フィリピン航空(英語: Philippine Airlines)は、フィリピンの航空会社で、フィリピンのナショナル・フラッグ・キャリアである。コーポレートスローガンは「Heart of the Filipino」。
概要 IATA PR, ICAO PAL ...
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イギリス・スカイトラックスによる航空会社の格付けで、「ザ・ワールド・フォー・スター・エアラインズ(The World's 4-Star Airlines)」(4つ星)の認定を得ている。フィリピンのエアラインとしては史上初の獲得。
略称PAL。本社はパサイ市。マニラ首都圏内のパサイ市とパラニャーケ市に、またがるニノイ・アキノ国際空港がハブ(拠点)となっており、同航空便は国際線は第1ターミナルから、国内線は第2ターミナルからそれぞれ発着する(共同運航便(コードシェア便)を除く)。国内便もフィリピンでは国民の重要な交通手段で航空券の座席予約システム(CRS)はSABREを利用している[2]。
1941年3月に設立された、アジアでは最も長い歴史を持つ航空会社であり、フィリピンのナショナル・フラッグ・キャリアである[3]。1946年7月に太平洋横断便を開設しアジア初の国際線を開設。翌1947年5月にはマドリード線を開設しアジアの航空会社で初めてヨーロッパ乗り入れを開始。1967年には社長兼会長のベニグノ・P・トダ・Jrが、国際航空運送協会 (IATA)会長に選任された。1946年にIATAが創設されて以来アジア人が会長となるのは3人目であった。
国際線は1954年には国の政策、1998年にはアジア通貨危機と労働争議により一時運航停止になった。特に1998年9月には会社更生法を申請し、組合がスト賃上げ10年凍結の会社方針に反発、経営陣は組合員の解雇及び国内線も含めた全路線運航停止を発表した。同月には当時フィリピン国内2位の航空会社だったエアフィリピン(後のPAL エクスプレス)が安全上の理由によりフィリピン航空当局から飛行禁止措置を受けていた上に、中小航空会社のグランド・インターナショナル・エアウェイズ(英語版)も保険料や燃料代の支払困難を理由に運航を停止しており、フィリピンの航空業界は壊滅寸前の事態となった[4]。運航停止になった路線は同年内から復活するが、このような状況を憂慮したフィリピン政府が香港のキャセイパシフィック航空に支援を要請し、約3 - 4カ月間、同社がフィリピン国内幹線を運航していた時期もあった。
これらの事情から、厳密にはここで旧フィリピン航空の歴史は設立57年で途切れているが、会社側のプレスリリースではそのまま存続させていて2001年には設立60周年を祝っている。
2008年4月14日に、マクタン・セブ国際空港をハブ空港とする子会社「PAL エクスプレス」を設立し、ボンバルディア DHC-8-Q300、DHC-8-Q400でフィリピン航空のジェット機では運航できない、フィリピン国内の小規模空港へ就航を始め徐々に就航地を増やし、エアバスA320などの小型ジェット機で運航されていたフィリピン航空の国内線も移管され、2009年10月27日からは、以前からチケット販売やマイレージサービスなどで営業提携関係のあったエアフィリピンに、PAL エクスプレスの運航が移管された。この移管に伴いPAL エクスプレスがマニラ発着で運航している路線は、エアフィリピンがターミナル開業から使用していた第3ターミナルビル発着へ変更された。2010年3月にPAL エクスプレスとAirPhil Expressを統合、エアフィル・エクスプレス (Airphil Express) の名称で運航していたが、2012年3月、ブランド名をPAL エクスプレスに変更した。
欧州連合(EU)が、フィリピン共和国航空当局の「安全確認の体制に問題がある」として、他の全てのフィリピンの航空会社とともに2010年3月30日からのEU域内への乗り入れ禁止が決定[5]。ただし、フィリピン航空は、1998年の会社更生法適用時にヨーロッパ方面への運航を打ち切っており、運航上の支障は生じなかった[6]。2013年7月10日にフィリピン航空のEU域内への乗り入れ禁止が解除されたと、フィリピン大統領報道官室が確認し発表した[7][8]。
EU乗り入れ禁止の解除を受け、ロンドン/ヒースロー線が2013年11月4日から15年ぶりに再就航した[9]。
起業、拡大
- 1941年
- 2月 - フィリピン有数の実業家アンドレス・ソリアノの率いる実業家グループにより、フィリピン航空が設立される。
- 3月 - それから1か月後、フィリピン航空は5人乗りの双発機、Beech Model 18でマカティのニールセン飛行場からバギオまでのフライトを運航。
- 9月 - フィリピン政府がPALに投資。航空会社国有化への道が開かれる。
- 9月2日 - PAL、セブ島への就航を開始。
- 1946年
- 2月14日 - フィリピン国内15都市に就航し、第二次世界大戦後の運航を再開。機材は5機のダグラスDC-3を使用。
- 7月31日 -ダグラスDC-4のチャーター便で米軍人40名をアメリカに輸送。アジア初の太平洋横断フライトを運航した航空会社となる。給油のためにグアム、ウェーク島、クェゼリン環礁、ホノルルに着陸し、1回の横断飛行に41時間を要した。
- 9月5日 - 香港、上海線を開設(DC-3)。FEATIもDC-4で同路線を運航。その後、マニュエル・A・ロハス大統領は、政府代表者が取締役会に参加することを条件に、新しい航空機を購入する目的で両航空会社に投資することに合意。
- 11月14日 - フィリピンと米国の間で航空協定を締結。協定ではフィリピンの太平洋横断路線を1路線に制限。PALは既に1路線を運航していた。一方、米系航空会社には2路線が認められた。また、フィリピンには米国へ、米国からの運航しか認められなかったが、米国にはマニラおよびマニラ以遠への第五の自由権が与えられた。国の復興のためにアメリカの援助を大いに必要としていたため、フィリピンにはその点において選択の余地がなかった。
- 12月 - マニラ − サンフランシスコ間の定期便運航を開始。
- 1947年5月3日 - DC-4でローマ、マドリード線の運航を開始。これにより、フィリピン航空は東南アジアの航空会社としてヨーロッパ初乗り入れを果たした。いずれのフライトも途中でカルカッタ(現・コルカタ)、カラチ、カイロに寄港しながら、2日間かかった。この年の年末までには、ロンドン線の運航も開始。
