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日本の陸軍軍人 (1891-1945) ウィキペディアから
栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 - 1945年〈昭和20年〉3月26日[1][注釈 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)[注釈 2]。陸士26期・陸大35期。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。
第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)であり、その戦闘指揮によって敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」[4]と評された。
戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり1912年(大正元年)12月1日に陸軍士官学校へ入校。陸軍将校の主流である陸軍幼年学校出身(陸幼組)ではなく、中学校出身(中学組)であった。長野中学の4期後輩に今井武夫陸軍少将がいる。陸士同期に、のちの硫黄島の戦いで混成第二旅団長に指名して呼び寄せた“歩兵戦の神”の異名をもつ千田貞季や、田中隆吉、影佐禎昭がおり、とくにノモンハン事件では、戦車第3連隊長吉丸清武、第23師団参謀長大内孜、第23師団捜索隊長東八百蔵の3人の同期が戦死しており、栗林が同期を代表して新聞紙面上で追悼のことばを送っている[5]。
1914年(大正3年)5月28日、陸士卒業(第26期、兵科:騎兵、席次:742名中125番)、騎兵第15連隊附となり、同年12月25日に陸軍騎兵少尉任官。1917年(大正6年)10月から1918年(大正7年)7月まで陸軍騎兵学校乙種学生となり[6]、馬術を専修[7]。馬術の技術は高く、気性が荒く陸軍騎兵学校の誰もが敬遠していた馬を何度も落馬しながらも乗り続け、最後には乗りこなしていたという逸話が残っている[8]。
1918年(大正7年)7月に陸軍騎兵中尉。1920年(大正9年)12月7日、陸軍大学校へ入校。1923年(大正12年)8月、陸軍騎兵大尉。同年11月29日に陸大を卒業(第35期)、成績優等(次席)により恩賜の軍刀を拝受[9]。同年12月、栗林義井(よしゐ[10])と結婚[注釈 3]。太郎・洋子・たか子の一男二女を儲ける。孫に衆議院議員の新藤義孝がいる(たか子の子)[11]。
騎兵第15連隊中隊長、騎兵監部員を経て1927年(昭和2年)、アメリカに駐在武官(在米大使館附)として駐在、帰国後の1930年(昭和5年)3月に陸軍騎兵少佐に進級、4月には陸軍省軍務局課員。1931年(昭和6年)8月、再度北米のカナダに駐在武官(在加公使館附)として駐在した。栗林は2年間に渡ってアメリカ各地を回ってアメリカ軍の軍人だけではなく一般市民とも親交を深めた。栗林のアメリカ人評は「朗らかで気さくな人が多い」であり、アメリカ人との交流について、妻よしゐやまだ字が読めない長男太郎宛に、イラストや漫画を描き込んだユーモアにあふれる多くの手紙を送っている[12]。 フォート・ビリスでは騎兵訓練を受けているが、そのときの教官であったジョージ・ヴァン・ホーン・モーズリー准将からは、「尊敬する栗林へ、貴官との愉快な交際を忘れません」と書かれた記念写真を受け取っている。栗林はフランス・ドイツ志向の多い当時の陸軍内では少数派であった「知米派」で、国際事情にも明るくのちの対米開戦にも批判的であり、妻のよしゐに「アメリカは世界の大国だ。日本はなるべくこの国との戦いは避けるべきだ。その工業力は偉大で、国民は勤勉である。アメリカの戦力を決して過小評価してはならない」と話したこともあった[13]。
1933年(昭和8年)8月、陸軍騎兵中佐、同年12月30日に陸軍省軍務局馬政課高級課員となりさらに1936年(昭和11年)8月1日には騎兵第7連隊長に就任する。1937年(昭和12年)8月2日、陸軍騎兵大佐に進級し陸軍省兵務局馬政課長。馬政課長当時の1938年(昭和13年)には軍歌『愛馬進軍歌』の選定に携わっている。1940年(昭和15年)3月9日、陸軍少将に進級し騎兵第2旅団長、同年12月2日、騎兵第1旅団長に就任。
