総合体系を持っているから剣も杖も使う。久富さんが熱心にそれを主張された。それで合気武道とかいわずに、『合気道』にして、道をはっきりしたほうがいい、総合武道として、合気道というものを作ったらいいんじゃないかということになった。私は久富さんに同意見で賛成したんです。
つまり、『合気道』といったほうが総合的なものを全部含められる。剣道とか柔道だとかの、ことさらに流派にこだわった名称を付けたり、勇ましい名前なんかを使わずに、すべて総合的に総括的に柔らかい名前を付けようというのが久富さんの意見であり、結論的には誰にも異論はなかったわけです。
— 『植芝盛平と合気道 2』51頁
合気会側の見解 …「昭和十七年(1942)五十九歳 (中略)この武徳会との関係もあり『合気武道』の呼称を改め、初めて正式に『合気道』を名乗ることとなった。」(出典:『合気道』310頁 )
戦後合気道を名乗る …盛平インタビューより
盛平の高弟・奥村繁信 の証言合気道も当時(
1940年 頃)は“合気武術”と言われていたと思います。それが昭和十八年くらいに合気武道となって、戦後“合気道”となったわけです。
— 『開祖の横顔』176頁
武徳会合気道部への抵抗感 … しかも戦時下統制の波は、とうぜん武道界にもおよび、合気道 - 当時は一般に、「合気武道」として知られていたが、「植芝合気武道」「皇武合気」などの別称もあった - もまた武徳会に統合されることになった。そのさい開祖は正式に、「合気道」の呼称に統一するむねを宣した。すなわち、「武徳会=合気道部」となったのである。(中略)
率直にいって、この時点で開祖は明確に岩間への転住に踏み切ったもののようである。
国策に異を唱えるわがままこそ自制したが、己れが一代の辛酸と研鑽とをもって築きあげた合気道である、それが便宜的に、「合気道部」などで一括されることに、開祖の潔癖が耐えられようはずはなかった。
「わしは雑務はようせんがな。まだまだ修行じゃ」といい、武徳会には渉外的手腕のすぐれていた当時道場総務だった内弟子の平井稔氏(のち、「大日本恒輪洞合気道」と称して活動)を代理人としてさしむけ、自分はさっさと岩間におもむいてしまった。
— 『植芝盛平伝』256-257頁
平井独自の武道 …(平井稔インタビューより)しかし私自身としては、武道の杖にしろ剣にしろ、いき方については、私自身が以前からとっておる考え方がありましたからね。ですから、そういうところ(盛平の道場)で大きく刺激を受けたというよりも、(植芝)先生との出会いの中に円の基本のいき方というものを、たいへん都合よく解釈していったのかもしれません。円転無窮などといったことは間違いではなかったんだという自信につながりました。私は壮年期であったし、そういうことをとくに考える時期であったので、自然に会得していった。だけど植芝先生は植芝先生なりに会得されたものがあったと思います。
(中略)それから戦後、飯倉の道場で私なりのいき方でやっている時、警察の内務官であった富田健治さんが『平井先生、どうだねもう一度こちらの植芝のほうをお考えくださいませんか』と、わざわざ道場へ見えました。私は私の信ずる道で、志を立てたのでお断りいたしますというようにいったわけです。
— 『植芝盛平と合気道 2』48-49頁
合気会発足直前の流儀名 …「昭和二十三年に入門した徳山浩一(現・株式会社三協 代表取締役会長)の記憶によれば、財団法人の許可がおりるまで、『皇武会』では『武産合気』を称し 、入身技や一ヶ条(現・一教)、二ヶ条(現・二教)などを今日同様に教え、学んでいたという。」(出典:『戦後合気道群雄伝』108頁 )。
「合気道」を名乗った経緯 …(植芝盛平ラジオインタビューより)
(聞き手)合気道というお言葉は、どういうところからお付けになったのでございますか。
盛平翁 付けたんじゃない。国のこれは至宝やからな、個人が勝手に付けるものじゃない。そこでほっといたらやな、文部省の中村光太郎さんの方から、合気道としたらどうだな、という相談があった。で、向こうから合気道とせよということだった。結構な話やから合気道にしようと、こういうことや。
その後ですね、付けたものの合気道について、少し自分も調べてみなあいけない。
— 『植芝盛平と合気道 1』255-256頁
「合気」という名は、昔からあるが、「合」は「愛」に通じるので、私は自分の会得した独特の道を「合気道」とよぶことにした。したがって、従来の武芸者が口にする合気と私の言う合気とはその内容が根本的に異るのである。
— 『合気道』 50頁 なお吉祥丸によると、合気会認可の折に文部省の担当事務官・「中山甲子」の尽力があったと記している。(出典:『合気道一路』 100-101頁)
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