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日本の評論家、著作家 ウィキペディアから
加藤 周一(かとう しゅういち、1919年〈大正8年〉9月19日 - 2008年〈平成20年〉12月5日)は、日本の評論家、小説家。医学博士(専門は内科学、血液学)。
加藤 周一 (かとう しゅういち) | |
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1942年、東大医学部時代 | |
ペンネーム | 藤沢正、荒井作之助 |
誕生 |
1919年9月19日[1] 大日本帝国 東京府豊多摩郡渋谷町 |
死没 |
2008年12月5日(89歳没)[1] 日本 東京都世田谷区[1] |
墓地 | 日本 東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園 |
職業 | 評論家[1]、小説家[1]、医師[1] |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 東京帝国大学医学部[1] |
活動期間 | 1936年 - 2008年 |
代表作 |
『文学とは何か』(1950年) 『雑種文化―日本の小さな希望』(1956年) 『羊の歌―わが回想』(1968年) 『日本文学史序説』(1975年 - 1980年) 『日本人とは何か』(1976年) 『夕陽妄語』(1984年 - 2007年) 『日本文化における時間と空間』(2007年) |
配偶者 |
中西綾子[2](1946年5月-1962年1月) ヒルダ・シュタインメッツ[2](1962年3月-1973年) 矢島翠[2]( 年 月-2008年12月) |
子供 | ソーニャ・カトー(ヒルダとの養子) |
親族 | 岩村清一(大叔父) |
上智大学教授、イェール大学講師、ブラウン大学講師、ベルリン自由大学およびミュンヘン大学客員教授、コレージュ・ド・フランス招聘教授、ブリティッシュコロンビア大学教授、立命館大学国際関係学部客員教授、立命館大学国際平和ミュージアム館長などを歴任。哲学者の鶴見俊輔、作家の大江健三郎らと結成した「九条の会」の呼びかけ人。妻は評論家・翻訳家の矢島翠。岩村清一海軍中将は大叔父。函館湾海戦で知られる増田明道は曽祖父。
東京府豊多摩郡渋谷町金王町(現在の東京都渋谷区渋谷)出身。父は埼玉県の地主の次男。渋谷町立常磐松尋常小学校(現・渋谷区立常磐松小学校)から東京府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)、旧制第一高等学校理科乙類[3](現・東京大学教養学部)を経て東京帝国大学医学部に進学。幼少期より日本の古典語及び漢文に親しみ、高等学校では英語とドイツ語を学び、大学時代にはフランス語とラテン語を学んだ。1943年に東京帝国大学医学部を繰り上げ卒業、東京帝国大学医学部附属医院(現在の東京大学医学部附属病院)に配属される。
また、学生時代から文学に関心を寄せ、在学中に中村真一郎・福永武彦らと「マチネ・ポエティク」を結成。その一員として韻律を持った日本語詩を発表し、特に「さくら横ちょう」は、中田喜直と別宮貞雄、神戸孝夫が曲を付けたことで有名になった[4]。
小説や文芸評論を執筆するかたわら新定型詩運動を進める。『羊の歌』によれば、1941年12月8日の日米開戦の夜は、文楽を観劇した。肋膜炎のため徴兵猶予となる。
日本の敗戦直後、日米原子爆弾影響合同調査団の一員として被爆の実態調査のために広島に赴き原爆の被害を実際に見聞している。この終戦前後に、作家の堀辰雄の主治医となっていた。1946年5月30日、最初の結婚をした[5]。
1947年、中村真一郎・福永武彦との共著『一九四六・文学的考察』を発表し注目される。また同年、『近代文学』の同人となる。1951年からはフランス政府給費留学生としてフランスに渡り、パリ大学などで血液学研究に従事する一方、日本の雑誌や新聞に文明批評や文芸評論を発表。帰国後「日本文化の雑種性」などの評論を発表し、1956年にはそれらの成果を『雑種文化』にまとめて刊行した。雑種文化論は、日本文化に対する問題提起として大きな議論を呼んだ。1958年に医業を廃し、以後評論家として独立した。
加藤は、荒正人らの『近代文学』、つぎに花田清輝らの『綜合文化』、そして中野重治らの『新日本文学』などを拠り所に精力的な文筆活動を展開し、レジスタンス文学に関心を持つ一方で、ポール・ヴァレリーに関して、「私には、その詩人の運命が地上の一帝国の運命よりも重大に思われた」(『現代フランス文学論』)と述べ、その生涯を特徴付ける文芸と政治への関心を披瀝していた。
1960年の安保闘争においては、改定反対の立場から積極的に発言した。1960年秋、カナダのブリティッシュコロンビア大学に招聘され、日本の古典の講義をおこなった。これは1975年に『日本文学史序説』としてまとめられている。以後、国内外の大学で教鞭をとりながら執筆活動を続け、とりわけ『読書術』や『羊の歌』などが話題を呼んだ。また、1984年版『大百科事典』(平凡社)の編集長をつとめ、これをもとにした1988年版『世界大百科事典』の編集長をもつとめ、その「富岡鉄斎」「日本」「日本文学」「林達夫」「批評」の項目を執筆した。1979年より「朝日新聞」夕刊に「山中人閒話」を連載、1984年に「夕陽妄語」と改題して2008年7月まで連載していた。1988年から1996年の間、東京都立中央図書館長も務めた。
2008年12月5日、多臓器不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。89歳[6]。同年夏、加藤は上野毛教会でカトリックの洗礼を受けた(洗礼名はルカ)[注 1]。雙葉高等女学校出身である母や妹もカトリック教徒であり、1948年に書かれた「ボードレールに関する講義草稿」以来、加藤の「カトリシスムへの関心は並々ならぬものがあり、それは生涯続いていた」[7] とする海老坂武がこの受洗を岩下壮一や吉満義彦らが日本に紹介した新トマス主義への関心からではないかと推測している。また、40年来の親交があった鷲巣力も「超越的存在としての神」に「ずっと関心を抱いていた」加藤の受洗は意外ではないとしている[8] 。
通勤電車での読書術について、「混雑する通勤電車の中では、ページをめくらなくてもいい本を選択」「電車に乗る時には手に1冊だけ」「受験生なら英単語集、社会人なら他の外国語テキスト」「フランス語ならば動詞の変化表を持って暗唱」と述べている[9]。
1980年に『日本文学史序説』上・下で大佛次郎賞[10]、1993年に朝日賞[11]、2000年にその長年の文化功労に対してフランス政府からレジオンドヌール勲章(オフィシエ賞)を授与される。
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