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日本の野球指導者、元プロ野球選手 ウィキペディアから
駒田 徳広(こまだ のりひろ[注 1]、1962年9月14日 - )は、奈良県磯城郡三宅町出身の元プロ野球選手(内野手、外野手、左投左打)、野球指導者、野球解説者、タレント、俳優。
読売ジャイアンツ 三軍監督 #70 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 奈良県磯城郡三宅町 |
生年月日 | 1962年9月14日(62歳) |
身長 体重 |
191 cm 90 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 一塁手、外野手 |
プロ入り | 1980年 ドラフト2位 |
初出場 | 1983年4月10日 |
最終出場 | 2000年10月10日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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史上初の初打席満塁本塁打デビューを飾るなど満塁時の打席で無類の勝負強さを見せ、「満塁男」の異名を持った[1][2][3]。また、一塁手としては史上最多となる10度のゴールデングラブ賞を受賞した。
子供のころから高校野球を見ていて、野球に対する憧れが強かった[4]。小学生時代から身体能力と運動神経がよく、野球の他に水泳などで県の大会で上位の成績を残していた[5]。中学に入り本格的に野球を始める。生来の左利きだが、1年生までは右打ちで、コーチの指示で2年生になってから左打ちに転向[6]。中学生時代は長身ながらも非力で、2番打者などで三遊間をゴロで抜けるヒットをよく打っていたというが、桜井商業高校時代は体格もよくなり、エースで4番打者として活躍[7]。1978年夏の甲子園県予選では2年上の東利夫とバッテリーを組み準決勝に進むが、郡山高に惜敗。1979年の秋季奈良大会でも準決勝に進出するが、智弁学園に敗退。敗者復活2位決定戦でも高田商に敗れ近畿大会には進めなかった。
翌1980年、春季奈良大会決勝で強豪天理高と対戦。川本和宏と投げ合い、無死満塁で敬遠されたという逸話を残す[注 2][8]が、乱打戦の末敗退。またイニングの先頭打者で敬遠されたこともあった。同年夏の県予選でも敗れ、甲子園には出場できなかった。高校通算で43本塁打、打率.490を記録。高校では駒田の打撃練習の前に、打球の行方に注意を促す校内放送が流れるほど飛距離が凄かったという。地元のマスコミからは「奈良のマニエル」と呼ばれていた[9]。担当スカウト伊藤菊雄[10]。
1980年、読売ジャイアンツからドラフト2位で投手として指名され入団。同期には原辰徳らがいる。
入団後、新人合同自主トレーニングの期間だけ投手としての練習をしたが、駒田自身投手としての能力に限界を感じていたため、最初は投手をやらせようとしていた監督の藤田元司に野手への転向を直訴。認められ、1年目の春季キャンプより(選手登録は投手ながら)野手扱いとなった[11]。
1、2年目は一軍に上がることはなかったが、プロ入り3年目の1983年4月10日、開幕2戦目の大洋戦(後楽園球場)で、試合前の練習で怪我をした一塁のレギュラー、中畑清に代わり7番・一塁手で先発出場し、初回、二軍で得意としていたプロ初先発の右田一彦から、日本プロ野球史上初となるプロ初打席での満塁本塁打[注 3]を右翼席に放った[12]。藤田は当初ベテランの山本功児の起用も考えていたが、当時助監督だった王貞治の進言で駒田の先発が決まったと言われる。
この年、規定打席不足ながら12本塁打を放った背番号50の駒田、12勝を挙げる活躍で新人王を獲得した背番号54の槙原寛己、同じく規定打席不足ながら打率.326を記録した背番号55の吉村禎章の3人はセ・リーグ優勝の原動力となり、巨人期待の若手として注目され、彼らの背番号にちなみ50番トリオと呼ばれた[13]。この時期駒田は、かつて巨人に在籍したゲーリー・トマソンをもじって「コマソン」ともあだ名されていた。一方で、この年の日本シリーズにも出場するなどの功績を残している。
