島津忠麿

日本の明治時代前期~大正時代の伯爵・政治家。伯爵島津忠亮(旧日向佐土原藩主家)長男で、佐土原島津氏13代当主 ウィキペディアから

島津忠麿

島津 忠麿(しまづ ただまろ、1877年明治10年)5月4日[1] - 1926年大正15年)9月20日[1][2])は、明治から大正期の政治家華族貴族院伯爵議員

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島津忠麿

経歴

佐土原藩主家当主・島津忠亮の長男として生まれる[1][3][4]。父の死去に伴い、1909年7月23日に伯爵を襲爵した[1][3][4][5]

学習院を修了[2][4]1911年(明治44年)7月10月、貴族院伯爵議員に選出され[2][6][7]1918年(大正7年)7月9日まで1期在任した[2]。 この間、国光生命保険相互会社の取締役、後に社長を務め、資産は100万円以上と評された[8]

親族

  • 妻 島津松子(真田幸民長女)[1]
    松子は3人の娘に恵まれ、3人とも嫁ぐが、全員に先立たれている。
  • 養子 島津久範島津忠義七男、式部官)[1]
    • 孫(久範長男) 島津忠韶(佐土原島津家嗣子)
    • 孫(久範二男) 島津久永
  • 長女 島津随子(久範先妻)[1][4]
    久範を婿に取るが、子を残さぬまま、1921年に21歳で早世。
  • 二女 九条文子九条道秀夫人)[1][4]
    1942年に41歳で死没。
    道秀とその後妻・成子(土山尊弘次女)の間で、文子の死没以前に1男2女が生まれているため、道秀と文子は離婚していると推測される。
  • 三女 島津秀子(久範後妻)[1][4]
    姉随子の死後、久範と結婚。雅子(勧山弘夫人)、敏子(萩原光雄夫人)、忠韶(次代当主)を産むが、1928年に23歳で早世
  • 妹 島津徳子(島津久中夫人)[1]
  • 島津健之助(男爵)・阿部正寛阿部正功養子)[1][4]

脚注

参考文献

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