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1935-1996, 小説家。 ウィキペディアから
大藪 春彦(おおやぶ はるひこ、1935年〈昭和10年〉2月22日 - 1996年〈平成8年〉2月26日)は、日本の小説家、狩猟家。日本統治期の朝鮮・京城生まれ。日本におけるハードボイルド小説の先駆者の1人である。
アクション・エンターテインメント色の濃い作風で知られ、代表作には『野獣死すべし』『蘇える金狼』『汚れた英雄』などがある。作品の多くは電子書籍化され、映像化作品も多い。
1935年 2月22日、日本統治下の 京城(ソウル)で生まれ、年内に山形県酒田市へ移転。1941年、当時(「韓国併合ニ関スル条約」に基づき)大日本帝国の領地だった朝鮮半島北部の新義州に移転し、国民学校へ入学する。
1945年に父が応召。敗戦後、高官たちは民衆たちを見捨てていち早く帰国し、残された日本人の警官や憲兵たちが、朝鮮人たちの報復によりなぶり殺しにされるのを目撃する。ジフテリアにかかった妹を背負い、病院から病院へと血清を求めて奔走するなど、生活苦にあえぎつつ、盗みを働いてまでも一家の長男として必死に食糧を得る。この時はソ連兵に銃剣で背中を刺されたこともあったという[1]。
終戦後、父と生き別れになり、1946年に共同で闇船を雇い日本へ帰る(新義州(8月)→仁川→ソウル→議政府→釜山→佐世保(9月17日)→香川県善通寺の祖母の家)。のちにこの時の体験が、大藪作品の主要なテーマとなる「反権力」に反映されている[2]。なお、生き別れとなっていた父は帰国して高松で教師をしていた。
1952年、高松一高に入学。新聞部に入り紙面で革命を蜂起するが、天皇を批判した号が焚書されたため、文芸部・演劇部に移る。文芸部では「ドストイエフスキー」[3]、「イエス・キリスト(評論)」[4]など、純文学志向の高校生ばなれした評論を書いている。1955年、東京外国語大学を受験するが不合格。牧師を目指して四国クリスチャン・カレッジに入学。英語を学び、図書館でアメリカのハードボイルド小説に出合い、ペーパーバックを読みふけるが、学校クリスチャンの実態に失望し中退。
翌年、早稲田大学教育学部英文科へ入学。射撃部に入り、銃に熱中する一方、神田神保町の古本屋で買ったアメリカン・ミステリを濫読する。一方、トルウソウ文学会『未完成』創刊号に評論「太宰治についてー虚構―」[5]を寄稿。「虚構と銘うった様にこの中の太宰さんは、実生活での彼と異なります。だが彼には、又文学には作品が一切なのです。その作品の中から僕は僕なりの太宰さんの姿をさぐって見ました」(後記)と記すなど、「文学青年・大藪春彦」はまだこの時点でも健在だった。1957年、創設されたワセダミステリクラブに加入。
1958年、処女作の『野獣死すべし』が教育学部の同人誌『青炎』創刊号に掲載。ワセダミステリクラブの会長である千代有三の手を経て[注 1]、名誉顧問の江戸川乱歩に紹介され、雑誌『宝石』7月号に転載、大反響を生む。同じく同誌にて大学在学中の1955年にデビューしていた高城高とともに、ハードボイルド小説の新進作家として脚光を浴びる。
1959年に『街が眠る時』(長門裕之主演)、『野獣死すべし』(仲代達矢主演)の映画化をきっかけに一躍流行作家となる。1960年 、初の長編『血の罠』を刊行。さらに多岐川恭が代表を務める探偵作家の団体「他殺クラブ」に参加するが、長編「火制地帯」[注 2]が、ロス・マクドナルドの「青いジャングル」からの盗作の疑いをかけられたことで絶版回収となり、会を脱退[6]、日本探偵作家クラブからも除名された。これをきっかけとして、大藪は文壇と距離を置いた執筆活動をするようになる[6]。
