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アメリカ合衆国で開発した戦闘機 ウィキペディアから
F-15は、アメリカ合衆国のマクドネル・ダグラス(現ボーイング)が開発した制空戦闘機。制式機の受領は1972年(正式編成は1976年)、愛称はイーグル(ワシ)(Eagle)。
アメリカ空軍などで運用されたF-4の後継として開発された大型制空戦闘機で、第4世代ジェット戦闘機に分類される。F-4と共に、冷戦下のアメリカ空軍とマクドネル・ダグラス社を代表する戦闘機といえる。アメリカ空軍に加え、イスラエル航空宇宙軍、航空自衛隊、サウジアラビア空軍が採用した。なお、F-15のパイロットたちは俗に「イーグルドライバー」と呼ばれている[2]。
チタンを多用して軽量化した機体に大推力のターボファンエンジンを2基搭載し高い格闘能力を有すると同時に、高出力パルスドップラー・レーダーと中射程空対空ミサイルの運用能力も併せ持ち、遠近の空対空戦闘に対応可能となっている[3]。
F-15の後継機としてF-22が開発されたが、高価であることなどからアメリカ合衆国の中でも一部の配備に留まり、全世界のF-15を置き換えることはできなかった。そのため、原型機の初飛行から既に50年経った現在でも、F-15は改良を重ねつつ世界トップクラスの機体の一角を占め続けている。F-22の代わりとなる後継機としては、F-35が有力である。ステルス機能がないことを除けばF-15の基本設計の完成度は高く、今後も運用が継続される見通しである。
二枚の垂直尾翼を持つとはいえ平凡な平面形の主翼に水平安定板を組み合わせた保守的な設計に係わらず、当時としては画期的な機動性を実現し[注釈 1]、F-4の運用において顕在化した諸問題を教訓に設計段階で様々な工夫が施された結果、当初から高い完成度を見せている。
数々の実戦経験がありながら、採用国は2018年現在までに空中戦における被撃墜記録は無いとしている。ただし、複数の交戦相手国がF-15の撃墜を主張しており、ソビエト連邦(後のロシアなど)は戦地に派遣したオブザーバーによりMiG-23などの自国製戦闘機が数機のF-15を撃墜したとしている。訓練中の事故として、1995年の航空自衛隊におけるF-15僚機撃墜事故などがある。
単座型と複座型の2種類が存在するが、飛行性能および戦闘能力に大きな差はない。 また、派生型である戦闘爆撃機のF-15Eの開発も行われ、こちらもアメリカ空軍他各国で採用された。
1956年に配備の始まったサイドワインダーを装備したF-86戦闘機が、1958年の台湾海峡における金門砲戦時の大規模な空中戦などで戦果をあげた[注釈 2]事例などから、アメリカ空軍では今後の戦闘機同士の戦闘は「遠距離から射程の長いミサイルを発射して相手を撃墜するものになる」という「ミサイル万能論」が主流となり、空対空兵装としての機関砲は軽視されるようになっていった。また、1950年代のソ連によるM-4(バイソン)、Tu-95(ベア)といった新型爆撃機の配備を重大な脅威として対応する必要を唱える「ボマーギャップ」論が広まった。そのためにアメリカ空軍は、要撃機と爆撃能力の拡充に重点を置くこととなった。
これらの結果、新規開発の比重は対戦闘機戦闘を主目的とした制空戦闘機から、(核)ミサイルによる爆撃機要撃のためのF-102の様な要撃戦闘機や、対地攻撃力を補充するF-105の様な戦闘爆撃機に移っていった。当初、F-86セイバーの後継とされたF-100スーパーセイバーも戦闘爆撃機に転用され、F-101やF-104も運動性を軽視した仕様となった。
こうした経緯から、アメリカ空軍はベトナム戦争開始時期に充分な格闘戦能力を持つ機体を保有しておらず、緒戦での同士討ちを契機に定められた有視界外戦闘を禁止した交戦規定により、旧式のMiG-17との格闘戦闘に巻き込まれて苦戦を強いられた。ただし1961年当時の国防長官のロバート・マクナマラの推し進めた空海両軍の機種統一により導入したF-4が、比較的機動性に優れていたためベトナム戦争を凌ぐことはできた。
さらにマクナマラはコスト削減と合理化を図るべく、空軍主体で開発する戦闘爆撃機を海軍向けに艦隊防空用の要撃機に発達させ共通化を図るTFX計画を進めたが、重量増加、エンジン(プラット・アンド・ホイットニー TF30)のストール、アメリカ海軍用の新ミサイル(AIM-54 フェニックス)や新火器管制装置(AN/AWG-9)の開発遅延といった問題によるF-111Bキャンセルの結果、コスト高や運動性能等の問題を抱えながら空軍用であるF-111Aのみの実用という結末を迎えることとなった。
