パラオ
太平洋の島国 ウィキペディアから
パラオ共和国(パラオきょうわこく、パラオ語: Beluu ęr a Belau、英: Republic of Palau)、通称パラオは、太平洋上のオセアニア州に位置し、フィリピンの東方にあるミクロネシア地域の島々からなる共和制国家。首都はマルキョク。2006年10月7日にコロールから遷都した。
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国名
正式名称はパラオ語で Beluu er a Belau。公式の英語表記は、Republic of Palau。通称、Palau。日本語表記は「パラオ共和国」。漢字表記では「帛琉」と書き「帛」と略す。現地ではべラウと呼ぶこともある。国名の由来は、マレー語で「島」を意味する「Pulau」である[6][7]。
国旗
→「パラオの国旗」も参照
国旗のデザインは海を表す青地に月を表す黄色い丸が配置されている。平和と静寂、海と陸の豊饒を表している[8]。
日本の国旗である日の丸が元となっている説もあるが、パラオの国旗の発案者のジョン・ブラウ・スキーボング(John Blau Skebong)は「私はもちろん日の丸を知っているが、特別にそれを意識してデザインしたわけではない」と否定している[9]。
歴史
要約
視点
有史以前
有史以前のパラオについては未解明の状況であるが、国内に多く残る遺跡などを研究した結果、約4000年前から人が住んでいたと推定されている。
スペイン帝国の植民地
16世紀ごろから、海軍の進歩によりミクロネシア諸島にヨーロッパ人が訪れるようになった。最初にこの地を踏んだのはスペイン人で、次いでポルトガル人やイギリス人がやってきたとされる。1885年にパラオはスペイン領東インド(Indias Orientales Españolas)の一部となった。これらのヨーロッパ人の来訪により天然痘が流入したほか、彼らの現地人に対する搾取が原因で、パラオの人口は約98%減少したとされる。
ドイツ帝国の植民地
1899年、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、ドイツ・スペイン条約によって、グアムを除くスペイン領東インドを450万ドルでドイツ帝国に売却した。パラオもこれに含まれ、これ以降ドイツ領ニューギニア(Deutsch-Neuguinea)の一部となった。
ドイツはパラオでココナッツ、タピオカ栽培、アンガウルにおけるリン鉱石採掘などの産業振興を行った[10]。しかし、遠く離れたドイツから送られる人員はほとんどないにもかかわらず、パラオがもたらす富はドイツ人に独占された。
1914年に第一次世界大戦が開始されると、当時締結されていた日英同盟により、イギリスやフランスなどと同じ連合国の一員として、ドイツに対して宣戦を布告した日本が海軍を派遣し、ドイツ守備隊を降伏させてパラオ島を占領下に置いた。
大日本帝国の委任統治領
1919年、第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の委任統治領(実質的な植民地[11])になった[12]。コロールには南洋庁および南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島の中核的な島となり、多くの日本人が移住した。パラオ支庁管内の住民の4人に3人は日本人となった。軍人を除く1943年6月末時点の居住者33,960人の内訳は、内地人(内地出身日本人)25,026人、朝鮮人(朝鮮半島出身日本人)2,460人、パラオ人先住民6,474人、他にスペイン人・ドイツ人宣教師18人。
日本の統治が始まってからは、電気や水道、学校や病院、道路や公的施設など社会的基盤の整備、貨幣経済への移行が重点的に行われた。これにより1920年代ごろになるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させた。日本は、公学校における教育などを通し、パラオで同化政策を推し進めた。一方で、元駐日大使のミノル・ウエキは、日本はパラオでは積極的な日本化をおこなわず、教育や医療、経済といった、社会基盤の整備に努めた、と語る[13]。
また、日本統治の開始に伴い日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになった。ただし、本科3年・補習科2年の課程であり、日本人子弟とは学校が別だった(公学校)。現地用の教科書編纂のため、南洋庁の書記として赴任していた中島敦は個人的感想として、原始的に暮らしている現地住民に近代的な高等教育を施すことへの疑問の手紙を家族に送っているが[14]、民政時代には3科目を省くなど、日本国民とは異なる、差別意識に基づく教育が行われた[10]。公学校では、教室内の私語や母語による会話は禁止され、日の丸・君が代や教育勅語による皇民化教育が徹底され、同化政策が行われた[15]。
