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日本の民間伝承における非日常的・非科学的な存在の総称 ウィキペディアから
妖怪(ようかい)は、日本で伝承される民間信仰において、人間の理解を超える奇怪で異常な現象、あるいは、それらの現象を起こす不可思議な力を持ち科学で説明できない存在のことである。妖(あやかし)、物の怪(もののけ)、魔物(まもの)とも呼ばれる。
妖怪という存在は、日本古来のアニミズムや八百万の神(やおよろずのかみ)の思想、あるいは、人々の日常生活の決まり事や自然界の法則などに深く根ざしている[1][2]。その一方で、人々が理解せず信じない存在や現象にも妖怪になりうるものがあるとされる[1][3]。
明治時代初期に近代化を進める明治政府により、科学的に説明不可な古い風習などは迷信とされ、妖怪も抑圧対象の一つとなった[4]。しかし、民俗学者の柳田国男は、各地の一般の人々の歴史や生活の変遷などを探る民俗学の研究対象の一つとして、妖怪についても全国各地で現地調査を行い、「遠野物語」をはじめ多くの出版物や講演などを通して、古いものにこそ価値があり、それを知ることは各自の地域がどのようにして今に至ったかを知ることになり、その地域の将来を考える上で重要だと説き、妖怪や怪談なども徐々に見直されることとなった[4]。
時代ごとに人間が超自然現象と感じる事象の範囲は異なるが、時代を遡れば遡るほど、その範囲は広かったと考えられる[6]。
古来のアニミズム的な思想において、あらゆる事象に宿るとされていた霊的存在は「物の気」などとも表現されてきた[7]。霊魂はそれぞれが感情を持つと信じられており、和んでいれば豊作のような吉事をもたらす「和魂」であり、荒れていれば災害や疫病のような凶事をもたらす「荒魂」であるとし、荒魂を和魂に変える手段が「祭祀」であり「鎮魂」であった[8]。一般的に先祖や偉人、地域によって時には自然や動物も和魂として守り神となってもらえるように祀り続ける一方で、その時代では解明できない凶事と畏怖をもたらす存在も、祀ることで凶事をもたらさなくなるよう鎮魂が試みられてきた[9][10]。つまり、元々は妖怪的存在とは荒魂のうち祀られなかった、祀ることに失敗した、もしくは祀り捨てられた存在に求めることができるといえる[11][12]。
もっとも、時代の進行に伴い、超自然現象ではなく合理的に説明できる事象の範囲が著しく増加していく。同時に、妖怪を盛んに絵巻や絵として造形化することにより見た目の固定化、キャラクター化が進み、畏れは和らぎ、時代の流れとともに妖怪は娯楽の対象へと移り変わっていく。娯楽化の傾向は中世から徐々に見られ始め[13]、江戸時代以降に決定的なものとなる[14]。風俗史学者の江馬務は、『日本妖怪変化史』や『おばけの歴史』などで妖怪と変化を取り上げ、以下のいくつかの分類を試みている。
日本の民俗学では、各地に伝承されていた妖怪の採集報告を出現する場所などで分け、以下のような分類を『綜合日本民俗語彙』(第5巻)の部門別索引などで示している[15]。
文献や言い伝えとしての妖怪が見える時代である。『古事記』、『日本書紀』といった歴史書や『風土記』等における太古からの伝承を説明している文の中で、「鬼」、「大蛇」や怪奇現象に関する記述が既に見える[16]。また、平安時代には『日本霊異記』や『今昔物語集』を初めとして、怪異や妖怪にまつわる説話の登場する説話集も複数編纂されており、百鬼夜行に関する記述等も見られる[17]。これら文献中の多くの妖怪たちは後の時代に引き継がれていく[18]。しかしながら、これらの妖怪的存在がどのような姿をしていたかが言葉で語られてはいるものの、姿かたちを描いた絵画が付されているというわけではない[16]。平安時代後期において『地獄草紙』などの仏教絵画に鬼などの表現が見られるものの、視覚的表現として妖怪が具体的に姿を現すのは中世、鎌倉時代に入って以降である[19]。