海軍はTFX実用化断念後の1965年に、次期戦闘攻撃機VFAX(後に中止)や次期戦闘機VFX(後のF-14)の開発研究を開始していた。空軍もF-111どころかF-4さえ重すぎて制空戦闘に不適と考え、同年4月、F-Xの開発研究に着手した。
1966年3月、ノースアメリカン・ロックウェル、ロッキード、ボーイングの3社とTactical Support Aircraft(戦術支援機)に関する4ヶ月間の概念作成研究契約を締結した。同年9月3社の研究結果の評価を完了したが、開発方針の決定には至らなかった。その概要は以下の通りである。
この時期、1967年7月に行われたモスクワ・ドモジェドヴォ空港での航空ショーでMiG-25が突如出現し、上空を高速で通過していった。周到に演出されたこのフライパスのみならず、ソ連はこの航空ショーに、MiG-23・Su-15を初めとした試作機や実験機を含む多種の機体を第3世代ジェット戦闘機として出品し、これらに大きな衝撃を受けた西側の航空機専門家はソ連の意図通りにその実体以上の過大な評価を下した。アメリカ空軍首脳も公開された機体に対抗し得る機体を自軍に保有していないと考え、ソ連の爆撃機に加え、戦闘機にも危機感を募らせていった。
空軍での制空戦闘機の検討時期に、各方面のキーマンからファイター・マフィアと呼ばれる少人数のグループが出現していた。その中の一人、ジョン・ボイドは、自らのF-100による戦技教官としての経験の体系化とエネルギー保存則に基づいた空中(空戦)機動の理論であるエネルギー機動性理論を基にした判断により、F-Xの最初の提案要求(RFP)を却下し、最終版に改定した[注釈 3]。
空軍は1967年8月にマクドネル・ダグラスおよびジェネラル・ダイナミクスの2社と戦闘機に関する6ヶ月の概念作成契約を締結した。
モスクワ航空ショーの翌年の1968年9月に、アメリカ空軍は国内の航空機メーカー8社と研究契約を結びRFPを出した。RFPの主な内容は以下の通りであった。
これらに加え、試作競争は実施しないこととしていた。
1968年12月、提出された各社案を基にマクドネル・ダグラス、フェアチャイルド、ノースアメリカン・ロックウェルの3社を選出して、詳細提案のための6ヶ月の研究契約を結び、各社は期日通り設計案を提出した。フェアチャイルド社案は、胴体の両側の変形デルタの主翼の半幅にエンジンナセルを置き、二次元型空気取入口から排気口を一線上に配置した、双発一枚垂直尾翼の機体であった。ノースアメリカン・ロックウェル社案は、オージー翼を持つブレンデッドウィングボディ構成の胴体下に二次元型空気取入口を付けた、胴体内並列双発一枚垂直尾翼の機体だった。
これらに対しマクドネル・ダグラス社案の機体は、前縁45度というそれほど大きくない後退角を持つ、広い面積の主翼を持っていた。これは当時の超音速戦闘機には、まず採用されることのないものだった[注釈 4]。この時、マクドネル・ダグラス社は37,500ページにも及ぶ文書を提出、設計には大型計算機を用いて数千種類の機体形状を検討していた[4]。
1969年12月にアメリカ空軍は、マクドネル・ダグラス社と開発契約を結んだ。設計主任はジョージ・グラーフ(George Graff)、空力担当にはドン・マルバーン(Don Malvern)が就任した[5]。また、セントルイスの工場では2基の空対空戦闘シミュレーターが開発され、研究に用いられた。本開発では900時間以上の設計改善が行われ、風洞実験では100種類以上の主翼形状の試験が行われた[4]。
F-4は双発でありながら、片方のエンジンの被弾後に両エンジンが停止したり、火災で墜落する事例が見られた[4]。これを教訓にF-15ではエンジン間の縦通材などとして、エンジン周りにチタンを多用して耐熱性や強度を確保し、さらには消火システムを充実させ、燃料タンク配置にも配慮が払われた[6]。
エンジンの開発はプラット・アンド・ホイットニーとゼネラル・エレクトリックの提案から、1970年3月にプラット・アンド・ホイットニーがF100ターボファンエンジンの開発契約を結んだ。初期推力試験は1972年3月末までに終了し、1年後には型式証明を取得するための試験を終了させた[6]。
レーダーはヒューズ社とウェスチングハウス社の提案から、1970年9月にヒューズ社のAN/APG-63レーダーを選定している[6]。
武装は空対空ミサイル・機関砲共に新開発のものが搭載される計画で、視界外射程(beyond-visual-range;BVR)兵装にはAIM-97 空対空ミサイル、近距離/格闘戦兵装にはAIM-82 空対空ミサイルおよび固定武装としてGAU-7 25mm6砲身ガトリング砲(英語版)といった新規開発の装備が選定された。