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦目前の1941年(昭和16年)9月、第23軍参謀長に就任。第23軍は緒戦の南方作戦においてイギリス領香港を攻略することを任務としており、12月8日の開戦後、香港の戦いにおいて18日間でイギリス軍を撃破して香港を制圧した。
1943年(昭和18年)6月、陸軍中将に進級し、第23軍参謀長から留守近衛第2師団長[注釈 4]に転じる[7]。1944年(昭和19年)4月、留守近衛第2師団長から東部軍司令部附に転じる[7][注釈 5]。栗林が東部軍司令部附となったのは、厨房から失火を出した責によるとされる[7]。秦郁彦は、厨房から火事を出した程度で留守師団長を更迭されるとは考えにくい、第109師団長に親補する前提での人事であろう、という旨を述べている[7]。
1944年(昭和19年)5月27日[3]、小笠原方面の防衛のために新たに編成された第109師団長に親補された[7]。6月8日、栗林は硫黄島に着任し、以後、1945年(昭和20年)3月に戦死するまで硫黄島から一度も出なかった[7]。同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき「小笠原方面陸海軍最高指揮官」となる(硫黄島の戦い#小笠原兵団の編成と編制)。周囲からは、小笠原諸島全域の作戦指導の任にある以上は、兵団司令部を設備の整った父島に置くべきとの意見もあったが、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に司令部を移した。その理由としては、サイパンの戦いにおいて、第31軍司令官小畑英良中将が、司令部のあるサイパン島から部隊視察のためパラオ諸島に行っていたときにアメリカ軍が上陸し、ついに小畑はサイパン島に帰ることができないまま守備隊が玉砕してしまったという先例があることや、父島と比較すると硫黄島の生活条件は劣悪であり、自分だけ快適な環境にいることなく部下将兵と苦難を共にしたいという想いがあったからという。栗林はその人柄から部下将兵からの人気も高かった[17]。
栗林の着任当時、硫黄島には約1,000人の住民が居住しており、当時の格式では、閣僚クラスの社会的地位のある中将の来島に色めきたったが、栗林は島民に配慮して一般島民とは離れた場所に居住することとしている[18]。栗林が司令部ができるまで居住していた民家は「硫黄島産業」という会社の桜井直作常務の居宅で、桜井は栗林と接した数少ない島民となったが、栗林は食事の席で桜井に「我々の力が足りなくて、皆さまに迷惑をかけてすまない」と謝罪し桜井を驚かせている[19]。栗林の島民に対する配慮はまだ続き、アメリカ軍による空襲が激しくなると、島民も将兵と同じ防空壕に避難するようになったが、薄手の着物姿の女性が避難しているのを見た栗林は、将兵からの性被害を抑止するために女性にモンペの着用を要請し、また防空壕も可能な限り軍民を分けるよう指示した[20]。その後も、アメリカ軍の空爆は激化する一方で、全島192戸の住宅は3月16日までの空襲で120戸が焼失、6月末には20戸にまでなっていた。栗林は住民の疎開を命じ、生存していた住民は7月12日まで数回に分けて父島を経由して日本本土に疎開した[21]。栗林の方針によって硫黄島には慰安所は設置されておらず、硫黄島は男だけの島となったが、結果的に早期に住民を疎開させるという判断が、島民の犠牲を出さなかったことにつながった[22]。
