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三重県鳥羽市にある地名 ウィキペディアから
鳥羽(とば)は、三重県鳥羽市にある町[6][7]。現行行政地名は鳥羽一丁目から鳥羽五丁目[6][7][8] と無人地帯の鳥羽町がある[8]。郵便番号は鳥羽一丁目から五丁目が517-0011で[4]、鳥羽町は設定されていない[注 1]。鳥羽藩の城下町および鳥羽港を擁する港町として発達し、志摩地方の中心地としての機能を有してきた。
鳥羽市の北部に位置し、鳥羽市の中心市街地をなす。三方を安楽島半島、坂手島、小浜半島に囲まれた天然の良港で、船の停泊には適したが、平地部を欠いたため、城下町は一筋の街道(鳥羽道)に沿った街村形態をとっていた[11]。
北は小浜町、南は船津町、西は堅神町・池上町と接する。東側は鳥羽湾・加茂川に面し、対岸に坂手町・安楽島町・大明東町・大明西町がある。
鳥羽には以下のような通称地名(「町」)がある。これらの「町」は、町内会[14]や神社の氏子地域の単位[15]として常用され、1878年(明治11年)まで答志郡の町だったもの(☆印)もある[6]。鳥羽の小字と同名のもの(◎印)もある[1] が、「町」の指す範囲は小字の範囲よりも広い。岩崎など2つの丁目にまたがる「町」もある[16]。
「町」の境界にはたいてい川や水路があり[17]、祭りの際には町境でもめ事が発生したり[17]、祭りで他町を通る時には若者が事前に許可をもらいに行ったり[18]と厳然とした境界があったが、暗渠化や埋め立てで水路が地上からなくなり、曖昧になりつつある[17]。
上記の「町」のうち、旧町人地である本町と大里を合わせて「両町」[31][18]、横町・中之郷・藤之郷を合わせて「三町」と呼ぶ[42]。また、平成以降は中之郷以南の地域を「鳥羽なかまち」と称し、地域住民がまちづくり活動を展開している[17]。
鳥羽は一丁目から五丁目までと、鳥羽町の6つに分かれている[8]。鳥羽市で丁目の設定がある地域は鳥羽のみであり[7]、市内では鳥羽を省略して「○丁目」とだけ呼ぶことがある[注 3]。
丁目 | 番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
鳥羽一丁目 | 全域 | 鳥羽市立鳥羽小学校 | 鳥羽市立鳥羽東中学校 |
鳥羽二丁目 | |||
鳥羽三丁目 | |||
鳥羽四丁目 | |||
鳥羽五丁目 | |||
鳥羽町 |
鳥羽はかつて「泊浦」と呼ばれており、鎌倉時代の史料でその名を確認できる[51]。当時の泊浦は、伊勢神宮(内宮・外宮双方)の御厨であり、伊勢国と志摩国の境界付近に位置したことから、泊浦を志摩国答志郡の所属とする史料、伊勢国度会郡の所属とする史料が混在しており、『神鳳鈔』ではどちらの郡にも泊浦が掲載されている[51]。伊勢神宮の警護のために都から下向していた橘氏は保元・平治の乱の頃(1156年 - 1160年)より泊浦を支配し、一族は泊衆(鳥羽衆)と呼ばれた[52]。
泊浦は鳥羽の語源と考えられており、後代の資料では泊の字に「とば」ないし「とま」のルビを振ったものもあるが、根拠に乏しく、文字通り「とまり」と読むのが正しいとみられる[51]。泊浦が訛って「とば」となり、「鳥羽」の字が当てられたと言われている[51]。室町時代以前の鳥羽は、鳥羽三山と海岸線の間に開けたわずかな空間に成立した小さな村で、大里と小里の2つに分かれていた[11]。この頃の大里は江戸時代以降に横町・中之郷・藤之郷と呼ばれる地域をも包括した地名であった[27]。
