江波(えば)は、広島市中区に所在する地域名。ここでは町名に「江波」を冠する地域について扱う。
概要 全ての座標を示した地図 - OSM ...
閉じる
江波は広島市中心部(紙屋町)から南方向、同市中区の南に位置する地域[1]。全体が平坦な地形であり、地域内を広島電鉄江波線が走っている[2]。広島県内を流れて広島湾に注ぐ太田川の河口部に位置し、南北に長細い地形をしている。東の吉島・光南との間に旧太田川(本川)が流れており、西側の西区観音との間に天満川が流れている[1]。北側で舟入と接し、南側で広島湾に面す[2]。
1880年の廣島市地図。この時点で舟入と繋がっている。
明治時代の廣島市地図。現在の江波二本松のほとんどが養殖場になっているのがわかる。
1930年頃の広島市地図 / 当時は江波山(図中「江波公園」)より南に
埋立地は造成されておらず、江波山の先がすぐに
広島湾であったことが記されている。また、現在では斜線状の街路に痕跡を残している舟入から江波にかけての
陸軍射撃場の位置が示されている。
原爆による火災消失分布図 / 江波地区の大半が被爆火災による焼失から免れたことがわかる。
建設当時の広島南道路・広島高速3号線。江波二本松から
吉島方面を望む。
建設当時の広島南道路・広島高速3号線。江波二本松から
観音方面を望む。
江波本町交差点付近。市道横川江波線と広島南道路・広島高速3号線の交点。
地名の由来
江波がまだ島だった頃、漁業のエサが肥え、魚も良く獲れたという。このことから良いエサ場を意味して「餌場」(えば)と呼ばれるようになったとされる。漢字は「衣波」や、衣羽(えば)神社の「衣羽」などが当てられた[3]。
- 江波二本松(えばにほんまつ) - 現在の江波二本松一帯には養殖場があった。養殖場の中に小さな2つの山があり、松の木が1本ずつあったことから「二本松」と呼ばれるようになった[4]。
- 江波皿山公園(えばさらやまこうえん) - 江波皿山の麓で江波焼といわれる皿を焼いていたことから[4]。
沿革
江波島
江波は、かつて広島湾に浮かぶ「江波島」という島であった。江波の村社である「衣羽(えば)神社」には約680年前の記録があり、島には約700年前には人が住んでいたという記録が残っている。広島が五箇庄といわれていた寒村の頃、現在の太田川デルタはほぼ海中であり、現在は丘の部分がデルタに点在していた島々であった。
江波港
江波は江戸時代、広島の外港の町として栄え、半農半漁の集落であった。とくに海苔とカキが採取され、養殖が盛んであった。畑が空く冬に海苔を天日干ししていた。幕末には横浜港や神戸港などのように貿易港にする案が浮上したが、版籍奉還により白紙となった。1889年には江波から東南に位置する宇品港(現在の広島港)の築港により外港としての座を譲った。戦時中には広島工業港建設により江波山南側が埋め立てられ、徐々に市街地化されていった。
江波村
古い地図には「沼田郡江波村」と記されており「江波村」が存在していた。
広島市江波町
- 1889年 - 広島市が発足して広島市江波町(えばまち)となる。町域は北側の江波と舟入の境界が現在よりも北寄りで(広島市道霞庚午線付近)、現在の江波地区より若干広かった。
- 広島県立広島商業高等学校も江波町に位置していたため「江波校舎」と呼ばれていた(現在は住居表示の実施により舟入南に変更されている)。
戦後から現代
- 1968年 - 住居表示が行われ、「広島市江波町」から「広島市江波東」「広島市江波西」などの地名に変更され、北側の江波と舟入の境界も現行の境界に変わった。
- 1973年 - 三菱重工広島造船所江波工場(現・三菱重工広島製作所江波工場)にて1975年まで、沖縄国際海洋博覧会の日本政府出展物として、博覧会のテーマである「海-その望ましい未来」を具現するシンボル的存在の建造物である、アクアポリスが建造された。