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日本は1933年(昭和8年)に国際連盟から脱退したが、統治委任はパリ講和会議によるものであることから、国際連盟の加盟諸国も日本による統治の継続を認めたために委任統治を続けた。なお、国際連盟からの脱退により、国際連盟の「委任統治領に軍事施設を建設してはならない」という規則の制約から逃れた日本は、各地に海軍の関連施設を建設した。
民間の大日本航空が設立されると、1940年(昭和15年)3月6日、海外路線として横浜 - サイパン - パラオの間に九七式飛行艇を使用した民間航空路が開設された[16]。更に1941年(昭和16年)1月9日からはパラオを起点として南洋島内を結ぶ空路が開設された[17]ほか、同年10月以降にはパラオと東ティモール(当時ポルトガル領)間に空路が開設された[18]。
第二次世界大戦(太平洋戦争)が始まると、コロールは海軍の重要な基地として北西太平洋方面の作戦拠点となった。そのため、西方のフィリピン戦線の状況と連動して連合軍の攻撃対象となり、1944年(昭和19年)にはペリリューの戦いなどで両軍に多くの戦死者を出した。なお、ペリリュー島の戦いではパラオ民間人の死者はなかった[19]。しかし、日本国籍を持たない現地人であっても、本人の事前の了承を受けてパラオ挺身隊などに軍属として動員されることがあった[注釈 1]。
1945年(昭和20年)8月の連合国に対するポツダム宣言受諾に伴う日本の降伏により、日本の統治が終了。 同年9月2日には第14師団の師団長、井上貞衛中将が降伏文書に調印した[20]。
現在でも、パラオ国民の多くは戦争や皇民化政策による負の影響を認識しつつも、親日的な感情を持っている[10]。多くの日本人観光客が訪れている上、アメリカからの援助額を超え、日本から最も多くの経済援助を受けている(2017年)[21][注釈 2]。
アメリカの信託統治
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戦争終結後の1947年に、アメリカが施政権者である太平洋諸島信託統治領の一部となった。アメリカはパラオを軍事戦略上の拠点として利用する一方、住民たちの伝統的生活様式を守るため、社会経済開発や福利厚生には消極的であった。こうした政策は動物園政策と批判されたため、1960年代には政策が転換され、平和部隊派遣や、教育や医療、産業などの技術指導が行われた[15]。
独立への動き
1979年7月には、アメリカによる核兵器の持ち込みを禁止した「非核憲法」を住民投票で可決したが、アメリカの意向を受けた信託統治領高等裁判所が無効を宣言した。10月、非核条項を緩和した憲法草案で再び住民投票を行ったが、今度は否決された。しかし1980年7月に、1年前と同じ内容(修正前)の草案での住民投票で可決された。
1981年に、自治政府の「パラオ共和国」を発足させ、憲法を発布した。翌1982年に、内政・外交権はパラオが、安全保障はアメリカ合衆国が担うものとし、アメリカ軍が駐留することになった。その見返りとしてアメリカが財政援助をする自由連合盟約(コンパクト)の内容に関して両政府が合意した。だが翌年行われた住民投票でコンパクトは否決され、これ以降、1990年まで都合7回の住民投票が行われたが全て否決された。
独立
1990年代初頭の冷戦終結を受けて、アメリカにとってパラオの利用価値がなくなった後の1992年に行われた住民投票で、憲法内の非核条項をアメリカとの自由連合協定においてのみ凍結することが決まり、コンパクト承認のための住民投票の可決条件を緩和(75%から50%へ)する憲法改正のための住民投票が行われ、これが可決された。また、同時に行われた大統領選挙でクニオ・ナカムラが当選した。
1993年には、緩和された可決条件の下、8回目の住民投票でアメリカ合衆国とのコンパクトが承認された。これにより、1994年10月1日に、コンパクトによる自由連合盟約国として独立し、国連による信託統治が終了した。同年に国際連合へも加盟した。信託統治領としては最後の独立となる。
現在でもパラオ国会では日系の政治家が強い影響力を持つなど、日本と歴史的に密接な繋がりを持つ国である。
地理
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パラオを構成する島は386であるが、実際に人が住んでいる島は9つのみである[22]。首都マルキョクやロマン・トメトゥチェル国際空港のあるバベルダオブ島と旧首都のあるコロール島とは橋で結ばれている。コロール島とペリリュー島の間にあるロックアイランドは、2012年7月に世界遺産に登録された。
