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薩摩藩の武士、華族、政治家 ウィキペディアから
海江田 信義(かいえだ のぶよし、1832年3月13日(天保3年2月11日) - 1906年(明治39年)10月27日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家、華族。通称は武次(たけじ)。幕末期は有村俊斎の名で活動した。雅号は黙声、静山、孤松。
天保3年(1832年)、薩摩藩士・有村仁左衛門兼善の次男として生まれた(幼名は太郎熊)。11歳の時、島津斉興の茶頭に出仕して茶坊主となり、俊斎と称した。
はじめ東郷実明に示現流剣術を学び、次いで薬丸兼義に薬丸自顕流剣術を学んだ。薬丸自顕流の伝承では道場破りに来たものの大山綱良に敗れて入門したとなっているが[2]、俊斎は当時わずか15歳であり、史実かどうかは不明。
嘉永2年(1849年)、薩摩藩の内紛(お由羅騒動)に巻き込まれた有村父子は一時藩を追われ家は貧困の極みに陥るが、嘉永4年(1851年)、新藩主・島津斉彬によって藩に復帰、このとき俊斉は西郷吉之助(のち西郷隆盛)、大久保正助(のち大久保利通)、伊地知龍右衛門(のち伊地知正治)、税所喜三左衛門(のち税所篤)、吉井仁左衛門(のち吉井友実)長沼嘉兵衛(早世)らと『近思録』を輪読する会、いわゆる「精忠組」を結成、幕政改革や日本の近代化を考えるようになった。嘉永5年(1852年)、樺山三円(のち樺山資之)とともに江戸藩邸に勤め、多くの勤王家と知り合う。
尊王の志高く江戸では小石川の水戸藩邸に出入りし、水戸の両田として名高い、藤田東湖、戸田忠太夫に師事し尊王論を学んだ。特に藤田には目をかけられ和漢の書に親しむ傍ら、西郷を藤田に引き合わせている。大老井伊直弼による安政の大獄が始まると、俊斎も尊王の志士とみなされて追われ、安政5年(1858年)、西郷と共に僧侶・月照を保護して帰国、その後、大久保利通ら在藩の「精忠組」各士、脱藩「突出」して関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義を暗殺することを計画するも、藩に知られるところとなり、藩主島津茂久(後見役島津久光)から、彼らを「精忠の士」と認めたうえで軽挙妄動を諌める親書を受けたことにより、「突出」は中止となり、以降、藩政に従うこととなる。ただ、攘夷派に対する慰撫はすべての藩士にいきわたらず、万延元年(1860年)、次弟の有村次左衛門が井伊直弼を桜田門外にて水戸浪士とともに襲撃(桜田門外の変)し自刃、また、水戸浪士と行動を共にしていた長弟の雄助は、幕府に遠慮した藩の意向で、鹿児島にて母、大久保利通ら精忠組の面々の立ち会いの下、自害している。
文久元年(1861年)12月、日下部伊三治(安政の大獄で捕縛され獄死)の次女・まつを娶り、同時に婿養子となって海江田武次信義と改名(海江田は日下部の旧姓)。日下部家の後を継ぐ予定の次弟有村次左衛門の死後その義理で日下部家を継ぐことになった[3]。ただし、しばしば以後も有村俊斎の名も使った。
文久2年(1862年)、島津久光に従って護衛の1人として上洛したが、その道中で知った西郷の京都での動静を久光に伝えて激怒させてしまい、心ならずも西郷を失脚させる原因を作った[4]。寺田屋騒動では奈良原繁と共に有馬新七ら藩士の説得を命じられるが失敗。鎮撫使には加わっていない。さらに久光の帰路にも同行し、8月21日(1862年9月14日)、生麦事件において久光の行列を遮って斬られ瀕死となっていたイギリス人・チャールス・リチャードソンに止めを刺した。
戊辰戦争では、東海道先鋒総督参謀となる。江戸城明け渡しには新政府軍代表として西郷を補佐し、勝海舟らと交渉するなど活躍するが、長州藩の大村益次郎とは、もとより性格の不一致もあることながら意見が合わず、宇都宮の政府軍の庄内転戦、江戸城内の宝物の処理、上野戦争における対彰義隊作戦などをめぐってことごとく対立し、海江田は周囲の人間に「殺してやりたい」などと言うなど憎悪していた。明治2年(1869年)の槙村正直宛の木戸孝允の書簡では「海江田のごとき、表裏の事申し来り候につき」と名指しで危険人物として注意されていた。海江田が京都にて弾正大忠の官に就いていた際に、大村殺害犯(神代直人ら)などの浪人達とつきあいがあった事は、自身の談話録にも記している。更に、大村殺害犯の処刑に際して、弾正台から監視役として派遣された海江田は、直前で刑の執行を差し止めたため、政府の取調べを受け謹慎処分となった(「粟田口止刑始末」)。以上の経緯から、海江田が彼らを扇動してかねてから憎悪していた大村を殺した、と噂された。海江田自身は、嫌疑を心配する大久保への返事に、大村の来京の事実を知らず、その風聞は自身を罪に落すものであると否定している。ちなみに、海江田はこの事件が原因で長州出身者の反発を受け、華族制度施行の際に伯爵になれず子爵になったともいわれている。「維新の三傑」亡き後の志士としては最年長クラスであった(桂小五郎よりも年長である)が、卿、参議や大臣に就くこともなかった。
明治3年(1870年)8月、大久保の尽力により官職に復帰、廃藩置県に先立って県となっていた奈良県知事に任命。同時に従五位に叙せられるが、明治4年(1871年)の廃藩置県で解任される。海江田が業務の多さを解消するために県庁を、手狭な旧奉行所から、興福寺境内の一乗院に移転したさい、民部省の承認を経なかったのが原因とされる。
薩摩に帰り隠遁するつもりであったが、島津久光の目にとまり、新政府に不満を持つ久光と新政府の調停役となる。このことが評価されて、明治5年(1872年)、左院四等議官として再度官途につく。明治6年(1873年)勅使とともに鹿児島へ下り、久光を説いて上京せしめる。明治8年(1875年)、左院の廃止により御用滞在を命じられるが、鹿児島に帰りほどなく病む。
明治10年(1877年)の西南戦争での西郷隆盛の死、明治11年(1878年)の大久保利通の暗殺と、悲しみを悼んだあと、明治14年(1881年)に元老院議官となる。明治20年(1887年)、オーストリア=ハンガリー帝国のウィーンに遊学したのち、明治23年(1890年)に貴族院議員、明治24年(1891年)に枢密顧問官となり、明治28年(1895年)、勲一等瑞宝章。明治35年(1902年)、勲一等旭日大綬章のあと、明治39年(1906年)10月27日に75歳で死去。贈正二位。墓所は青山霊園。
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