島津 忠義(しまづ ただよし、1840年5月22日天保11年4月21日) - 1897年明治30年)12月26日)は、江戸時代後期(幕末)から明治時代の大名華族薩摩藩12代(最後の)藩主で、島津氏29代当主。位階勲等爵位従一位勲一等公爵

概要 凡例島津 忠義, 時代 ...
 
島津 忠義
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島津忠義(尚古集成館蔵)
時代 江戸時代後期(幕末) - 明治時代
生誕 天保11年4月21日1840年5月22日
死没 明治30年(1897年12月26日(満57歳没)
改名 壮之助(幼名)→忠徳(初名)→茂久→忠義
別名 又次郎(通称
墓所 鹿児島県鹿児島市池之上町島津家墓地
官位 従四位下大隅守左近衛少将修理大夫議定従一位参議
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
薩摩鹿児島藩主→鹿児島藩知事
氏族 島津氏
父母 父:島津久光、母:島津千百子島津忠公の娘)
養父:島津斉彬、養母:恒姫
兄弟 於儔、忠義、於定、於哲、久治、包次郎、於寛、珍彦忠欽、於郷、忠経忠済
於住、於俊、芳之進、於民
正室:島津暐子
継室:近衛寧子
継室:板倉棲子
側室:山崎寿満子、菱刈久
清子、充子、常子知子、貞子、俔子
忠宝正子忠重忠備忠弘久範
康久為子
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幼名壮之助通称又次郎元服後の初名は忠徳(ただのり)だったが、藩主在任中は茂久(もちひさ)を名乗る。なお、忠義維新後の慶応4年(1868年1月16日に改名したである。

第125代天皇明仁上皇)の曾祖父、第126代天皇徳仁今上天皇)の高祖父にあたる。

生涯

天保10年4月21日(1840年5月22日)、島津家分家の重富家当主・島津忠教(久光)の長男として生まれる。伯父である11代藩主・斉彬養嗣子となり、安政5年(1858年)の斉彬没後、その遺言により跡を継ぐこととなった。遺言では斉彬の子・哲丸が幼少のために仮養子という形だったが、ほどなくして安政6年(1859年1月2日に哲丸は死去した。しかし、藩政の実権は当初祖父の斉興、次いで後見人となった父・久光(忠教)や西郷隆盛大久保利通らに掌握され、忠徳自身は若年ということもあり、主体性を発揮することはなかった(ただし、忠徳が実権を取り戻そうとしなかったことが薩摩藩が一致して倒幕運動を行うのに寄与した面もある)。

安政5年(1858年)12月28日に襲封し、修理大夫に任じられる。また、14代将軍徳川家茂から偏諱(「茂」の字)を授かって茂久と改名した[1]

安政6年(1859年)2月従四位下左近衛少将に叙任される。

15代将軍・徳川慶喜大政奉還した後、西郷、大久保、小松帯刀らの進言を容れ、藩兵3千を率いて上洛した。そして王政復古の大号令に貢献し、議定に任ぜられて小御所会議に参席した。慶喜が発した討薩の表に於いて厳しく糾弾されるが、鳥羽・伏見の戦いでは薩長軍が大勝利を納めた。この直後、海陸軍務総督に任命されるが西郷の進言に従い1日で辞任している。明治維新後は毛利敬親長州藩主)、山内豊範土佐藩主)、鍋島直大肥前藩主)と協力して版籍奉還を進んで行なう。その後、諱を「忠義」と改め鹿児島藩知事となるが、実質的な藩政は西郷に任せていたと言われている。明治4年(1871年)の廃藩置県後は、公爵となった。同年5月17日には麝香間祗候に任じられた[2]。以後、政府の命により東京に在住する。西南戦争時も東京に留まり、ほぼ関らなかった。

明治17年(1884年)に鹿児島県令渡辺千秋に「造士館再建の願」を提出する。同年6月には「鹿児島県立中学造士館創立委員会」が発足(委員長は弟の島津珍彦だが、自身は委員に名を連ねていない)、自らは基金4万4621円と年々9400円ずつの定額寄金を県庁に委託、同年12月に鹿児島県立中学造士館が設立された。

明治21年(1888年)に政府の許可を受け鹿児島に帰郷した。明治23年(1890年2月帝国議会開設に伴い貴族院公爵議員となる[3]

明治30年(1897年12月26日、鹿児島市にて58歳で薨去[4]。同月28日公布された「 故從一位勲一等公爵島津忠義國葬ノ件」(明治30年勅令第458号)により国葬が執り行われることとなり、葬儀掛長には枢密顧問官川村純義伯爵が任命された[4]。没後、勲一等旭日桐花大綬章を授与された。翌年1月9日に国葬が行われた。勅使として侍従東園基愛子爵が派遣され、以下の明治天皇勅語[注釈 1]を伝達した。

夙ニ中興ノ宏猷ヲ贊シ克ク報效ノ丕績ヲ奏ス志皇室ニ存シ功列侯ニ踰ユ忠誠渝ラス德望益隆シ今ヤ溘亡ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘン特ニ侍臣ヲ遣シ賻ヲ齎シ以テ弔慰セシム

墓所は、先代・斉彬までの当主や父・久光は菩提寺だった「旧福昌寺跡」(鹿児島市立玉龍高校後側、現在同寺は薩摩川内市にある)だが、忠義以降は寺跡の西側の裏山「常安峰」にあり、双方とも尚古集成館島津興業)が管理している。

照国神社探勝園には忠義の銅像が建っている。第二次世界大戦中に金属供出されたが戦後再建された。

人物

  • 犬追物乗馬を得意とした。特に犬追物は武家の鍛錬として励み、明治天皇ロシア皇太子などに披露していた[5]。また、写真撮影や花火作りなどにも興味を持つなど、幅広い趣味を持つ人物だった。明治15年(1882年)には仙厳園に電気を通している[6]
  • 明治22年(1889年2月11日大日本帝国憲法公布の日、忠義が洋服姿でありながらを切らずにいたことに驚いたと、ドイツの医学者エルヴィン・フォン・ベルツ日記に記している(ちなみに当時の首相は旧家臣の黒田清隆)。西洋文化に造詣が深かったにもかかわらず旧習に固執したのは、父・久光の方針に従ったためとされる。
  • 鳥羽・伏見の戦い直後に海陸軍務総督に任命された際にはこれを島津幕府の第一歩のように考える者が藩内に多数いる中、西郷の進言を容れて辞退し、辞退しきれずに海陸軍務総督(3人が任命されたが茂久以外の2人は皇族公家)にされても用事がある時以外出勤せず、伴食役たるように努めたという[7](久光は「幕府をなくす気はなかった」と明治以後も公言し「島津幕府を狙っていた」といわれる)。
  • 病気の治療の際一切洋薬を飲まず和薬や漢方薬を服用していた。病気が危篤に陥ってもそれは同じであったという[8]

栄典

外国勲章佩用允許

系譜

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島津斉彬が撮影したといわれる娘たちの写真。中央が忠義の正室となる子、右が継室となる寧子。左は忠義の弟珍彦の室となる典子。

脚注

参考文献

関連項目

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