南北朝時代になると、泊浦は度会郡棚橋村(現・度会町棚橋)の法楽寺(現・蓮華寺)の所領に移行した[53]。法楽寺は京都の醍醐寺三宝院の末寺であったことから、泊浦は北朝の勢力下に置かれた[53]。当時の泊浦の様子が「検注使法橋慶範注進状」に記録されており、これによると泊浦の一部とされる江向村は嘉元4年(1306年)に在家が115宇あり、延慶3年(1310年)には135宇に増加したという[53]。本在家は平均12坪(≒40 m2)と比較的広いのに対し、新在家は4坪(≒13 m2)以下が一般的であり、村人は農漁民ならず、巫女や番匠なども居住しており、当時から都市的な性格を帯びていたことが窺える[53]。貞和4年(1348年)の史料「外宮禰宜目安状案」には「泊浦之守護代ノ城」の文字が見られ、伊勢・志摩両国の守護所があったことが分かる[51]。そこで南朝方に就いた外宮の神主・度会家行は、正平3年1月6日(ユリウス暦:1348年2月5日)に渋谷弾正を大将として泊浦へ送り込み、守護代を襲撃した[53]。続いて応永6年から7年(1399年 - 1400年)にかけて、足利義満は伊勢国守護の仁木義員と土岐康行を介して、法楽寺領泊浦を三宝院雑掌に渡し付けるよう命じた[51]。
戦国時代初期の鳥羽は、引き続き橘氏を当主とする泊衆(鳥羽衆)の支配下にあった[52]。当時の志摩国は「志摩十三地頭」と呼ばれる地侍が群雄割拠する時代であり[54]、後鳥羽天皇の末裔とも称される当主・橘宗忠(原監物、鳥羽主水とも)は伊勢国司の北畠氏に服属して多気御所公家に列し、他の地頭衆から「鳥羽殿」の尊称で呼ばれる盟主的存在であった[52]。宗忠は取手山(日和山)に取手山城を、観音山(城山)に砦を築き、相島(ミキモト真珠島)と千貫島(誓願島)に船番所を設けて鳥羽港に入港する船から帆別銭と呼ばれる入港税を徴収して生計を立てていた[55]。しかし宗忠には嫡男がなく、宗忠の死後に所領は娘婿の九鬼嘉隆のものとなった[55]。鳥羽衆は嘉隆の家臣になる者、嘉隆に対抗する小浜景隆に従う者、庶民になる者とそれぞれの道を歩んだ[52]。永禄13年(1570年)に嘉隆は志摩国を平定し、文禄3年8月(1594年9月)に鳥羽城を築城した[56]。鳥羽城は大手門を海側に向けた類例の少ない海城で、鳥羽の町とは海面で隔てられた離れ小島にあった[57]。その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、嘉隆は西軍方に就いて、息子の守隆は東軍方に味方して親子で戦うこととなったが、両陣営とも身内同士であり、なおかつ築城間もない鳥羽城を灰燼に帰すのは忍びなかったため、敵のいないところに矢を放ったり、空砲を撃ったりして戦っているように見せかけた[58]。関ヶ原の戦いの本戦は東軍の勝利に終わり、嘉隆は答志島へ渡って自害した[59][60]。
江戸時代には志摩国答志郡に属し、鳥羽藩の藩庁所在地・鳥羽城下を成していた[6]。鳥羽藩の初代藩主は九鬼守隆で、大坂の陣の武功により1,000石加増され5万6千石の大名となるが、守隆の死後家督争いが発生し、九鬼氏は内陸の三田藩と綾部藩に分割されて鳥羽を去った[61][62]。以後は内藤氏、土井氏、大給松平氏、板倉氏、戸田松平氏と交代が続き、稲垣昭賢が享保10年(1725年)に入封して以降、稲垣氏で安定した[6][60]。鳥羽藩は志摩一国を領有したとは言え、志摩国の総石高は2万石に過ぎなかったため、伊勢など他国に飛地の領地を有した[62]。しかも鳥羽藩領は耕地が少なく、年貢は米ではなく金納が主であった[62]。
城下町鳥羽は1本の街道に沿って展開し[11][62]、西端にある峠門から南端の奥谷まで15町余(≒1.6 km)であった[6]。城下は町人地の本町、大里、横町、中之郷、藤之郷の5つの町、武家地の鳥羽城郭内(丸之内)と郭外(岩崎、奥谷)で構成された[6]。町人地は1本の街道ながら、片側町、遠見遮断としての鉤型の街路や外縁部の寺院配置など城下町らしさを備えていた[11][62]。他方、鳥羽藩士は安政4年(1857年)時点で387人と少なく城下町としての発展には限界があった[62]が、江戸と上方を結ぶ廻船が熊野灘と遠州灘という2つの難所を越える前後で風待ちのために寄港する港町として繁栄した[11][63]。多い時には500艘もの千石船が鳥羽港に停泊し[64]、城下の各町には操船業(船の漕ぎ手)、船大工、船宿など港に関連する職業に就く住民が多く、宿は諸国の地名を冠していた[11]。さらに船乗りを相手とする遊女も出現し、最盛期には500人にも上ったと伝えられる[64]。この遊女は「はしりかね」と呼ばれた[64]。海に面したため漁業も重要な産業であり、特に『本朝食鑑』で鳥羽の名物と記されたボラを獲る「鯔楯」(ぼらたて)は、鳥羽藩の事業として藩主や家老の手船も出漁し、楯奉行という役職もあったほどである[64]。