- 1948年5月29日 - 新規取得した2機のDC-6を太平洋横断路線に投入。新しい航空機の導入により、太平洋横断フライトの所要時間がDC-4の41時間から30時間に短縮。給油のためにクェゼリン環礁に寄港する必要がなくなり、経由地がグアム、ウェーク島、ホノルルのみとなった。
- 1949年8月6日 - 社長エルピディオ・キリノがPALのDC-6で渡米。フィリピンの最高経営者としてPALで太平洋を横断した初めての人物となる。
- 1951年11月16日 - 台北線就航。使用機材はDC-3。この年は280万フィリピン・ペソの利益を計上し、PALにとって史上最高の業績を上げた年となる。
- 1952年7月4日 - 初のダグラスDC-6Bを購入。後に国防長官となるラモン・マグサイサイが米国訪問から帰国する際に搭乗。DC-6Bはエルピディオ・キリノ大統領のインドネシア訪問に使用され、同月に就航したチューリッヒ、フランクフルト線にも投入される。
- 1957年10月11日 - バタンガスで起きたC-45航空機の墜落事故で、PALのパイロット第一号であるポール・I・ガンが他の5名とともに死亡。
- 1959年8月15日- 人気の「スター」サービスをダバオに拡大。日没から日の出までの間にDC-3で運航するこのサービスでは、座席マイルあたり0.10フィリピン・ペソという世界最安運賃を提供。
ジェット化
- 1962年6月 - DC-8ジェット旅客機のKLMオランダ航空からリース導入により[10]、ジェット機高速輸送時代が幕を開けた。
- 1965年11月1日 - シンガポール線に就航し、国際線を拡張。使用機材はDC-8。
- 1966年
- 1968年
- 11月1日 - シンガポール線に就航し、国際線を拡張。使用機材はDC-8。
- 11月1日 - 台北線にDC-8を投入。ホーチミンシティ線就航。使用機材はBAC 1-11。
- 1971年
- 8月1日 - 国際線拡張の一環で、ヨーロッパ路線にフランクフルト(西ドイツ)を追加。
- 9月9日 - 国際線の拡張を継続し、オーストラリア路線にメルボルンを追加。
- 1974年
- 1月 - 第四次中東戦争により燃料危機に陥ると、マルコス大統領が航空会社2社(フィリピンオリエント航空(FOA)とエアマニラ Inc.(AMI))の差し押さえを命令。PALは国内航空網の独占企業となった。PALはFOAとAMIの航空機とスタッフを吸収するよう命を受ける。
- 5月12日 - ブトゥアン発セブ行きのフライト(HS-748旅客機)で、2,500万人目の有償旅客を輸送。
- 7月 - PALにとって初のマクドネル・ダグラス DC-10(3基のジェットエンジンを搭載)を導入。ワイドボディジェット時代が到来。
- 1976年
- 5月30日 - PALのパイロット1期生3名のうち最後までPALに残っていたアントニオ・アルナイズが63歳で死去。商取引関係のマネージャー職を担っていた。1941年入社の同期のパイロット、オスカー・ラモスは1972年に退職。ロドルフォ・ティロナは1970年2月、65歳のときに飛行管制担当マネージャーを退職、1973年4月に死去。
- 11月1日 - 単独でのヨーロッパ路線の運航を開始。
- 1977年10月20日- GSISが、PALの過半数株式保有者ベニグノ・トダからPALの株式の92%を取得。政府による所有および支配に戻る。資本金は2,500万フィリピン・ペソから2億5,000万フィリピン・ペソに増額。
- 1978年4月8日 - 導入から32年が経過し、最後のDC-3が退役。
- 1979年
- 7月14日 - 伝統と格式ある国際美食団体ラ・シェーヌ・デ・ロティスール協会からPALの機内食が表彰され、協会から名誉を与えられた初の航空会社となる。
- 8月1日- 中華人民共和国の北京線、広東線に就航。2機のB727-200を初導入。アジアで初めて中国路線を開設した航空会社となる。同日バーレーン線も就航し、フィリピン人契約労働者を中東に輸送開始。
多量輸送
- 1980年1月4日 - 通称「ジャンボジェット」と呼ばれるボーイング747-200を太平洋横断路線に投入。PALのこの新しいフラッグシップ機には、ファーストクラス専用のアッパーデッキに「スカイベッド」というフルフラットの2段ベッドを設置。
- 1982年
- 7月3日 - ダーラン線にDC-10を導入。これによりPALは中東のフィリピン労働者市場において大きな成功を収める。
- 8月7日- 中東の新規路線にドバイを追加。
- 11月4日 - パリがヨーロッパ路線における中継地点に。
- 1984年9月2日- マニラ−セブ間に1日2便就航。使用機材はA300。
- 1985年11月17日- 太平洋横断路線をシカゴにも拡大。
- 1986年9月1日 - マニラ−ホーチミンシティ間に週1便就航。使用機材はエアバスA300。同月、米国公式訪問に際してコラソン・C・アキノ大統領がフィリピン航空に搭乗。
- 1987年5月1日 - 新規取得したShorts SD360(通称サンライザーズ)をビサヤ、ミンダナオ路線に投入。PALの国内線に新機材が追加されたのは、1970年以来初めてのこと。
- 1988年
- 8月19日 - 2機のフォッカー50を初投入。
- 9月24日 - 2機のフォッカー50の運航開始。
- 1989年
- 8月14日 - PAL初のボーイング737-300を購入。1週間後には2機目が到着し、国内線機材の近代化を継続。2機とも同月内に4都市への路線にて運航開始。
- 9月1日 - A300をダバオ路線の定期便 に投入。
- 1992年9月18日 - 10機の新しい長距離航空機の購入のため、18の地元の金融機関のコンソーシアムによって、記録的な1億2,200万ドルの融資パッケージを付与される。
- 1993年7月6日 - PAL初の女性パイロット、オーロラ・"エイミー"・カランダンは、マニラ発バギオ行きのフォッカー50に正式な機長として初乗務。
- 1993年
- 7月6日 - マニラ発ホーチミン行きのフライトで、初のミリオンマイラーを迎える。ミリオンマイラーの証しである18カラットのピンを授与されたとき、実業家フリードリヒ・E・W・ヤーンズのフィリピン航空での飛行マイル数は1,155,538マイルに達していた。
- 8月26日 - PALの相談役であり元社長、アジアブリュワリーのCOOを務めるホセ・アントニオ・ガルシアと、GSIS会長のホセ・P・マグノがPALの取締役会メンバーに選出される。年次株主総会の際は、カルロス・G・ドミンゲスがフィリピン航空の議長と社長の地位に留まる。
- 1994年
- 7月27日 - ダバオ発セブ経由香港行きの新路線を週2便で運航開始。使用機材はA300。