ヤマタノオロチのように元々は祀られる土地の神であったがスサノオに退治され妖怪に転落した存在や[20]、弥三郎という盗賊を退治したところ彼の怨霊が毒蛇となって田の水を枯らしたので祀り上げて「井の明神」としたとあるように神に転じた存在[21]、河童や犬神のようにある地域では神として祀られていても別の地域では妖怪とされている存在を例に取れるように、日本人の神に対する価値観の中で、妖怪と神の間を行き来している存在が見られる[22][23]。
書物としての妖怪から、絵巻物や御伽草子といった絵物語により具体的な姿を持った妖怪たちが続々と登場する時代である。寺社縁起として製作される絵巻がある一方で、御伽草子をはじめ娯楽性の高い絵巻も登場。妖怪は娯楽の対象になり始めていく。例えば妖怪退治の物語は妖怪に対する人間世界の優位性を強調しているとも言える[13]。
このように、古代では文章でしか語られてこなかった妖怪は中世においては絵と物語で次々に視覚化されていった。また、御伽草子には浦島太郎、一寸法師といった昔話として現代においても馴染み深い物語も見られる。
これら絵巻物や芸能(能・浄瑠璃)を通じた娯楽の場に描かれる妖怪たちの要素は主として公家・寺社などが主体となっていたものであったが、室町・戦国時代を経て武家から町人にも文化の拡大と共にひろまってゆき、江戸時代初期と地つづきになっている。
中世において妖怪は飢饉や疫病、戦乱といった凶事と関連して語られていたが、それが江戸時代において人々の間に広く流布して浸透していき、次第に身近な問題として結びつけられて、「神仏からのメッセージ」として私事化していった[27]。それによって、時にはパロディも生み出されるようになる[28]。
例えば百物語のような怪談会が流行する中、語り手がまだ世間には知られない未知の怪談・妖怪を求めた結果、中国の白話小説を翻案したり、翻案を他の伝承や物語とミックスしたり、妖怪を創作するという事例も散見されるようになる。翻案された中国の話には『剪灯新話』など日本で翻訳ずみであった作品もあるが[29]、直接原文から翻案されたものも見受けられている[24]。
さらに浮世絵などの画題としても妖怪は描かれた。有名な妖怪を描いた画家に葛飾北斎、歌川国芳、月岡芳年、河鍋暁斎などがいる。また、土佐派や狩野派などの画家によって絵巻物や絵手本として『百鬼夜行図』などの妖怪絵巻も江戸時代以降、盛んに描かれた。
印刷・出版技術の発展とともに、出版文化が発達していき、草双紙(赤本・黒本・青本・黄表紙[注釈 1]・合巻)や読本など創作作品の題材にも妖怪は盛んに用いられた[30]。それらの書籍を扱う「貸本屋」の普及や利用により、庶民の中で各々の妖怪の様相が固定し、日本全国に広がっていった。たとえば河童に類する妖怪は江戸時代以前には、日本全国に多くの様相や解釈があったが、書籍の出版によって、現在にも通ずる「河童」のイメージが固まっていった[31]。古文献や民間に伝承された妖怪とは別に、駄洒落や言葉遊びなどで、この時代に創作された妖怪も多数存在し、現在でいえば妖怪辞典のような位置づけであろう鳥山石燕『画図百鬼夜行』(1776年)シリーズや真赤堂大嘘『選怪興』(1775年)[32]や森羅万象『画本纂怪興』(1791年)[33]に描かれている妖怪はその一例である。そうして創作された妖怪の中には傘化けや豆腐小僧などが現在も知られている[34]。
江戸時代後期には、かるた、すごろく、立版古など児童向けの玩具に類する出版物の図柄にも妖怪が使われていた。これは前述のごとく出版文化の発達に伴い妖怪画が浮世絵や版本を通じて人々と身近に接する機会が増え、本来は畏怖の対象だったであろう妖怪が人々にとって親しみのあるキャラクターとしても捉えられるようになっていったことが要因の一つなのではないか、と現代の研究では考えられている。これは明治に入って以後もめんこやカードなど時代にあわせてその媒体を増やしている[35][36]。