敵上陸軍の撃退は不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手する。従来の「水際配置・水際撃滅主義」に固執し水際陣地構築に拘る一部の陸軍幕僚と同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍を最後まで抑え、またアメリカ軍爆撃機の空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。陣地の構築については軍司令官である栗林が自ら島内をくまなく巡回し、ときには大地に腹ばいになって、目盛りのついた指揮棒で自ら目視して作業する兵士たちに「この砂嚢の高さをあと25cm上げよ」「こっちに機銃陣地を作って死角をなくすようにせよ」「トーチカにもっと砂をかけて隠すようにせよ」などの具体的で詳細な指示を行うこともあったという。
生還者の1人で歩兵第145連隊第1大隊長(少佐)だった原光明は「(栗林)閣下が一番島のことをご存じだった。だから私ら、突然、閣下が予想外の場所から顔を出されるので、いつもびっくりさせられた」と回想している[23]。このように、通常は部隊指揮官がやるような細かい指示を軍司令官が行ったことについて、栗林の率先指揮ぶりの好エピソードとして語られることもあるが、これは、軍参謀がわずか5人と少ないうえ着任して日も浅く、また部隊指揮官は急編成でろくに経験もない老兵が多かったという小笠原兵団の窮状によるものでもあった[24]。
持久戦術は守備隊唯一の戦車戦力であった、戦車第26連隊(連隊長:西竹一中佐)に対しても徹底された。戦車第26連隊は満州で猛訓練を積んできたこともあり、連隊長の西は硫黄島でも戦車本来の機動戦を望んでいたが[25]、これまでの島嶼防衛戦で戦車を攻撃に投入したサイパンの戦いや[26][27][28]、ペリリューの戦いにおいては[29]、優勢なアメリカ軍部隊に戦車突撃をして、強力な「M4中戦車」との戦車戦や、バズーカなどの対戦車兵器に一方的に撃破されることが続いており[30][26][31]。栗林は西に対して、戦車を掘った穴に埋めるか窪みに入り込ませて、地面から砲塔だけをのぞかせ、トーチカ代わりの防衛兵器として戦うよう命じた。西はこの命令に反撥したが最終的には受入れている。栗林と西は同じ騎兵畑出身で親しかったとする証言もあるが、勤勉且つ繊細であった栗林に対し、華族(男爵)で裕福だった西は豪放で奔放と性格が全く異なっており、確執があったとする証言もある[32]。ただし、戦車を防衛兵器として使用する判断をしたのは西であったとする説もある[33]。
隷下兵士に対しては陣地撤退・万歳突撃・自決を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた(硫黄島の戦い#防衛戦術)。過酷な戦闘を強いることになる隷下兵士には特に気を配っており、毎日、島を何周も廻る視察には、陣地構築の状況確認のほかに、兵士の士気と指揮官の兵士に対する態度を確認する目的もあった。栗林は兵士に対して、作業中や訓練中には自分も含め上官に敬礼は不要と徹底し、部下から上官に対する苦情が寄せられた場合は容赦なく上官を処罰した。食事についても栗林自らも含め、将校が兵士より豪華な食事をとることを厳禁した。栗林は、平時から階級上下での待遇差が激しい軍内で根強い“食べ物の恨み”が蔓延していることを認識しており、水不足、食料不足の硫黄島においては、さらにその“食べ物の恨み”が増幅する懸念が大きく、戦闘時の上下の信頼関係を損なって、戦力に悪影響を及ぼすという分析をしていた。そのため、自らも兵士と同じ粗食を食し、水も同じ量しか使用しなかった。この姿勢が兵士から感銘を受けて、栗林への信頼が高まっていった[34]。
翌1945年(昭和20年)2月16日、アメリカ軍艦艇・航空機は硫黄島に対し猛烈な上陸準備砲爆撃を行い、同月19日9時、海兵隊第1波が上陸を開始(硫黄島の戦い#アメリカ軍の上陸)。上陸準備砲爆撃時に栗林の命令を無視し、(日本)海軍の海岸砲と擂鉢山火砲各砲台応戦砲撃を行ってしまった。栗林は慌てて全軍に全貌を暴露するような砲撃は控えるよう再徹底したが[35]、栗林の懸念通りにアメリカ軍は応戦砲撃で海軍砲台の位置を特定すると、11時間にも及ぶ艦砲射撃で全滅させてしまった。これはアメリカ海兵隊の硫黄島の戦いの公式戦史において、「(硫黄島の戦いにおける)栗林の唯一の戦術的誤り」とも評された[36]。