AIM-97はAIM-7を凌ぐ射程と高速高機動目標への対処能力を持つことを主眼に開発されたもので、中間誘導にパッシブレーダーホーミング、終端誘導に赤外線感知を用いる複合誘導方式となっていた。AIM-82は当時主力のAIM-9 第1世代では不可能な全方位照準(目標の後方に回ってエンジンの排熱を捉える必要がなく、どの方向からでも熱反応さえ捉えれば照準できる)が可能なもので、後にAIM-82はアメリカ海軍が開発を進めていた新型短距離空対空ミサイルであるAIM-95に計画を統合して開発が一本化されたため、F-15へ搭載される短距離ミサイルもAIM-95に移行された。固定武装のGAU-7は口径をそれまでの標準であった20mmから25mmとして弾頭威力が大幅に強化され、使用弾薬には薬莢を持たないケースレス弾薬方式を用いた先進的なものであった[7]。
しかし、AIM-97、AIM-95共に技術的・予算的な面から最終的には計画中止となり、開発によって得られた新基軸を採り入れた暫定新型として既存の空対空ミサイルの改良型が開発されることになり、F-15の搭載する空対空ミサイルもAIM-7とAIM-9の改良型に落ち着いた。GAU-7は実際に試作砲を搭載しての試験も行われたが、ケースレス方式特有の問題の他、不規則な弾道性能といった問題もあり、開発担当のフィリコ・フォード(Philco-Ford)社(英語版)からの開発期間延長の申し入れを受け入れず、従来のM61 20mmガトリング砲を採用することとなった[6]。これらの経緯から「最新技術を盛り込んだ新開発の武装を搭載する」という当初の計画は大きく修正されたが、それであってもF-15が高い空対空戦闘能力を持つことには変わりなかった。
1971年2月、アメリカ議会上院歳出委員会はF-14とF-15の比較検討を行い、F-14はF-15の任務をすべて果たせるが、F-15はF-14の任務をすべて果たすことはできないとF-15が劣ることを指摘し、空軍・海軍共に同じ機種を採用すべきとの意見が挙げられた。これに対し空軍は、F-14は艦隊防衛に特化した機体であり、F-15は機動性の高い制空戦闘機であると反論した。一方、アメリカ国防総省内部からはF-15を基本とした海軍型(艦上戦闘機)のF-15Nの検討を指示する動きもあった[6]。
開発にあたり当初12機、1972会計年度で8機の前生産型を発注し、それぞれ以下のような作業や試験が割り当てられた。
1972年6月26日に初号機がマクドネル・ダグラス社セントルイス工場で完成。同日、ロールアウト記念式典が行われた。
初号機は後日一旦分解されてカリフォルニア州のエドワーズ空軍基地へC-5輸送機で搬送されて再度組み立てられ、7月27日にモハーヴェ砂漠上空でマクドネル・ダグラス社チーフテストパイロットのアービン・L・バローズにより、約50分間の初飛行を実施した。その後2年余りに及ぶ原型機による試験・評価作業で判明した修正は以下の細部変更に止まり、原設計の堅実さを証明することとなった。
原型機は1973年7月に飛行回数1,000回を数えるまでの間に最大速度マッハ2.5、最大到達高度18,290mを記録している。
外形はF-111やF-14の可変後退翼、F-16のブレンデッドウィングボディといった新機軸を採用することなく、MiG-25やA-5といった前例のある肩翼配置クリップトデルタ翼に双垂直尾翼と全浮動の水平尾翼を配置した堅実な構成となった。
主翼は基本翼形のキャンバーを翼付け根前縁を頂点とした円錐に合わせて翼端では翼形全体までも湾曲させるコニカルキャンバーを与えることで前縁フラップを省略し、後縁に単純フラップと補助翼のみを動翼とした簡素なものである。主翼付け根の膨らみは、ストレーキ類似の離着陸性能と運動性向上の効果を持つ。この主翼付け根の膨らみは機関砲の内蔵スペースともなり、また、後方へ延長されて尾翼の取り付け部となっている。
胴体上面キャノピー後方に大型のエアブレーキを装備し、ドラッグシュートを廃止している。このエアブレーキは、アルミニウム・ハニカムと炭素繊維複合材(グラファイト・エポキシ)を組み合わせた軽量構造になっている。水平尾翼と垂直尾翼はチタン、間にアルミニウム・ハニカム、表面をボロン繊維複合材を使用し、軽量かつ強固な構造となった。他にも、軽量化と耐熱性強化のためにエンジン周りや主翼取り付け部の円矩等の要所で構造重量の25%以上にチタンやチタン合金を使用しており、外形からは窺えないF-15の特徴となっている。