明治維新後に急進した欧化政策を受け、西洋の物語も原書あるいは翻訳を通じて日本でも受容されていった。現在も古典落語として口演される『死神』に出て来る死神の動作や蝋燭を用いた表現などは、日本古来のものと見なされることもあるが、落語家の三遊亭円朝が明治20年代頃にグリム童話の「死神の名付け親」あるいはイタリアのオペラ『クリスピーノと代母(コマーレ)』(1850年)などといったヨーロッパの死神の登場する話をもとに翻案した新作落語であるとし、このイメージが巷に広まったことが知られている[39]。また、明治41年(1908年)に泉鏡花、登張竹風のふたりはハウプトマンの戯曲『沈鐘』(1897年)を共訳、鏡花は『沈鐘』に明確な影響を受け戯曲『夜叉ヶ池』を執筆する[40]など、このように西洋の物語に登場するイメージなどを日本の妖怪のストーリーなどに翻案した作品も明治以降には発生している。
古代から現代にかけて様々な形で妖怪は伝承されてはいるが、誰もが明確に見ることの出来る「遺物」として残されている情報は数でいえばとても少ない。説話集や絵巻物といった作品にその存在を確認できるのが限界で、当時一般的に体感された妖怪の伝承内容は、随筆や日記などからわずかに知れるに過ぎない。
娯楽作品に描かれる妖怪たちと同じように生活に身近な位置にいたと考えられる世間話・迷信や昔話(民間伝承)に登場する妖怪たちは、現代以降も残存する機会は非常に少なくなっている。マスメディアの普及や家庭や就業形態の変化による年長者や年配者の口伝えの機会の減少や孤立。民間伝承上の妖怪の背景となっていた事物の現代性を大きく奪っている。ひとを化かす存在として語られていた狸(たぬき)や狐(きつね)や鼬(いたち)や獺(かわうそ)を過去ほど身近に見かけづらくなったことや、農村・山村・漁村の機械化・住宅地化、あるいは硯(すずり)や釜(かま)や釣瓶(つるべ)などといった民具が使わなくなったことなどが具体例として挙げられる。このような伝承の内容と現代の実情の乖離している状況は、古典落語に登場する言葉や景観と同じように民間伝承の妖怪の「生活に身近だったもの」から「過去のもの」への変貌に拍車をかけており、文化全般の継承にかかわる問題の一部分でもある。
いっぽうで、噂話や世間話などを基盤として口裂け女、トイレの花子さん、カシマさんなど新たな妖怪も誕生している。これらの新しい妖怪は学校の怪談や都市伝説と称される分野で多くの話が年々生まれては消え、また伝えられていくうちに様々に変転をつづけている。このような新しい民間伝承の妖怪たちは、現代性をもった事物を背景として語られ、テレビ番組などのマスメディアで取り上げ、一定数に受容されているが、話が生まれた時代に用いられていた事物や言葉から現代性が喪失すれば、「過去のもの」として扱われてしまいかねない。1990年代以後に携帯電話やインターネットなどを用いた話なども見られるが、中にはそれ以前から語られていた話に新しい現代的な事物が足されて語られるようになったものもあり、過去の民間伝承の妖怪たちから奪われた現代性を補完する存在であるとみることもできる。しかし、狸や狐が蒸気機関車や電車に化けたりする話が明治時代になって発生したように、新しい民間伝承の妖怪たちを区分する明確な基準は存在していない。都市伝説に見られる妖怪たちを、都市伝説をあつかったマスコミや書籍では「現代妖怪」[41][42]と称している。特に妖怪研究家・山口敏太郎が自著書の中で多用している[41]。
妖怪は古典的な演芸や美術あるいは様々な新興の媒体(マスメディア)で描写され、その創作群はひろく日本の社会に享受されている。戦前の紙芝居や昭和40年代(1970年前後)まで続いた貸本屋、また戦後の漫画産業の振興やテレビ放送の普及などもその認知に寄与している。平成以後は、柳田國男の『遠野物語』にえがかれた岩手県遠野市や、『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる水木しげるの出身地の鳥取県境港市などでは、妖怪の登場する作品が地方自治体によって観光資源や地域活性の起爆剤とする事例もある。
