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小説家 ウィキペディアから
(ふくなが たけひこ、1918年〈大正7年〉3月19日[3][4] - 1979年〈昭和54年〉8月13日[4])は、日本の小説家、詩人、フランス文学者。別名義は加田 伶太郎[注 1]、船田 学[注 2]。
ペンネーム | 加田伶太郎、船田学 |
---|---|
誕生 |
1918年3月19日 日本・福岡県筑紫郡二日市町大字二日市835番地[1] |
死没 |
1979年8月13日(61歳没) 日本・長野県南佐久郡臼田町 佐久総合病院[2] |
墓地 | 雑司ヶ谷霊園 |
職業 | 小説家、詩人、フランス文学者 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 文学士(東京帝国大学) |
最終学歴 | 東京帝国大学文学部卒業 |
ジャンル | 小説、詩 |
文学活動 | マチネ・ポエティク |
代表作 |
『草の花』(1954年) 『廃市』(1959年) 『忘却の河』(1964年) 『海市』(1968年) 『死の島』(1971年) |
配偶者 |
原條あき子(1944年 - 1950年) 岩松貞子(1953年 - ) |
子供 | 池澤夏樹 |
親族 | 池澤春菜(孫) |
東大仏文科卒。加藤周一、中村真一郎らと文学研究グループ「マチネ・ポエティク」を結成。1948年には彼らと詩集を上梓する活動も行った[6]
戦時下の青春を描いた『草の花』(1954年)で作家の地位を確立。本格的な美や愛を探求する作品を書いた。他の著作に『海市』(1968年)、『死の島』(1971年)など。
1918年(大正7年)3月19日、福岡県筑紫郡二日市町[3]大字二日市835番地(現:筑紫野市二日市)で父・福永末次郎[注 3]と母・トヨ[注 4]の長男として生まれる。両親は共に九州出身で遠縁の関係にあり、父の末次郎は当時東京帝国大学経済学部の学生、母のトヨは日本聖公会の伝道師であった[1][7]。母方の伯父は、理学博士・海軍少将秋吉利雄。父の末次郎は大学卒業後に三井銀行へ入行し、横浜・福岡・東京と転勤を繰り返した。1925年(大正14年)4月12日、弟の文彦[注 5]を出産したばかりの母が産褥熱で死去。母を失った経験は、福永の人生に大きな影響を与えた[1]。
1926年(大正15年)6月以降は、父・末次郎は東京本店勤務となり、福永も東京へ転居。1927年(昭和2年)の日本少年寮に入寮し、1930年(昭和5年)4月に東京開成中学校に入学[3]。同期には生涯の友となる中村真一郎がいた[3]。この頃、夏目漱石、芥川龍之介、永井荷風、谷崎潤一郎らの作品を読み、将来は作家となることを志した[1]。
1934年(昭和9年)4月、第一高等学校文科丙類に入学。同期には澄田智、安良岡康作などがいた[1]。ここで福永は弓術部に入部するが、同じ部の1学年下の少年を激しく愛し、その愛を拒否されるという経験をする。この経験はのちに長編小説『草の花』の題材となった(詳細は草の花#執筆背景・動機を参照)[8]。
1937年(昭和12年)3月に一高を卒業[9]。父の勧めで東京帝国大学法学部を受験するが失敗。再受験までの1年は、早稲田大学演劇博物館に通ったり、東京外国語学校でロシア語を学んだりして過ごし、翌1938年(昭和13年)4月に東京帝国大学文学部仏蘭西文学科に入学[3]。東大では清水晶や登川尚佐(直樹)と『映画評論』の同人となり、多くの映画評論を執筆した[10][3]。