1984年、巨人の監督に就任した王貞治から期待され、一本足打法の習得を薦められる[14]。首都圏で試合のある日は毎日のように王の師匠である荒川博の自宅へ通い、王がしたように合気道を習い、真剣を振るなど夜中まで練習をして一本足打法の習得を試みたが[注 4]、結果を残せなかった。当時打撃についてあまりにも考え悩みぬいている姿から、チームメイトからは銅像の『考える人』に由来する「ロダン」というあだ名を付けられていたという。
1985年の序盤には一本足打法をやめるも結果を残せないでいた。王から期待されて習得に挑んだ一本足打法を断念した駒田は王の思いを無下にしてしまう無念さから、自身の耳に入る前に『報知新聞』の記事で駒田の決意を知った王が本人に事情を聞くために合宿所にやってくることになった際に合宿上の4階から飛び降りて自殺しようとも考えたが、合宿上に着いた王は何も詮索しなかった。その後王に対する負い目は大成した後も消えなかった[15]。
1986年後半に、当時二軍の打撃コーチだった松原誠の指導により、本塁打を狙うためにボールを上から叩くよう指導されていたそれまでの打撃フォームをやめ[16]、グリップを下げてレベルスイングにすることで、自身にあった打撃スタイルを確立する[17]。外野と一塁を兼任しながらレギュラーメンバーの故障離脱の合間をぬうように出番を増やす。
1987年、開幕戦の中日戦で杉本正から本塁打を放ち、シーズン後半にレギュラーの松本匡史から外野のポジションを奪取。
1988年、背番号を10に変更する。残り10試合を残して打率.287だったが、閉幕まで24打数14安打、打率.583で一気に打率を上げ、最終戦で初めての規定打席にも到達し、セ・リーグ打率ランキングの4位に入った。この年は初の4番スタメンも経験している[注 5]。足は速くなかったが、チーム事情から1987年後半から1988年前半にかけては、1番打者として起用されることが多かった。
1989年、藤田元司が監督に就任し、シーズン序盤に三塁手・中畑清が故障し、それに伴う一塁手・岡崎郁の三塁コンバートにより、空いた一塁に定着。この年も、シーズン最後(残り15試合)で47打数21安打(.447)で打率を.284から.303に一気に上げて2年連続3割を達成した。また、初めて一塁手部門でゴールデングラブ賞を受賞。この頃より「恐怖の7番バッター」と呼ばれるようになる。日本シリーズ第7戦(藤井寺球場)で、近鉄バファローズ先発の加藤哲郎から先制本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周中に三塁ベース付近で「バ〜カ!!!」と叫んだと言われている。巨人は第3戦(東京ドーム)で加藤、村田辰美、吉井理人の継投の前に完封されたが、勝利投手となった加藤が試合後「シーズン中の方が相手が強かったからしんどかった」という旨の発言をした経緯もあり、この「バ〜カ!!!」発言は一般に「加藤の暴言に対する罵倒」と認識されている[注 6][注 7]。このシリーズは、7試合までの日本シリーズ史上最高打率.522、1本塁打、5打点という成績を残し、最優秀選手に選出された。
1990年、7番打者ながら22本塁打83打点と、チーム最多の本塁打と打点を記録し、チームのセ・リーグ2連覇に貢献する。ファン投票で選出され、オールスターゲームに初出場。西武との日本シリーズでは14打数2安打に終わり、チームも4連敗で敗退した。
1991年は3番打者として多く出場し、チーム最高打率であり生涯自己最高でもある打率.314を残すなど、主軸としての地位を不動のものとした。1991年8月19日の対中日戦(東京ドーム)で、上原晃から生涯唯一のサヨナラ本塁打を放っている。
1992年、アキレス腱痛の原辰徳が一塁にコンバートされたことに伴い、右翼手に転向。守備範囲は狭かったものの9補殺を記録するなど強肩で貢献した。この年打撃コーチに就任した中西太の指導が合い、前半戦は本塁打を量産したが、打点数もほぼ同数を記録し続けるなど勝負弱さが目立ち、シーズンを通しても得点圏打率は.231と低迷した。最終的には自己最多の27本塁打を記録。前半戦は不調の原に代わり4番打者として29試合に出場。4月21日の対ヤクルト戦(神宮球場)で1試合3本塁打を記録している。8月17日のヤクルト戦(神宮)で高野光から本塁打を放ち、これが巨人軍通算6000本塁打となった。シーズンオフには原、斎藤雅樹と共に日本人としては巨人軍初の年俸1億円プレイヤーとなる。
