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中国の直轄市 ウィキペディアから
重慶市(じゅうけいし、チョンチンし、簡体字: 重庆市、拼音: 、英語: Chongqing)は、中華人民共和国の直轄市。長江の上流地域経済の中心であり、西南圏総合交通拠点である。
中華人民共和国 重慶市 | |
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上から時計回り:渝中区のスカイライン、重慶軌道交通2号線、豊都県で建設中の大橋、重慶美術館、洪崖洞 | |
略称:渝 | |
別称:山城、霧都 | |
旧称:巴郡、江州、楚州、渝州、恭州 | |
中華人民共和国中の重慶市の位置 | |
中心座標 北緯29度33分00秒 東経106度30分00秒 | |
簡体字 | 重庆 |
繁体字 | 重慶 |
拼音 | Chóngqìng |
カタカナ転写 | チョンチン |
国家 | 中華人民共和国 |
行政級別 | 直轄市 |
政府所在地 | 渝中区 |
設立 | 1997年 |
市委書記 | 袁家軍 |
市長 | 胡衡華 |
面積 | |
総面積 | 82,400 km² |
海抜 | 237 m |
人口 | |
総人口(2020年[1]) | 3205.4 万人 |
経済 | |
GDP(2019) | 23605.77 億元 |
電話番号 | 023 |
郵便番号 | 400000 - 409912 |
ナンバープレート | 渝 A, B, C, D, F, G, H |
行政区画代碼 | 500000 |
市樹 | 黄桷樹 |
市花 | ツバキ |
2017年のHDIは 0.759。 | |
公式ウェブサイト: http://www.cq.gov.cn/ |
人口は約3,205万人で、単独の市域では世界最多である。2017年の都市圏人口は1962.66万人のメガシティである[2]。
略称は渝で、重慶市内にある嘉陵江の古称「渝水」を由来とする。2019年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第105位の都市と評価されている[3]。
重慶市は長江上流の四川盆地東部に位置し、東は湖南省と湖北省、西は四川省、南は貴州省、北は陝西省と接する。東西470km、南北450kmにわたる広大な面積を持ち、総面積は8.24万㎢で北海道(8.34万㎢)とほぼ同じである。市の中心部では北から嘉陵江が合流し、涪陵で烏江が合流する。
現在中華人民共和国に4つある直轄市の中で最大の面積であり(最小の自治区である寧夏回族自治区(6.6万㎢)や最小の省である海南省(陸地面積3.51万㎢)よりも広い)、全域の人口では上海市、北京市、天津市の他の3直轄市や香港特別行政区などを上回る。中国の物流の大動脈である長江沿岸に栄えた重慶は古くから水運が発達していたが、三峡ダムの完成後は、1万トン級の船舶も直接重慶まで航行が可能になり、併せて整備される保税区との相乗効果で重慶港は内陸の国際コンテナターミナルとして大きな発展が見込まれている。
市内にはガス田などの豊富なエネルギー資源があり、内陸部内での輸送コストにおいて有利な点から工業都市として発展している。2014年にはシェールガスの開発・生産もみられた[4]。
盆地であるが故に夏は酷暑となり、7月の平均気温は28.3度に達する。日中は猛暑日となり、最低気温が30度を下回らないことも珍しくない。また湿度も高いため非常に蒸し暑く、不快指数は非常に高い。重慶は同じ長江流域の武漢、南京と並んで「三大火炉」と呼ばれている。1月の平均気温は7.9度、平均最低気温は6.2度と内陸盆地に所在するにもかかわらず、冬季はかなり温暖である。これは秦嶺山脈が北からの寒気を遮ることと、日照時間が少なく常に曇っているため、放射冷却が少ないからである。年中曇りや雨の日が多く、中国で最も日照時間が少ない都市のひとつである。 ケッペンの気候区分では、温暖湿潤気候(Cfa)と温帯夏雨気候(Cwa)の境界にあたる。