機体最上面に張り出す涙滴型の風防は、単座型と複座型で大差がない程の大きな空間により、抵抗を増やさず360°の視界を確保している。初期の機体では高温強度の高いポリカーボネートにアクリルを拡散蒸着した材質だったが、紫外線による劣化で曇りが出たため強化アクリルガラスに変更された。
操縦系統は、電気式の操縦性増強装置であるCAS(Control Augumentation System)と油圧機構とを組合わせたものである。CASは操縦桿およびフットペダルの操作を電気信号に変換して各動翼の油圧サーボ・シリンダーを作動させるもので、フライ・バイ・ワイヤと同じ原理であるが、フライ・バイ・ワイヤがすべての操作を飛行制御コンピュータの電気信号指令だけで行うのに対して、CASはリンク機構による機械的な結合で接続されている補助翼、方向舵、水平尾翼に並行して追加される形で装備され、安定増強や操舵補正を行っている。これにより機械的な結合が破損してもCASのみの制御で飛行を継続できるが、F-16のようなCCV設計の導入は不可能であった。
コックピットはアナログ計器にCRTのレーダースコープを組み合わせた当時主流の設計であるが、操縦桿とエンジンの出力を制御するスロットル・レバーに操縦・操舵・航法・通信・エンジン関係・火器管制などで使用頻度が高いスイッチを取付けて、HUDと組合わせることにより、パイロットが飛行中でも視線を逸らさずに手を離すこともなく、それらを操作することができるHOTASが導入されるなど、信頼性と革新性を両立した設計となっている。
火器管制システムは高性能のレーダー(AN/APG-63/70シリーズ)を中心とした高度の自動化設計により、単座運用を実現している。APG-63レーダーは小型戦闘機程度の投影面積である目標に対しては80海里(148km)以上の距離で探知が可能である。搭載のデータリンクを使用した早期警戒管制機(AWACS)との連携により高度な迎撃能力を発揮する。
機密性が高く輸出を許可していなかったTEWS(Tactical Electronic Warfare System:戦術電子戦システム)は、AN/ALR-56レーダー警報受信機、AN/ALQ-128電子戦警戒装置、AN/ALQ-135内蔵式電波妨害装置、AN/ALE-45 チャフ・フレア放出器を統合し、自動化を進めたものである。
プラット・アンド・ホイットニー社のF100ターボファンエンジンを2基搭載する。初期型のF100-PW-100でも1基当たり10,810kgの推力を発揮するため、最小飛行重量に近い状態であれば推力重量比は1を超え、エンジン推力だけで垂直上昇を持続できることになる。実用上の意味はないが、高機動下における急激な運動エネルギー損失の回復に活かせる十分な余剰推力を持つことを意味している。
初期にはスタグネーション・ストールによる事故が頻発したため、スプリッターベーンの延長の他、スロットル操作のマニュアルに注意点を記載するなど運用上の工夫が行われた。
胴体の左右にある二次元型空気取入口は、上方4度下方11度で可動し、内部の可動式斜板やバイパス口と協調動作して様々な姿勢及び速度において、適切にエンジンへ外気を導入する。
持続時間制限を受けない最高速度はマッハ2.3であり、マッハ2.3を超え公称最高速度の2.5まではエンジン吸入空気温度その他の制限から1分間に制限されている。
なおF-15Aでも高度10,000-45,000ft格闘戦時基準重量の33,000lb前後ならば、戦闘時推力により僅かながらマッハ1.0を超える速度での飛行が可能である。
F-15のエンジン後部にある可変式ノズルにアイリス板が取り付けられていないのは、当初装着機からの脱落が相次いだのが原因であった。そのため、未だに多くの機体はアイリス板を取り付けていない。
F-4はエンジン始動を地上の設備に依存しており、機体が無事でも設備が破壊されると出撃できない弱点があった。F-15では対策として単独で起動できることが要求され、エンジンの起動にはJFSを使用している、JFSが1度に起動できるエンジンは1基であるため、手動で切り替える必要がある。両エンジンの始動が完了した後、JFSは自動で停止する。
F-15の武装はベトナム戦争の戦訓より固定装備とした右翼の付根前縁にある、装弾数940発のM61A1機関砲を始め、主翼下の2ヶ所のパイロンの両側のサイドレールに計4発のAIM-9 サイドワインダー、胴体下面4か所のランチャーに計4発のAIM-7 スパローとなっている。
M61A1機関砲の940発という装弾数はF-4に比べて約50%増加しており、一秒間の射撃を14回行うことができる。機関砲の射線は空中戦用途を主として、機体の基準線から2度上に向けている。
