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木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 2004年11月7日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、映画美術家、劇作家、演出家、俳優、彫刻家[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16][17][18][19]。本名は木俣 三郎(きまた さぶろう)[1][2][4][6]、舞台俳優・映画美術家としては衣 恭介(ころも きょうすけ)[10][11][12][13][14][15][17][20]、時代劇俳優としては木南 兵介(きなみ へいすけ)[10][11][12][13][14][15][16]、現代劇俳優として鬼塚 大吉(おにつか だいきち)[10][11][12][15]等、多くの別名をもつ。プロダクション鷹・日東テレビ映画の創業者・元代表取締役、ムービーブラザースの共同代表を歴任した[1][2][5][21][22][23][24][25]。高見順の短篇小説『大部屋の友』[26]の主人公モデル、あるいは世田谷区・豪徳寺の「無名戦士慰霊記念碑」のレリーフ彫刻を手がけた彫塑作家としても知られる[27][28]。
きまた あきたか 木俣 堯喬 | |||||
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本名 | 木俣 三郎 (きまた さぶろう) | ||||
別名義 |
衣 恭介 (ころも きょうすけ) 木南 兵介 (きなみ へいすけ) 鬼塚 大吉 (おにつか だいきち) | ||||
生年月日 | 1915年3月26日 | ||||
没年月日 | 2004年11月7日(89歳没) | ||||
出生地 | 日本 東京府東京市神田区塗師町5番地 | ||||
死没地 | 日本 東京都目黒区 | ||||
職業 | 映画監督、脚本家、映画プロデューサー、映画美術家、劇作家、演出家、俳優、彫刻家 | ||||
ジャンル | 劇場用映画(時代劇・現代劇、成人映画・日活ロマンポルノ)、テレビ映画、軽演劇、新劇、彫刻 | ||||
活動期間 | 1930年 - 2004年 | ||||
配偶者 |
高橋那津子 (1939年 - 1940年) 葉山瑛子 (1945年 - 1953年) 木俣和子 (1955年 - 1977年) 珠瑠美 (1981年 - 2004年) | ||||
著名な家族 |
和泉聖治 (長男) 河村すの子 (長姉) 河村目呂二 (義兄・姉の夫) 小田切政純 (伯父・母の兄) | ||||
事務所 |
プロダクション鷹 ムービーブラザース | ||||
主な作品 | |||||
映画 『好色魔』(1968年) 『豊かなる感触』(1971年) 『日本性風俗史 姦通』(1974年) 『鍵』(1983年) 彫刻 『無名兵士慰霊記念碑』レリーフ(1954年) | |||||
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1915年(大正4年)3月26日、東京府東京市神田区塗師町5番地(現在の東京都千代田区神田鍛冶町1丁目7番あたり)に生まれる[1][2][3][4][5]。父・金治、母・けいは金物商を神田駅東側の同地に営み、木俣は兄2人、姉3人を持つ末っ子の三男であった[3]。次兄は母方の姓を継ぐ小田切治郎[29]、長姉は画家・河村すの子(1899年 - 没年不詳)であり、その夫は構造社(主宰・斎藤素巌、1926年 - 1944年)に参加する彫刻家・河村目呂二(1886年 - 1959年)である[3][30]。母方の伯父には陸軍中将・小田切政純(1866年 - 1940年)がいる[3]。
両親は早々に亡くなり、木俣は旧制小学校の高学年から、姉の河村夫妻に育てられた[3]。旧制中学校に進学したが、17歳になる1932年(昭和7年)には家出をしており、工場に働きながら彫刻を志し、日本美術学校(現在の日本美術専門学校)彫塑科に通う[1][3]。1935年(昭和10年)に同校を卒業するまでの間、朝鮮京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)の次兄の家に居候した時期もあった[29]。同年、構造社の展覧会に彫刻作品を出品、入選する[3]。1936年(昭和11年)には国画会、造型彫刻家協会に出品、入選した[3]。同年、池田義信の私的書生になり、池田の妻・栗島すみ子が座長を務めた劇団の文芸部員になる[1][3]。このころ作家の高見順、笠井峯(のちの山茶花究)らと親交を結ぶ[3]。舞台に上がったときの芸名を「衣恭介」と名のった[20]。
1938年(昭和13年)4月10日に発行された『週刊朝日』に掲載された高見順の短篇小説『大部屋の友』に登場する浅草のレビュー役者は、この時代の木俣をモデルとしている[28][31][32][33][34]。同作は同年に春陽堂書店が刊行した『新小説選集 第10巻』にも直ちに収録され、戦後1964年に講談社が刊行した『高見順文学全集 第1巻』にも収録された作品である[26][32][33]。1939年(昭和14年)の京城府滞在中に知り合った高橋那津子と結婚、同年12月27日、保田龍門に師事して彫刻に打ち込んでいた大阪府大阪市で長女・魔衣が生まれ、翌1940年(昭和15年)1月1日に結婚届と長女の出生届を同時に提出する[35]。しかし間もなく風邪で長女は夭折、最初の妻・那津子も同年10月14日に死去した(満18歳没)[35]。これを機に、同年、木俣は「堯喬」と改名する[3][35]。