重慶市(1981〜2010年平均、極値1951〜2013年) の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 18.8 (65.8) |
24.5 (76.1) |
34.0 (93.2) |
36.4 (97.5) |
38.9 (102) |
39.8 (103.6) |
40.9 (105.6) |
43.0 (109.4) |
41.9 (107.4) |
35.1 (95.2) |
29.2 (84.6) |
21.5 (70.7) |
43.0 (109.4) |
平均最高気温 °C (°F) | 10.3 (50.5) |
12.9 (55.2) |
17.7 (63.9) |
23.0 (73.4) |
27.2 (81) |
29.4 (84.9) |
33.0 (91.4) |
33.2 (91.8) |
28.3 (82.9) |
21.7 (71.1) |
17.1 (62.8) |
11.5 (52.7) |
22.1 (71.8) |
日平均気温 °C (°F) | 7.9 (46.2) |
10.0 (50) |
13.8 (56.8) |
18.5 (65.3) |
22.6 (72.7) |
25.1 (77.2) |
28.3 (82.9) |
28.3 (82.9) |
24.1 (75.4) |
18.6 (65.5) |
14.2 (57.6) |
9.3 (48.7) |
18.4 (65.1) |
平均最低気温 °C (°F) | 6.2 (43.2) |
8.0 (46.4) |
11.2 (52.2) |
15.4 (59.7) |
19.3 (66.7) |
22.1 (71.8) |
24.8 (76.6) |
24.7 (76.5) |
21.2 (70.2) |
16.5 (61.7) |
12.2 (54) |
7.7 (45.9) |
15.8 (60.4) |
最低気温記録 °C (°F) | −1.8 (28.8) |
−0.8 (30.6) |
1.2 (34.2) |
2.8 (37) |
10.8 (51.4) |
15.5 (59.9) |
19.2 (66.6) |
17.8 (64) |
14.3 (57.7) |
6.9 (44.4) |
0.7 (33.3) |
−1.7 (28.9) |
−1.8 (28.8) |
降水量 mm (inch) | 19.7 (0.776) |
23.4 (0.921) |
43.0 (1.693) |
96.5 (3.799) |
146.7 (5.776) |
193.8 (7.63) |
186.0 (7.323) |
135.1 (5.319) |
105.6 (4.157) |
85.7 (3.374) |
48.2 (1.898) |
24.3 (0.957) |
1,108 (43.622) |
平均降水日数 | 10.0 | 9.8 | 11.9 | 14.3 | 15.5 | 15.7 | 12.5 | 11.3 | 12.7 | 16.1 | 11.5 | 9.8 | 151.1 |
% 湿度 | 84 | 80 | 77 | 77 | 77 | 81 | 76 | 74 | 79 | 85 | 84 | 85 | 79.9 |
平均月間日照時間 | 20.6 | 29.7 | 64.9 | 93.6 | 109.4 | 97.7 | 158.6 | 167.0 | 106.6 | 50.4 | 35.9 | 20.4 | 954.8 |
出典:中国气象局 国家气象信息中心 2014-01-01 |