1993年、長嶋茂雄が監督に就任し、原の三塁への再転向により再び一塁手に戻るも、股関節痛などから開幕から打撃不振に陥る。5月22日の対阪神戦(甲子園)でスタメン落ちし、1990年9月11日から続けてきた307試合連続フルイニング出場記録が途切れ、同時にこの試合では途中出場もなく1989年5月27日から続けてきた450連続試合出場記録も途切れる[18]。この年、打撃に対する意見の相違などによる、打撃コーチの中畑清との確執がマスコミで度々報じられる[注 8]。監督の長嶋茂雄とも、駒田が自身の処遇について尋ねるためコンタクトを取ろうと試みても、無視をされるなど秋風が吹いた[19]。駒田は「長嶋茂雄さんというスーパースターが監督になったときは嬉しかったが、打撃論とか打撃について遠征の時に聞きたかったが、聞くことはできなかった。」[20]と回顧している。
首脳陣との意思疎通がうまくいかなくなっていたことに加え、同年シーズンオフ、同じ一塁手の中日・落合博満がFA宣言して巨人へ入団することが濃厚となり、合わせて自身のトレードが囁かれていたこともあって出場機会を奪われることに危機感を持った駒田は同様にFA宣言する[18]。関東の球団を希望する駒田と、かつて巨人のヘッドコーチであった横浜ベイスターズ監督の近藤昭仁による、駒田獲得の希望がマッチし、横浜へ移籍[注 9][注 10][注 11]。横浜球団は駒田移籍の直後、1980年代の看板選手であった6選手(高木豊、屋鋪要、大門和彦、山崎賢一、市川和正、松本豊)を突如として解雇したが、解雇された選手の年俸が駒田の獲得資金に充てられたのでは、と一部マスコミから揶揄・批判されたこともある[注 12]。駒田は「僕はね、未だにOBとしても一歩引いているところがあるんです。それはあの時の生え抜き選手たちを大量解雇して、僕を獲ったっていう経緯がありましたからね」と述べている[22]。2024年現在、巨人生え抜きで国内他球団にFA移籍した唯一の選手である[注 13]。同じくFA権を行使した槙原寛己とは対照的に球団からの慰留はなく、駒田は恩師である藤田前監督の勧めもあって結果的に横浜移籍を選んだが、阪神、ダイエー、ロッテ、西武からも獲得の打診が寄せられていたと後年明かしている[23][24]。
1994年、ベテランが大量に解雇され、チームが若返ったことに伴い、32歳を迎えるシーズンながらチーム最年長選手となる。シーズン開幕当初は3番打者を任され、序盤こそ本塁打を連発し好調だったが、徐々に成績が低下。中盤からは主に6番打者として出場するようになった。リーグ最多二塁打を記録した一方、併殺打もセ・リーグ記録となる29を数えた。
1995年、オールスターゲーム前までフル出場しながら、本塁打はわずかに2本。年間を通じても6本であった。このころよりパワー不足を補うため、大きく足を上げる打法を時々試すようになる。打撃用ヘルメットを被って守備をし、コンタクトレンズが目にあわないため黄色のゴーグルをかけていた。
1996年、5月、6月と好調で、移籍後初の3割達成を期待されたがその後失速。最終戦で3安打を放つも、あと1安打足りず打率.299に終わる。8月22日の対巨人戦(東京ドーム)で河野博文から満塁本塁打を放ち、セ・リーグ全球団から満塁本塁打の記録達成。8月末頃よりバットを寝かせる打撃フォームに改造し、閉幕までの1か月少々の間に5本塁打を記録するなど本塁打が出るようになる。前年本塁打数がわずか6本で衰えもささやかれていたが2年ぶりに2桁に乗せた。
1997年、4番打者のグレン・ブラッグスの退団により打順が繰り上がり、主に5番打者として出場。前年からの打撃改造が奏功し5年ぶりに打率3割を達成。打点も86と35歳にして自己最多の成績を残した。
1998年、当時新しく選手会長に就任した石井琢朗が、外様の駒田が経験などをスムーズに発言しやすいようにと要請し、キャプテンに就任。マシンガン打線の5番打者としてチームの日本一に貢献。前半戦では不振のロバート・ローズに代わり20試合で4番打者を務めたり、9月の初旬まで打点数ランキングの2位につけ打点王争いに絡むなど活躍したが、終盤には応援団に応援ボイコットをされるほどの深刻な打撃不振に陥る。結局打率.281で本塁打は9本に終わったが、前の打者の出塁率の高さと、2本の満塁本塁打を含む自身の満塁での強さ(満塁時の打率5割、打点31)などから81打点を挙げ、生涯唯一のベストナインを獲得する[注 14]。西武ライオンズとの日本シリーズでは第4戦までわずか2安打とシーズン終盤の不調をひきずっていたが、第5戦(西武ドーム)で満塁での適時打を含む4安打5打点と大活躍をして調子を取り戻すと、日本一を決めた第6戦(横浜スタジアム)では、スコア0-0の8回裏、西口文也から決勝2点適時二塁打を放ち[25]シリーズ優秀選手に選出された。シーズンオフ、野球教室で正座をした際に半月板を損傷し、手術を受ける。