スパローのセミアクティブ・レーダー・ホーミング誘導方式は目標への電波照射を母機から行うため、誘導部が簡単で小型軽量になる代わり、命中まで母機の運動を制約するという欠点を持つ。このため、後には半導体技術の進歩により誘導部の小型化を果たしたアメリカ軍のAIM-120 AMRAAMや航空自衛隊の99式空対空誘導弾といった、アクティブ・レーダー・ホーミング誘導方式への対応も行われている。
この他にも、各国向けの仕様の変更や使用武装の追加など様々な更新を制式採用以後も受けている。
対空戦闘に特化しているとの誤解もあるが運用上からのものであり、開発当初からMk82、Mk84汎用爆弾及びそれらから派生した各種誘導爆弾などを搭載可能な設計がなされている。それら爆撃装備はミサイルの搭載を妨げないため、戦闘爆撃機としての潜在能力も高く、後年のF-15Eへと発展することになる。最大搭載量に関しては、より大型機である以上当然の話であるがF-16よりも多くなっている。本機が純粋に戦闘機として用いられる例が多かったのは、対地攻撃は制空任務よりも損耗率が高く、高価な機体をそれに充てる事が得策でないと判断されたからであり、対地攻撃任務に用いられた例も存在する[注釈 5]。火器管制装置の空対地モードはHUD表示により、対地射撃、(自動)投弾、投弾後の4Gプルアップを支援する。
40年以上も前に開発され、しかも1970年代当時としても保守的に開発された機体ではあるが、本来の高い基本性能に加えて将来の発展性のために当初から余裕を持たせて設計されていたため、後述の新型ミサイルの搭載、改良型エンジンへの更新、さらにAWACSや早期警戒機を中核としたC4Iシステムの高度化に対応するための電子装備の更新等の近代化改修を実施することで、ロシアのSu-27やヨーロッパ国際共同開発のユーロファイター タイフーン、フランスのラファールなどといった、80年代後半から90年代以降にかけて登場した新鋭機に伍して第一線での任務遂行能力を維持している。
F-15の性能を示す一例として「ストリーク・イーグル」がある。これは1975年当時の上昇時間記録に対して、F-15原型機の内の1機を使用して更新を狙ったアメリカ空軍による企画[注釈 6]である。名称中のstreakには本来の「電光石火の」という意味とともに、機体塗装を剥がしてしまった改装から、当時流行した裸で人前を走り回る「ストリーキング」をかけている。これは記録更新機自体の名称にもなった。
1962年に行われたアメリカ海軍の「プロジェクト・ハイジャンプ」においてF-4は3,000、6,000、9,000、12,000、15,000、20,000、25,000、30,000mの8高度までの到達記録を更新した。 それに対して1973年にソビエト連邦はMiG-25の特殊改造機(Ye-266)により、20,000から30,000mまでの3つの記録を更新していた。本計画は国際機関の公認する上昇記録を、ソビエト連邦やアメリカ海軍から奪取することでアメリカ空軍の持つF-15の優位を誇示する狙いがあった。
原型5号機と19号機から約360kg軽い19号機を選び、レーダー・緊急用フック・機関砲など不要な装備品を取り外し、さらに塗装までも剥がして徹底的な軽量化を図った。ただし、特別な推力装置の追加といった改修・改造は施していない。計測は1975年の1月16日-2月1日にかけてノースダコタ州グランド・フォークス空軍基地で空軍のロジャー・スミス少佐、W・R・マクファーレン少佐、デイブ・ピーターソン少佐の操縦により行われた。その結果、以下の様に8つの上昇記録をすべて更新した。機体の改修に要したコストは210万ドルだった。
到達高度 | 従来記録[秒] | プロジェクト記録[秒] |
---|---|---|
3,000m | 34.52 | 25.57 |
6,000m | 48.787 | 39.33 |
9,000m | 61.629 | 48.86 |
12,000m | 77.156 | 59.38 |
15,000m | 114.50 | 77.02 |
20,000m | 169.80 | 122.94 |
25,000m | 192.60 | 161.02 |
30,000m | 243.86 | 207.80 |
ソビエト連邦はこの記録更新に対して、同年5月にMiG-25の特殊改造機E-266Mにより25,000mを154秒、30,000mを189秒と更新しており、現在ではSu-27/P-42が3,000mから15,000mまでの記録を更新しているため、F-15は20,000mの記録のみ保持している。
1976年にバージニア州ラングレー空軍基地の第1戦術戦闘航空団がF-15Aを受領し、初の実戦部隊となる。以降、旧式化したF-4戦闘機と置き換える形でアメリカ国内の部隊や在日アメリカ空軍、在欧アメリカ空軍の部隊へ配備が行われた。