その後は守備隊各部隊は栗林の命令を忠実に守り、十分にアメリカ軍上陸部隊を内陸部に引き込んだ10時過ぎに栗林の命令によって一斉攻撃を開始する。上陸部隊指揮官のホーランド・スミス海兵隊中将は[7]、その夜、前線部隊からの報告によって硫黄島守備隊が無謀な突撃をまったく行なわないことを知って驚き、取材の記者たちに「誰かは知らんがこの戦いを指揮している日本の将軍は頭の切れるやつ(one smart bastard)だ」と語った[37]。また、第4海兵師団の戦闘詳報によれば、日本軍の巧みな砲撃指揮を「かつて、いかなる軍事的天才も思いつかなかった巧妙さ」と褒めたたえている[38]。アメリカ軍は硫黄島の指揮官が誰であるのかを正確には把握できておらず、上陸前にはサイパン島で入手した日本軍の機密資料から、父島要塞司令官大須賀應陸軍少将と考えていた。しかし、上陸以降に捕らえた日本兵の捕虜から「最高司令官はクリバヤシ中将」という情報を聞き出したアメリカ軍は、硫黄島のような小さく環境が劣悪な島に中将がいるとは考えられないという判断をしながらも、硫黄島の戦力が当初の14,000人という見積りより多いという報告から、師団クラスの戦力が配置されており、師団長クラスの中将が指揮をしてもおかしくはないという分析も行った。その場合は硫黄島の戦力は当初の見積りより遥かに多く、また「クリバヤシ」が優れた戦術家であれば苦戦は必至と危惧することとなったが、事実、この危惧通りにアメリカ軍は大苦戦させられることとなる[39]。
その後も圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍の予想を遥かに上回り粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えたものの、3月7日、栗林は最後の戦訓電報となる「膽参電第三五一号」を大本営陸軍部、および栗林の陸大在校時の兵学教官であり、騎兵科の先輩でもある侍従武官長の蓮沼蕃大将に打電。さらに組織的戦闘の最末期となった16日16時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に対し打電(硫黄島の戦い#組織的戦闘の終結・#訣別の電文)。
翌17日付で戦死と認定され[7][注釈 6]、特旨により陸軍大将に親任された[2]。陸軍大臣の杉山元・元帥は、内閣総理大臣の小磯國昭に送付した文書に次のように記している[7]。
太平洋戦争(大東亜戦争)では、中将の戦死者が増加したため、中将で戦死した者のうち、親補職(軍事参議官[15]。陸軍では、陸軍三長官、陸軍航空総監、師団長以上の団隊の長、侍従武官長など[15]。海軍では、海軍大臣、軍令部総長、艦隊司令長官、鎮守府司令長官など[15]。)2年半以上を経ており、武功が特に顕著な者を陸海軍協議の上で大将に親任するという内規が作られ、この内規により、陸軍で7名(栗林を含む)[40]、海軍で5名が戦死後に大将に親任された[41]。
昭和19年5月27日に第109師団長に親補され、昭和20年3月17日に戦死と認定された栗林は、上記の内規の年限を満たさなかったが、特旨により大将に親任された[41]。
同日、最後の総攻撃を企図した栗林は残存部隊に対し以下の命令を発した。
- 一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ
- 二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス
- 三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君[42]テ顧ミルヲ許サズ
- 四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ
大本営は訣別電報で栗林は戦死したと判断していた。しかし、3月23日に硫黄島から断続的に電文が発されているのを父島の通信隊が傍受した。その電文には3月21日以降の戦闘状況が克明に記されていたが、最後の通信は23日の午後5時で、「ホシサクラ(陸海軍のこと)300ヒガシダイチニアリテリュウダンヲオクレ」という平文電報がまず流れてきたので、通信兵が返信しようとすると、「マテ、マテ」と硫黄島から遮られて、その後に続々と電文が送られてきたという。その電文の多くが栗林による部隊や個人の殊勲上申であり、栗林は戦闘開始以降、部下の殊勲を念入りに調べてこまめに上申して、昭和天皇の上聞に達するようにしてきたが、最後の瞬間まで部下のはたらきに報いようとしていたのだと電文を受信した通信兵たちは感じ、電文に記された顔見知りの守備隊兵士を思い出して涙した。しばらくすると通信は途絶えて、その後は父島からいくら呼びかけても返信はなかった[43]。
