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ツバキ科ツバキ属の常緑樹 ウィキペディアから
ツバキ(椿[10]、海柘榴)[注 1]またはヤブツバキ[2](藪椿[11]、薮椿、学名: Camellia japonica)は、ツバキ科ツバキ属の常緑樹。照葉樹林の代表的な樹木。花が観賞されて庭などに植えられるほか、薬用や食用にもなる。
ヤブツバキ | ||||||||||||||||||||||||||||||
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ヤブツバキ | ||||||||||||||||||||||||||||||
保全状況評価[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||
LEAST CONCERN (IUCN Red List Ver.3.1 (2001)) | ||||||||||||||||||||||||||||||
分類(APG III) | ||||||||||||||||||||||||||||||
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学名 | ||||||||||||||||||||||||||||||
Camellia japonica L. (1753)[2] | ||||||||||||||||||||||||||||||
シノニム | ||||||||||||||||||||||||||||||
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亜種 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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和名ツバキの語源については諸説あり、葉につやがあるので「津葉木」とする説や[12]、葉が厚いので「厚葉木」と書いて語頭の「ア」の読みが略されたとする説[12]などがあり、いずれも葉の特徴から名付けられたとみられている[12]。数多くの園芸品種が栽培されているツバキの、日本における海岸近くの山中や、雑木林に生える代表的な野生種をヤブツバキとよんでいる[11][13]。
植物学上の種(標準和名)であるヤブツバキ(学名: Camellia japonica)の別名として、一般的にツバキと呼んでおり[12]、またヤマツバキ(山椿)の別名でも呼ばれる[14][10]。日本内外で近縁のユキツバキから作り出された数々の園芸品種、ワビスケ、中国・ベトナム産の原種や園芸品種などを総称的に「椿」と呼ぶが、同じツバキ属であってもサザンカを椿と呼ぶことはあまりない。なお、漢字の「椿」は、中国では霊木の名で、ツバキという意味は日本での国訓である[15]。ヤブツバキの中国植物名(漢名)は、紅山茶(こうさんちゃ)という[16]。
「椿」の字の音読みは「チン」で、椿山荘などの固有名詞に使われたりする。なお「椿」の原義はツバキとは無関係のセンダン科の植物チャンチン(香椿)であり、「つばき」は国訓、もしくは、偶然字形が一致した国字である。歴史的な背景として、日本では733年『出雲風土記』にすでに椿が用いられている。その他、多くの日本の古文献に出てくる。ツバキの古名はカタシである[10]。
ツバキは『万葉集』に九首みられるが、「椿」だけではなく「海石榴」「都婆伎」「都婆吉」とも記されている。『万葉集』に「八峯乃海石榴(やつをのつばき)」(巻十九の四一五二)と「夜都乎乃都婆吉(やつをのつばき)」(巻二十の四四八一)とあり、どちらも八峯(やつを)のツバキを指すことから両者の比較によって「海石榴」をツバキと読むことがわかる。ツバキは日本原産の植物で、油がとれることは良く知られている。かつて遣唐使はこの油をもって渡海した。中国において海という字がつく植物は海外からもたらされたものを指すことが多いため、「海石榴」という表記は中国でつくられた可能性も考えられる[17]。
