秋田県立秋田高等学校
秋田県秋田市にある高等学校 ウィキペディアから
秋田県秋田市にある高等学校 ウィキペディアから
秋田県立秋田高等学校(あきたけんりつあきたこうとうがっこう)は、秋田県秋田市に所在する県立高等学校。通称は「秋高」(しゅうこう)。
秋田県立秋田高等学校 | |
---|---|
秋田県立秋田高等学校(2019年8月) | |
北緯39度44分13秒 東経140度8分2秒 | |
過去の名称 |
洋学校 太平学校中学科 太平学校変則中学科 秋田県師範学校中学師範予備科 秋田中学校 秋田尋常中学校 秋田県第一尋常中学校 秋田県第一中学校 秋田県立秋田中学校 秋田県立秋田南高等学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 秋田県 |
設立年月日 | 1873年9月1日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 |
普通科 理数科 |
学校コード | D105220155469 |
高校コード | 05101C |
所在地 | 〒010-0851 |
秋田県秋田市手形字中台1番地 | |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
1873年(明治6年)に洋学校として設立され、旧学制下の中学校等を経て、戦後の学制改革で新制高等学校となった。 学校当局が「現存する高校の中では全国で4番目の歴史を持つ」と主張していたこともあった[1] が、現在では学制公布以後の創立校に限定しても少なくとも8番目以降の創立であることが判明している[2][出典無効]。
旧農業専修科が秋田県立大曲農業高等学校、旧定時制課程が秋田県立秋田東高等学校にそれぞれ独立した(年表を参照)。
戦前、対外試合等の場で生徒が「矢留(やどめ)軍」と自称し、野球部等のユニフォームにも「YADOME」と記していた時期があるため、他の高校の校史や郷土史関係の資料には「矢留中学」と誤記されることがある[3]。
自主自律の精神が尊重されており、生徒主体の行事運営をはじめ活発な生徒会活動が行われている[4] ほか、昭和40年代から「応援の自由」「着帽の自由」「着装の自由」[5][6] 等を実現してきた。
教育目標達成のため、
創立は1873年(明治6年)9月1日。秋田町東根小屋町日新学校内に設置された洋学科(洋学校と称する)に始まる。太平学校中学科、同変則中学科、秋田県師範学校中学師範予備科を経て、1882年(明治15年)7月1日に秋田中学校として独立。さらに秋田尋常中学校、秋田県第一尋常中学校、秋田県第一中学校を経て、1901年(明治34年)7月に秋田県立秋田中学校。戦後の学制改革により1948年(昭和23年)4月1日、秋田県立秋田南高等学校となったが、1951年(昭和28年)4月1日に改称し、現在の校名に至る。
代数 | 氏名 | 在任期間 | 出身地 | 前職 | 後職 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
初代 | 金子精一 | 1873.9.1 - 1875.2 | 群馬 | 大阪理学所少助教 | ||
第2代 | 頓野馬彦 | 1875.2 - 1878.2.26 | 山口 | 秋田県学務課長専任 | 兼補解除 | 秋田県学務課長兼務 |
第3代 | 青木保 | 1878.2.27 - 1879.1 | 岡山 | 太平学校副校長 | 太政官調査局 | |
第4代 | 頓野馬彦 | 1879.1 - 1881.2 | 山口 | 秋田県学務課長専任 | 兼補解除 | 秋田県学務課長兼務 |
第5代 | 田中精一 | 1881.2 - 1882.3.9 | 新潟 | |||
第6代 | 頓野馬彦 | 1882.3.10 - 1883.2.16 | 山口 | 秋田県学務課長専任 | 山口県書記官 | 秋田県学務課長兼務 |
森可次 | 1883.2.17 - 1883.10.31 | 青森 | 秋田中学校一等教諭 | 心得解除 | 学校長心得 | |
第7代 | 関藤成緒 | 1883.11.1 - 1887.3.9 | 東京 | 文部省報告局兼普通学務局 | 宮内省図書寮御系譜課 | 秋田師範学校長兼務 |
第8代 | 多田政固 | 1887.3.10 - 1887.11 | ||||