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明治4年7月14日(グレゴリオ暦:1871年8月29日)、廃藩置県により鳥羽藩の配下を鳥羽県に置き換え、藩庁を県庁としたため、県庁所在地となった[6]。鳥羽藩の知藩事だった稲垣長敬は解任され、稲垣保が権大参事として県政を司った[6]。また鳥羽城下が解体され、町人地5町(本町、大里町、横町、中之郷、藤之郷)は独立した町となり、武家地では通称だった奥谷が正式な町に昇格、丸之内と岩崎は合併して錦町[注 6]となった[25]。しかし府県統合により鳥羽県は度会県に吸収されることとなり、わずか4か月後の11月22日(グレゴリオ暦:1872年1月2日)に消滅した[25]。鳥羽城の堀は埋め立てられて漸次錦町へ編入されていき、その地価は1坪あたり現金で80銭、延金で1円だった[65]。一方、蒸気船の時代が到来して風待ちをする必要がなくなり、鳥羽港の賑いがそがれていった[6]。1878年(明治11年)、分割された7町が合併し、鳥羽町となった[6]。
明治初期に城下町・港町の2つの性格を同時に失った鳥羽であったが、港湾都市としては日本国郵便蒸気船会社(現・日本郵船)の分社を小津清左衛門ら松阪の豪商が明治5年(1872年)に誘致し、海軍省が鳥羽港を要港に指定し、相島(ミキモト真珠島)に油槽所を置いて頻繁に出入りするようになったため、命脈を保った[19]。政治都市としても1879年(明治12年)2月に答志郡・英虞郡共通の郡役所が常安寺に置かれ、初代郡長に河原田俊蔵が就任することで再生した[66]。一方、街の経済を支えたのは1878年(明治11年)に進出した鳥羽造船所であった[6]。鳥羽造船所は東京で造船業を営む福沢辰蔵が、自身の造船所の支店として開設したもので、翌1879年(明治12年)12月に旧鳥羽藩士の稲垣幸作や山本如水らの資金提供を受けて基盤を整え、事業を拡大していった[67]。この頃、民間では自由民権運動の影響が表れ始め、修志社や志勢同盟会といった結社が生まれた[68]。ここで活躍した須藤富八郎は1889年(明治22年)に鳥羽町・堅神村・小浜村が合併して発足した鳥羽町の初代町長に就任した[69]。合併前の旧鳥羽町の範囲は大字鳥羽町、すなわち住所表記上「鳥羽町鳥羽町」となったが、1917年(大正6年)に大字鳥羽(鳥羽町鳥羽)へ変更した[70]。
1911年(明治44年)7月21日、参宮線が鳥羽まで延伸し、終点となる鳥羽駅が開業した[71]。駅を建設する平地を確保するため、15,000坪余(≒5 ha)の海面が埋め立てられた[72]。開通祝賀会には後藤新平が出席し、当日の伊勢新聞は志摩郡全体の水産業と観光業の発展の条件が整ったとする社説を掲載した[73]。実際に奥志摩(現・志摩市)や南島地方(現・南伊勢町)から鳥羽に人や物が集まり、鳥羽駅から鉄道輸送する交通流が生まれ、更なる鉄道延伸が議論された[74]。まず1919年(大正8年)に志摩自動車(後に戦時統合により三重交通に吸収合併)が鳥羽 - 鵜方間で志摩地方初の路線バスの運行を開始し、続いて1929年(昭和4年)7月23日に志摩電気鉄道(現・近鉄志摩線)が鳥羽 - 賢島間の鉄道を開通し、中之郷駅を新設した[75]。こうして鳥羽駅は鳥羽町外との中継地、中之郷駅は鳥羽町内の中心地および鳥羽港の物資中継地という役割分担が成立し[76]、岩崎・本町・錦町は観光客向け、中之郷・藤之郷は地元客向けの商店街へと変貌していった[19]。鳥羽で観光が本格的に始まるのは、1927年(昭和2年)に鳥羽湾が日本百景の1つに選定されて以降であり、同年12月に鳥羽湾で遊覧船の運航を、1933年(昭和8年)9月8日には日和山でエレベーターの運行を開始した[77]。この間、1917年(大正6年)12月20日、錦町の個人宅から出火し、強い西風にあおられて錦町から中之郷まで391棟が全半焼する鳥羽大火が発生した[78]。これを機にまちなかの道路が拡幅され、その費用を捻出するために中之郷沖を埋め立てて土地を造成し、その売却益を充当した[79]。