1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦終結後の秋、葉山瑛子と結婚する。1946年(昭和21年)9月25日には、長男・堯美(現在の和泉聖治)が誕生している[要出典]。次男・朝勝、三男・博揚を儲けたが、世田谷区豪徳寺の豪徳寺の「無名戦士慰霊記念碑」のレリーフ彫刻を手がけた1954年(昭和29年)には、離婚している[27]。山崎真一郎に招かれ、東映京都撮影所の契約俳優になり、端役を務めながら彫刻に打ち込むことにし、京都市右京区嵯峨甲塚町1番地に転居する[27][36]。1955年(昭和30年)5月15日、伊東和子と結婚する[1]。
1963年(昭和38年)から、関西でテレビの生番組の演出をしていたが[1]、吉本興業が京福電気鉄道とともに開始したテレビ映画『戦国群盗伝』の製作に関わるが、企画が頓挫する[27]。これを自力で継承し、1965年(昭和40年)4月17日、日東テレビ映画を設立[21]、松竹京都撮影所出身の倉橋良介を起用して『荒野の鷹』として製作するが、これも頓挫する[27]。東映から地方の下番線用の添え物として、「お色気作品」をと声をかけられ、同年6月1日、プロダクション鷹を設立[21]、これを母体に劇場用映画『日本毒婦伝 赤いしごき』[8][11]を製作した[1][27]。同作の監督としてクレジットされた「風魔三郎」は倉橋良介、木俣は「鬼塚大吉」名義で製作・企画・脚本にクレジットされた[11][27]。『日本映画監督全集』には日東テレビ映画もプロダクション鷹も1964年設立と記されており[1]、『浅草で春だった』には1965年8月と書かれているが[27]、1965年8月24日は同作の公開日であり[8]、同2社の設立年月日として『映画年鑑 1967』以降に書かれたのはそれぞれ上記の日付である[21]。同2社は、木俣が居を構えた右京区嵯峨甲塚町1番地に所在した[21][22][36]。重役陣には社長の木俣のほか、総務部長として妻・和子、企画部長として倉橋良介、監査役に兄の小田切治郎が名を連ねた[21][22][36]。
木俣は「楽しい映画」をモットーに、企画・脚本重視の映画製作を行った[1]。1966年(昭和41年)3月29日に公開された扇町京子主演作『肉体の河』を初監督、満51歳で映画監督としてデビューする[1][8]。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小川欽也、小森白、山本晋也、湯浅浪男、宮口圭、藤田潤一、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一、深田金之助の名を挙げているが、木俣については言及されていない[37]。西原儀一は、既存の映画監督のなかでこの時期に成人映画を手がけた監督として、小川欽也、福田晴一、田中徳三、萩原遼、深田金之助とともに、プロダクション鷹に参加した倉橋良介の名を挙げたが、木俣については触れていない[38](仮に1965年以前デビューで線を引いたとすれば整合する)。大蔵映画の女優である扇町を起用した『肉体の河』以降、大蔵との配給提携が始まったが、1968年(昭和43年)には、大蔵映画の社長・大蔵貢から大蔵系配給中止宣告を受け、自主配給に踏み切る[1]。1969年(昭和44年)前後に本拠地を京都から東京の渋谷区千駄ヶ谷に移した[22][23]。移転とともに、倉橋良介に代り、長男・堯美(和泉聖治)がプロダクション鷹の常務取締役に就任した[23]。以降、芦川絵里、水城リカ、谷身知子、珠瑠美らを専属女優として抱え、同じく独立系の若松孝二の若松プロダクションと提携し、芦川・水城ら女優を貸出したほか、若松の監督する『処女ゲバゲバ』、『やわ肌無宿 男殺し女殺し』、あるいは『裸の銃弾』といった作品に、木俣自ら俳優として出演している[11][39][40]。同年1月に公開した監督作『人肉の市』は、1971年(昭和46年)8月18日に Les Esclaves du plaisir の題でフランスで公開されている[41]。
1974年(昭和49年)、タシケント映画祭等のため、ソビエト連邦(現在のロシア連邦)、東欧圏を旅する[27]。ウズベキスタン共和国のタシケントで行われた同映画祭では『小林多喜二』(監督今井正、同年2月20日公開)が上映中止される事件、『四畳半襖の裏張り』(監督神代辰巳)の上映用プリントが行方不明になる事件が起き、木俣はこの経緯を同年の『シナリオ』8月号(発行シナリオ作家協会)に発表した[7]。当時の『キネマ旬報』第645号の指摘によれば、木俣のほかの参加者は清水晶、山田和夫、瓜生忠夫であるが、『シナリオ』誌上での木俣・清水の論争のほか、当事者の瓜生は沈黙したという[42]。