1941年(昭和16年)[11]に東大を卒業後、社団法人日伊商会を経て、召集の危険から逃れるために[注 6]1942年(昭和17年)5月に参謀本部十八班での暗号解読の仕事に従事するようになる。またこの頃、アテネ・フランセにフランス語の勉強に来ていた山下澄(原條あき子)と知り合っており、夏には彼女のほか、中村真一郎、加藤周一、白井健三郎、窪田啓作、中西哲吉、山崎剛太郎、小山正孝、枝野和夫らと「マチネ・ポエティク」を結成し、数編の定型押韻詩を発表している[12]。12月に召集令状が届き、検査を受けることになるが、間接撮影で胸部に異常があると診断されて再検査に回され、そこで以前に受けた盲腸炎手術の際の腹帯を見た軍医に「痛いか」と尋ねられ、「痛い」と答えたことで召集を解除された。翌1943年(昭和18年)2月には発作性頻脈症のため参謀本部の仕事を辞し、退職した父が移住した神戸の家を拠点として、京都や奈良の古寺を訪ねたり、倉敷の大原美術館へポール・ゴーギャンの絵画を見に行ったりするようになる[12]。
1944年(昭和19年)2月21日から福永は日本放送協会国際局亜州部に勤め始め、9月28日には、23日に日本女子大学を繰り上げ卒業した澄と結婚。しかし1945年(昭和20年)2月に急性肋膜炎で倒れ、出産のため帯広へ帰った妻の実家へ疎開、5月12日から7月7日までは帯広療養所に入院している。7月7日、長男・夏樹が生まれた[13]。
1946年(昭和21年)1月25日に福永は東京から一時帯広へ帰り、4月に日本放送協会を辞職して、北海道庁立帯広中学校で英語を教え始める。しかし福永が肺結核に罹患していることが判明すると、澄は「(福永との)約束はすべて取り消す」「自殺する」と主張し始め、家庭は崩壊の危機に陥る[14]。1947年(昭和22年)10月には胸郭成形手術を受けるため上京し、東京都北多摩郡清瀬村の国立東京療養所へ入所。この年に中村真一郎・加藤周一との共著『1946 文学的考察』のほか、『ボオドレエルの世界』を刊行[3]。左胸部整形術を受けた翌年には初の短編集『塔』、詩集『ある青春』を刊行し、戦後文学者として出発した[15]。一方で1949年(昭和24年)7月に睾丸結核が発覚、腸結核および咽頭結核の併発も判明。一時はよりを戻す提案をしていた澄も力尽き、翌1950年(昭和25年)12月に協議離婚した[16]。1953年(昭和28年)3月に退院すると、福永は療養者仲間であった岩松貞子と再婚した[17]。
1954年(昭和29年)の長編小説『草の花』で作家としての地位を確立し[3][18]、人間心理の深奥を探る多くの長編小説を発表した。また、中村真一郎と共に堀辰雄の薫陶を受け、『堀辰雄全集』の編纂にもかかわった。1961年(昭和36年)、学習院大学文学部教授。フランス文学を中心にヨーロッパの文学動向を論じた。ボードレールなどの翻訳や芸術家を主題にしたエッセイ、古典の現代語訳(『日本書紀』、『古事記』、『今昔物語集』)もある。
また、中村真一郎・堀田善衛と共にSF映画『モスラ』の原作小説『発光妖精とモスラ』を執筆[19]、中村真一郎・丸谷才一と組んで、西洋推理小説を巡るエッセイ『深夜の散歩』を刊行し、さらに加田伶太郎の名前で推理小説を書いた[3]。
1979年(昭和54年)4月20日から5月12日まで北里病院東洋医学科に入院。8月6日に胃潰瘍が悪化し、長野県南佐久郡臼田町(現:佐久市)の佐久総合病院に入院し、8日に手術を受ける。しかし12日に容態が急変、13日午前5時22分に死去(61歳没)[2][20]。朝顔教会で教会葬が営まれた[21]。
声優の池澤春菜は孫に当たるが、ギリシャで生まれてから福永の存命中は帰国することはなかったため、一度も対面していない[5]。
各「加田怜太郎」名義。探偵役は西洋古典文学の伊丹英典助教授[注 7]。
「船田学」名義。
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