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日本の作曲家 (1922-2012) ウィキペディアから
別宮 貞雄(べっく さだお、1922年(大正11年)5月24日[1][2] - 2012年(平成24年)1月12日[1])は、日本の作曲家。
1922年に別宮貞俊(東京工業大学教授を務めたのち実業界に転じ、住友電気工業株式会社初代社長などを歴任)と病理学者で東京帝大医学部教授の山極勝三郎の長女梅子の息子として東京に生まれた[3][2]。翻訳家の別宮貞徳は弟[4][2]。
兵庫県立第一神戸中学校から成城高等学校、第一高等学校を経て東京大学理学部物理学科を1946年(昭和21年)に卒業[2]。同年に「管弦楽のための二章」を発表して作曲家としてデビューした[2]。翌1947年(昭和22年)、同大学文学部美学科に入学し1950年(昭和25年)卒業[2]。この間、柴田南雄らの新声会に参加し作品を発表している[5][6][2]。1951年(昭和26年)、フランスに渡り、パリ国立高等音楽院でダリユス・ミヨー、オリヴィエ・メシアンらに師事したが[2]、ミヨーのクラスを受験した際、別宮が合格したためシュトックハウゼンは不合格となった[7]。帰国後1955年(昭和30年)から桐朋学園大学で教鞭を執る[2]。1961年(昭和36年)から桐朋学園大学教授、1973年(昭和48年)から中央大学教授を務めた[8][2]。中央大学の音楽研究会吹奏楽部から作品を委嘱されてもいる。
2000年(平成12年)を第1回として、その選考対象年に日本で発表された作曲作品の中から別宮自身がもっとも優れた作品と評価する作品に対して別宮賞の贈呈を始めた。
遠祖は伊予守護職河野氏出身の正岡経政の重臣で経政の叔父に当たる別宮修理太夫光貞。別宮氏は江戸時代に入ると伊予国今治藩の豪商国田屋として栄えた。
中央大学において音楽理論を7年間(1986年 - 1993年)師事した野口剛夫は、桐朋学園大学研究科在学中(1993年)に別宮の養子になった。また、野田暉行の妻の野田香代子は養女である[11]。
別宮は、幼少時に父が所有するベートーヴェンやモーツァルトのレコードを聴いて育ったこともあってか[12]作曲家としての理想像をベートーヴェンであるとしており[13]、調性もしくは旋法性に依拠し、直截で単純明快かつ抒情的な表現を得意とした。一方で、十二音技法などの前衛的な手法に対しては、概して批判的な態度をとった[14]。ミヨーやメシアンに師事しているが、様式的に見て新ロマン主義音楽の作曲家に分類される。調性を固守する態度は同じフランスの先輩ジャン・フランセと同様といえる。
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