- 7月29日 - BPIエクスプレステラー・マシンを使用して、メトロ・マニラ、ダバオ、セブの各都市で国内線航空券の新決済システムを導入。
- 1995年1月 - ルシオ・C・タンが会長兼最高経営責任者に就任。
運航停止、再生
- 1998年9月23日 - アジア金融危機の影響を受け、PALは運航を停止。労働組合による争議行動によって悪化。ほとんどの路線を運休し、保有機材を大幅に削減。PALの運航は1998年10月7日に限定的に再開。
- 1999年6月4日 - 会長のDr.ルシオ・C・タンと共同経営者による200万USドルの資本注入後、フィリピン証券取引委員会は、PALの財政的実行可能性のために設計された再生計画を承認。PALは完全な業務再開を目指す。
- 2000年3月 - 再生法下の1年目である1999〜2000年度には、4億4,200万フィリピンペソの純利益を計上。その結果、6年連続の損失に終止符を打ち、フィリピンのビジネスの中で最も劇的な復活を遂げる。
- 2001年3月 - 再生法下の2年目、2000〜2001年年度には4億1,900万フィリピンペソの利益を計上。
- 2002年8月 - 内容を一新し、さらに強化されたマイレージプログラム、マブハイマイルを発表。
- 2003年
- 3月 - 2002〜2003年度には、2億9,500万フィリピンペソの純利益を計上。
- 5月 - 運航状況をリアルタイムで確認できるオンラインの出発・到着案内を提供開始。
- 6月 - 新しい予約エンジンを導入。国外27都市、国内20都市に広がるネットワークに、沖縄を新たに追加。
- 10月 - 5年ぶりにマレーシアのクアラルンプール線を再開。
- 12月 - 機齢が若い30機の保有機材に、5機目のB747-400を追加。
- 2004年
- 2月 - 57年の歴史で最大のインタークラブゴルフトーナメントを主催。日本語ウェブサイトにオンライン予約サービスを追加。
- 3月 - 創立63年目にして、ラスベガス線就航。
- 4月 - 国内線21番目の就航都市、ラオアグ線を6年ぶりに再開。
- 5月 - Eチケットを導入。電話またはインターネットで予約、支払い、座席指定が可能に。
- 12月 - 2機の新型エアバスA320機を導入。保有機材の若返りを促進する取り組みの一環。
- 2005年
- 3月 - 前月に中部国際空港が開港したことに伴い、長く待ち望まれていた名古屋(中部)線を開設。日本で5番目の就航都市となる。
- 11月 - 中国の首都への直行便となる、マニラ−北京間の定期便就航。
- 12月 - 約840万USドル相当の契約では、新しいA320 9機を発注。さらに5機のA320を追加するオプションあり。
- 2006年
- 5月 - IATA(国際航空運送協会)の加盟資格を維持するための要件であるIOSA(国際航空運送協会の安全監査)に合格。フィリピン籍の航空会社としては、IATAに安全性が認められた唯一の航空会社に。
- 6月 - ナガでのEチケット導入が完了したことで、フィリピン航空国内線全路線がEチケットに対応。
- 2007年
- 5月 - ネットワーク全体の全ての路線でEチケットの導入完了。
- 6月 - 2007年3月31日に終了の会計年度で1億4,030万ドルの純利益を計上。フィリピン航空の66年の歴史の中で最大の年間利益となる。
- 8月 - 8機目のエアバスA320ファミリー航空機を購入。2006年9月に開始した、8億4,000ドルにおよぶナローボディ機の近代化プログラムの中間点。新しいA320ファミリーのジェット機最大20機を契約。そのうち9機の注文は確定、6機はリース、5機はオプション。
- 11月 - CAPA(Centre for Asia Pacific Aviation)により「Airline Turnaround of the Year 2007」に選ばれる。エアバスA320ファミリーの9機目を受領。ヨーロッパの航空機メーカーおよび航空機リース企業にPALが発注した新しい20機のナローボディ機の一部。
- 10月 - 管財人による管理が終了。
再拡大
- 2008年
- 5月 - マニラ − マカオの定期便を開設。
- 5月 - ボンバルディアQ300およびQ400のターボプロップ機を復活させ、ローコストキャリアと競合するために諸島路線に低価格なサービスを導入。国際線運賃のカレンダー表示・購入に対応したPAL独自のインターネット予約エンジンの提供開始。この予約エンジンはフィリピン航空のウェブサイト philippineairlines.com および palexpressair.com で利用可能。
- 10月 - 第50回Worldwide Airlines Customer Relations Association会議をセブで開催。
- 2009年
- 3月 - 国内線フライトアテンダント、–パメラ・ビアンカ・マナロ–がBinibining Pilipinas-Universe(フィリピンのミスユニバース)に輝く。コンテストで「ミスPAL」も受賞。
- 4月 - LCC(セブパシフィックなど)との競争激化への対応策として、格安なプロモーション運賃「Real Deal」を導入。
- 5月 - フィリピンで初めて、PAL Mobileを導入。
- 8月 - 2008〜2009年度には、燃油価格の高騰や世界的な景気後退の影響で3億0140万ドル(後に2億9,780万ドルに訂正)の記録的損失を計上。
- 8月 - PALのウェブサイトでBancNetのATMカードが利用可能に。フィリピンの航空会社がこのようなサービスを導入したのはこれが初めて。発券オフィスで並ばなくても、PAL国内線航空券をオンラインで購入できる機会が拡大。
- 10月 - Air PhilippinesがPAL Expressの経営を引き継ぐ
- 11月 - フィリピンでボーイング777を受領
- 12月 - 全てのエアバスA320の客室を2クラス制(マブハイとフィエスタ)に再編成。国内線全便でビジネスクラスのサービスを提供する、フィリピンで唯一の航空会社に。
- 2010年
- 3月 - リヤド(サウジアラビア)に週4便で乗り入れを開始し、4年ぶりに中東路線を再開。
- 3月 - 2011年に迎えるPAL創立70周年へのカウントダウン。2011年は1年間におよぶ長期のプロモーションを実施。
- 5月 - 権威ある国際紙「Reader’s Digest」がアジア全域を対象に毎年実施する調査によると、フィリピン航空はフィリピンの消費者の間で最も信頼できる航空会社のブランドとして認識されているとの結果。