地方行政区分
→詳細は「パラオの地方行政区画」を参照
パラオは、16の行政区域に分かれている。
州内の自治は州政府(州知事が首長)によっておこなわれるが、伝統的な酋長制度も並存している。パラオには州単位の酋長で構成される酋長協議会がある。
気候
全域が熱帯雨林気候(Af)であり、年平均気温は27℃と温暖である。また、スコールなど通年で雨が多いが、特に7月と10月の雨量が多い。年間雨量は3,800mmになり、平均湿度は82%である。台風の襲来はほぼない。
標準時
全土でパラオ時間 (Palau Time, PWT) が施行されている。UTC+9で、日本標準時 (JST) との間に時差はない。
政治
→詳細は「パラオの政治」を参照
パラオは任期4年の大統領制をとり、議会は二院制の国民議会(下院16名、上院13名。任期4年)である[23]。独立時にアメリカ合衆国と自由連合盟約を締結しており、安全保障並びに外交上の権限の一部をアメリカ合衆国が保持している。そのため自国軍隊は保持していない。また、この盟約に基づき一部のパラオ国民はアメリカ軍人として採用されている。
今日の政治課題として、アメリカの経済援助が2025年に終了することによる財政の自立化や、世界に広まったCOVID-19以降減少した観光客の誘致などが挙げられている。
2023年、世界銀行は太平洋諸国の過剰債務のリスクを検討。他国が2019年以降、COVID-19対策で政府支出を拡大して債務を増やす中、パラオの債務に関しては持続可能という判断を示した[24]。
国際関係
要約
視点
→詳細は「パラオの国際関係」を参照
日本との関係
→「日本とパラオの関係」も参照
- 2003年現在、日本や台湾(中華民国)、アメリカ、フィリピンを含む29ヶ国と外交関係を樹立しているが、その中でも旧統治国である日本やアメリカとの関係を重視している。中華民国と対立関係にある中華人民共和国とは国交がない。
- 1996年に崩落したKBブリッジの再建を始めとした多くの援助が日本によってなされているなど、パラオと日本の関係は国際連盟の委任統治時代以降も深い。
- 三重県はナカムラ元大統領の父が三重県伊勢市の出身であった縁で、1996年以降友好提携関係にある。また旧首都コロールは現在東京都と姉妹都市になるべく交渉中である。
- コロール島の旧官幣大社南洋神社やペリリュー島のペリリュー神社(南興神社)、アンガウル神社が、1980年代以降に日本からの資金により再建された。また、日本からの遺骨収集団や慰霊団も度々訪れている。
- 現在でも日本や日本語に親しみを持ち、子供に日本風の名前をつけるパラオ人も多い。パラオ語には多くの日本語の言葉が取り入れられており、また、パラオにある唯一の公立高校では、1964年から選択科目として日本語を取り入れている。さらに、アンガウル州では州の公用語の一つとして採用されている。
- 第7代大統領のトミー・レメンゲサウは、2005年7月の来日前に行われた会見で当時の小泉首相の靖国神社参拝について「すべての人のために祈るのは正しいことだ」と支持を表明した。また、第6代大統領クニオ・ナカムラの代理人が靖国神社に参拝した。
- 一方でクニオ・ナカムラは「南洋」という言葉が旧植民地宗主国の主観に基づくものとして「われわれの国々を“南太平洋”と呼ぶのもけっして適当とはいえない。“太平洋諸国”といってほしい。“南”は不要です」と発言している[25]。なお、パラオは北半球に位置する。
- 2021年、他のミクロネシア圏の4カ国とともに太平洋諸島フォーラムからの離脱を表明[26]。
- 2022年2月、中台関係問題に関する不満から、2021年2月に始まった太平洋諸島フォーラムからの脱退手続きを停止し、2022年7月に脱退を撤回した[27]。
天皇・皇后の訪問
2015年4月8日から9日にかけて、日本から明仁天皇、美智子皇后(いずれも当時)が国際親善と戦没者慰霊のため訪問した[28]。
明仁天皇は長年、パラオを含む西太平洋地域での戦没者の慰霊を強く希望しており、慰霊に際してはパラオのトミー・レメンゲサウ大統領夫妻のほか、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島の大統領夫妻も同席することとなった[29]。天皇の訪問はパラオの報道で大きく取り上げられ、歓迎ムードのなか、天皇を迎えるにあたって道路の整備が行われ、道路脇などにはいくつもの日の丸が掲揚された[28][30]。