英語では、カメリア・ジャポニカ (Camellia japonica) と学名がそのまま英語名になっている珍しい例である。17世紀にオランダ商館員のエンゲルベルト・ケンペルがその著書で初めてこの花を欧州に紹介した。後に、18世紀にイエズス会の助修士で植物学に造詣の深かったゲオルク・ヨーゼフ・カメルはフィリピンでこの花の種を入手してヨーロッパに紹介した。その後有名なカール・フォン・リンネがこのカメルにちなんで、椿の属名にカメリアという名前をつけ、ケンペルの記載に基づき「日本の」を意味するジャポニカの名前をつけた[18]。
日本原産。日本では北海道南西部、本州、四国、九州、南西諸島[14]、日本国外では朝鮮半島南部と中国、台湾が知られる[10]。本州中北部にはごく近縁のユキツバキがあるが、ツバキは海岸沿いに青森県まで自然分布し[18]、ユキツバキはより内陸標高の高い位置にあって住み分ける。主に海沿いや山地に自生する[12][19]。北海道の南西部(松前)でも、各所の寺院や住宅に植栽されたものを見ることができる[18]。自生北限は、青森県津軽郡平内町の夏泊半島で、椿山と呼ばれる1万株に及ぶ群落は、天然記念物に指定されている[18]。
常緑性の低木から小高木で[19]、普通は高さ5 - 10メートル (m) 前後になり[12]、高いものでは樹高15 mにもなる[20]。ただしその成長は遅く[19]、寿命は長い。樹皮は黄褐色や淡灰褐色でなめらかであり[21]、灰白色の模様があり[22][14]、時に細かな突起がまばらに出る。枝はよく分かれて茂る[13]。若い枝は褐色で無毛である[21]。冬芽は互生する葉の付け根にでき、花芽は丸くて大きく、葉芽は小さな長楕円形で細く先端はとがり、円頭の鱗片が折り重なる[21]。鱗片の外側には細かい伏せた毛がある。鱗片は枝が伸びると脱落する。
葉は互生し、長さ5 - 12センチメートル (cm) 、幅4 cmほどの楕円形から長楕円形で、先端は短く尖り、基部は広いくさび形[11][20]、葉縁には細かい鋸歯が並ぶ[13]。葉質は厚くて固く、表面は濃緑色でつやがあり、裏面はやや色が薄い緑色で、葉身・葉柄ともに無毛である[11][20]。
花期は冬から春(2月 - 4月)で[23]、早咲きのものは冬さなかに咲く。花は紅色あるいは紅紫色の5弁花で、枝の先の葉腋から1個ずつ下向きに咲かせる[12][13][23]。花弁は長さ3 - 5 cmで半開きに筒状に咲き、平らには開かない[11][23]。1枚ごとに独立した離弁花だが、5枚の花弁と多くの花糸のつけ根が合着した筒形になっていて、散るときは花弁と雄しべが一緒に落花する[14][20]。
果実は球形で、9 - 11月に熟し[24][23]、実が3つに裂開して、中から2 - 3個の黒褐色の種子が出てくる[12][14]。冬も裂開した分厚い果皮が樹の下に見られる[21]。
ツバキ(狭義のツバキ。ヤブツバキ)とサザンカはよく似ているが、ツバキは若い枝や葉柄、果実は無毛であるのでサザンカとは区別がつく[20]。また次のことに着目すると見分けることができる。ただし、原種は見分けやすいが、園芸品種は多様性に富むので見分けにくい場合がある。
琉球列島から台湾のものをタイワンヤマツバキあるいはホウザンツバキ(C. j. subsp. hozanensis)としたこと、あるいは屋久島のものは果実が大きく果肉が厚いことからリンゴツバキ(C. j. var. macrocarpa)として分けたこともあるが、それぞれに中間型もあり、分けないことも多い。
島根県以北の日本海側の山地の多雪地帯には近縁種のユキツバキ(Camellia rusticana)があり[11]、種内変異として変種(C. j. var. rusticanaなど)ないし亜種(C. j. subsp. rusticana)とされたこともある。ユキツバキは高さ2 mほどで、開花は雪が消える4月下旬から5月ごろになる[11]。
ヤブツバキは園芸品種の母種でもあり[14]、他家受粉で結実するため、また近縁のユキツバキなどと容易に交配するために花色・花形に変異が生じやすいことから、古くから選抜による品種改良が行われてきた[19]。江戸時代には江戸の将軍や肥後、加賀などの大名、京都の公家などが園芸を好んだことから、庶民の間でも大いに流行し、江戸・上方(京都)・加賀・中京・肥後などの地域ごとに育成された品種が作られた[19]。