- 7月 - 2009-2010年度の年間損失は1,430万ドルに減少。
- 11月 - オンライン www.philippineairlines.comでフィリピン航空運航便を予約した顧客を対象に、事前座席指定サービスの提供を開始。
- 2011年
- 3月 - 将来像を描きながら過去を振り返り、フィリピン航空の 創立70周年を祝う。
- 10月 - PALの長期的な業務継続性のために、空港サービス、ケータリング、予約の3部門の業務を独立系のサービス供給業者に委託(ただし地上職員組合は反対していた)。
民間資本参加
- 2012年
- 3月 - マニラとインドネシアの人気観光地との間の直行便を再確立し、バリに就航。
- 4月 - サンミゲル社(SMC)が5億USドルでPALホールディングスの49%を取得し、PALおよびPAL Expressの経営管理を行う。SMC社長ラモン・S・アンがPALの社長兼最高執行責任者(COO)に就任。ルシオ・タンは会長に留任。
- 6月 - 3機目のボーイング777納入が完了
- 8月 - エアバスのジェット機54機、総額70億USドル以上の確定注文に署名。フィリピンの航空業界史上最大規模の契約となる。1か月後にはエアバス10機を追加発注。
- 9月 - サービスの革新を発表。新機材の導入に加えて、新規就航都市、刷新された機内食メニュー、ガソリンスタンド内に設置する航空券の予約と購入が可能なセルフサービス機およびPAL発券オフィス、機内エンターテインメントへのApple iPadの導入を公表。
- 10月 - 業務の最前線で使用するコンピューターシステムの統合とアップデートを行う。ワンストップの新しい購入方法を提供。ウェブサイト、コールセンター、発券オフィス、旅行会社などさまざまな場面で予約・購入が可能になり利便性が向上。
- 10月 - フィリピン国内線で全面的にPALとPAL Expressのコードシェア開始。PAL Expressの国内線ネットワーク拡大に伴い、PALも国内線9か所に乗り入れ。現在、双方の航空会社が互いの航空券を販売可能。PAL Expressは格安航空会社としてのポジションを維持しながら、顧客サービスの向上を図る。PALは引き続きニノイ・アキノ国際空港ターミナル2、PAL Expressはターミナル3を使用。
- 11月 - 4機目となるボーイングB777-300ERの納入が完了。
- 11月 - ボーイング777-300ERでカナダ・トロントへ初のノンストップ便を就航し、北米東海岸への直行便を15年ぶりに再開。
- 2013年
- 3月15日 - 過去にPAL Expressと改名したAirphil Expressは、PAL創立72周年記念日にフィリピン航空の「sunriser」の機体デザインとロゴを採用することを決定。2つの航空会社は独立した企業でありながら、乗客にシームレスなフルサービスを提供できるようサービス基準と展開するプロダクトを調整。
- 4月26日 - 保有機材の近代化を利用する積極的なネットワーク拡充プログラムに基づいて、2013年中に11本の新規路線を運航する計画があると発表。新路線はクアラルンプール、ダーウィン、ブリスベン、パース、広州、アブダビ、ドバイ、リヤド、ダンマーム、ジェッダ。
- 5月1日 - バタネス州バスコに週3便を開設し、PALは15年ぶりにフィリピン最北の県への運航を再開。運航航空会社はPALエクスプレス、使用機材はボンバルディアQ400のターボプロップ機。
- 5月2日 - 7年ぶりにクアラルンプール線を再開。エアバスA319で週4便を運航。
- 年6月1日 - オーストラリアの3都市をカバーする2つの路線を開設。マニラ − ダーウィン − ブリスベンを週3便、マニラ − ダーウィン − パースを週4便運航。どちらの路線にもエアバスA320を投入。PALにとって、ダーウィン、パースは今回が初の乗り入れとなる。ブリスベンは2010年10月以来。
- 7月9日 - マニラ−バンクーバー間のボーイング777-300ERを対象に、機内で携帯電話およびWi-Fiインターネットが使える今までにない新サービス「PAL iN AiR」の提供を開始。このような最先端のサービスを提供する航空会社はフィリピン初。世界でもあまり先例がない。フライト中を通して、地上と遜色のない接続環境で通話、SMS、ツイート、Eメール、ネットサーフィンが可能。
- 7月16日 - 中国6つめのゲートウェイとなる広州に就航し、エアバスA320で週4便を運航。南部の産業都市への路線が復活するのは、1985年4月以来初めて。
- 8月7日 - 12か月前に発注した64機のエアバス機のうち、PAL初のA321-200がドイツから到着。今後6年間にわたり納品され、これを筆頭に保有機材の入れ替えが行われる。
- 9月3日 - 6月2日の就航からわずか3か月、ダーウィン経由パース行きの週4便が運休に。ダーウィン経由ブリスベン行きには影響なし。
- 10月1日 - アラブ首長国連邦の首都アブダビに就航し、週5便を運航。2年半ぶりに中東路線再開となる。それから1か月後の2013年11月6日、PAL Expressがアラブ首長国連邦の商業都市ドバイに就航し、週5便を運航。同社初の長距離路線となる。どちらの路線にも最新のエアバスA330-300 HGWを投入。
- 11月4日 - 15年ぶりにヨーロッパ線を再開。ロンドンヒースロー空港に就航し、ノンストップ便週5便を運航。新路線の就航は、フィリピンの航空会社によるヨーロッパ大陸への乗り入れを欧州連合が制限するブラックリストからPALが削除されてからわずか4か月後。他のすべてのローカル航空会社はまだブラックリストに残っている。
- 11月11日 - 超巨大台風ヨランダ(国際名:ハイエン)がタクロバン市内とその周辺に甚大な被害をもたらした3日後、医師、捜索救助チーム、数キログラムの医薬品、緊急物資を乗せた特別人道サービスとしてPAL Express(2P)5971便がタクロバンに到着。台風後、タクロバンに到着した 最初の民間航空機となった。セブ行きのフライトでは、ボンバルディアQ400のターボプロップ機が75名の避難者を輸送。フィリピン航空の慈善部門PAL財団は、次の4週間の間にタクロバンへの救援物資200トン以上を輸送。
- 12月1日 - 2年9か月ぶりにサウジアラビア路線を再開。この日からリヤドに週4便を運航。12月3日からはダンマームに週3便を運航。どちらの路線にも最新のエアバスA330-300 HGWを投入
日本資本参加