この訪問に際し、パラオ人に行われたインタビューでは「日本との交流は素晴らしかったので年配の人たちは日本と交流したい気持ちである」との声や「パラオ人も嬉しいが一番嬉しいのは同地での戦没者であろう」との声が寄せられた[28]。9日、供花のために訪れるペリリュー島では、学校、職場が休日となり全島民600人で天皇皇后を出迎えることとなり[28]、ペリリュー州は4月9日を「天皇皇后両陛下ご訪問の日」として州の祝日に法律で制定した[31]。
この訪問後、観光でペリリュー島に訪れる日本人が増加している[32]。
経済
要約
視点
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IMFの統計によると、2013年のGDPは2億4,600万ドルである。一人当たりのGDPは14,022ドルで、世界平均を30%ほど上回る[5]。漁業とココナッツなどの農業、観光が主産業で、歳入のほとんどがアメリカ合衆国からの無償援助である。公務員の削減による緊縮財政政策や、観光や軽工業の振興を奨励している。
パラオの貿易収支は大幅な貿易赤字である。2000年時点で輸出1,800万ドルに対して、輸入は9,600万ドルに達する。主な輸出品は、全輸出金額の7割を占めるマグロ、次いでココヤシを加工した農業生産物のコプラ、わずかな手工芸品などである。日本への輸出品は2003年時点でマグロ (98.6%) が大半を占め、航空貨物による輸出も頻繁に行われている。
主な輸入品は、各種機械 (24.2%)、各種原料 (19.0%)、食料品 (15.2%)、各種製品 (13.3%)、原油 (10.4%) である。輸入元はアメリカ合衆国 (39.3%)、グアム (14.0%)、日本 (10.2%)、シンガポール (7.7%)、大韓民国 (6.4%) である。
火力発電所はアメリカの統治時代に建設されたものが1か所しかない。フィリピン人労働者で維持されている。パラオ人の多くは公務員であり、その他もホワイトカラー指向であり、教員や看護師などの専門技能を持つ人たちは、給与格差などの理由で1990年代にサイパンへ移住した人も多い。
観光
温暖な気候と美しい海を求めた日本や台湾などの近隣諸国からの観光客が多く、それらのための大規模なリゾートホテルが数多く運営している。1990年代まで、日本航空の関連会社が経営する「ホテル・ニッコー・パラオ」が存在したが、老朽化や台風被害の影響で2002年に閉館、その後2005年に同じJALホテルズ(現・オークラ ニッコー ホテルマネジメント)運営の「パラオ・ロイヤル・リゾート」が開業した(所有は台湾企業)。また、東急不動産の関連会社パシフィック・アイランズ・デベロップメント・コーポレーションが「パラオ・パシフィック・リゾート(1984年開業)」を運営している。
また、美しい海やサンゴ礁と合わせて、第二次世界大戦時に沈んだ船舶や航空機を売りにしたスクーバダイビングも盛んであり、多くのダイビングショップがあるほか、日本などからダイビングツアーも企画されている。本島の近くにも多くの離島があり、元プロレスラーのアントニオ猪木が名誉オーナーの通称「イノキアイランド」という、保護大型シャコガイが多数生息する離島が存在する。
情報・通信
パラオの放送局はICTなどがあり、ほかに専門チャンネルなどでNHKやCNNの番組が配信されている。インターネットにおいてはパラオの番組が survivorpw.pw というサイトを開設している。新聞は「パラオ・ホライズン」「ティア・ベラウ」「アイランド・タイム」などがある。
交通
国内
自動車は右側通行であるが、日本から輸入された右ハンドルの日本製中古車が多く走っている。離島との交通手段には船が使われている他、 数社が小型飛行機やヘリコプターを使って、バベルダオブ島から、ペリリュー島、アンガウル島へ定期便を毎日運航している。鉄道や公共バス運行はないが少数ながらタクシーはある。
主要島であるバベルダオブ島を周回する通称「コンパクト・ロード」が2007年に完成したため、同島内の交通の利便性が高まった。バベルダオブ島とその南の、パラオ最大の都市である旧都コロールがあるコロール島とは、KBブリッジ(Koror-Babeldaob Bridge、正式名称「日本・パラオ友好の橋 (Japan-Palau Friendship Bridge)」)という橋で繋がっている。韓国企業建設による旧KBブリッジは1996年に突然崩落[33]、同時に電気、水道などのライフラインも失われたため、首都機能は麻痺し、パラオは非常事態宣言を発令した。現在の橋はパラオからの求めに応じ[33]、日本が無償援助にて建設、2002年に開通したものである。
→「日本・パラオ友好の橋」も参照
コンパクト・ロードを使いレンタカーで島内を巡ることも可能である。なお中心部の殆どの道路は舗装整備されているが、中心部を離れたり離島部に行くと道路が舗装されていないため、スコールが来るとぬかるむので注意が必要である。