なお、「五色八重散椿」(ごしきやえちりつばき)のように、ヤブツバキ系でありながら花弁がバラバラに散る園芸品種もある。 散る性質は、サザンカから交雑種のハルサザンカを介して浸透交雑した物と思われる。[25][26][27]
17世紀に日本から西洋に伝来すると、冬にでも常緑で、日陰でも花を咲かせる性質が好まれ、大変な人気となり、西洋の美意識に基づいた豪華な花をつける品種が作られた。ヨーロッパ、イギリス、アメリカで愛好され、現在でも多くの品種が作出されている[22]。
花色は赤色と白色があり、それぞれ紅椿、白椿と呼ばれるほか[28]、作出されたツバキには一重咲きから八重咲き、斑入りの品種もあり、その数は極めて多数ある[29]。
ワビスケ(侘助)は茶花としてよく知られているが、ワビスケツバキ品種群は太郎冠者(有楽椿)の子孫から成立し、太郎冠者は中国南部原産のCamellia pitardii var. pitardiiと、日本のヤブツバキを花粉親とする交雑種であることが葉緑体DNA解析などで示されている。[30][31][32]
庭木に良く植えられ、種子からとれる椿油は上質で、整髪用や養毛剤に用いる。材はかたく緻密で、ツゲ材と同様に木具材や細工物に使われる。材の灰は、紫根染の媒染剤になる。
花を山茶花(さんちゃか)、葉を山茶葉(さんちゃよう)、果実を山茶子(さんちゃし)と称して薬用にする[16]。花は天日乾燥して生薬にし、葉は随時採って生を用い、果実は圧搾して油を採る[16]。葉のエキスが止血薬になる。
葉にはタンニンとクロロフィル(葉緑素)などが、花にはアントアチニン、ユゲノール、ブドウ糖、果糖、蔗糖、マルトースなどを含む[12]。また種子には、オレイン酸、パルミチン酸、ステアリン酸、配糖体のカメリン、カメリアサポニンなどを含む[12]。タンニンは収斂作用、クロロフィルには肉芽の発生作用があることから傷薬に用いられ、花は滋養保健、種子から採れる椿油は精製して育毛剤、軟膏基剤の原料に使われる[12]。
民間療法では、切り傷、腫れ物に花や生葉を揉んだり、かみつぶしてつけたり、蒸し焼きした生葉に椿油をつけて冷ました後に患部につける[12][16]。花を干したものを細かく刻み、小さじ1杯ほどをカップに入れて熱湯を注いで、蜂蜜などで調味したものを飲むと、滋養保健や便通に役立つとされる[12]。椿油は昔から養毛料として使われていたもので、洗髪に使うとサポニンが汚れを落として、頭部にできた湿疹、かぶれに良く、養毛に役立つ[12]。
花を採って、根元側から甘い蜜を吸うことができる[20]。花は食用にでき、採取時期は暖地が2 - 3月、寒冷地で3 - 4月ごろか適期とされ、6分から7分咲きの花を摘み取って利用する[13]。食味は花にかすかな甘味があるが、渋みが強い[13]。ごみや萼の部分を取り去ってから、生のまま丸ごと天ぷらにすると、花蜜由来の甘味がある[13][20]。また、さっと茹でて水にさらし、おひたしや酢の物にしたり[11]、花芯をとって花びらだけをさっと湯通しして、花の色がやや黒ずむが甘酢漬けにする[13]。
ツバキは葉や枝も観賞の対象になる。
江戸時代には好事家たちが、葉の突然変異を見つけ出し、選抜育成して観賞した。
ツバキの花は古来から日本人に愛され、『万葉集』のころからよく知られ、京都市の龍安寺には室町時代のツバキが残っている。
茶道でも大変珍重されており、冬場の炉の季節は茶席が椿一色となることから「茶花の女王」の異名を持つ。美術や音楽の作品にもしばしば取り上げられている。
ツバキの花は花弁が基部でつながっており、多くは花弁が個々に散るのではなく、萼を残して丸ごと落ちる。それが、人の首が落ちる様子を連想させるために忌み、日本においては屋敷内に植えない地方があったり、病人のお見舞いに持っていくことはタブーとされている[10]。この様は古来より落椿(おちつばき)とも表現され、俳句においては春の季語である[10]。
縄文時代の遺跡鳥浜貝塚にて、ヤブツバキを加工した赤色漆塗櫛(約6,100 cal BP)が出土している。[43][44] その他にも杭、石斧の柄、魚掛用尖り棒、板、棒などの様々な加工品が出土している。[45][46]