当初はF-15が制空戦闘機の役割を担う予定だったが、高価なためアメリカ軍でも十分な数を調達し切れず、安価なF-16を開発し大量配備する「Hi Lo Mix(ハイローミックス)」運用となっている[注釈 16]。この体制は、後継機種であるF-22とF-35にも引き継がれる。
当時、要撃機として運用されていたF-106戦闘機の老朽化が進み、その後継としてアメリカ海軍のF-14と採用を争った。しかし、従来のアメリカ空軍がソ連のアメリカ本土攻撃能力を過剰に警戒していた事の反動から、要撃機の配備は優先課題とはみなされず、結果としてどちらにも決定されないまま立ち消えとなった。結局はF-106が戦術航空軍団から退役するに伴い、なし崩し的に既に配備されていたF-15が要撃任務を引き継ぐ恰好になった。また1980年代には空軍州兵へのF-15の配備も行われ、F-16とともに要撃任務を引き継いだ[注釈 17]。
最終的なアメリカ空軍のF-15A/B/C/D購入数は911機であった。現在は派生型F-15Eや、後継機F-22の調達により数を減らしている。2009年10月には、最後のF-15A/Bがオレゴン空軍州兵から退役した。米軍のウェブサイトによれば、2012年5月時点の全軍(空軍州兵を含めた)のF-15C/D保有数は249機となっている。
NASAではB型とD型を購入し試験機として利用している。
アメリカ空軍はまず、1974年11月14日にアリゾナ州にあるルーク空軍基地の第58戦術戦闘訓練航空団に複座型の量産一号機を配備し、以降も優先的にこの部隊へ配備を進めた。この部隊では後に編成される部隊の中核要員として、ベトナム戦争の従軍経験のあるF-4やF-104の飛行経験が豊富な操縦士を主体に機種転換訓練を実施した。 1976年1月9日にバージニア州ラングレー空軍基地の第1戦術戦闘航空団が、F-15Aと機種転換訓練を終えた操縦士の編入により最初の実戦部隊となった。以降はアメリカ国内のF-4部隊の更新が続き、1979年までにニューメキシコ州ホロマン空軍基地の第49戦術戦闘航空団、フロリダ州エグリン基地の第33戦術戦闘航空団がF-15A/Bの受領を開始した。
また、1980年からは生産がF-15C/Dに切り替わり、F-4およびA/B型を並行して更新することとなった。C/D型は1988年までに、ホロマン空軍基地の第49戦術戦闘航空団を除くF-15を運用するすべての実戦部隊に配備された。余剰となったF-15A/Bは第58戦術戦闘訓練航空団の後身である第405戦術訓練航空団や、新たに編成されたフロリダ州ティンダル空軍基地の第325戦術訓練航空団へ配備された。また、アメリカ空軍の予備部隊とも言える米空軍州兵(Air National Guard)や、2005年には第65アグレッサー飛行隊へ余剰となったF-15の配備も行われている。
アメリカ本土以外での最初の配備は、1977年1月5日から西ドイツ西部のビットブルク空軍基地駐留の第36戦術戦闘航空団へ行われ、F-15A/Bの約80機、3個飛行隊が編成され、ワルシャワ条約機構軍攻撃機の迎撃の任務に就いた[注釈 18]。1980年からは順次F-15C/Dへと更新されている。次は1978年9月に、オランダのソエステルベル空軍基地第32戦術戦闘飛行隊に配備された。アムステルダムに近いこの基地が選ばれたのは、ワルシャワ機構軍が西ドイツに侵攻する場合、ソ連軍の長距離爆撃機が北海やバルト海から侵入すると予想されていたためである。
1985年には、アイスランドの第57戦闘迎撃飛行隊に配備されたF-4と入れ替えが行われた。この部隊もソビエト軍長距離爆撃機の迎撃任務を主としていた。なお、同飛行隊はF-15C/Dを運用する飛行隊の中で唯一、コンフォーマル・フューエル・タンクを常に装着して運用を行っていた。
極東では1979年に日本の嘉手納空軍基地に所属する第18戦術戦闘航空団の老朽化したF-4の交替機としてF-15C/Dを順次配備し、1980年8月に3個飛行隊すべての更新を完了した。
冷戦の終結以降は旧東側、現在では北大西洋条約機構(NATO)の一員となっているルーマニアのコスタンツァ基地など、多くのNATO軍基地にF-15が展開している。また、2010年のハワイ空軍州兵(第154航空団第199戦闘飛行隊)でのF-15運用終了後、F-22の戦力化までモンタナ空軍州兵のF-15がハワイに派遣される[21]。
後継機のF-22などの配備およびF-35への配備準備に伴い更新が進められている。
