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黄道十二星座の一つ ウィキペディアから
Leo | |
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属格形 | Leonis |
略符 | Leo |
発音 | [ˈliːoʊ]、属格:/liːˈoʊnɨs/ |
象徴 | ライオン[1][2] |
概略位置:赤経 | 09h 21m 37.0221s- 11h 06m 46.5595s[3] |
概略位置:赤緯 | +32.9691162° - −6.6916924°[3] |
20時正中 | 4月下旬[4] |
広さ | 946.964平方度[5] (12位) |
バイエル符号/ フラムスティード番号 を持つ恒星数 | 92 |
3.0等より明るい恒星数 | 5 |
最輝星 | レグルス(α Leo)(1.40等) |
メシエ天体数 | 5[6] |
確定流星群 | 3[7] |
隣接する星座 |
おおぐま座 こじし座 やまねこ座(角で接する) かに座 うみへび座 ろくぶんぎ座 コップ座 おとめ座 かみのけ座 |
α星レグルスは、全天に21個あるとされる1等星[注 1]の1つで、その中では最も暗い。2等星のβ星デネボラは春の大三角と呼ばれる正三角形に近い形をしたアステリズムの一角を成している。また、レグルスを含むライオンの頭部の星を7つ繋いだアステリズムは「ししの大鎌」と呼ばれている。
天の川から離れた位置にあるため目立つ星団や星雲はないが、しし座のトリオ銀河と呼ばれる3つの銀河を始め、双眼鏡や口径の小さな望遠鏡で観測できる銀河が多い。また、天の川銀河の伴銀河が複数発見されている。
γ星付近に放射点を持つしし座流星群は、約33年の周期で活発な活動を見せることで知られ、2001年には1時間あたり1,000個を超える流星嵐が観測された[8]。
天の赤道を跨ぐように位置している[3]ため、地球上のどこからでも星座の一部を見ることができる。うみへび座・おとめ座・おおぐま座と面積の広さ上位3つの星座と境界を接しており[9]、しし座自体も全天88星座の中で12番目に大きい[5]。20時正中は4月下旬頃[4]で、北半球では春の代表的な星座とされる[10]。
β星デネボラと、うしかい座のα星アルクトゥールス、おとめ座のα星スピカが形作る三角形は春の大三角と呼ばれる[11][注 2]。ライオンの頭部にあたる λ-ε-μ-ζ-γ-η-αの7星を繋いだ「?」を裏返したような星の並びは「ししの大鎌 (英: The Sickle)」と呼ばれる[10]。
現在のしし座の領域にある星々は、バビロニアの時代からライオンと見なされており、これがしし座の起源となったと考えられている[15]。このライオンの星座は、早い時代には「高貴な大型肉食獣」を意味する Mul Ur-mah、紀元前2千年紀の半ばからは「偉大な大型肉食獣」を意味する Mul Ur-Gu-la と呼ばれていた[15]。この星座は王権を象徴する星座であったと考えられており、ライオンの姿全体としては王国を、現在のα星レグルスは王そのものを表していたとされる[15]。
このライオンの星座がいつ頃地中海世界に伝わったかは定かではないが、紀元前4世紀の古代ギリシアの天文学者クニドスのエウドクソスの著書『パイノメナ (古希: Φαινόμενα)』に記された星座のリストに既にしし座の名前が上がっていたとされ、エウドクソスの著述を元に詩作されたとされる紀元前3世紀前半のマケドニアの詩人アラートスの詩篇『パイノメナ (古希: Φαινόμενα)』では λέων (Leon) という名称で登場する[16]。しし座についてアラートスは、おおぐま座の後ろ足の下のほうにあり、太陽がかに座を過ぎてこの星座に入る頃になると夏の盛りとなり麦が残らず刈り取られる、としている[16][17]。
紀元前3世紀後半の天文学者エラトステネースの天文書『カタステリスモイ (古希: Καταστερισμοί)』や1世紀初頭の古代ローマの著作家ガイウス・ユリウス・ヒュギーヌスの『天文詩 (羅: De Astronomica)』では「ライオンは百獣の王であることからゼウスがそれを称えて星座としたものだ」とする説が第一に示されており[18][19]、異説としてロドスのペイサンドロスの伝える話として、ヘーラクレースの12の功業の最初に登場するネメアのライオンであるとする説にも触れている[18][19]。
エラトステネースやヒュギーヌス、プトレマイオスは、ライオンの尾の先にある三角形を成す星々を「ベレニケの髪束」と呼ぶと伝えている[2][18][19]。このベレニケとは、紀元前3世紀中頃古代エジプトプトレマイオス朝の王プトレマイオス3世エウエルゲテスの妻のベレニケ2世のことで、プトレマイオス3世に仕えた数学者サモスのコノンと宮廷詩人カリマコスによって綴られたベレニケの髪の毛に関する伝承にちなんで名付けられたものである[18][19]。特にヒュギーヌスは、ライオンよりもむしろベレニケのほうに紙幅を割いて紹介している[18][19]。ベレニケの髪束とされた星々は、16世紀にドイツの数学者・地図製作者のカスパル・フォペルによって BERENICES CRINIS として独立した星座とされ、現在はかみのけ座の一部となっている[20]。