尾泉良太郎 | 1887.11 - 1888.5.6 | 山形 | 学校長心得 | |||
第9代 | 松田晋斎 | 1888.5.7 - 1890.4.7 | 愛媛 | |||
尾泉良太郎 | 1890.4.8 - 1890.6.9 | 山形 | 学校長心得 | |||
第10代 | 山本宣喚 | 1890.6.10 - 1892.11.3 | 静岡 | |||
杉谷佐五郎 | 1892.11.4 - 1893.1.18 | 東京 | 学校長心得 | |||
第11代 | 戸澤鼎 | 1893.1.19 - 1895.9.23 | 長野 | |||
第12代 | 杉谷佐五郎 | 1895.9.24 - 1898.11.11 | 東京 | 退職→京北中学校教頭 | ||
緒方三之助 | 1898.11.12 - 1898.12.27 | 鹿児島 | 学校長心得 | |||
第13代 | 武田安之介 | 1898.12.28 - 1903.12.13 | 広島 | 函館中学校校長 | ||
第14代 | 添田飛雄太郎 | 1903.12.14 - 1907.3.24 | 秋田 | 早稲田大学講師 | 退職 | |
第15代 | 太田達人 | 1907.3.25 - 1910.9.12 | 岩手 | 京師大学堂副教習 | 横手中学校校長 | |
第16代 | 湯目補隆 | 1910.9.13 - 1912.10.1 | 宮城 | 退職 | ||
第17代 | 児玉實徳 | 1912.10.2 - 1915.9.1 | 宮城 | 佐世保中学校校長 | 高知県立第一中学校校長 | |
濱武元次 | 1915.9.2 - 1915.10.17 | 長崎 | 秋田中学校首席教諭 | 事取解除 | 学校長事務取扱 | |
第18代 | 安岡又三郎 | 1915.10.18 - 1919.4.24 | 高知 | 安積中学校校長 | 高田中学校校長 | |
第19代 | 鈴木保臣 | 1919.4.25 - 1919.10.11 | 三重 | 秋田高等女学校校長 | (在任中病没) | |
久保芳之助 | 1919.10.12 - 1920.1.12 | 京都 | 秋田中学校首席教諭 | 事取解除 | 学校長事務取扱 | |
第20代 | 三澤力太郎 | 1920.1.13 - 1924.3.30 | 長野 | 伊丹中学校校長 | 退職 | |
第21代 | 西居霊證 | 1924.3.31 - 1929.8.30 | 大阪 | 大阪市立児童相談所長 | 退職 | |
第22代 | 小松重造 | 1929.8.31 - 1932.3.30 | 山形 | 大館中学校校長 | ||
第23代 | 小野襄 | 1932.3.31 - 1934.6.27 | 青森 | 秋田県立秋田図書館館長 | ||
第24代 | 玉木正行 | 1934.6.28 - 1946.11 | 山口 | 能代中学校校長 | 退職 | |
第25代 | 中川秀松 | 1946.11 - 1951.3.31 | 秋田 | 秋田高等女学校校長 | 角館高校長 | 在任中学制改革 |
第26代 | 高橋一郎 | 1951.4.1 - 1956.7.1 | 秋田 | 横手美入野高校長 | ||
長南健也 | 1956.7.2 - 1956.7.10 | 山形 | 秋田高教頭 | 事取解除 | 学校長事務取扱 | |
第27代 | 村岡一郎* | 1956.7.11 - 1963.3.31 | 秋田 | 藤里村長 | 秋田県教育研究所長 | |
第28代 | 鈴木健次郎* | 1963.4.1 - 1967.3.31 | 秋田 | 日本教育テレビ | 退職 | |
第29代 | 山本一 | 1967.4.1 - 1970.3.31 | 千葉 | 秋田南高校長 | 退職→秋田経大附高校長 | |
第30代 | 菊地俊一 | 1970.4.1 - 1975.3.31 | 岩手 | 秋田県教育次長 | 退職 | |
第31代 | 小田島邦夫 | 1975.4.1 - 1980.3.31 | 秋田 | 秋田県教育センター所長 | 退職 | |
第32代 | 秋山光雄 | 1980.4.1 - 1985.3.31 | 秋田 | 秋田県教育庁主幹[15] | 退職→秋田経法大附高校長 | |
第33代 | 畑澤潤一 | 1985.4.1 - 1987.3.31 | 秋田 | 秋田県教育庁主幹[15] 兼高校教育課長 | 退職 | |