1999年、打率.291の好成績を残すものの、ローズを始めとする打撃陣が皆絶好調であったため横浜のチーム打率.294を下回ってしまった。5月18日から6月17日まで25試合連続安打を記録。また、7月17日の対中日戦(ナゴヤドーム)で、巨人時代の1993年10月21日より続けていた連続試合出場記録が739試合で途切れる[注 15]。12年連続100安打以上を達成[注 16]。
2000年、リーグ最年長野手となる。2000安打まで残り73本で迎えたシーズンだったが、プレッシャーの為か開幕から精彩を欠き、打撃不振に陥る。家族も球場で観戦していた6月18日(父の日)の対広島東洋カープ戦で6回に代打を送られた際に憤激し、バットとヘルメットを投げつけてベンチ裏に下がり、山下大輔ヘッドコーチの許可を得て試合中に帰宅した。しかし、球場を去る際、取材陣に対し「(監督の権藤博と)野球観が違う」とコメントしたことで首脳陣批判と受け取られ、球団からペナルティとして罰金30万円と二軍降格を命じられた[注 17][26]。この時、駒田は通算2000安打を目前としており、1か月の登録抹消期間を経て、9月6日の中日戦で野口茂樹から2000安打を達成[27]、名球会に入会した。権藤は「引退してから駒田は分かってくれたんです。権藤さんが監督でなかったら2000安打は達成できなかったって。あのときは二軍に落とすしかなかったんですよ。上においても暴れるから。その代わり、10日間、二軍で何やってもいい。試合に出てもいいし、休んでもいい。その代わり、10日後、一軍に戻ってきたら5番を打たせる。」と言ってそのとおりにしました。今では駒田と会うと、笑って話をしますよ。」[28]と述べている。達成直後に球団から引退勧告をされるも「2000本を打つためにやっていたと思われるのは嫌だった」という気持ちもあって拒否をし[29]、9月22日に戦力外通告を受ける。結果として現役最終試合となった10月10日の対ヤクルト戦(横浜スタジアム)は4番打者として出場し、第1打席で前田浩継から適時打を放ち交代。現役続行を希望していたため退団セレモニーなどは行われなかった。
その後移籍先を探し続けたが、結局他球団からの正式な誘いはなく、翌2001年の1月18日に現役引退を表明。現役通算安打2006本は2021年現在、現役引退した名球会員の中では千葉ロッテマリーンズの福浦和也(通算2000本)に次ぐ少ない記録である。
2001年からニッポン放送の野球解説者を務める。この年の秋から始まったプロ野球マスターズリーグ・東京ドリームスの4番打者として活躍。
2005年、この年誕生した新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスの新監督に就任した田尾安志の要請で[30]楽天一軍打撃コーチに就任。しかし、成績不振のため4月30日に二軍打撃コーチへ降格となり、シーズン終了後に解任された。
2006年からは再び野球評論家としてテレビ東京を中心に、tvk、東北放送、テレビ北海道、STVラジオにも出演。
2006年の読売ジャイアンツ春季キャンプにて、李承燁の臨時一塁守備コーチを務める。
2009年に当時スタメンに極端に少なかった左打者の育成を託され、横浜の一軍打撃コーチに就任[注 18]。リーグ最下位となるチーム打率.239という打撃成績の責任を取り、シーズン終了後に退団した。
2010年からtvk、文化放送、スカイ・A sports+(主に楽天戦。2012年からJ SPORTSに移行)の野球解説者を務める。また、2010年に社団法人化した日本プロ野球名球会においては、監事を務めていた[31]。同年の第17回IBAFインターコンチネンタルカップでは監督の岡崎郁からの指名で、日本代表の打撃コーチを務める。
2011年からTBSニュースバードの野球解説者も兼任。
2012年の千葉ロッテマリーンズ春季キャンプにて、大松尚逸の臨時一塁守備コーチを務める。また、2012年9月1日から常磐大学硬式野球部の臨時コーチを務め、同年10月22日にチームは3季ぶりに関甲新学生野球連盟一部リーグへの昇格を決めた[32]。同年11月に行われたマスターズ甲子園2012に奈良情報商業高校・桜井商業高校OBの一員として出場、選手宣誓も行った。