- 1980年 - 広島市の政令指定都市移行。江波地区は町名はそのままに中区とされた。
- 2014年 - 平面道路部の広島南道路と有料高架道路の広島高速3号線が開通。江波大橋と観音大橋[5]も開通し、吉島・観音はもとより、商工センターや広島高速を利用した場合宇品地区、呉方面、海田方面や山陽自動車道などとも接続され、アクセスが向上した。その一方で、道路の建設によって地域コミュニティが分断されたため、高架下に広場を整備するなど、賑わい創出に向けた取り組みが進められている[6]。
- 現在は広島市中心部へのアクセスの良さと、路面電車・広電バス・高速道路など交通網の良さから、住宅・マンションが多くなってきている。
- 2023年、江波商店街が解散した。
人口の変遷
総数 [戸数または世帯数: 、人口: ]
1980年(昭和55年)12月末[7]
| 6,700世帯 17,909人 |
1990年(平成2年)12月末[7]
| 7,162世帯 18,148人 |
2000年(平成12年)12月末[7]
| 7,104世帯 16,363人 |
2010年(平成22年)12月末[7]
| 6,728世帯 14,473人 |
2013年(平成25年)11月末[8]
| 6,806世帯 14,382人 |
道路
広島電鉄江波線(路面電車)江波電停
江波電停に隣接する広電江波車庫
江波トンネル
江波南と江波沖町を結ぶ江波橋
宗教施設
衣羽神社 拝殿
聖山稲生神社
海宝寺 山門
海神宮
教育機関
県立広島商業高等学校
広島市立江波中学校
広島市立江波小学校
その他
- 広島の外港として栄え、江波から厳島までの航路も存在した。江戸時代幕末には横浜港や神戸港などのように貿易港にする案が浮上していたが、版籍奉還により白紙となった。
- 1889年 - 宇品港(現在の広島港)の築港により宇品港に外港としての座を譲った。現在ではカキなどの生産が盛んな漁港となっている。
かつて存在した施設
- 江波陸軍射的場(江波西1丁目・江波東1丁目・舟入南4丁目・舟入南1丁目) - 現在は広島市立江波中学校や広島電鉄江波車庫、住宅などになっている。現在の広島市江波中学校付近から、上山(現在の江波皿山)に向かって砲弾が打ち込まれていた。
- 皿山公園から北東に2本道が延びているのは、射的場のなごりである。
- 広島陸軍病院江波分院(江波二本松2丁目) - 原爆投下後には救護所となった。現在は住宅地になっている。
- 海宝寺幼稚園
- 広島かきの養殖が盛ん。かつては海苔生産も盛んで、海苔養殖場も多くあった。広島工業港建設計画による埋め立てで多くが失われた。
- 江波巻き - 江波地区伝統の海苔巻き。具は広島菜の漬物。漁師が漁船を漕ぎながら弁当として食べられるように、両端を海苔で閉じている[18]。2008年2月10日に行われた第16回南の風EBAあそびでは広島市江波小学校児童が約13メートルの江波巻き作りに挑戦した。
- 江波焼き - 江波地区伝統の焼き物。江波皿山は江波焼きに由来。
- 南の風EBAあそび - 毎年2月の第2土曜日に江波山公園で開催。
- 江波の火祭り - オットーランと呼ばれる火祭り。奇声をあげて火をくべた一斗缶を叩きながら江波港を練り歩くお祭。
- 亥の子祭り
1980,1990,2000,2010年12月末、住民基本台帳調査による。“広島市調べ。”. 2013年12月21日閲覧。
“路線・電停ガイド”. 広島電鉄 電車カンパニー. 2013年12月22日閲覧。
【継ぐメシ!つなぎたい郷土食】江波巻き(広島市江波地区)漁師の手軽な日常食『日本農業新聞』2021年7月10日8-9面