1971年11月、老舗であり大手五社の一社であった日活が成人映画路線に全面的に舵を切り、「日活ロマンポルノ」(1971年 - 1988年)を開始するが、木俣とその一派は、当初、基本的にこれに参加しなかった[17]。1972年(昭和47年)5月10日に公開されたプリマ企画製作による『私のよわいとこ?』(監督秋山駿)に、専属女優の谷身知子が主演したのが最初で、木俣自身が初めて参加したのは、1975年(昭和52年)5月17日に公開された『新・団地妻 ブルーフィルムの女』(監督林功)に主演女優として珠瑠美を貸出し、木俣が脚本を提供している[17]。以降、ロマンポルノの日活とジョイパック系のミリオンフィルムに作品を提供し続けた[10][11][12][13][14][15][16][17]。その後、1977年(昭和52年)5月21日、妻の和子が満41歳没で急逝する[27][43]。翌1978年(昭和58年)、木俣はクモ膜下出血に倒れ、療養中に「ストレス性胃潰瘍」を併発し胃全摘の手術を行う[27]。1981年(昭和56年)、専属女優の珠瑠美と結婚する[2][27]。1983年(昭和58年)には、若松孝二によるプロデュースを受け、谷崎潤一郎の『鍵』を映画化、同年12月24日に東映セントラルフィルムの配給で公開された[10][12][13][14][15][16]。1984年(昭和59年)には中国を訪問した[27]。1985年(昭和60年)3月26日には、晩声社から木俣が自らの半生を記した『浅草で春だった』を上梓、翌1986年(昭和61年)2月にはその続篇『続 浅草で春だった』を上梓した[4][7]。
1986年10月に公開された『中川みず穂 ハードポルノ絶頂』が最後の監督作であった[10][11][12][13][14][15][16][17][18]。同作以降も企画・製作・脚本・出演、およびかつて軽演劇時代の芸名であった「衣恭介」の名での美術デザインを手がけ、記録に残る最後の作品は、1997年(平成9年)11月5日に公開された『ねっとり妻おねだり妻III 不倫妻またがる』(監督珠瑠美、配給新東宝映画)における「衣恭介」の名での美術である[10][11][12][13][14][15][16][17][18]。1987年(昭和62年)、岩間鶴夫、佐藤一郎、およびすでに故人である小津安二郎、中田竜雄とともに第11回シナリオ功労賞を受賞する[5][44]。1995年(平成7年)には、長男の和泉聖治と共同代表となってムービーブラザースを港区六本木に設立、プロダクション鷹の代表取締役社長の座は珠に譲った[24][25]。
2004年(平成16年)11月7日、東京都目黒区の病院で肺炎のため死去した[4][6]。満89歳没。同9日、同区下目黒の羅漢会館で行われた葬儀・告別式の喪主は、長男の和泉聖治が務めた[6]。
2010年(平成22年)8月27日 - 同29日に神戸映画資料館で行なわれた「竹中労の仕事 パート1」の特集上映で、水城リカが主演した木俣の監督作『欲情の河』(1967年)、同じく『狂った牝猫』(1968年)がいずれも16mmフィルム版の上映用プリントで上映された[45]。2011年(平成23年)5月14日 - 同年7月15日にラピュタ阿佐ヶ谷で行なわれた「60年代まぼろしの官能女優たち PART II」特集上映で、『広域重要指定一〇八号拳銃魔 嬲りもの』(1969年)が16mmフィルム短縮版の上映用プリントで上映された[46]。2012年(平成24年)9月28日 - 同29日には、神戸映画資料館で行なわれた「プロ鷹クロニクル PART-1」の特集上映で『好色魔』(1968年)、『灼熱の暴行』(1968年)、『或る色魔』(1968年)が、同年9月30日 - 10月1日に行われた「プロ鷹クロニクル PART-2」の特集上映で『娼婦』(1968年)、『広域重要指定一〇八号拳銃魔 嬲りもの』、『裸体の街』(1969年)が、いずれも16mmフィルム短縮版の上映用プリントで上映された[47]。
若松孝二の若松プロダクションの作品に、プロダクション鷹に所属する芦川絵里とともに木俣が俳優として出演した『処女ゲバゲバ』(1969年)は、2005年7月17日 - 同29日にポレポレ東中野で行われた「若松孝二レトロスペクティブ 2005」の特集上映で上映されている[39]。同作は、2008年(平成20年)3月15日 - 同年4月4日にシネマヴェーラ渋谷で行なわれた「若松孝二大レトロスペクティブ」の特集上映で、同じく出演作である『裸の銃弾』とともに再び上映されている[40]。この2作は、2005年12月22日に紀伊國屋書店が発売した『若松孝二 初期傑作選 DVD-BOX 2』[7][14]、およびフランスでも2010年(平成22年)11月16日に発売された Coffret: Koji Wakamatsu vol.3 にそれぞれ、La Vierge violente, Naked Bullet の題で収録された。
特筆以外はすべてクレジットは「監督」であり「木俣堯喬」名義である[1][2][10][11][12][13][14][15][16][17][18][19]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵・現存状況についても記す[11][48]。
おもな舞台演劇・軽演劇の作・演出の一覧である[28][50]。木俣の著書『浅草で春だった』によれば、1936年 - 1943年の約100作品については記録が残っていない[50]。
国立国会図書館蔵書等にみる単著・論文等の書誌である[4][7]。
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