2016年、総監督の江本孟紀からの要請で、独立リーグ・四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス監督に就任[33]。前期は最下位だったが、後期は13期ぶりに勝率5割を越え、3位(2位の香川オリーブガイナーズと同勝率、直接対決の成績により順位決定)に浮上させ[34]、4期ぶりに最下位を脱した。初年度終了後、チームを率いた感想を「選手を指導してみて歯がゆい部分もあり、正直『このまま指導しても無理かな』という気持ちもあった。でも、後期は一歩引いて見ていると、楽しくなった」と述べている[35]。2017年、前期は超大物の元メジャー・リーガー、マニー・ラミレスの加入などもあり、序盤から首位を快走するも後半に失速し、2位に終わる。後期早々にラミレスは帰国。チームは3位に終わるも、年間を通じた勝率は2位となり、勝率5割を超えたのも7年ぶりであった。翌2018年前期は2位、後期は3位。シーズン終了後に留任が発表された[36]。2019年前期は徳島インディゴソックスと首位を争い、最終日まで優勝の可能性があったが、2位に終わる[37]。2019年7月12日、今シーズン限りでの高知監督退任を発表した[38]。優勝を達成できなかったこと、NPBに選手を送り込めなかったことをその理由として挙げ、後任監督の選任を考慮してシーズン途中で発表したと述べている[38]。後期は就任直後以来の4位(最下位)だった。9月10日のホーム最終戦後にはグラウンドでファンや選手と記念撮影をした[39]。
高知の監督時代には、高知市帯屋町で「KOMA'S HOUSE」というバーを手伝っていた[40][41][42]。このバーは、駒田の監督退任に伴い、2019年10月25日で閉店した[43]。
2020年からは再びテレビ東京(BSテレ東)・tvk・TBSチャンネルの野球解説者、タレントとして復帰した。
2021年11月13日、巨人の三軍監督に就任することが明らかとなった[44][3]。FA権を行使して退団した1993年以来29年ぶりの巨人復帰となる[45]。
2022年7月26日および27日に行なわれるマイナビオールスターゲーム2022にて、セ・リーグのコーチとして出場予定だった原辰徳監督が新型コロナウイルス感染のため辞退したことから、駒田がコーチとして出場することが発表された[46]。
2023年のオフシーズンには11月から12月にかけて台湾で開催されるアジア・ウィンター・リーグにDeNA、中日、楽天、西武の若手選手が集結したチーム「NPB WHITE」の監督として派遣された[47]。
この選手の選手としての特徴に関する文献や情報源が必要です。 (2012年7月) |
満塁時の打席で無類の勝負強さを見せ、「満塁男」の異名を誇った。1シーズンでの本塁打数は最高で27本、通算195本塁打ながら満塁本塁打数は歴代5位の13本を記録し[注 19][48]、満塁本塁打を打った試合はすべて勝利している。満塁本塁打の率で見れば、実に本塁打約15本に対して満塁本塁打1本という群を抜いている成績である。13本中、横浜在籍時に8本を記録しており、横浜時代(横浜時代の通算本塁打は63本)に限れば本塁打約8本に1本が満塁弾であった。また1994年から1999年まで6年連続で満塁本塁打を放っており、これはイチロー(NPB通算118本)と並び日本記録である[1]。満塁時の通算打率.332(220打数73安打)、打点200。
読売ジャイアンツの第52代4番打者である。1988年 - 1992年にかけて、通算34試合と多くはないものの、133打数50安打14打点、7本塁打で打率.376という成績を残している。横浜ベイスターズでも、1998年 - 2000年にかけて22試合に4番で出場し、85打数29安打19打点、3本塁打で打率.341の成績を残している。