- 2013年7月に日本のANAホールディングス(ANA HD)がフィリピン航空との航空運送事業を巡る提携に向け交渉中だと明らかにし、同航空の主要株主であるサンミゲル・グループもフィリピン証券取引所の情報開示リリースで、ANA HDと提携交渉している事実を明らかにした[11][12]が、2014年1月23日の発表によると、ANA HDによる同航空への出資や提携交渉が難航しており、コードシェア提携のみとなる可能性が高いとされていた[13]が、最終的には2014年10月1日にANA HDの傘下である全日本空輸が同航空とコードシェア提携およびマイレージ提携を実施することを発表した[14]。同年10月26日よりANA運航の成田・羽田-マニラ線と国内線の19路線、PAL運航の成田・羽田・中部・関西・福岡-マニラ線とフィリピン国内線の10路線がコードシェアの対象となり、ANA・PAL間でのスルーチェックインも可能となる。
- 2014年
- 2月27日 - 週4便で運航していたクアラルンプール線を、営業上の理由により就航から10か月で運休。それに先んじて2014年1月12日には、PAL Expressもクアラルンプール路線の運航を終了。
- 3月1日〜30日 - 路線合理化の一環で、3月中にセブとビサヤ、ミンダナオの10空港を結ぶ路線が運休に。日付は路線により異なる。さらに、イロイロ−ジェネラルサントス、ダバオ−サンボアンガ、サンボアンガ−ホロ、サンボアンガ−タウイタウイの各路線も運休。
- 3月30日 - 東京成田、大阪、福岡、名古屋に次ぐ日本5番目のゲートウェイとして、東京都心に近い羽田空港に就航。1日2便体制で運航開始。
- 5月3日 - 4月10日に米国連邦航空局(FAA)がフィリピンをカテゴリ1の評価に引き上げたことに続いて、新しいボーイング777-300 ERを米国西海岸行きの太平洋横断路線に投入開始。長年使用していたフラッグシップ機、ボーイング747-400型機は段階的に引退。B777-300は2014年5月3日にロサンゼルス、5月9日にサンフランシスコへの初飛行を完了。
- 5月12日 - 35年間にわたりPALのフラッグシップ機として活躍したボーイング747が、パサイシティのヴィラモール空軍基地で開かれた式典で正式に引退。4機のB747-400は今後4か月の間に順次退役。象徴的な「ジャンボジェット」の最後の商業飛行は、2014年8月29日の夜遅く、乗客285名を乗せてサンフランシスコからマニラに向けて飛び立ったPR105。2014年9月1日の午前3時30分にマニラに到着すると、放水銃で水を浴びせて歓迎し、フィリピン航空の思い出に残る一時代の終わりを告げる出来事となった。
- 7月9日 - アブダビを拠点とするアラブ首長国連邦のフラッグキャリア、エティハド航空とPALは、コードシェアフライト、ロイヤリティプログラム、空港ラウンジの利用、共同セールスおよびマーケティングプログラム、フィリピン国内エアパス、貨物、マニラとアブダビの空港オペレーションの調整をカバーする広範な戦略的パートナーシップを提携。
- 8月15-17日 - リビア内戦を逃れフィリピンに戻る774名のフィリピン人労働者を輸送するためにフィリピン政府がチャーターしたマルタへの特別フライト2機を配備。8月15日、ボーイング747-400型機を利用したPR 9908はマニラを午後4時に出発。その後エアバスA330を使用したPR9906が午後6時40分に出発。マルタでフィリピン人海外就労者を乗せ、B747-400は419名の乗客とともに8月16日の深夜前にマニラに到着。A330-300は355名の労働者を乗せ、8月17日午前3時40分にマニラに到着。8月20日には3本目のチャーター便を運航し、チュニスで400名のフィリピン人海外就労者を乗せて、8月21日23時にマニラに帰着。
- 9月8日 - PALの2大株主、ルシオ・タン・グループとサンミゲル社は、一定の条件を満たすことを条件として、サンミゲル社がLTグループにその株式の49%を売却する契約を締結。
- 9月15日 - サンミゲル社との契約に基づいて支払いを実行した後、ルシオ・タングループが正式にPALの経営権を掌握。日常業務を監督するジェネラルマネージャーにはPAL前社長のハイメ・J・バウティスタを任命。ラモン・S・アンは、約1か月後とみられる契約締結日まで社長に留任。
- 10月17日 - ルシオ・タングループは、その全額出資会社Buona Sorte Holdings Inc.とHorizon Global Investments Ltd.を通じて、Trustmark Holdings Corp.トラストマーク・ホールディングスのサン・ミゲル・エクイティインベストメンツ社の49%の株式を、それぞれ9%と40%を取得。今度はフィリピン航空(株)の98.27パーセントを所有しているPALホールディングス株式会社の発行済み株式の89.78パーセントを所有。
- 10月23日 - PALの取締役会は、辞職するラモン・S・アンの公認として、ジェネラルマネージャーのハイメ・J・バウティスタをフィリピン航空の社長兼最高執行責任者(COO)として選出。取締役会も再編成され、副会長にジョセフ・T・チュア、事務部長にフローレンティーノ・M・ヘレラ III、メンバーにカルメン・K・タン、ハインリッヒ・T・クー、マヌエル・M・ラザロ、ヨニップ・G・クアが就任。彼らは現職の取締役会メンバー、ルシオ・K・タン Jr.、マイケル・G・タン、ワシントン・シシップ、アルベルト・D・リナ、エステリト・メンドーサ、アントニーノ・アリンドガン、グレゴリオ・T・ユと共に取締役会のメンバーとなる。Dr. ルシオ・C・タンはPALの会長兼最高経営責任者に留任。
- 10月26日 - 日本最大の航空会社全日本空輸と商業的パートナーシップを結ぶ。フィリピン−日本間のコードシェア便、ロイヤルティプログラム、空港ラウンジ、共同セールスおよびマーケティングプログラム、空港オペレーションの調整が対象。ANAが1日2便運航するマニラ−東京羽田間のフライト、および日本の一部国内線区間でPALとのコードシェアを実施。一方、日本の5都市とマニラおよびセブを結ぶPALのフライト、およびフィリピン国内の10路線でANAとのコードシェアを実施。
- 12月19-20日 - 日本中部の2都市とセブを結ぶ新規路線を開設し、日本路線を拡大。12月19日から大阪に週4便(エアバスA321)、12月20日から名古屋に週3便(エアバスA321)乗り入れ開始。
- 2015年
