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1889-1974, 彫刻家 ウィキペディアから
斎藤 素巌(さいとう そがん、旧字体:齋藤󠄁 素巖、1889年10月16日 - 1974年2月2日)は、彫刻家、日本芸術院会員。本名は知雄(ともお)。
父知三、母かねの三男として、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に生まれる。東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)を経て、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科卒業。
1913年、英国へ渡り、ロイヤル・アカデミーで彫塑を学んで1916年に帰国、東京・本郷菊坂町に落ち着き、のちに田端文士村に転居。1918年(大正7年)、第12回文展で「敗残」が特撰。1926年、日名子実三とともに彫刻と建築の綜合をめざして構造社を結成。1943年(昭和18年)、現在の小平市学園東町に転居[1]。
1935年(昭和10年)、帝国美術院の改革に伴い会員に撰出[2]、1937年(昭和12年)、帝国美術院の後継団体である帝国芸術院会員。1949年(昭和24年)、日展運営会理事、1952年(昭和27年)、国立近代美術館評議員、1958年(昭和33年)、日展常務理事、1969年(昭和44年)、日展顧問。1965年、勲三等瑞宝章受章。
1974年(昭和49年)2月2日、老衰のため東京都世田谷区の久我山病院にて死去。84歳[3]。墓所は青山霊苑(1ロ6-15)。
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