一軍デビュー当時は長距離砲として首脳陣から期待されていたが、極度の打撃不振に陥り、フォームの改善を重ねた結果、長打力を犠牲にして、ミート力を重視した打撃スタイルを確立して成績が安定し、レギュラーを獲得することができた。そして、基本的には単打でも良いからと、とにかくヒットを打って次の打者に繋げるそのスタイルは、横浜移籍後顕著となる。そのためか横浜移籍の1994年以後7年間で、本塁打数は13本が最多であり、2桁を記録したのも3回である。巨人時代より、打者の中でも背筋力など筋力全般が特に優れていたとされ、長距離砲が少なかった第2次藤田元司政権時代、試合前の練習時に長距離砲顔負けなほどライトスタンドに叩き込む駒田を見て監督の藤田も、「なぜ試合になると本塁打が少ないのだろう」と、記者達と共に訝しがっていたという。現に引退後も長打力そのものは衰えておらず、引退から9年も経った横浜のコーチ時代も、試合前のフリーバッティングでサク越えを連発し、若手選手を唖然とさせたという[49]。
また、左打者としては日本プロ野球歴代1位の通算229併殺打(右打者を含めた総合では11位タイ)とシーズン29併殺打(1994年)を記録している[50][51]。駒田は走者が一塁で打席に入った際、広く開いた一・二塁間をゴロで抜ける安打を打って、走者を一・三塁にすることをひとつの理想としていたというが、そのためか打ち損じのセカンドゴロが非常に多かった。また横浜移籍後は確実性を求め、バットを振り切らずに当てるだけの打撃をすることが多くなり、結果として打ち損じの内野ゴロを量産した。駒田自身は、体の大きい選手は、年齢を重ね下半身の力が衰えてくると上半身がかぶさるように打つようになってしまうため、内野ゴロが増えてしまうと分析している[52]。
駒田自身は「単純な投打の力量が勝負を分けるわけではない」と思っており、「状況や敵バッテリーの性格から配球を読み取り、相手を上回るような自由な発想も必要」と語っている[53]。
手首が柔らかくグラブ捌きが巧みで、一塁手として内野手からのショートバウンド、ハーフバウンド送球の捕球処理が非常に上手かった[注 20]。浮足立つことなく、体をあまり動かさずに手首のハンドリングだけでこともなげにショートバウンド送球を捕球する姿が特徴的だった[注 21]。また身長も高いため、内野手は思い切った送球ができ、巨人・横浜の内野守備力の向上に貢献した。バント処理にも定評があり、果敢なダッシュで相手打者にプレッシャーをかけ、下手投げの鋭い送球で二塁で走者を刺すこともしばしばあった[注 22]。
引退後はテレビ・ラジオでの野球解説の他に俳優業をこなしたり、多くのバラエティ番組や旅番組に出演している。夫人とともにテレビ出演することも多い。長女は日本プロ麻雀連盟所属のプロ雀士、駒田真子[54]。
オールド・カーと1970 - 1980年代のアイドル歌謡のファン(特にお気に入りは沢田聖子の「今日に乾杯!」[55])であり、そのことをテーマにしてしばしばメディアに登場している。『'84ヤング・ジャイアンツ―歌の球宴』では「冬のリヴィエラ」のカヴァー・ソングを披露している。また、引退後、横浜・関内のベイスターズ通りに歌謡喫茶を出店していたこともある。フジテレビ系列で2015年6月10日に放送された『村上信五とスポーツの神様たち』に満塁の神様として出演した際、伊藤美奈子の『誘魚灯』をお気に入りの歌として紹介し、誘魚灯をBGMに駒田の生涯満塁本塁打全13本の映像が流された。前記の通り、高知監督時代の2018年3月からバー「KOMA’S HOUSE」を開店。売り上げはチームの運営資金に充ててもいる[56][57]。
石井琢朗との対談の中で、「俺は大雑把(中略)俺は気が小さいから大雑把にしなきゃいけなかった」と自身の性格について語っている[58]。
「「自分で辞めようと思わない限り、引退は来ない」と思っていた。だから特に引退とか引き際なんてことは考えたこともなかった。だって野球はレジャーだから。投手はスポーツだけど、打者はレジャー。スポーツだったら、週に6試合なんてできない。ボーリング、ゴルフ、そして野球なら週に何回でも試合ができる。そんなものに引退があるなんて、考えてもみなかった。」「成績が落ちてきた時は、「工夫が足りないんだ」と思っていた。ゴルフで言えば、「なんでこのショートホールでOBを打っちゃったんだろう」みたいな感覚。」と述べている[59]。
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1983 | 巨人 | 86 | 199 | 182 | 27 | 52 | 5 | 2 | 12 | 97 | 47 | 2 | 1 | 3 | 0 | 13 | 0 | 1 | 31 | 5 | .286 | .337 | .533 | .870 |
