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浅草にあった映画館(1910-1983) ウィキペディアから
帝國館(ていこくかん)は、かつて存在した日本の映画館である。当初、吉沢商店の「ルナパーク」に内包した映画館であったが、焼失後再建した。のちに浅草松竹映画劇場(あさくさしょうちくえいがげきじょう)と改称する。
1910年(明治43年)9月10日、東京市浅草区公園六区(現在の東京都台東区浅草1丁目43番)に開業した。1890年(明治23年)5月22日に開業した「日本パノラマ館」の跡地であり、約1,200坪の敷地に、吉沢商会社主の河浦謙一が建てた「ルナパーク」に内包される映画館としてオープンした。
吉沢商会にとって「ルナパーク」は、1903年(明治36年)10月開業の電気館に次ぐ浅草六区の施設で、ニューヨークのコニーアイランドを模した遊園地で、写真館、物産店・飲食店、天文館、木馬館などがある広大な施設であった[1]。帝国館は、吉沢商会製作の映画のフラッグシップ館となった。
1911年(明治44年)4月29日、ライド型アトラクション「汽車活動写真館」からの漏電による失火で「帝国館」もパーク全体とともに焼失する。翌1912年(明治45年)に再建したが吉沢商会は4社合併で日活となり、ルナパークは1913年(大正2年)には閉鎖となった。帝国館は、大阪「三友倶楽部」の山川吉太郎が同年設立した東洋商会のフラッグシップ館になったが、東洋商会が翌1914年(大正3年)には活動を停止した。
単独の映画館となった帝国館は、やがて小林喜三郎の手に渡った。このころ同館が発行していた週刊ニュース「第一新聞」を押山保明が編集していた。1917年(大正6年)、活動弁士の生駒雷遊が同館の主任弁士となった[2]。1919年(大正8年)ごろには弁士の津田秀水が人気を博した。
1921年(大正10年)3月12日、松竹は帝国活動写真より浅草帝国館、赤坂帝国館、横浜角力常設館を買収。浅草帝国館を松竹洋画のフラッグシップ館と位置づけ、松竹洋画部が買い付ける洋画を上映した。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で浅草は壊滅、帝国館も崩壊したが復興後は引き続き松竹洋画の拠点として機能した。
1925年(大正14年)2月27日、帝国館と新宿武蔵野館がパラマウント映画の特作映画『十誡』を同時に公開したことが話題となった。
1927年(昭和2年)、僊石政太郎の設計により改築した。このときの建物は1980年代まで使用された。1943年(昭和18年)2月11日、「浅草松竹映画劇場」と改称して松竹製作の新作を公開する劇場となった。
1983年(昭和58年)、閉鎖・廃業し、解体された。跡地は浅草ROXとなった。同館の代替としてかつての金龍館、当時の「浅草ロキシー映画劇場」が二代目「浅草松竹映画劇場」となった。
大正末期の1924年 - 1926年[3]の資料による各地の帝国館。
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