柳田國男『妖怪談義』の出版以後、マスメディアで紹介される妖怪には民間伝承の妖怪も幅ひろく用いられるようにもなったが、いっぽうで江戸時代の娯楽作品群同様に、現代にも創作妖怪は生まれつづけている。1960年代以後は漫画やアニメあるいは映画などで盛んに新しい妖怪が登場。1970年代には怪奇系児童書の一環として児童向けに、百科、図鑑、事典などの体裁で妖怪を紹介する書籍が多く刊行されはじめ、21世紀現在も同種の書籍の出版が継続している。それら書籍中の妖怪には、それまでの民間伝承、怪談、随筆に見られた妖怪と、創作物と思われる妖怪が多く混在していることを指摘。特にがしゃどくろ、樹木子などがその種の現代に新たに創作された妖怪として知られる。近年の妖怪の創作者としては佐藤有文らが知られ、妖怪作品を数多く描いている漫画家の水木しげるの妖怪研究関連の著書の中にもそのような妖怪が明示されないかたちで掲載されている点が指摘されており[43][44]、水木自身も漫画『ゲゲゲの鬼太郎』を通じて約30の妖怪を創作したと述べている[45]。このように古典上の妖怪たちの中に現代の創作物を混ぜてしまうことは、伝承をないがしろにしているとして非難や中傷の槍玉に挙げられることも一部に見られる[43][44]。しかし前述のように、江戸時代にはすでに鳥山石燕らによる妖怪の創作が多く行なわれていたため、古典上の創作が許されて現代の創作が非難されることを理不尽とする意見も多く[43]、また、こうした書籍類でさまざまな妖怪を紹介することが、当時の年少の読者たちの情緒や想像性を育んだとする好意的な評価もある[44]。
妖怪のほかに古文献などでは妖恠・夭怪など異体字を含めた表記例もみられる。妖(夭、あやかし)・変化(へんげ)・妖怪変化・お化け(化け物、化け)・化生(けしょう)・妖異・怪異・怪物・鬼・百鬼・魑魅魍魎(ちみもうりょう)・魔・魔物・憑き物・物の怪(勿の怪、物の気、もののけ)なども同様な意味で使われる。
奈良時代など古代の日本では、漢語を通じて得られた知識にしたがい「妖怪」という語は「怪しい奇妙な現象」を表していたが、様々な神や伝承や怪談や宗教や価値観と結びつき、詳細の解らない現象を、具体的な形を持ったものの仕業としたため「怪異を起こす存在」を妖怪と呼ぶようになったと考えられる。
海外で伝承される魔物・妖精の類も翻訳されることによって「妖怪」として扱われることがあり、日本で「妖怪」と称されるカテゴリーへ内包される対象は洋の東西を問わない。西洋の吸血鬼や狼男や、古代中国の『山海経』に見られる禽獣などを俗に「西洋妖怪」・「中国妖怪」と総称する例もある。日本の風俗から外れた、海外の魔物を「妖怪」と呼び習わすのは、こうした日本以外の文化が様々な時代に流入し、ある程度の歴史を持っているからである。英語圏などでは区別されることのあるFairy(フェアリー/妖精)とMonster(モンスター)の区別は日本においては曖昧であり、両者は包括されて取り扱われる。怪物(モンスター)については、日本の民間信仰で伝承されていないもの、また創作の妖怪で歴史の浅いものや、海外の民間伝承に登場するもの。または、正体の解らない不気味な生き物として、フィクションの上での、宇宙生物や未確認生物を指す傾向もある。
中国では、妖精や精霊、精怪といった語が日本でいうところの「妖怪」に近い言葉として用いられている。ほかに魅(邪魅、妖魅、鬼魅、老魅)、妖鬼・妖魔・妖霊・妖厲[46]などの語がある。「鬼」は幽霊、霊鬼という意味でつかわれており日本語における「おに」のイメージとは差異が見られる。妖精や鬼など、同じ漢字であってもその意味合いやイメージに異なるものも存在しているのは他の日本語と中国語の関係と同様である。
朝鮮半島では、鬼・鬼神・鬼変、妖怪、妖鬼、妖物、霊怪などの語が文献に見られる。15世紀に書かれた伝奇小説『金鰲新話』には中国の説を引いた妖怪・鬼の解説を説いた場面なども見られ、「妖」を「物に依るもの」、「魅」を「物を惑わすもの」であるなどと描写している[47]。
ヨーロッパの「fairy」(フェアリー)は日本では一般的に妖精と翻訳されることが多いが、文化人類学などでは妖怪も妖精も包括されて扱われている。また現在の日本文化としての「妖怪」が紹介される際には「monster」:怪物と翻訳されることも多い。これらの語義の違いは、背景となる自然に対する姿勢や歴史性はもちろんだが、翻訳とニュアンスに留まるところが多いため翻訳される語同士が完全に同義であるとはいえない。