第34代 | 榊田清 | 1987.4.1 - 1988.3.31 | 秋田 | 大館鳳鳴高校長 | 退職 | |
第35代 | 室田弘* | 1988.4.1 - 1993.3.31 | 秋田 | 角館南高校長 | 退職 | |
第36代 | 椎名光雄 | 1993.4.1 - 1995.3.31 | 秋田 | 能代高校長 | 退職 | |
第37代 | 松岡正樹* | 1995.4.1 - 1997.3.31 | 秋田 | 能代工高校長 | 退職 | |
第38代 | 池田好道* | 1997.4.1 - 2000.3.31 | 秋田 | 退職→秋田経法大附高校長 | ||
第39代 | 高橋幸臣 | 2000.4.1 - 2003.3.31 | 秋田 | |||
第40代 | 菅原洋* | 2003.4.1 - 2006.3.31 | 秋田 | 退職 | ||
第41代 | 柴田義弘* | 2006.4.1 - 2008.3.31 | 秋田 | 横手高校長 | 退職 | |
第42代 | 菊谷一* | 2008.4.1 - 2011.3.31 | 秋田 | 秋田県教育次長 | 退職 | |
第43代 | 高橋貢* | 2011.4.1 - 2014.3.31 | 秋田 | 湯沢高校長 | 退職→秋田県立図書館長 | |
第44代 | 伊藤成年* | 2014.4.1 - 2016.3.31 | 秋田 | 秋田県総合教育センター所長 | 退職 | |
第45代 | 安田浩幸* | 2016.4.1 - 2020.3.31 | 秋田 | 秋田県教育庁高校教育課長 | 秋田県教育委員会教育長 | |
第46代 | 渡部克宏* | 2020.4.1 - | 秋田 | 秋田県教育庁教育次長 |
期間 | 当時の学校名 | 当時の校地住所 | 当該地の現在の住所表記 | 当該地の現在の利用 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1873.9.1 - 1873.9.17 | 日新学校洋学科 | 東根小屋町 | 中通二丁目 | ||
2 | 1873.9.17 - 1873.10.1 | 洋学校 | 上中城町 | 千秋久保田町 | ||
3 | 1873.10.1 - 1874.6.27 | 洋学校 太平学校中学科 | 下中城町 | 千秋明徳町 | あきた芸術劇場ミルハス | 伝習学校と併置 |
4 | 1874.6.27 - 1886.8.7 | 太平学校中学科 太平学校変則中学科 中学師範予備科 秋田中学校 | 東根小屋町 | 中通一丁目 | エリアなかいち | 藩校「明徳館」跡地 |
5 | 1886.8.7 - 1888.4.1 | 秋田尋常中学校 | 西根小屋町 | 中通三丁目 | 秋田県農業共済会館 | |
6 | 1888.4.1 - 1936.11.24 | 秋田尋常中学校 秋田県第一尋常中学校 秋田県第一中学校 秋田県立秋田中学校 | 東根小屋町 | 中通五丁目 | 秋田医学校跡地 | |
7 | 1936.11.24 - 1946.5.1 | 秋田県立秋田中学校 | 手形字深田 | 手形学園町 | 秋田大学教育文化学部 | |
8 | 1946.5.1 - 1962.3.3 | 秋田県立秋田中学校 秋田県立秋田南高等学校 秋田県立秋田高等学校 | 長野町 | 中通四丁目 | 秋田市民市場 | 兵営跡地 |
2・3年生においては、普通科文系コース、普通科理系コース、理数科それぞれでカリキュラムが異なる。理数科は普通科理系コースと比べても理数科目の単位数が多く、また体験的・主体的学習を主眼とした「理数セミナー」科目が設けられている[17]。1968年(昭和43年度)の理数科創設以来、普通科と理数科は入学試験の時点から別々に募集していたが、1998年(平成10年度)からは両科を一括して募集し、1年時に行われる文系・理系のコース選択希望調査の際に理数科希望者を募り、2年生へ進級する際に普通科と理数科に分かれる「くくり募集」形式へと変わった。この制度移行の関係上、1998年(平成10年度)入学者は推薦入試が実施されていない(推薦入試は翌年から復活し、現在は後述の前期選抜の形式をとっている)。
(2012年(平成22年度)入学生から)