- 1月17-19日 - PALは、ローマ教皇フランシスコのフィリピン訪問中に、ローマカトリック教会の指導者ローマ教皇のオフィシャル航空会社として、「Shepherd One」としての役割を再現。1月17日、ローマ教皇フランシスコは、2013年11月の超巨大台風ヨランダの生存者の慰問に訪れたタクロバンへの往復でPALのA320ジェット機に搭乗。1月19日、教皇が5日間の訪問を終え、ローマに戻る際にPALのA340-300に搭乗。PALの社長ハイメ・J・バウティスタも15時間の直行便に同乗し法王に随行。
- 2月10日 - カナダ第2の航空会社、ウェストジェットが運航するカナダの国内線の一部でコードシェアを開始。これらのフライトはカナダ国内のPALの2つの就航都市、西海岸のバンクーバーと東海岸のトロントから出発。バンクーバーとカルガリー、エドモントン、ウィニペグとトロント間のウェストジェットのフライトが対象。トロントからは、ウェストジェットのモントリオールおよびオタワ行きの一部のフライトでPALとのコードシェアを開始。
- 3月15日 - 創立74周年の記念日に、18年ぶりにニューヨーク線を再開。マニラ発バンクーバー経由ジョン・F・ケネディ国際空港へ週4便を運航開始。PALネットワークの中でも最長ルート(14,501キロ)となるこの路線には、エアバスA340-300型機を投入。初便には会長ルシオ・C・タン、社長ハイメ・J・バウティスタが搭乗し、米国東海岸のフィリピン人コミュニティに歓迎を受ける。ニューヨークはPALにとって米国で5番目の就航都市。
- 3月20日 - ボンバルディアQ300ターボプロップ航空機を使用して、マニラ−ロンブロン州タブラス間に週3便で運航を開始。この路線には1956年に初就航したが、1990年代後半にフォッカー50が引退するのに伴い、路線も運休になっていた。
- 3月29日 - セブからビサヤ諸島とミンダナオ島の6都市へのフライトを再開:バコロド、ブトゥアン、カガヤンデオロ、ダバオ、イロイロ、タクロバン。ジェネラルサントス−イロイロ、サンボアンガ−ダバオ路線も再開。すべてのフライトにエアバスA320を使用。
- 4月15日 - 2014年の合計包括利益2,040万ドルを計上。4年間で同社初。これは2013年4月から12月に受けた2億2970万ドルの損失から大幅に回復。(2013年中に会計期間を連結会計年度から暦年基準に変更したため、9か月という短期間になっている)。利益は旅客および貨物の好調なオペレーションに支えられ、燃油価格の緩和の影響も受けている。
- 4月25日 - ほとんどの中国系フィリピン人の祖先の故郷である中国福建省泉州行き週3便を開設。この路線にはエアバスA320を投入。
- 5月4日 - 2015年第1四半期(1月-3月)には合計包括利益8,500万ドルを計上し、財政が好転を続ける。これは2014年同期間に受けた2,070万ドルの損失を覆すもの。利益増加は旅客輸送の増加に起因。国内線、国際線の新路線の開設、および積極的な営業キャンペーンが功を奏した。
- 2016年に設立75周年を迎え、2020年代にイギリス航空リサーチ会社スカイトラックスの5つ星評価獲得を目指す方針を打ち出し、新たなブランド・フィロソフィは「Heart of the Filipino(フィリピンの心)」とし、ナショナル・フラッグ・キャリアのブランドと強みを活かしつつ、心から暖かいおもてなし、安全性とサービスに誇りを持ち、運営するとし、特にサービス面では顧客の期待を超えるサービスを目指すとした。また新たな就航地としてサイパンに6月15日から就航し、北米のノンストップ運航と欧州の新規就航を目指すとしている[15]。
- 2018年2月、イギリス航空リサーチ会社スカイトラックスより4つ星評価を獲得。機内と地上でのサービスを改善したほか、新路線の開設、新機材の導入、客室乗務員などのサービス従事者の訓練などを行っており、これらの取り組みが評価された。ルシオ・タン会長兼最高経営責任者(CEO)は、「フィリピン航空にとって大きな勝利だ。」とコメントしている[16]。2018年夏に、マニラのニノイ・アキノ国際空港第2ターミナルに1,250平方メートルの広さを誇る「マブハイラウンジ」[17]を開設。
- 2019年1月29日 - ANAホールディングスはPALホールディングス発行済株式総数の9.5%を、9,500万USD(約105億円相当)で取得し、業務・資本提携強化し、取締役を派遣、コードシェアや空港業務の相互受委託の拡大を中心とした協業体制の強化しより一層強固な関係構築を発表した。[18][19]
感染症流行による破綻、再生
- 2020年、中華人民共和国武漢市を発生源とするCOVID-19流行による防疫措置により、多くの国際線が便数調整を受け、航空貨物比率が低いため影響が大きく、フィリピンメディアの報道で同年末には悪化した債務整理を目指し民事再生法検討している事が伝えられ、21年になり2020年12月期決算を含む年次報告書で外部監査による「意見不表明」により、フィリピン証券取引所における親会社株の売買停止となり[20]、法的整理も視野に不採算路線廃止や機材整理が検討されていると報道され、21年9月3日付でアメリカ合衆国連邦倒産法第11章(Chapter 11)の適用を申請し、債権者に20億ドル(約2,200億円)超の債権放棄などを要請し、フィリピン国内の金融機関などから約5億ドルの資本注入を受け、海外の投資家から1億5,000万ドルを借り入れ運用継続し経営再建を図るとしている[21]。21年12月31日、4ヶ月に渡る債務、コスト削減と新たな資金確保による資金流動性を確保し、Chapter 11を脱したと発表。保有機数縮小と新たな資金投入で各国検疫状況に合わせた国際路線展開と新規航空貨物事業を展開し感染収束に対応できる経営環境を構築していくとした[22]。
運用機材
COVID-19による経営再建のため運用機材の多くを占めるリース機材を計画的に返却しコスト削減を進める見込み[23]。
フィリピン航空は遅延が非常に多い為、突発的に機材が変更されることがよくある。
機材種類
A320は現在、全ての機材がPALエクスプレス(2P)に移管され、フィリピン国内線で使用されている。
A321は、東南アジア、東アジア、オーストラリア、ニュージーランド、その他オセアニアおよび国内各地で運用。中短距離便のための老朽化したA320の入替代替機材となる主要機材。
A321LR(A321neo SR)はASEAN諸国などの東南アジアや東アジア各都市を結ぶ高需要短距離路線向け、エアバスキャビンフレックス(ACF)仕様機材[32]。
2012年8月、IAE V2533-A5エンジン選択A321ceoとPW1100Gエンジン選択A321neoを発注。
2013年8月からA321ceo受領。2016年5月から6機が子会社PAL Expressに運航委託された。