1984 | 79 | 91 | 84 | 11 | 20 | 3 | 1 | 2 | 31 | 11 | 1 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 21 | 3 | .238 | .297 | .369 | .666 | |
1985 | 92 | 172 | 151 | 13 | 38 | 7 | 1 | 3 | 56 | 20 | 1 | 1 | 2 | 2 | 15 | 3 | 2 | 24 | 4 | .252 | .324 | .371 | .694 | |
1986 | 64 | 120 | 101 | 13 | 26 | 6 | 0 | 3 | 41 | 18 | 1 | 0 | 3 | 1 | 15 | 1 | 0 | 21 | 2 | .257 | .350 | .406 | .756 | |
1987 | 113 | 371 | 331 | 50 | 95 | 7 | 1 | 15 | 149 | 40 | 1 | 1 | 8 | 2 | 29 | 3 | 1 | 55 | 6 | .287 | .344 | .450 | .795 | |
1988 | 116 | 404 | 365 | 45 | 112 | 22 | 2 | 11 | 171 | 40 | 0 | 4 | 6 | 1 | 32 | 4 | 0 | 43 | 11 | .307 | .362 | .468 | .830 | |
1989 | 126 | 458 | 413 | 47 | 125 | 31 | 3 | 11 | 195 | 56 | 10 | 6 | 3 | 0 | 40 | 10 | 2 | 60 | 10 | .303 | .367 | .472 | .839 | |
1990 | 130 | 528 | 470 | 70 | 135 | 27 | 3 | 22 | 234 | 83 | 7 | 3 | 0 | 5 | 51 | 6 | 2 | 70 | 11 | .287 | .356 | .498 | .854 | |
1991 | 130 | 558 | 510 | 66 | 160 | 23 | 2 | 19 | 244 | 66 | 5 | 2 | 0 | 2 | 44 | 7 | 2 | 78 | 16 | .314 | .369 | .478 | .848 | |
1992 | 130 | 556 | 505 | 73 | 155 | 25 | 1 | 27 | 263 | 64 | 1 | 4 | 0 | 2 | 47 | 7 | 2 | 70 | 10 | .307 | .367 | .521 | .888 | |
1993 | 122 | 482 | 437 | 35 | 109 | 18 | 0 | 7 | 148 | 39 | 1 | 2 | 2 | 4 | 39 | 1 | 0 | 89 | 18 | .249 | .308 | .339 | .647 | |
1994 | 横浜 | 130 | 558 | 525 | 60 | 149 | 33 | 2 | 13 | 225 | 68 | 0 | 1 | 0 | 3 | 28 | 3 | 2 | 95 | 29 | .284 | .321 | .429 | .749 |
1995 | 130 | 539 | 499 | 45 | 144 | 29 | 4 | 6 | 199 | 66 | 0 | 1 | 0 | 2 | 37 | 1 | 1 | 78 | 20 | .289 | .338 | .399 | .736 | |
1996 | 130 | 534 | 485 | 57 | 145 | 22 | 1 | 10 | 199 | 63 | 1 | 3 | 1 | 2 | 45 | 6 | 1 | 78 | 18 | .299 | .358 | .410 | .769 | |
1997 | 135 | 558 | 507 | 57 | 156 | 31 | 2 | 12 | 227 | 86 | 2 | 3 | 0 | 6 | 45 | 4 | 0 | 73 | 20 | .308 | .360 | .448 | .808 | |
1998 | 136 | 586 | 551 | 63 | 155 | 25 | 1 | 9 | 209 | 81 | 0 | 2 | 0 | 8 | 27 | 1 | 0 | 86 | 21 | .281 | .311 | .379 | .690 | |