この星座に属する星の数について、エラトステネースとヒュギーヌスは19個、帝政ローマ期2世紀頃のクラウディオス・プトレマイオスの天文書『ヘー・メガレー・スュンタクスィス・テース・アストロノミアース (古希: ἡ Μεγάλη Σύνταξις τῆς Ἀστρονομίας)』、いわゆる『アルマゲスト』では27個とされた[18]。これらより大きく時代を下った17世紀初頭のドイツの法律家ヨハン・バイエルは、1603年に刊行した星図『ウラノメトリア』で、α から ω までのギリシャ文字24文字とラテン文字15文字の計39文字を用いて43個の星に符号を付した[21][22][23][注 3]。
1922年5月にローマで開催された国際天文学連合 (IAU) の設立総会で現行の88星座が定められた際にそのうちの1つとして選定され、星座名は Leo、略称も同じく Leo と正式に定められた[24]。
紀元前500年頃に製作された天文に関する粘土板文書『ムル・アピン (MUL.APIN)』では、天空に3つある層のうち最上層の「エンリルの道」に置かれた、8番目の「ライオン」、9番目の「王」、10番目の「ライオンの尾」が現在のしし座と対応しているとされる[25]。
バビロニアのライオンの星座がどれほどの大きさであったかは不明だが、後世のアラビア世界に伝わったライオンの星座は、現代に伝わるしし座よりもはるかに大きな星座であったと考えられている[26]。このアラビアの星座は、現代の星座で言えば、ふたご座の頭部の2星から始まり、こいぬ座、かに座、しし座、おとめ座、りょうけん座、うしかい座、からす座にまでまたがる、巨大なライオンの姿であったとされる[26][27]。このことは、10-11世紀ホラズムの学者ビールーニーの歴史書『過去の足跡』に記された月宿28宿において第7宿から第14宿に至るまでの8宿にわたってライオンの体の部分を示す名前が付けられていたことからも推察される[26]。このイスラムの月宿マナージル・アル=カマルでは、第10宿から第12宿までが現在のしし座の星と対応している[28]。ζ・γ・η・α の4星が第10月宿の「アル=ジャブハ」、θ・δ が第11月宿の「アッ=ズーブラ」、β が第12月宿の「アッ=サルファ」に、それぞれ対応するとされる[28]。
ドイツ人宣教師イグナーツ・ケーグラー(戴進賢)らが編纂し、清朝乾隆帝治世の1752年に完成・奏進された星表『欽定儀象考成』では、しし座の星は、三垣の1つ「太微垣」と、二十八宿の南方朱雀七宿の第三宿「柳宿」、第四宿「星宿」に配されていたとされる[29][30]。
太微垣では、β・HD 102660・(不明)・95・HD 102910 の5星が星官「五帝座」に、93番星が諸王の嫡子を表す星官「太子」に、92番星が天子の近侍を表す星官「従官」に、72番星が皇帝の親衛隊を表す星官「虎賁」に、54・51 が士大夫を表す「少微」に、46・52・53・48 が長城を表す星官「長垣」に、χ・59・58 が天文台を表す星官「霊台」に、τ・υ・87 が天子が政教を明らかにする殿堂を表す「明堂」に、それぞれ配された[29][30]。また、太微垣の右の城壁を表す星官「紫微右垣」では、σ が西上将、ι が西次将、θが西次相、δ が西上相とされた[29][30]。
柳宿では、ψ・ξ・ω の3星が酒の製造・販売を管理する酒官を示す旗を表す星官「酒旗」に配された[29][30]。星宿では、HD 83630・15・κ・λ・ε・μ・ζ・γ1・η・α・ο・ρ・31 の13星がやまねこ座の4星とともに黄帝を表す星官「軒轅」に、HD 86012 がこじし座の3星とともに法官を表す星官「内平」に配された[29][30]。
エラトステネースの『カタステリスモイ』やヒュギーヌスの『天文詩』では、紀元前7世紀の叙事詩人ロドスのペイサンドロスの伝える話としてヘーラクレースに倒されたネメアーのライオンであるとする説が紹介されているが、ただヘーラクレースが素手でライオンを絞め殺したことが語られるのみで伝承の詳細は語られていない。また、ペイサンドロスの叙事詩『ヘラクレイア (古希: Ἡράκλεια)』も散逸して、その内容の詳細は不明である。伝アポロドーロスの『ビブリオテーケー (古希: Βιβλιοθήκη)』では以下の話が伝えられている[31]。