2015年3月29日、A321neo2機追加発注。2018年7月からA321neo受領。2019年7月からA321LRリース受領。
A321ceoはアジア路線(羽田深夜便はあまり充当されない)、グアム線で運用されている。A321neoはアジア路線(羽田深夜便)、パース、ブリスベン線で運用されている。
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機体番号 |
座席数 |
機種 |
備考 |
RP-C9901 |
199 |
A321-231 |
シャークレット内側ロゴあり |
RP-C9902 |
199 |
A321-231 |
シャークレット内側ロゴあり |
RP-C9903 |
199 |
A321-231 |
シャークレット内側ロゴあり |
RP-C9905 |
199 |
A321-231 |
シャークレット内側ロゴあり |
RP-C9906 |
199 |
A321-231 |
シャークレット内側ロゴあり |
RP-C9907 |
199 |
A321-231 |
シャークレット内側ロゴあり |
RP-C9909 |
199 |
A321-231 |
シャークレット内側ロゴあり |
RP-C9912 |
199 |
A321-231 |
|
RP-C9914 |
199 |
A321-231 |
|
RP-C9915 |
199 |
A321-231 |
|
RP-C9916 |
199 |
A321-231 |
|
RP-C9917 |
199 |
A321-231 |
|
RP-C9918 |
199 |
A321-231 |
|
RP-C9919 |
199 |
A321-231 |
|
RP-C9925 |
199 |
A321-231 |
|
RP-C9926 |
199 |
A321-231 |
|
RP-C9928 |
199 |
A321-231 |
|
RP-C9929 |
199 |
A321-231 |
|
RP-C9930 |
168 |
A321-271N |
個人用モニターあり |
RP-C9932 |
168 |
A321-271N |
個人用モニターあり |
RP-C9933 |
168 |
A321-271N |
個人用モニターあり |
RP-C9934 |
168 |
A321-271N |
個人用モニターあり |
RP-C9935 |
168 |
A321-271N |
個人用モニターあり |
RP-C9936 |
168 |
A321-271N |
個人用モニターあり |
RP-C9937 |
195 |
A321-271NX |
シャークレット内側ロゴあり・個人用モニターあり |
RP-C9938 |
195 |
A321-271NX |
シャークレット内側ロゴあり・個人用モニターあり |
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A330は主に、アラブ首長国連邦、サウジアラビア、シンガポール、香港、オーストラリア、日本および国内各地など中距離路線で運用。
1997年7月30日に最初のA330(F-OHZM)を納入。A300B4の置き換えとして、8機のA330-300を購入。2012年、20機のA330-300HGWを発注したが、後に15機に変更。
A330 HGW(15機のA330のうち8機は機内改修)は、従来のA330とは異なり、ロールスロイストレント700エンジンを搭載。GEエンジンを搭載したA330は2014年8月31日に全機退役。
368席の機材はドバイ線を除く中東路線、バンコク線、ジェネラルサントス線を優先的に充当され、309席機材はアジア路線、ホノルル、ドバイ、シドニー、メルボルン線に優先的に充当される。
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機体番号 |
座席数 |
機種 |
備考 |
RP-C8763 |
368 |
A330-343 |
|
RP-C8764 |
368 |
A330-343 |
|
RP-C8766 |
368 |
A330-343 |
|
RP-C8771 |
368 |
A330-343 |
|
RP-C8780 |
309 |
A330-343 |
個人用モニターあり・元モノクラス414席機材 |
RP-C8781 |
309 |
A330-343 |
個人用モニターあり・元モノクラス414席機材 |
RP-C8782 |
309 |
A330-343 |
個人用モニターあり・元モノクラス414席機材 |
RP-C8783 |
309 |
A330-343 |
個人用モニターあり・元モノクラス414席機材 |
RP-C8786 |
309 |
A330-343 |
個人用モニターあり・元モノクラス414席機材 |
RP-C8789 |
309 |
A330-343 |
個人用モニターあり・元モノクラス414席機材 |
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3クラス構成のA350-900は北米などの長距離路線を中心に運用。
2016年4月9日、エアバスとの間でA350-900をオプションを含めた12機を購入すると発表。初号機は2018年8月に到着。
2018年2月、大型のA350-1000にも興味があるという声明を発表。2019年2月、5月受領RP-C3507/08はThe Love Busロゴ付き。
フィリピン航空はエアバスとの40年目のパートナーシップを記念とスカイトラックスから4ツ星認定を受ける心のこもるサービスを表した名称としてThe Love Busを使用している[33]。
COVID-19流行による経営再建、コスト削減のため4機リース返却されルフトハンザドイツ航空がリース運用中[34]。
2023年5月10日、エアバスと9機導入と追加3機の購入権に関する覚書を締結。2025年第4四半期導入開始、2027年までに9機が引き渡し予定。
現用A350-900と合わせ北米直行便、将来的な欧州乗り入れ再開の機材として検討するため、A350-900同等の機内仕様で3クラスで380席を計画[35][36]。
777-300ERはロサンゼルス、サンフランシスコ、バンクーバー、トロント、およびニューヨークなどの主に北米路線で運用。
なお、マニラ - 東京(羽田/成田両路)線や香港、台湾線など近距離高需要路線にも北米路線の間合いや繁忙期などには当機材を高需要路線に投入することがある。