ツバキは『日本書紀』において、その記録が残されている。景行天皇が九州で起こった熊襲の乱を鎮めたおり、土蜘蛛に対して「海石榴(ツバキ)の椎」を用いた。これはツバキの材質の強さにちなんだ逸話とされており、正倉院に納められている災いを払う卯杖もその材質に海石榴が用いられているとされている。733年の『出雲風土記』には海榴、海石榴、椿という文字が見受けられる。しかし、これらが現在のツバキと同一のものであるかについては議論の余地がある。
『万葉集』において、ツバキが使用された歌は9首ある[47][48][49][50][51][52][53][54][55]。
奈良県御所市の阿吽寺は、聖徳太子が建立した巨勢寺の子院で、近辺に椿が多いことから山号を玉椿山という[56]。飛鳥時代、持統天皇が巨勢寺に立ち寄った際に、坂門人足が詠んだとされる「巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を」の万葉歌碑が境内に建てられている[57]。
サクラ、ウメといった材料的な題材と比較すると数は多くない。『源氏物語』においても、「つばいもち」として名が残されている程度であり、室町時代までさほど芸術の題材として注目された存在ではなかった。しかし、風雅を好む足利義政の代になると、明から椿堆朱盆、椿尾長鳥堆朱盆といった工芸品を数多く取りよせ、彫漆、螺鈿の題材としてツバキが散見されるようになった。また、豊臣秀吉は茶の湯にツバキを好んで用い、茶道においてツバキは重要な地位を占めるようになる。江戸時代に入るとさまざまな花が観賞の対象になったが、椿も例外ではなかった。二代将軍徳川秀忠がツバキを好み、そのため芸術の題材としてのツバキが広く知られるようになった。この時期、伝狩野山楽筆『百椿図』(根津美術館所蔵)が描かれた。これは数ある品種の椿をそれぞれフラワーアレンジメントのように描き、それらに烏丸光広、林羅山、水戸光圀ら公家、儒学者、大名といった文化人たちが漢詩、和歌の賛を書き添えた絵巻物である。以後、絵画、彫刻、工芸品のモチーフとしてツバキが定着する。ツバキの栽培も一般化し、園芸品種は約200種にも及んだ。
西洋ヨーロッパでは17世紀末に園芸植物として紹介され[58]、19世紀の小説『椿姫』(アレクサンドル・デュマ・フィスの小説、またそれを原作とするジュゼッペ・ヴェルディのオペラ)にも主人公のヒロインが好きな花として登場する[59][10]。ちなみにヴェルディのオペラ椿姫は、1853年3月6日、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演されるが、準備不足等によって大失敗だった。この事は、「蝶々夫人」「カルメン」と共に、オペラ史上三大失敗などといわれているが、後に3作共大人気作となった[60]。
現在、西洋で椿が園芸家に注目されたのは、ヤブツバキが花とともに、葉が常緑で地中海地方の樹木にはないツヤが見栄えすることが認められたのではないかとする説が言われている[28]。
年を経たツバキは化けるという言い伝えが日本各地に残る。新潟の伝説では、荒れ寺に現れる化け物の正体が椿の木槌であったり、島根の伝説では、牛鬼の正体が椿の古根だったという話がある。
花がポトリと落ちる様子から、馬の世界においても落馬を連想させるとして、競馬の競走馬や馬術競技馬の名前としては避けられる。特に競馬では、過去にはタマツバキの様な名馬もいるが、1969年の第36回東京優駿(日本ダービー)で大本命視されたタカツバキが、スタート直後に落馬で競走中止するというアクシデントを起こして以降、ほとんど付けられることがなくなった。
武士は、打ち首により首が落ちる様子に似ていることを連想させることを理由にツバキを飾るのを好まなかった[20]、という話もあるが、それは幕末から明治時代以降の流言であり、江戸時代に忌み花とされた記述は見付からない[61]。1600年代初頭には多数の園芸品種が流行。1681年には,世界で初めて椿園芸品種を解説した書物が当時の江戸で出版される。
※ユキツバキおよびその園芸種のオトメツバキはユキツバキ参照。 州の花
県の木
市区町村の木・花
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