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勿怪の幸い(もっけのさいわい)とは、「図らずして齎された幸福のこと」である。もともとは、物の怪(勿の怪)の幸いといい、物の怪(妖怪)がもたらす幸福を意味した。山姥や鬼や座敷童子が禍や福をもたらすという、各々違う物語が伝承されていて、妖怪は祟りや恐怖だけの存在ではなく、時として幸福を授けてくれる存在であり、前述にもあるように、古神道や神道の神々や、九十九神も同様に禍福をもたらす存在である。これらは、自然崇拝に見られる特徴であり、自然の一部である天気や気候においても、適度な晴れや雨は実りや慈雨であるが、過ぎれば日照りや水害になることと共通する。
期待しなかった事柄やものが、幸(予想に反して成長や効果や利益)をもたらす表現として、「化け」や「大化け」があり、「オバケ」の語彙や語句の一つであり、「期待していなかった新人歌手が、トップスターになった」ときなどに「この新人歌手は化けた」または、「大化けした」というように使われる。大きく成長した動植物にも使用され、「お化けダイコンやお化けヤゴ(オニヤンマの幼生の俗称)」などと使われる。古神道において、「神さび」とともに古いことだけでなく、大きなことも尊ばれてきた歴史や価値観があり、神体山としての霊峰富士や、巨木・巨石信仰の御神木や夫婦岩などがあり、この大きい「お化け」ということと根底で繋がっているともいえる。
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古神道においては、神奈備(かんなび)という「神が鎮座する[注釈 2]」山や森があり、この神奈備が磐座(いわくら)・磐境(いわさか)[注釈 3]や神籬(ひもろぎ)[注釈 4]に繋がっていった。これら鎮守の森や神木や霊峰や夫婦岩は神域や神体であると共に、「現世」と「常夜・常世」の端境と考えられ、魔や禍が簡単に往来できない、若しくは人が神隠しに遭わないよう結界として、注連縄(しめなわ)[注釈 5]や祠が設けられている。逢魔刻(大禍刻)や丑三つ刻だけでなく、丑の刻参りという呪術があり、古くは神木(神体)に釘を打ち付け、自身が鬼となって恨む相手に復讐するというものである。丑の刻(深夜)に神木に釘を打って結界を破り、常夜(夜だけの神の国)から、禍をもたらす神(魔や妖怪)を呼び出し、神懸りとなって恨む相手を祟ると考えられていた。
これらに共通するのは「場の様相」(環境や状況)が転移する(変わる)空間や時間を表していて、夕方や明け方は、昼と夜という様相が移り変わる端境の時刻であり、昼間はどんな賑やかな場所や開けた場所であっても、深夜には「草木も眠る丑三つ時」といわれるように、一切の活動がなくなり、漆黒の闇とともに、「時間が止まり、空間が閉ざされた」ように感じるからである。また神奈備などの自然環境の変化する端境の場所だけでなく、坂、峠、辻、橋、集落の境[注釈 6]など人の手の加わった土地である「道」の状態が変化する場所も、異界(神域)との端境と考えられ、魔や禍に見舞われないように、地蔵や道祖神を設けて結界とした。社会基盤がもっと整備されると、市街の神社や寺や門[注釈 7]などから、伝統的な日本家屋[注釈 8]の道と敷地の間の垣根や、屋外にあった便所や納戸や蔵、住居と外部を仕切る雨戸や障子なども、常世と現世の端境と考えられ、妖怪と出会う時間や場所と考えられた。
妖怪を研究対象として取り扱っている学問には民俗学や文化人類学などがある。また、文学、歴史学、宗教学、芸術学、演劇などの諸領域でも作品・事例についての研究が重ねられている。
民俗学では「民間信仰」に関する研究において、予兆、禁忌、ことわざ、民間療法などと並んで、妖怪は庶民一般の信仰事象を解明する一事象として捉えられてきた。自然現象に対する理屈付け、教育的機能など、自然に対する畏怖や敬意、価値観などを明らかにするものと言われる。
出生順
妖怪は芸術・娯楽の分野で、作品の題材としても数多く扱われてきた。諸作品の詳細に関しては「カテゴリ:妖怪を題材にした作品」等を参照。
出生順
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