2007年3月12日、ボーイングとの間でオプションを含む4機の購入を締結。2009年、リース会社GECASから2機リース導入。自社所有の初号機は2012年6月20日に導入。
2016年12月、リース会社イントレピッド・アビエーションから2機が追加リースされ、更に2017年3月にも同リース会社から2機が追加リースされた。
2024年3月、ガルーダインドネシア航空の中古機をリース導入した。(RP-C7783)
エアバスA320-200
エアバスA321-200
エアバスA330-300
エアバスA340-300
ボーイング777-300ER
退役機材
ボーイング747-200B
ボーイング747-400
ボーイング747-400M
座席
中長距離国際線ではビジネス、プレミアムエコノミーおよびエコノミーによる実質3クラス構成をとる。
現在、最新鋭機材を中心に最新のシートを展開している。従来設置されていなかったテレビモニターが全席に設置されたり、USB端子が設置された。なお、A320、A321ceo、一部のA330ではいまだにLCC並みのシートにて運用されている。(全席テレビモニター無し)
「マブハイクラス」。最新鋭機材には最大約198センチのフルフラットシート、空気圧で座席の硬さを調節できるPCS(Pneumatic Comfort System)、マッサージ機能が新たに採用された。座席幅は約60センチ、18.5インチの大型テレビモニター「myPAL eSuite Parsonal TV」を備えている。300時間以上の映画・ビデオ・音楽を楽しむことができる。「1-2-1」の配列で18席のシートが装着されている。スタッガードタイプの配置がなされており、全ての座席が通路に面している。A320やA321ceo、一部のA330は未改修のままである。未改修のA330のシートにはフランスSogerma 社製のEquinox 3Dが採用されている。
特典として、ビジネスクラス専用カウンターを利用することができる。またマニラ、セブ空港にはビジネスクラス専用ラウンジ「マブハイ・ラウンジ」も利用することができる。他にも、優先搭乗を利用できる。
最新鋭機材のシートピッチは96センチで、座席幅は約48センチ、13.3インチのテレビモニター「myPAL eSuite Parsonal TV」を備えている。300時間以上の映画・ビデオ・音楽を楽しむことができる。A330の改修機では「2-3-2」の配列で24席のシートが装着されている。シートの素材はこれまでの合成皮革からモケットに変わり、可動式のヘッドレストも付いた。シートにはUSBポートも設置されている。A321ceo、一部のA330は未改修のままである。
「フィエスタクラス」。最新鋭機材のエコノミーのシートピッチは約81センチで、座席幅は約43センチ、10.1インチのテレビモニター「myPAL eSuite Parsonal TV」を備えている。300時間以上の映画・ビデオ・音楽を楽しむことができる。A330の改修機は「2-4-2」の配列で267席のシートが装着されている。個人用モニターの下にはUSBポートも設置されている。A320やA321ceo、一部のA330は未改修のままである。
機内エンターテイメントサービス
従来までは、B777を除いては、エンターテイメントサービスが導入されず、各自のスマートフォン・タブレット等でのWi-Fiサービスのみの提供だった。しかし、近年では機材更新と同時に、機内エンタテイメントサービスも見直され、A330やB777ではシートテレビ (AVOD)、パソコン電源、USB接続端子等が全席・全クラスに設置されている。今後導入されるA321neoやA350XWBでも採用される予定。
機内インターネットサービス
2013年より、マニラ−バンクーバー間のボーイング777-300ERを対象に、新サービス「PAL iN AiR」の提供を開始。以降、国際線用機材を中心に、順次提供を開始。地上と遜色のない接続環境で通話、SMS、ツイート、Eメール、ネットサーフィンが可能。なお、Wi-Fiサービスを利用するには、搭乗前にスマートフォンアプリ「myPAL Player」をダウンロードする必要がある。飛行中にダウンロードできないので注意。なお、通常の機内エンターテインメントシステムと同じように、飛行機が離陸して、キャビンクルーがエンターテインメントシステムを使用許可に設定しなければ利用できない。現在、無料でインターネットが利用可能。
機内食
中長距離国際線では全席で機内食が提供され、日本発着路線では和食の提供も行う。ビジネスクラス、プレミアムエコノミークラスでは搭乗時にウエルカムドリンクが提供される。
日本路線
2013年12月14日までは、マニラ - 東京/成田線は、ボーイング777-300ER型機の1日1便で運航していたが、EU乗り入れ禁止の解除措置を受け、日本政府とのオープンスカイ交渉の末、翌15日から新機種「エアバスA321型機」にて2便増便し、1日3便となった。また、同日からセブ - 東京/成田線もA330-300型機による週6便からA330-300型機とA321型機でそれぞれ1便の、1日2便へ増便された[37]が、供給過多のため2014年3月31日からA321型機 2便体制に座席縮小される予定[38]。
2014年3月31日からマニラ - 大阪/関西線・名古屋/中部線を1日1便から1日2便、福岡線を週5便 (月・木・金・土・日曜日) から1日1便に増便。機材は、大阪/関西線はA330-300型機とA340-300型機(増便分)、名古屋/中部線はA321型機[39]とA340-300型機(増便分)、福岡線は変更なくA320型機でそれぞれ運航[40][41]。
2018年9月10日にマニラ - 札幌/新千歳線を就航する予定だったが、9月6日に発生した北海道胆振東部地震の影響を鑑み就航日を2018年10月8日に変更した[42][43]。
また、過去にはマニラ - 沖縄/那覇線も運航していた。
2018年時点、成田・羽田・関西発着以外の便は1日1便となっている。
現在は航空連合(アライアンス)に非加盟だが、航空連合に関係なく航空会社毎にコードシェア提携を結んでいる。
以下は自社機材運航
国内空港立地による滑走路逸脱や国内反政府組織によるテロ、ハイジャックが比較的多い[44]。
(タガログ語: mabuhay)生きるという意味。生きる歓びというニュアンス。
2014年3月30日まではA330-300型機だが、翌31日からA321型機に機材縮小変更。
フィリピン航空旅客機乗っ取り 日本人客二人も人質『朝日新聞』1976年4月8日朝刊、13版、23面
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