女神ヘーラーに狂気を吹き込まれて我が子とイーピクレースの子を炎に投げ入れて殺してしまったヘーラクレースは、自らをテーバイから追放し、デルポイに赴いてどこに住むべきかを神に問うた。そこで得られた神託は「ティーリュンスに住み、ミュケーナイの王エウリュステウスに12年間仕えて、命ぜられる十の仕事を行ない、この功業が成った後には不死となるであろう」というものであった。このときまで「アルケイデース」という名前であった彼は、このとき初めてヘーラクレースという名で呼ばれたという。これを聞いてエウリュステウスの下に赴いたヘーラクレースは、第一にネメアーのライオンの革を持ってくることを命ぜられた。このライオンはテューポーンの子供で、不死身であった。ネメアーでライオンを探し出したヘーラクレースは、まず弓でライオンを射たが効き目がなかった。彼は棍棒を振りかざしてライオンを追い、洞穴に追い込み、顎に腕を巻きつけて絞め殺した[注 4]。ヘーラクレースは倒したライオンを持ってミュケーナイに赴いたが、彼を恐れたエウリュステウスはヘーラクレースに市内に入ることを禁じた[31]。
世界で共通して使用されるラテン語の学名は Leo、日本語の学術用語としては「しし」とそれぞれ正式に定められている[32]。現代の中国でも狮子座[33](獅子座[34])と呼ばれている。
明治初期の1874年(明治7年)に文部省より出版された関藤成緒の天文書『星学捷径』で「レオ」という読みと「獅子」という解説が紹介された[35]。これ以降 Leo の日本語名は「獅子」が定着しており、30年ほど時代を下った明治後期、1908年(明治41年)7月に刊行された日本天文学会の会報『天文月報』の第1巻1号に掲載された「四月の天」と題した記事でも「獅子」という星座名が確認できる[36]。この訳名は、東京天文台の編集により1925年(大正14年)に初版が刊行された『理科年表』にも「獅子(しし)」として引き継がれており[37]、1944年(昭和19年)に天文学用語が見直しされた際も変わらず「獅子(しし)」が使われた[38]。戦後の1952年(昭和27年)7月に日本天文学会が「星座名はひらがなまたはカタカナで表記する」[39]とした際に「しし」とされ[40]、以降もこの呼称が継続して用いられている。
岐阜県揖斐郡横蔵村(現・揖斐川町)には、獅子の頭部を成す λ・ε・μ・ζ・γ・η・α の7星が形作る「؟」のような形状を樋をかける金具に見立てた「トイカケボシ(樋掛け星)」という呼称が伝わっていた[41]。また、京都府の天橋立地方には、しし座の頭部をはずみ車、下半身を紡錘として、しし座全体を糸車に見立てた「イトカケボシ(糸掛け星)」という呼称が伝わっていた[41][42][43]。星の和名で知られる野尻抱影は、両者の類似性に着目して相互に関連があって一は他の転訛であるかもしれない。
としていた[42]が、伝承資料が少なく定かではない[41]。
江戸時代には、φ・ξ・ω の3星が「サカボシ(酒星)」と呼ばれていた[42]。これは中国の星官「酒旗」をそのまま充てたもので、文人に好まれて俳句に詠まれることもあった[42][44]。
1等星のα星レグルス以外に、β星、γ星の2つの2等星がある。
2024年1月現在、国際天文学連合 (IAU) によって13個の恒星に固有名が認証されている[45]。
このほか、以下の恒星が知られている。
18世紀フランスの天文学者シャルル・メシエが編纂した『メシエカタログ』に挙げられた銀河が5つ位置している[6][注 5]。また、パトリック・ムーアがアマチュア天文家の観測対象に相応しい星団・星雲・銀河を選んだ「コールドウェルカタログ」に渦巻銀河NGC 3626が選ばれている[94]。θ星シェルタンの南に見える M65・M66・NGC 3628 の3つの銀河は しし座のトリオ銀河[95](英: Leo Triplet) と呼ばれている[96]。
しし座の領域には、局所銀河群に属する矮小銀河が複数発見されている[97]。このうち、矮小楕円体銀河のしし I・しし II・しし IV・しし V は天の川銀河のサブグループに属しており、天の川銀河からもアンドロメダ銀河からも離れた位置に矮小不規則銀河のしし A がある[97]。
しし座の名前を冠した流星群で、IAUの流星データセンター (IAU Meteor Data Center) で確定された流星群 (Established meteor showers) とされているものは、しし座流星群 (Leonids, LEO)、しし座κ昼間流星群 (Daytime kappa Leonids, KLE)、1月しし座流星群 (January Leonids, JLE) の3つである[7]。
しし座流星群は、テンペル・タットル彗星を母天体に持つ、γ星付近を放射点とする流星群で、11月17日前後に極大を迎える[8]。およそ33年ごとに大出現が観測されており、2001年11月18日深夜から翌19日未明には1時間あたり1,000個を超える流星嵐が観測された[8]。この出現や1999年から2002年にかけての活発な活動は、当時最新のダストトレイル理論によって予測されており、理論の確立に大きく寄与したことで知られる[8]。
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