1999年(平成11年度)までは一学年400名、全校生徒1200名を超えていたが、少子化に伴う全県的な中学生徒数減少の影響から、定員は削減傾向にある。2011年(平成23年)7月、秋田県教育庁高校教育課が、2012年度に秋田高等学校普通科の学級を1つ削減すると発表[18]。
(2005年(平成17年度)入学生から)
学力検査に用いる検査問題は秋田県教育委員会作成の全県立高校共通のもの。
期間 | 科 | 募集枠 | 選抜方式 | 学力検査内訳 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
不明 - 1966 | 普通科 | 一般 | 不明 | 9教科 | |
1967 | 普通科 | 一般 | 学力検査、調査書による総合判定 | 国・数・英 | 1967年、学力検査科目削減 |
1968 - 1980 | 普通科 | 一般 | 学力検査、調査書による総合判定 | 国・数・英 | 1968年、理数科設置 |
理数科 | 一般 | 学力検査、調査書による総合判定 | 国・数・英 | ||
1981 - 不明 | 普通科 | 一般 | 学力検査、調査書による総合判定 | 国・数・英・理・社 | 1981年、学力検査科目追加 1981年、国語に課題作文を導入 1984年、英語にリスニングを導入 |
理数科 | 一般 | 学力検査、調査書による総合判定 | 国・数・英・理・社 | ||
不明 - 1992 | 普通科 | 一般 | 学力検査、調査書、面接による総合判定 | 国・数・英・理・社 | (導入年不詳)面接を導入 |
理数科 | 一般 | 学力検査、調査書、面接による総合判定 | 国・数・英・理・社 | ||
1993 - 1995 | 普通科 | 一般 | 学力検査、調査書、面接による総合判定 | 国・数・英・理・社 | 1993年、理数科に推薦入学枠設定 |
理数科 | 一般 | 学力検査、調査書、面接による総合判定 | 国・数・英・理・社 | ||
推薦 | 不明 | - | |||
1996 - 1997 | 普通科 | 一般 | 学力検査、調査書、面接による総合判定 | 国・数・英・理・社 | 1996年、普通科に推薦入学枠設定 |
推薦 | 不明 | - | |||
理数科 | 一般 | 学力検査、調査書、面接による総合判定 | 国・数・英・理・社 | ||
推薦 | 不明 | - | |||
1998 | 普通・理数科 | 一般 | 学力検査、調査書、面接による総合判定 | 国・数・英・理・社 | 1998年、括り募集開始 |
1999 - 2004 | 普通・理数科 | 一般 | 学力検査、調査書、面接による総合判定 | 国・数・英・理・社 | |
推薦 | 不明 | - | |||
2005 - | 普通・理数科 | 一般 | 学力検査、調査書、面接による総合判定 | 国・数・英・理・社 | 2005年、3段階選抜開始[20] 2005年、学区制廃止 |
推薦(前期) | 志願理由書、調査書、面接による総合判定 | - |
クラブ(運動部または文化部)設立のためには生徒会員20名以上の連署による発議及び生徒総会による承認が必要。一方、同好会の設立は届出制で、クラブの設立よりは容易だが生徒会予算から予算を獲得することができない。
|
|
これらのクラブ・同好会のうち、現在活動がされず事実上の休部状態にあるものもある。
原則として在校の全生徒が生徒会[24] に所属し、生徒会費納入の義務を負う。生徒会はその最高規範である生徒会会則[25] に基づき活動する。生徒会の運営機構はおおよそ以下のとおり。
前述の行事のうち、生徒会主催の行事についてはその企画から運営に至るほぼすべてのプロセスを生徒会(特に行事企画委員会)が中心となって進める。当初は専門執行に関する実行委員会への委託業務を除き、生徒会総務がその統括企画業務のすべてを担っていたが、行事規模の拡大や生徒会総務の業務の多様性から、行事に関わる専門集団として1974年(昭和49年度)行事企画委員会が発足し、任意参加ながら多くのスタッフを抱え業務に当たっている。一年間の学校行事の日程を職員生徒合同で決定する「日程調整会議」、また行事の企画にあたっての「職員生徒合同企画委員会」などの場が設けられ、担当する職員と生徒が会議をする。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.