国外
バベルダオブ島にあるロマン・トメトゥチェル国際空港と、東京/成田国際空港からの直行便がデルタ航空によって運航されていたが、2018年5月5日に廃止された。グアムやマニラの間にユナイテッド航空が、中華航空は台北から、アシアナ航空はソウルから定期便を就航させている。
グアムとの間には1日1便または2便直行便が就航している。また、日本航空なども年に十数回から数十回の直行チャーター便を、日本の三大都市圏である東京/成田国際空港や名古屋/中部国際空港、大阪/関西国際空港から就航させている。成田からの定期国際便は通年運航されているが、乾季となる観光シーズンには週4便ほど運航される時期もあり、年間約3万人を超える日本人観光客が訪れる。
国民
人種構成
パラオでは、海外へ移住するパラオ人と1990年代初頭から海外からの非パラオ人の移住という二つの現象が起きている。人口の70%程度はパラオ人で、他に1990年代からフィリピン人労働者が多い。人口の半分以上は旧首都コロールに住む。日系パラオ人は全人口の25%を占めるともいわれている[34]。
1970年の人口規模は1万数千人で、海外移住者は2500人以上であったと推定されており、この年以降も数百人規模で海外移住が行われている。特に1972年以降に大規模な海外移住が始まっている[35]。
言語
→詳細は「パラオ語」を参照
パラオでもっとも使われている言語はパラオ語 (64.7%|公用語) である。次いでフィリピン語 (13.5%)、英語 (9.4%|公用語)、中国語 (5.7%)、カロリン語 (1.5%)、日本語 (1.5%)となっている[36]。
日本統治時代に教育を受けたパラオ人は、日本語で不自由無く意思疎通ができるレベルに達している者が多い。また、パラオ語にはかつての統治国の言語に由来する借用語が多く存在し、日本語に由来する語彙も日常的に用いられている。
宗教
主な宗教はキリスト教で、カトリックが41.6%、プロテスタントが28.2%。他にカトリックと伝統宗教が融合した新宗教モデクゲイが8.8%、エホバの証人(166人)、末日聖徒イエス・キリスト教会(124人)や、土着の宗教がある(2000年センサスより)。
文化
要約
視点
→詳細は「パラオの文化」を参照
パラオでは映画やテレビ、ラジオが娯楽の中心であり、「エコパラダイスFM」はエフエム東京(TFM)と日本航空などが協力し設立されたラジオ局で、TFMの一部番組もネットされている。
音楽
→詳細は「パラオの音楽」を参照
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教育
外務省によると、義務教育は小学校(1年生から8年生)と高校(1年生から4年生)。卒業後多くの学生が、下記の国内唯一の短大であるパラオ短期大学に進学している。2013年時点で小学校は16校、高校は5校ある[37]。2020年時点では、公立小学校が15校、私立小学校が2校。高校は公立校1校、私立校4校存在している[38]。赤道近くに位置するため、一年を通じて気温は28度前後であり、四季はない代わりに雨期と乾期がある。それゆえ小学校では、夏休みが2ヶ月半と長く、年末年始の休みは10日間、イースター休暇(日本の春頃のお休み)は1日となっている[37]。
ただ、ミノル・ウエキ氏によるとケネディ大統領の時代、アメリカ本土やハワイ、グアムの大学に通う事も可能だったという[13]。
- パラオ地域短期大学(Palau Community College)
世界遺産
祝祭日
スポーツ
- サッカー
→詳細は「パラオのサッカー」を参照
パラオ国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、2004年にパラオサッカーリーグが創設された。パラオサッカー協会によって構成されるサッカーパラオ代表は、FIFAワールドカップやOFCネイションズカップには未出場である。
- 野球
1920年代の日本による委任統治時代に持ち込まれ、1927年には日本人との試合が行われた記録がある[41]。かつては人気スポーツであったが、他のスポーツの人気拡大などに伴って人気は低迷している[42]。
実力は周辺諸国の中では抜きん出ており、パシフィックゲームズ野球競技では全ての回でメダルを獲得している[42]。しかしながら、オリンピックやワールド・ベースボール・クラシックには未出場である。
- オリンピック
→詳細は「オリンピックのパラオ選手団」を参照
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脚注
参考文献
関連文献
関連項目
外部リンク
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