太平洋戦争中の鳥羽は、海軍の伊勢防備隊が設置されるなどいくつかの軍事拠点が置かれたが、組織的な攻撃を受けることはなかった[80]。とは言え、応召等で181人の戦没者が出た[81]。終戦から間もない1946年(昭和21年)11月20日には伊勢志摩国立公園が指定を受け[82]、「鳥羽の将来は観光で生きていく以外にない」と鳥羽町長の佐藤忠が発言するなど観光業が街の中心になっていく[83]。観光施設としては1951年(昭和26年)3月12日に御木本真珠ヶ島(現・ミキモト真珠島)、1955年(昭和30年)5月15日に鳥羽水族館が開業した[84]。この間、1954年(昭和29年)に鳥羽町が周辺村と合併して鳥羽市が発足し、大字鳥羽は鳥羽町に戻った[6]。高度経済成長期になると、観光シーズンに国道167号(鳥羽道)の渋滞や市街地の駐車場不足が顕著となり、岩崎桟橋の船舶の混雑も課題となった[85]。そこで鳥羽市の初代市長・中村幸吉は佐田浜沖を埋め立てて新港と新国道を建設することを決定し、1966年(昭和41年)6月2日に鳥羽市役所で起工式が挙行、1972年(昭和47年)に埋め立てを終了した[86]。4車線を持つ海岸沿いの新国道は1973年(昭和43年)3月18日に開通し、交通流動の中心は海岸沿いへ移動し、市街地を通過する自動車はほぼなくなった[87]。この間、1966年(昭和41年)9月1日に鳥羽町の大部分を鳥羽一丁目から四丁目に分割し[1]、翌1967年(昭和42年)9月1日には船津町の北部、船津新田と呼ばれた地域を鳥羽五丁目とした[16][39]。
中世の頃の地名「泊浦」が転訛して「とば」になったとされる[51]。「鳥羽」という漢字表記は、賀多神社の縁起を記した『賀多社古老口実伝』にある、八王子神がワシ(鳥)の羽でできた船に乗ってこの地に降り立ったという伝説に基づいているとされる[51]。
実施後 | 実施年月日 | 実施前 |
---|---|---|
鳥羽一丁目 | 1966年(昭和41年)9月1日[1] | 鳥羽町(字 高城・岩崎ノ上・茶臼山・茶臼山腰・焔硝蔵・焔硝蔵ノ前・焔硝蔵西岨・焔硝蔵ノ岨・焔硝蔵山ノ手・大墓所前・佐田浜・大杉ノ下・大杉ノ上・佐田小山・佐田宮田・日和山・日和山東谷・日和山東腰・日和山尾崎・佐田北山・エゴ松ノ上・瀬ノ浜・北主水山・菖蒲ヶ谷・主水山・菖蒲ヶ谷ノ上・北ナメカブラ・五リンノ上・ナメカブラ・浜辺田・日和山西岨・浜辺田ノ岨・浜辺田ノ上・南主水山・新兵エ坂東岨・新兵エ坂ノ岨・尾屋道ノ東・梅崎・浪静・角助田ノ東・小浜道南・馬ノ谷打越・八軒屋打越・角助田・角助田ノ西・大北裏・古墓所打越・小田谷打越・十兵エ田ノ上・十兵エ田ノ岨・大北裏十兵エ田・北裏山・佐八弓張田・小浜境魚見田ノ東・小浜境魚見田ノ上・鳶ヶ巣小浜兵谷・佐八北裏・相島の全域と字 佐八・錦町の一部) |
鳥羽二丁目 | 鳥羽町(字 大里町・本町・宮ノ谷・妙生寺ノ上・即心軒ノ東・即心軒ノ上・馬ノ谷・八軒屋・馬ノ谷ノ上・八軒屋ノ上・仮墓所・小田谷・三昧・兎谷・東佐八・大石谷・松ノ木谷北側・ホウジ谷・大田・松ノ木谷長屋跡・松ノ木谷往来ノ前・山神ノ前・松ノ木谷往来ノ南・裏萩東山・十軒屋・常安寺山・日高山・真誓谷ノ上・自益谷ノ上・同院谷ノ上・佐八・鉄砲矢場ノ下の全域と字 大谷・大谷西ノ奥・錦町、瀬巴山、松ノ木谷焼場谷、イボトリ・十軒屋ノ上、裏萩山の一部) | |
鳥羽三丁目 | 鳥羽町(字 横町・向山・西清水・東清水・中之郷町・港町・東清水吹貫の全域と錦町・樋ノ山、瀬巴山、藤之郷町の一部) | |
鳥羽四丁目 | 鳥羽町(字 樋ノ山尾崎・奥谷・兵四郎山・加茂道・加茂道尺道ノ下・加茂道ノ東、加茂尺道ノ下・加茂道尺道ノ上・赤崎地蔵下・角兵衛ノ鼻・角兵衛鼻ノ下・三ツ石、赤崎金山・赤崎往来ノ上・赤崎の全域と奥谷南側ノ上・藤之郷町・五段の一部) | |
鳥羽五丁目 | 1967年(昭和42年)9月1日[16][39] | 船津町(字 赤崎・青丸・稲吉・柿ヶ谷の全域、字 小掛・樋野山の一部) |