3月17日以降、栗林は総攻撃の機会をうかがっていた。既に生存者の殆どが、守備隊の命運は尽きており、待っているのは自滅のときの訪れであって、そうであれば最後の突撃をなるべく早く行うべきと考えていたが、栗林は死を焦る参謀や指揮官らに「今、しばらく、様子を見たい」として安易な突撃を許さなかった。その指示を聞いた参謀らは、最後まで作戦を考える栗林の戦意と気力に大きな感銘を受けたという[44]。アメリカ軍は18日から、艦砲射撃や空爆を中止し、損害の大きかった海兵隊を硫黄島から次第に撤退させており、1個連隊程度の戦力を残して、戦車と迫撃砲での攻撃を主として近接戦闘をなるべく避けるように作戦変更していた。栗林は冷静にアメリカ軍の作戦変更を見極めて、警戒が緩んできた3月24日に攻撃の機が熟したと判断すると、25日夜間の総攻撃開始を決定した[45]。この総攻撃も、今まで栗林が徹底して禁止してきたバンザイ突撃ではなく、緻密に指揮された周到な攻撃であった。栗林は階級章を外すと、軍刀などの所持品から名前を消して白襷を着用し、25日の深夜に、今まで栗林に従ってきた師団司令部附大須賀應陸軍少将、歩兵第145連隊連隊長池田益雄陸軍大佐、参謀長高石正陸軍大佐や海軍第27航空戦隊司令官市丸利之助海軍少将と共に、攻撃隊400人の先頭に立って司令部の半地下壕を出て、元山・千鳥飛行場方向に向けて前進を開始した[46]。
翌3月26日午前5時15分、栗林の指揮する攻撃隊は西部落南方の海岸で、アメリカ陸軍航空隊の第7戦闘機集団と第5工兵大隊が就寝している露営地に接触し攻撃を開始した。攻撃隊は日本軍の兵器のほかに、アメリカ軍から鹵獲したバズーカや自動小銃などを装備しており非常に重武装で、太平洋戦争の島嶼戦で繰り返された貧弱な装備でのバンザイ突撃とは一線を画した秩序だった攻撃であり、攻撃を受けたアメリカ軍も日本軍部隊がよく組織されているものと感じ、それは栗林の戦術的な規律によるものと評価している[47]。 攻撃隊の周到な攻撃によってアメリカ軍は大混乱に陥り、多数の戦闘機パイロットが殺傷されたが、その後海兵隊の増援も到着し、3時間の激戦によって戦闘機パイロットら44人が戦死、88人が負傷し、海兵隊員も9人が戦死、31人が負傷するという大損害を被った[48]。その後、栗林は部隊を元山方面に転戦しようとしたが、敵迫撃砲弾の破片を大腿部に受けて負傷し、司令部付き曹長に背負われながら前線から避退したが進退窮まり、最後に「屍は敵に渡してはいけない」と言い残して、近くの洞窟で自決した[45]。満53歳没。
ただし、栗林の最期については、直接見た者は生存していないことから諸説ある。最後の総攻撃の数少ない生還者である通信兵小田静夫曹長の証言によれば、栗林は千鳥飛行場に天皇陛下万歳三唱して斬りこんだが、参謀長の高石か参謀の中根に自分を射殺するよう命じ、高石か中根は栗林を射殺したのちに自分も拳銃で自決したという。しかし、小田は実際には栗林の最期を見てはおらずこれは推測である[49]。他の生還者である歩兵第145連隊の大山純軍曹によれば、前進途中の千鳥部落付近で敵の砲火を浴び、部隊は散開状態となったが、大山はそのとき栗林の近くにおり、栗林が「狙撃を出して攻撃せんか」と命令したのを聞いている。大山はその場で機関銃弾を受けて負傷し栗林とはぐれてしまったが、戦闘後に戦闘指揮所に戻ると、栗林が負傷し、出血多量で絶命したため、遺体を参謀長の高石が近くの木の根元の弾痕に埋葬したという話を聞いている[50]。他にも、攻撃中にアメリカ軍の155㎜砲の直撃を受けて爆死し遺体が四散したとの推察もある[51]。
最後の総攻撃後に、日本兵の遺体262人が残され、18人が捕虜となった[52]。海兵隊は栗林に敬意を表し遺体を見つけようとしたが、結局見つけることはできなかった。アメリカ海兵隊は公式報告書で栗林による最後の攻撃を以下の様に記録している[53]。