1964年、『蘇える金狼』刊行。唯一の時代小説『孤剣』刊行。1965年、初の選集となる、「大藪春彦活劇選集」を徳間書店より刊行開始。この年、米軍キャンプで行われた全米ライフル協会の極東選抜射撃大会で、ファースト・マークスマン(最優秀射手)となる[6]。その一方で、所有していた拳銃を友人に持ち逃げされ、銃刀法違反(不法所持)として自首し、逮捕起訴される。高松地方裁判所の審理の末、懲役1年執行猶予3年の有罪判決を受け[7]、翌年より3年間、猟銃免許を取り消される[8]。
免停期間中は、友人の田中健二郎らを率いて、レーシングチーム「チーム・マグナム」を結成するほか、モータースポーツ、飛行機、ヨットの操縦に熱中する。創作でも、1966年からオートバイレースを題材とする『汚れた英雄』の連載を開始する。
1968年に東京都府中市にて三億円事件が発生。当時『ボーイズライフ』(小学館)に連載していた『血まみれの野獣』と事件現場や犯行の手口に類似点があったことから、事件発生当日よりマスコミからの問い合わせが相次いだ[9]。
1971年 、「チームマグナム」が自動車レース第7回日本グランプリで総合六位となる[6]。
1973年10月、角川文庫より大藪作品の刊行開始。第一弾作品は『復讐の弾道』で、講談社、新潮社、桃源社、双葉社、光文社、徳間書店などの刊行作品を含む、作者の生前最も大規模なカタログであった。装幀は辰巳四郎が一手に引き受けた。
1979年 、角川映画『蘇える金狼』が松田優作主演で公開。1980年、角川映画『野獣死すべし』が松田優作主演で公開。1982年、角川映画『汚れた英雄』が草刈正雄主演で公開。1994年、日本冒険作家クラブの「功労賞」受賞[6]。
1996年2月26日 、誕生日の4日後に東京都世田谷区の自宅で肺炎のため急逝。61歳没。執筆中だった長編『暴力租界』が未完のまま絶筆となる[注 3]。
非情な作風とは裏腹に、家庭では家族想いの温和な人物であった。妻の龍子は「週刊スリラー」の編集者として、大藪の『ウィンチェスターM70』を担当していた時、食事を摂らずに執筆する姿を見て、朝食を差し入れる等するうちに結婚することとなった[注 4]。結婚後は2児をもうけた。
典型的なアンチヒーローを主人公に据えた、壮絶なバイオレンス・アクションを描いた作品が多く、政財界と癒着した組織により、すべてを失った者たちによる「復讐」をテーマとする作品もある。
テーマを具現化する主人公で、作者自身も思い入れの深い人物として、伊達邦彦や朝倉哲也(『蘇える金狼』)、北野晶夫(『汚れた英雄』)などがいる。
彼らは屈強な体力と旺盛な食欲・性欲にあふれ、強烈なストイシズムと反権力志向を持ち、超人思想や能動的ニヒリズム、個人主義的アナーキズムに通ずる反国家・反組織・反体制の思想を行動原理とする。なお、大藪は「自分で体験したことしか書けない」として、主人公の来歴や境遇は自身の体験に基づくものが多い。
作品に暴力の描写が多いのは、大学生時代に愛読したアメリカのハードボイルド小説の影響による。大藪は人間の心理描写を得意としたレイモンド・チャンドラーやロス・マクドナルドよりも、バイオレンス・アクションを描いたダシール・ハメットやミッキー・スピレインなどの作品を好んだ。
また、作品の随所には、しばしば銃器や車輌、刀剣についての解説が挿入されている。ナイフメーカーのガーバーやロバート・ウォルドーフ・ラブレスなども、大藪が作品で取り上げたことにより、日本での知名度が高まった。
※最も巻数が多いものを掲げる。
別称「大藪春彦活劇選集」、略称OHS(OYABU HOT-NOVEL SERIES)。
徳間書店より1965年から1981年にかけて刊行。新書版全67巻。完結後はいくつかの作品がトクマ・ノベルズ、徳間文庫などで刊行された。
大藪は自身の作風に影響を与えた作品として、以下のものをあげている[13]。
大藪の親しい友人であり、大藪春彦賞の設立にも携わった作家の森村誠一は[14]、1974年に自身が推薦する大藪作品を挙げている[15]。
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