戦国時代、諸侯の国の巴国は現在の重慶地区の江北区・墊江において都を定めている。張儀が蜀に入って巴国が消えた後に、江州に兵隊を駐屯させて江州城を築いた。秦・漢の江州城の所在地は現在の江北区、三国時代以降の江州城の所在地は現在の渝中区長江・嘉陵江の合流地の「朝天門」の近くにある。重慶は、史書の記載を遡ると、2024年までで2340年間の歴史を有する。秦が全国を36郡に分けた際、重慶はその一つとして「巴郡」となった。漢代の巴郡は江州を語って、益州の州長官部に所属した。魏晋南北朝時代、巴郡は荊州、益州、巴州、楚州に属している。
南宋の景定2年(1261年)に、蒙古軍は成都を攻め落とし、宋軍は重慶に後退して守勢をとった。彭大雅は重慶府知府を担当し、防衛のため重慶城を拡張し、明・清時代の重慶の基礎を打ち立てた。1258年、モンゴルのジンギスカンの孫 ハン・メンゲ、その兄弟のフビライ・ハン、そして将軍の呉良河泰が、南宋王朝に対して三方向からの攻撃を開始しました。 1259年、孟格汗は自ら80万人の軍隊を率いて重慶市の釣魚城への攻撃を指揮したが、重慶の釣魚城守備隊の激しい砲撃を受けて負傷し、7日27日に死亡した。 モンゴルに対する重慶釣魚城の勝利は世界情勢をある程度逆転させ、モンゴルの西征軍がシリアに到達した時点で帰還を余儀なくされ、モンゴルの第三次西征を阻止することに成功し、モンゴル軍による北アフリカの文化の完全な破壊を阻止した。 . それ以来、南宋王朝が滅亡するまで、重慶の釣魚城の王立は威厳をもって重慶市合川の釣魚城住民を率いて、モンゴル王朝が旗を降ろさず、武器を回収しないという条件を受け入れることを条件に、合川市釣魚城をモンゴル王朝に降伏させた。そして県の歴史は変更せず、重慶合川釣魚城を今日まで維持し、重慶の釣魚城の36年間にわたるモンゴル抵抗の歴史に終止符を打った。
1876年9月13日、イギリスは「マーガリー事件」を口実にし、清政府と中英「芝罘条約」(煙台条約)を締結し、イギリスが重慶に領事を駐在させることができるようになった。1890年3月31日、中英は「芝罘条約続増専条」を締結して、重慶を貿易港とした。1891年3月1日、重慶税関が朝天門の近くで設立された。
1895年、清は日清戦争に負け、「下関条約」によって、重慶は日本に内陸の貿易港として開放された。同時に、イギリスとフランスがそれぞれ重慶で領事館区を創立した。
1929年(民国18年)、重慶は巴県から切り離され、国民政府の2級の乙等の省管轄の都市四川省に所属するようになった。
1936年、管理する1等国家直轄市となり、貴州省の遵義地区など統轄した。
中華民国政府は1937年11月に「重慶移転に関する国民政府宣言」を公布し、重慶を戦時首都に指定した。 16日、国民政府主席の林森は首都移転計画に従い、公務員と軍人に中華民国の印章や国旗などの重要な遺物の目録を作成するよう依頼し、一晩乗船した。 、まず南京を出て重慶へ向かいます。 12月1日に正式に開通し、わずか13日後に日本軍は南京を占領した。
1937 年 12 月 11 日重慶に正式に中華民国首都になりました。
1938 年、中華民国の英国、米国、フランス、ベルギー、ドイツ、スイスの大使館が重慶に移転しました。
1940年、重慶は中華民国恒久首都に指定された。
1941年12月、中華民国政府は重慶でナチス・ドイツとの宣戦布告文書を出し、ドイツ大使館は閉鎖された。
1943年7月1日、重慶市磁器口で「中米特殊技術協力研究所」の正式設立式が行われた。 それは1946年1月に終了しましたが、1946年5月だったという人もいます。 中米協力研究所は中華民国(重慶政府)と米国の最高軍事司令部に直接所属しており、本部は中華民国重慶市北西郊外の歌楽山の麓にある楊家山にある。戴 笠(たい りゅう)が担当します