3月26日に栗林と他の高級将校が日本軍の最後の攻撃を主導したという報告があった。この攻撃はバンザイ突撃ではなく、最大の混乱と破壊を生み出すことを目的とした優秀な計画であった。午前5時15分、200−300人の日本兵が島の西側に沿って北から下り、西部の海岸の近くで海兵隊と陸軍の露営地を攻撃した。混乱した戦いは3時間にも及び、第7戦闘機集団の司令部が大打撃を被ったが、混乱から立ち直って反撃を開始し、第5工兵大隊は急いで戦闘ラインを形成して敵の攻撃を食い止めた。日本軍の部隊は、日本とアメリカの両方の武器で十分に武装しており、40人が軍刀を帯びていたので、高級将校が高い割合を占めることを示していたが、遺体や書類を確認したところ栗林を見つけることはできなかった。
栗林の最期に関する異説としては、大野芳が、第109師団父島派遣司令部の参謀であった堀江芳孝少佐の手記から、栗林が戦闘中にノイローゼとなり、アメリカ軍に降伏しようとして参謀に斬殺されたという説を唱えたことがあった[54]。しかし梯久美子の調査により、堀江が硫黄島で栗林の下で勤務したのは数日に過ぎず、栗林の最期についても伝聞であり、その情報源とされた小元久米治少佐[注釈 7]が否定していたことが判明、戦史叢書の編集者も堀江の手記の栗林の最期の記述については信ぴょう性が薄いと判断し、戦史叢書の記述に採用していない[56]。
死後、日米の戦史研究者などからは高い評価を得ていたが、硫黄島の戦いを除くと軍参謀長や騎兵旅団長など軍人としては目立ったエピソードも少なく、局地戦で戦死した指揮官ということもあり、日本でも一般的な知名度は高くなかったが、2005年(平成17年)に上梓された梯久美子『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』、翌2006年(平成18年)に公開されたハリウッド映画『硫黄島からの手紙』により、一躍その名が知られるようになった。
秦郁彦は下記のように述べている。
栗林は幼少の頃、一時的に養子に出ていたことがあり、養子に出ていた当時の記録は長らくの間不明であったが、近年、生家から少年時代の日記帳や成績表などが発見され、生後まもなく地元の士族・倉田家へ養子に出ていた時期など、これまで知られていなかった少年期の詳細が明らかになった。
墓所は長野市松代の明徳寺に所在するがその遺骨はない[57]。栗林の長兄が継いだ長野市松代の生家では、仏壇に硫黄島の石、および、栗林が陣頭指揮・戦死した3月26日未明の最後の総攻撃に参加し、生還を果たした陸軍下士官が、復員から間もない1946年(昭和21年)に栗林の妻の義井に送った手紙(最後の総攻撃の様子を詳細に記す)を供えていた[10]。
1967年(昭和42年)、勲一等に叙せられ旭日大綬章を没後受勲した。
戦闘は敗北となったが、僅か22平方キロメートル(東京都北区程度の面積)に過ぎない硫黄島を、海兵隊に加えて、陸上任務に就く陸軍などの将兵を含めると総兵力は111,308人、また海軍などの支援要員を含めた作戦に従事する将兵250,000人と、単純な兵力では5倍から10倍以上[58]、さらに絶対的な制海権・制空権を持ち、予備兵力・物量・兵站・装備全てにおいて、圧倒的に優勢であったアメリカ軍を敵に回して、最後まで将兵の士気を低下させずに、アメリカ軍の予想を上回る1か月半も硫黄島を防衛した指揮力は、内外で高く評価されている。硫黄島の戦いで栗林に苦しめられた、アメリカ海軍と海兵隊の軍公式報告や司令官級の高級将官からの評価を列挙する。