2019年(令和元年)8月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[3]。
国勢調査等による人口の推移。
1746年(延享3年) | 4,380人 | [6] | |
1857年(安政4年) | 3,873人 | [88] | |
1879年(明治12年) | 4,723人 | [88] | |
1888年(明治21年) | 4,400人 | [88] | |
1995年(平成7年) | 3,420人 | [89] | |
2000年(平成12年) | 2,848人 | [90] | |
2005年(平成17年) | 2,521人 | [91] | |
2010年(平成22年) | 2,250人 | [92] | |
2015年(平成27年) | 1,996人 | [93] |
国勢調査等による世帯数の推移。
1746年(延享3年) | 931戸 | [6] | |
1857年(安政4年) | 892戸 | [88] | |
1879年(明治12年) | 1,044戸 | [88] | |
1888年(明治21年) | 931戸 | [88] | |
1995年(平成7年) | 1,351世帯 | [89] | |
2000年(平成12年) | 1,204世帯 | [90] | |
2005年(平成17年) | 1,123世帯 | [91] | |
2010年(平成22年) | 1,052世帯 | [92] | |
2015年(平成27年) | 920世帯 | [93] |
岩田準一の調査によれば、近世・近代の鳥羽には、町の番太(正月)、大及打(おおぎっちょう、1月3日 (旧暦))、獅子舞(旧暦1月6日 - 1月7日)、踊り児(1月6日 (旧暦))、観音講(1月8日 (旧暦))、大念仏(7月15日 (旧暦))、追んやれ(7月30日 (旧暦))、盆踊り(お盆)、家浄め(やぎよめ、11月1日 (旧暦))、山の神(11月1日 (旧暦))六十六垢離(旧暦11月1日から66日間)、ねこもさんも(12月8日 (旧暦))、じうぞうけんぞく(大晦日)、年忌の雀(「町」により時期が異なる)などの年中行事が主に鳥羽の「町」ごとに行われていた[94]。鳥羽の盆踊りは、町人に交じって武士も踊りの輪に加わったことから、身分を隠すために手ぬぐいや編み笠で顔を隠して踊るという独特の風習があったが、昭和初期には顔を隠す伝統はほぼなくなっていた[95]。
相橋(あいはし)は妙慶川(みょうけいがわ)に架かる橋である[97]。妙慶川と相橋は、室町時代以前に伊勢国と志摩国の境界をなしていた[11]。相橋とは伊勢国と志摩国が相まみえるところの橋という意味である[97]。嫁入りと葬式の際には相橋を渡ってはいけないという風習があった[97]。
江戸時代には相橋に鳥羽城の堀口門が置かれ、大山祇神社への参道にあたる橋でもあったことから、重要な地点であった[97]。妙慶川は鳥羽城の堀として利用された[98]。上述の大及打(おおぎっちょう)は人形(ひとがた)、祷人(とうにん、宮守り役)の妻の毛髪、櫛、笄(こうがい)を詰めた小俵を相橋の上で引っ張り合うという祭りであった[96]。「エイサラサ」、「サラサノサ」の掛け声で3度小俵を引き合う[96]が、かつて伊勢国であった妙慶川の北側を志摩国に編入したという歴史を踏まえ、必ず志摩国側(妙慶川の南側)へ引き入れていた[6]。3度目の引き合いの後、小俵は海へ流し、社宮司(現・大山祇神社)の山へ駆け上り、神楽太鼓を叩き、その後町へ下りて「大及打の初穂」と称して各戸を巡回し、米銭を集めて祭りは終了となった[96]。祭りの間、相橋は通行が禁じられるが、その下の妙慶川を船で行き来するのは自由であったため、ある時相橋から落ちてきた小俵が航行中の兵庫の伝馬船へ転がり込み、その船と船の持ち主の俵屋に幸福をもたらしたという昔話が残っている[96]。
妙慶川の周辺は1977年(昭和52年)以降の土地区画整理事業により変貌しているが、相橋の周辺は江戸時代の雰囲気を残している[98]。
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