1999 | 129 | 558 | 519 | 53 | 151 | 29 | 1 | 9 | 209 | 71 | 0 | 1 | 0 | 6 | 31 | 0 | 2 | 84 | 14 | .291 | .330 | .403 | .732 | |
2000 | 85 | 326 | 306 | 25 | 79 | 14 | 0 | 4 | 105 | 34 | 2 | 0 | 0 | 1 | 18 | 2 | 1 | 57 | 11 | .258 | .301 | .343 | .644 | |
通算:18年 | 2063 | 7598 | 6941 | 810 | 2006 | 357 | 27 | 195 | 3002 | 953 | 35 | 35 | 28 | 47 | 563 | 59 | 19 | 1113 | 229 | .289 | .342 | .433 | .774 |
年 度 | 球 団 | 一塁 | 外野 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | 試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
1983 | 巨人 | 24 | 189 | 12 | 2 | 16 | .990 | 39 | 52 | 1 | 1 | 0 | .981 |
1984 | 12 | 31 | 3 | 0 | 3 | 1.000 | 26 | 18 | 0 | 1 | 0 | .947 | |
1985 | 36 | 190 | 13 | 1 | 21 | .995 | 26 | 24 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |
1986 | 25 | 124 | 9 | 0 | 10 | 1.000 | 18 | 17 | 2 | 0 | 2 | 1.000 | |
1987 | 53 | 411 | 21 | 5 | 30 | .989 | 65 | 98 | 2 | 2 | 0 | 980 | |
1988 | 26 | 133 | 3 | 0 | 10 | 1.000 | 100 | 147 | 5 | 4 | 1 | .974 | |
1989 | 113 | 953 | 53 | 5 | 75 | .995 | 22 | 38 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |
1990 | 130 | 1187 | 104 | 7 | 101 | .995 | ─ | ||||||
1991 | 130 | 1220 | 99 | 8 | 84 | .994 | ─ | ||||||
1992 | 19 | 94 | 14 | 1 | 7 | .991 | 119 | 179 | 9 | 2 | 3 | .989 | |
1993 | 115 | 921 | 47 | 8 | 80 | .992 | 11 | 12 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
1994 | 横浜 | 130 | 1059 | 75 | 8 | 112 | .993 | ─ | |||||
1995 | 130 | 1132 | 71 | 11 | 111 | .991 | ─ | ||||||
1996 | 128 | 1002 | 71 | 7 | 104 | .994 | ─ | ||||||
1997 | 131 | 1018 | 64 | 7 | 99 | .994 | ─ | ||||||
1998 | 136 | 1163 | 68 | 12 | 104 | .990 | ─ | ||||||
1999 | 129 | 1113 | 69 | 12 | 94 | .990 | ─ | ||||||
2000 | 81 | 702 | 41 | 3 | 61 | .996 | ─ | ||||||
通算 | 1548 | 12642 | 837 | 97 | 1122 | .993 | 426 | 585 | 21 | 10 | 6 | .984 |
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