栗林忠道中将は、アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった。この五十代の“サムライ”は天皇によって指名され、絶賛され、豊富な戦闘経験と革新的な思考と鋼鉄の意志を持ち合わせていた。これはアメリカ軍に対する栗林の唯一の戦闘となったが、栗林はアメリカでの軍務経験から将来の対戦相手について多くを学んでいた。さらに重要なことに、彼はアメリカ軍の硫黄島への侵攻を撃退しようとする以前の日本軍の試みの結果を、瞬きを一つもしない目で評価することができた。英雄的な誇張を排除し、栗林はタラワからテニアンへの日本軍の失敗の特徴であった「水際防御」戦術と「イチかバチかのバンザイ突撃」を評価することはほとんどなかった。現実主義者の栗林は、日本軍の枯渇した艦隊や空軍から多くの援助が期待できないことを知っていた。自分がとれる最高の戦術は、最近のビアクとペリリューの防御戦術のパターンに沿って、縦深防御で硫黄島の地形を最大に活用すべきと結論づけた。栗林は「水際配置・水際撃滅主義」、「バンザイ突撃」の戦術を避け、代わりに、アメリカ軍に士気喪失させ、作戦を放棄させるため、消耗戦、神経戦、長期持久戦を行った。 — アメリカ海兵隊公式戦史、[59]
栗林は現実主義者であった。栗林は硫黄島の促成滑走路が日本軍の貴重な資産であると認識していた。硫黄島は(マリアナ諸島の)B-29に対する攻撃の拠点となっており、アメリカ軍の戦略の重要拠点として注目されることは確実であった。硫黄島がアメリカの手に落ちればその飛行場は日本に大きな脅威となることも認識していた。栗林には、島全体を爆破するか、死ぬまで戦うかの選択肢しかなかった。栗林は後者を効果的に行うために、かつての島嶼防衛戦で行われた水際撃滅戦術とバンザイ突撃を禁止し、先進的な防衛態勢を構築した。栗林は海軍との間ではいくつかの妥協を行ったが、陸軍においては参謀長を含む18人の上級将校を更迭し、残った将校たちは栗林の方針に従った。栗林は海軍や航空支援を受けられない運命に置かれたのにも関わらず、断固として有能な野戦指揮官であることを証明した。 — アメリカ海兵隊公式戦史、[60]
硫黄島防衛の総指揮官である卓越した栗林忠道陸軍中将は、硫黄島を太平洋においてもっとも難攻不落な8平方マイルの島要塞にすることに着手した。この目的を達成するためには地形の全幅利用を措いて他に求められないことを彼は熟知していた。歴戦剛強をもって鳴る海兵隊の指揮官たちでさえ、偵察写真に現れた栗林の周到な準備を一見して舌を巻いた。 — チェスター・ニミッツ、[61]
(栗林による)硫黄島の防御配備は、旧式な水際撃滅戦法と、ペリリューの戦いやレイテ島の戦いやリンガエン湾の戦いで試みられた新しい縦深防御戦術との両方の利点を共有したものとなった。 — サミュエル・モリソン、[62]
特に、硫黄島で陸上戦を指揮し栗林と対決した第56任務部隊司令官ホーランド・スミス海兵中将は自分の著書などで多くの栗林評を残しておりその一部を抜粋する。
太平洋で対決した日本軍指揮官のなかで栗林は最も勇猛であった。島嶼指揮官のなかには名目だけの者もあり、敵戦死者の中に名も知られずに消え失せる者もいた。栗林の性格は硫黄島に彼が残した地下防備に深く記録されていた。硫黄島は最初の数日間に組織的抵抗が崩壊することなく、最後まで抗戦を継続したため著名となった。 — ホーランド・スミス、[64]
栗林の手強さはこういった軍組織や軍司令官だけではなく、末端の海兵隊員までに知れ渡っており、以下のような発言も海兵隊公式報告書に記されている。
イギリスの歴史作家で第二次世界大戦での多くの著作があるアントニー・ビーヴァーも栗林を評価している。
硫黄島の守備にあたる陸海軍部隊を統括するのは、栗林忠道中将だった。栗林は優れた教養人で、陰影に富んだ性格をした騎兵将校である。この戦いの帰結について幻想をいっさいもたなかったが、麾下の各陣地を持ち堪えさせるため、周到な準備を整えた。 — アントニー・ビーヴァー、[66]
戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来 麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ 特ニ想像ヲ越エタル量的優勢ヲ以テスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ 宛然徒手空拳ヲ以テ 克ク健闘ヲ続ケタルハ 小職自ラ聊(いささ)カ悦ビトスル所ナリ