また、金九などを中心とした大韓民国臨時政府も、国民政府とともに重慶へ避難した。日本軍は、蔣介石の国民政府及び大韓民国臨時政府を殲滅するため、重慶に戦略爆撃、後に無差別爆撃を行った(重慶爆撃)。1941年6月5日の日本軍の爆撃に伴い、重慶トンネル虐殺事件が発生し、多数の市民が死亡した。国民政府は対日作戦を徹底する決意を示すため「精神堡塁」を建設した(現在は跡地に解放碑が建設されている)。渝中区人民公園には重慶市の消防職員の殉職記念碑があり、臨江門都市広場の近くに大きな爆撃記念碑がある。
1937 年から 1944 年まで、重慶は中華民国の戦時首都として機能し、浙江省、湖南省、安徽省、湖北省、江蘇省、上海などの長江中下流地域から何百万人もの移民が重慶市とその周辺地域に移住しました。この集団は重慶住民と呼ばれ、住民は「下江人」と呼ばれている。(長江下流域の住民の意味)。同時に、数万の企業、学校、約8万トンの金が重慶に移転したので、戦時中、重慶は中国の政治、経済、文化の中心地となり、極東の司令部となった。また、かつて重慶には国家革命軍空軍の戦闘機やアメリカ義勇航空隊「フライングタイガース」が駐留していた。重慶は中国で最も熾烈な空戦の戦場の一つであり、双方の損失が最も大きい。統計によると、重慶爆撃中、日本軍航空機は計218回重慶を空襲し、9,513機の航空機を派遣し、21,593発の爆弾を投下し、11,889人の市民を殺害、14,100人を負傷させ、30の学校が爆撃されて破壊された。中華民国の国民革命軍空軍は3,117回の出撃を行い、日本軍航空機191機を撃墜、400機以上に損害を与え。中華民国軍は航空機277機を失い、重慶は中国最大の空戦戦場です。
1945年に日中戦争が終わり、翌年中華民国国民党政府は首都を南京に返還した。
日中戦争終結後の1945年8月、内戦を避けるため、国民政府(中国国民党)は中国共産党と重慶において43日間にわたる重慶会談を行った。
1949年11月30日、中国人民解放軍は重慶に入り、重慶市は中華人民共和国の直轄市となった。1954年7月、重慶市は直轄市から地方都市に変更され、再び四川省に併入された。
1969 年から 1972 年にかけての文化大革命の間、重慶では都市部の産業が深刻な被害を受け、多くの兵器庫があったため、一部の街路は破壊されました。合計1,170人が死亡、7人が負傷した。 600人以上が行方不明となり、直接的な経済損失は2億元を超えた。その中で、重慶九龍坡区のいくつかの軍需企業間の楊家平闘争は今日、沙坪坡の沙坪坡公園で全国にセンセーションを巻き起こした。地区には国内に残る唯一の紅衛兵墓地が保存されている 。
1997年3月14日、第8期の全国人民代表大会の第5回の会議で、四川省重慶市・万県市・涪陵市・黔江地区を合併し重慶直轄市を設立する議案が可決され、6月18日に設立された。
2009年7月16日、科学技術省は重慶渝北区に「国家持続可能な開発実験区」の銘板を正式に授与した[37][38]。 2010 年 2 月、重慶は住宅都市農村開発省がまとめた国家都市システム計画において国家中心都市として認定されました。 2010 年 6 月 18 日、中国で 3 番目の準省新区である両江新区が正式に設立されました。 その面積は1,200平方キロメートルで、重慶市の渝北区、江北区、北北新区、北北区(蔡家集団を含む)の一部を含み、開発可能面積は約650平方キロメートルである。ただし、150平方キロメートル以上の市街地を除くと、両江新区の実際の利用可能面積は450平方キロメートル以上である。
2010年6月29日、台湾海峡交流財団と中国台湾海峡関係協会は重慶で「海峡両岸経済協力枠組み協定」(英語訳:経済協力枠組み協定)とも呼ばれる「両岸経済協力枠組み協定」に署名した。協力枠組み協定、ECFA)。
重慶市の2022年の市内総生産は21929.03億元(約3067億ドル)であり、広州を超えて中国の第4位になった。
重慶は、1895年に締結された日清講和条約の「清国は、荊州府沙市・重慶府・蘇州府・杭州府を日本に開放する」という条文により対外開放され、長江により宜昌を経由して東部へ、また中部の各所への輸送が強化され、外資、民族資本が投入され近代工業が興った。