フロリダ州ティンダル空軍基地の転換訓練飛行隊へのF-22配備が2002年から行われた。次に2005年にラングレー空軍基地の第1戦闘航空団に編成されているF-15の3個飛行隊のうち、2個飛行隊がF-22に更新された。その後アラスカ州エルメンドルフ空軍基地とニューメキシコ州ホロマン空軍基地、ハワイ州ヒッカム空軍基地への更新・配備が行われている。2009年にはフロリダ州エグリン空軍基地に編成されていた2個飛行隊が所属のF-15を全て手放し、アメリカ空軍初のF-35訓練部隊となるべく準備を始めた。米2010年度には多くのF-15C/D飛行隊が運用を終了し、現役の実戦部隊では在日米軍に残るのみとなった。乗員の教育も今後は空軍州兵部隊にて行われることになる。
残るF-15C/Dに関しては2040Cなどへの近代化が計画されていたが、既に総飛行時間が長く経過しており、F-15E、F-16、およびA-10などのように2030年まで維持できるだけの機体寿命が残ってないこと、コストの増加などで新造したほうが安上がりだったことにより改修は廃案となり、F-15Eベースの新造機F-15EXに置き換えることが決定された[22][23]。
1983年、当時のロナルド・レーガン大統領の推し進めた一連の「SDI計画」(スター・ウォーズ計画)の中に、F-15を衛星攻撃ミサイルの発射母機とする計画が存在した。
古くは1962年にF-4を発射母機とする「カレブ」という四段式固体燃料ロケットの開発、及び二段式ロケットの発射実験を行ったのが始まりである。この実験では、SDI計画の発表以前の1979年からボート社に発注されていた二段式の試作型攻撃破壊ミサイル「ASAT(エイサット)」を使用した。弾頭部はその形状から「フライング・トマト・キャン」と呼ばれた。空中発射実験は1984年1月12日に、実際に軌道上目標に対する発射実験は1985年9月13日に行われた。
これらは計画の大幅見直しで実験が中断され、「ASAT」とパッケージ化されアメリカ西部海岸防空の為に編成された第318迎撃戦闘飛行隊も解散した。また、計画の一部はMD計画に引き継がれている。
アメリカ軍所属のF-15の初実戦は1990年の湾岸戦争であり、初飛行から18年後となる
冷戦構造下の1980年代において、F-15の後継機の開発を目的とした「先進戦術戦闘機計画」により、アメリカ空軍は既にステルス戦闘機F-22の開発に着手していた。しかし、ソビエト連邦の崩壊による冷戦の終結で、1996年末より運用を開始するはずだったF-22の開発・配備計画は先送りとなり、アメリカ空軍に配備されていたF-15は、なおも主力戦闘機であり続けることになった。このため、前述の近代化・延命改修が施され、AIM-120やAIM-9Xなどの新型ミサイル、JHMCSなどの新型機器の運用能力が追加された。なお、米軍が推進したのは現用機材の改修による近代化だったが、2000年にボーイングから公表された資料によると、既存機のF-15C+改修よりもF-15C+新造機導入の方がコストが安い[25]とされている。
第4世代ジェット戦闘機の中でも初期に出現し、ハイスペックだが1970年代当時としても堅実・保守的であった機体ながら諸外国の戦闘機と十分に渡り合える性能を維持し続け、2025年を目処に現用の442機のF-15C/Dを全機退役させる予定だった。ところが、2007年11月2日に発生したF-15Cの空中崩壊事故を受けて保有する全機を検査した結果、ロンジェロンと呼ばれる機体の構成部品の厚さが規格よりも薄く強度不足である事が判明し、空軍の保有するA-D型機の約40%がそれに該当するとされた。しかし、2008年アメリカ合衆国大統領選挙で、バラク・オバマが大統領に当選したことにより、政策転換でF-22の生産ラインの閉鎖が決定、安全が確認された機体から機体寿命を8,000時間から10,000時間に引き上げるなどの延命措置が行われている。また、18,000時間への延長も検討されていた[26]。
しかし老朽化やコスト削減などから空軍は2017年ごろにF-15のEPAWSSの搭載を含む近代化を停止した[27][28]。当初は後継としてF-16を検討したが[29]、最終的にはF-15EをベースとしたF-15EXを調達する事となった[30]。
アメリカ政府はF-15の輸出による機体単価の低減と外貨獲得を目論み、国防上のリスクの低い友好国への積極的なセールスを実施した。しかし同時期にF-16やF/A-18などコストパフォーマンスに優れた機体が登場したため、採用国は少ない。ただし採用国では主力戦闘機として大量に導入したため、最終的には1100機以上が生産された。