然レドモ 飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ 最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方(あた)リ 熟々(つらつら)皇恩ヲ思ヒ 粉骨砕身モ亦悔イズ 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ 皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ 誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 茲(ここ)ニ最後ノ関頭ニ立チ 重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管(ひたすら)皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ 永ヘニ御別レ申シ上グ
尚父島母島等ニ就テハ 同地麾下将兵 如何ナル敵ノ攻撃ヲモ 断固破摧シ得ルヲ確信スルモ 何卒宜シク申上グ
終リニ左記〔注:原文は縦書き〕駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉斧ヲ乞フ
- 国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき[注釈 8]
- 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ
- 醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思う
太字は大本営により添削された箇所
(新聞に掲載された電文)戦局遂に最後の関頭に直面せり
十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち、皇国の必勝と安泰とを祈念しつ、全員壮烈なる総攻撃を敢行す敵来攻以来想像に余る物量的優勢を以て陸海空よりする敵の攻撃に対し克く健闘を続けた事は小職の聊か自ら悦びとする所にして部下将兵の勇戦は真に鬼神をも哭かしむるものあり
然れども執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで斃れ為に御期待に反し、この要地を敵手に委ねるのやむなきに至れるは誠に恐懼に堪へず、幾重にも御詫び申し上ぐ
特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるを思ひ、たとひ魂魄となるも誓つて皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す、今や弾尽き水涸れ戦い残れる者全員いよく最後の敢闘を行はんとするに方り熟々皇恩の忝さを思ひ粉骨砕身亦悔ゆる所にあらず
茲に将兵一同と共に謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ永へ御別れ申上ぐ終りに左記駄作、御笑覧に供す。
- 国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ口惜し
- 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ
- 醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思ふ
大本営発表により、新聞に掲載された原文のまま。下線は大本営により、新たに加筆された所
「お父さんは、お家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている夢などを時々見ますが、それはなかなか出来ない事です。たこちゃん。お父さんはたこちゃんが大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかりを思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言いつけをよく守り、お父さんに安心させるようにして下さい。戦地のお父さんより」
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