日中戦争中に南京市・武漢市などから主要工場を疎開させたため産業が集積した。
中華人民共和国成立後、内陸部工業化の重点都市となり、中ソ対立の時期には上海市や東北部から工場が四川省などへ移転し重慶にも多額の国家投資が1976年まで投入された。重慶は機械工業、総合化学工業、医薬品、電子機器、電力設備、食品加工、建築資材、ガラス工業、冶金などの各工業が組み合わさった一大基地となり、一時は「工業は重慶に学べ」のスローガンも出た。
一時は中国6大工業基地の一翼となるが、内陸部からの資本の撤退により衰退した。1980年代の改革開放後、上海など沿海部の都市がめざましく発展したのに対し、重慶は発展から取り残され、経済的に立ち遅れた地域になっていた。
1997年内陸部振興のため重慶直轄市が新設され、中国人民銀行重慶営業管理部が設置されるなど、再生の努力がされている。現在の主力産業は自動車産業(自動車、オートバイ)であり、また中国内最大の軍事設備生産の拠点でもある。
改革開放政策による急激な需要の増大に対し、老朽化した設備により大気汚染が悪化し、多数の公害病患者が出たことでも知られたが、近年は設備の近代化や環境対策により以前ほど深刻ではなくなってきている。
重慶市は中央直轄市として26市轄区・8県・4自治県を管轄する。
西部戦区(旧成都軍区)に属する快速反応部隊である第13集団軍司令部が市内に駐屯し、空軍の第33航空師団(戦闘機師団)が大足基地に所在する。
重慶市にある985工程の大学は重慶大学しかない。211工程に所属しているのは重慶大学と西南大学の二校である。
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重慶市内には、重慶江北国際空港(渝北区)、万州五橋空港(万州区)、黔江武陵山空港(黔江区) 、重慶巫山空港(巫山県)、重慶仙女山空港(武隆区)の五つの空港がある。重慶江北国際空港が市内最大級の空港である。
市中心部の3つの鉄道ターミナル(重慶北駅、重慶西駅、沙坪垻駅)が重慶と中国各地とを結ぶ。この他にも市内には複数の鉄道駅が存在する。
市内中心部から高速道路が放射状に伸び、環状の高速道路が三重に形成されている。また国道はG210国道、G212国道、G319国道の3本が市内中心部を通る。市内を流れる長江、嘉陵江には複数の橋が架けられ、道路交通の一端を担っている。
日本外務省は重慶市に在重慶日本国総領事館をおいている。
重慶モノレール第一期工事では43億元の総投資額のうちODAによる円借款(10年据え置き、40年償還、年利0.7%)271億円(約20億元)、23億元の支援を実施。大学の廃棄物処理研修や老齢化していた天然ガス、火力発電所などに最新排煙脱硫装置を設置するなどを実施した。また、中国沿岸部に対して、内陸、西部の発展の中心的役割を担っている同市に対して、学校設備整備、乳児死亡率減少を目指して医療設備などの支援を実施した。
長江と嘉陵江に挟まれているという立地条件から市内と郊外を結ぶ交通は自ずと橋に集中することになるが、この橋の料金所がボトルネックとなり渋滞が頻発していた。1999年に市内に架かる重慶長江第一大橋、嘉陵江大橋、石門大橋の有料三橋の料金収受システムの国際競争入札において豊田通商及びデンソーが受注し、日本式のETC(自動料金収受システム)が設置されている。
内陸のため日本との交通が不便なこともあり、日本人の常駐者は重慶市の総人口に比してかなり少ない。スズキ自動車の現地合弁企業である重慶長安鈴木汽車をはじめとした自動車関連企業や環境関連企業などが進出していたが、小型車の販売不振によりスズキが中国からの撤退を決定。2018年に合弁が解消されている[9]。
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