最初の提案先は、パフラヴィー朝時代のイランだった。アメリカと比較的良好な関係にあった当時のイランは(イランの歴史も参照)、ソ連軍の偵察機による度々の領空侵犯への対策として新型戦闘機の導入を計画した。マクドネル・ダグラス社は過去にイランに対してF-4の輸出実績があったため、同じく候補に挙げられていたF-14と競争して売り込みを行った。しかし、イランはF-15の対空兵器に加えてAIM-54 フェニックスを運用できるF-14を1973年に選定した。
一方で、同時期に提案していたイスラエルとサウジアラビアではF-15を採用している。
1970年代末には他の先進国に対する売り込みを図ったが、比較検討を実施したオーストラリアやカナダでは価格を理由にF/A-18を採用するなど実績に乏しかった。唯一、日本の航空自衛隊は1976年12月に次期主力戦闘機として採用し、ライセンス生産を行った。
これら採用各国空軍においては、現在でも第一線に配備されており、今後も長く運用される見通しである。また、各国において近代化改修の計画・実施が行われている。
F-15A系 | F-15C系 | F-15E系 | |
---|---|---|---|
戦闘機 | F-15A F-15B |
F-15C F-15D F-15J F-15DJ |
|
マルチロール機 | F-15E F-15I F-15K F-15S F-15SA F-15SG F-15QA F-15EX |
機体名 | F-15C[47] | |||
---|---|---|---|---|
乗員 | 1名(B/D/DJ型は2名) | |||
ミッション | AIR SUPERIORITY | COUNTER AIR | FERRY | |
全長 | 65.75ft (20.04m) | |||
全幅 | 42.81ft (13.04m) | |||
全高 | 18.58ft (5.66m) | |||
翼面積 | 608ft² (56.49m²) | |||
空虚重量 | 28,476lbs (12,916kg) | |||
離陸重量 | 45,713lbs (20,735kg) | 54,949lbs (24,924kg) | 57,535lbs (26,097kg) | |
戦闘重量 | 41,286lbs (18,727kg) | 40,965lbs (18,581kg) | 33,979lbs (15,413kg) | |
燃料[注釈 24] | 2,070gal (7,836ℓ) | 2,680gal (10,145ℓ) | 3,900gal (14,763ℓ) | |
爆弾 | ― | 3,940lbs (1,787kg) | ― | |
ミサイル | 2,040lbs (925kg) | 2,040lbs (925kg) | ― | |
携行兵装[注釈 25] | AIM-7F×4 | AIM-7F×4 (+ MK-84×2 + CLタンク) | (増槽×3) | |
エンジン[48] | Pratt & Whitney F100-PW-220 (推力:55.25kN ⇒ 104.43kN)[注釈 26] ×2 | |||
最高速度 | 1,340kn/45,000ft (2,482km/h 高度13,716m) | 1,307kn/35,000ft (2,421km/h 高度10,668m) | 1,356kn/45,000ft (2,511km/h 高度13,716m) | |
巡航速度 | 499kn/42,450ft (924km/h 高度12,939m) | 495kn/38,920ft (917km/h 高度11,863m) | 496kn/37,880ft (919km/h 高度11,546m) | |
上昇能力 | 55,960ft/m S.L. (284.28m/s 海面高度) | 53,810ft/m S.L. (273.35m/s 海面高度) | 67,050ft/m S.L. (340.61m/s 海面高度) | |
航続距離 | ― | ― | 2,144n.mile (3,971km) | |
戦闘行動半径 | 235n.mile (435km) | 586n.mile (1,085km) | ― | |
実用上昇限度 | 56,404ft (17,203m) | 56,730ft (17,291m) | 58,870ft (17,944m) | |
機体寿命 | 8,000時間(安全性が確認された機体より10,000時間に延長。ボーイングは最大で18,000時間に延長が可能としている[49]) |
※以下、2,5,8ステーション(増槽搭載用)あたりの搭載数を記載。
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