近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道に属する。現在の滋賀県全域にあたる。
近江は、『古事記』では「近淡海(ちかつあはうみ)」「淡海(あはうみ)」と記されている。7世紀、飛鳥京から藤原宮期の遺跡から見つかった木簡の中には、「淡海」と読めそうな字のほか、「近淡」や「近水海」という語が見えるものがある。「近淡」はこの後にも字が続いて近淡海となると推測される[1]。国名は、琵琶湖を「近淡海」と称したことに由来するとする説が広く知られているが、琵琶湖を「近淡海」と記した例はなく、『万葉集』をみても、琵琶湖は、「淡海」「淡海之海」「淡海乃海」「近江之海」「近江海」「相海之海」と記されている。「淡海」の所在する国で、畿内から近い国という意味であり、「近つ『淡海国』」であり、「『近つ淡海』国」ではない[2]。おおよそ大宝令の制定(701年)・施行を境にして、近江国の表記が登場し、定着する。和銅6年(713)4月丁巳(25日)の、諸国郡郷名には好字二字をつけよ、との法令による。
近世以降の沿革
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(1,597村・858,618石7斗5升)。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。
- 滋賀郡(110村・46,138石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、公家領、門跡領、膳所藩、宮川藩、下野佐野藩、山城淀藩、河内狭山藩
- 栗太郡(125村・70,472石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、膳所藩、三上藩、上野前橋藩、丹後宮津藩、河内狭山藩、伊勢菰野藩、和泉伯太藩
- 野洲郡(99村・68,554石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、公家領、施薬院領、西大路藩、大溝藩、三上藩、宮川藩、山上藩、山城淀藩、武蔵川越藩、丹後宮津藩、河内狭山藩、上野前橋藩、和泉伯太藩、陸奥仙台藩[3]
- 甲賀郡(140村・78,776石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、水口藩、山上藩、宮川藩、三上藩、膳所藩、山城淀藩、武蔵川越藩、丹後宮津藩、河内狭山藩
- 蒲生郡(235村・139,733石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、公家領、門跡領、西大路藩、水口藩、宮川藩、山上藩、大和郡山藩、武蔵川越藩、陸奥仙台藩[3]、尾張名古屋藩、山城淀藩、丹後宮津藩、上野前橋藩、讃岐丸亀藩、和泉伯太藩、丹後峰山藩
- 神崎郡(86村・48,583石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、山上藩、大和郡山藩
- 愛知郡(117村・64,845石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、彦根藩、宮川藩
- 犬上郡(122村・62,137石余) - 彦根藩
- 坂田郡(178村・92,105石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、彦根藩、宮川藩、水口藩、山上藩、大和郡山藩、出羽山形藩、紀伊和歌山藩、讃岐丸亀藩
- 浅井郡(148村・76,876石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、彦根藩、膳所藩、山上藩、大和郡山藩、山城淀藩、三河吉田藩、出羽山形藩
- 伊香郡(71村・36,243石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、彦根藩、膳所藩、山城淀藩、上総飯野藩、三河吉田藩
- 高島郡(166村・74,151石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、大溝藩、膳所藩、大和郡山藩、越前鞠山藩、武蔵川越藩、若狭小浜藩、和泉伯太藩、加賀藩、山城淀藩、三河吉田藩、丹波福知山藩
- 慶応4年
- 明治元年12月22日(1869年2月3日) - 寺社領のうち滋賀郡の滋賀院領が大津県の管轄となる。
- 明治2年
- 明治3年
- 明治4年
- 明治5年
国分寺・国分尼寺
国分僧寺は、はじめ甲可寺(現 甲賀市信楽町、紫香楽宮跡とされてきた)に設置された。その後、瀬田廃寺(大津市神領)にうつり、焼失の後、820年(弘仁11年)に国昌寺跡(大津市国分)に移された。ここでは最澄が若き日に修学しているとされる。国分尼寺跡としても、石山国分遺跡(大津市国分)が有力視されている。
郡
江戸時代の藩
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近江国の藩の一覧
藩名 | 居城 | 藩主 |
彦根藩 |
佐和山城 (1600年~1606年) 彦根城 (1606年~1871年) |
井伊家(1600年~1871年、18万石→15万石→20万石→25万石→30万石(35万石格)→20万石→23万石) |
膳所藩 |
膳所城 |
戸田家(1601年~1616年、3万石)
本多家(1616年~1621年、3万石)
菅沼家(1621年~1634年、3万1千石)
石川家(1634年~1651年、7万石→5万3千石)
本多家(1651年~1871年、7万石) |
水口藩 |
水口城 |
加藤家(1682年~1695年、2万石)
鳥居家(1695年~1712年、2万石)
加藤家(1712年~1871年、2万5千石) |
大溝藩 |
大溝陣屋 |
分部家(1619年~1871年、2万石) |
仁正寺藩 |
仁正寺陣屋 |
市橋家(1620年~1871年、2万石→1万8,000石→1万7,000石) |
山上藩 |
山上陣屋 |
稲垣家(1698年~1871年、1万3千石) |
近江宮川藩 |
宮川陣屋 |
堀田家(1698年~1871年、1万石→1万3千石) |
三上藩 |
三上陣屋 |
遠藤家(1698年~1870年、1万石→1万2千石) |
堅田藩 |
堅田陣屋 |
堀田家(1698年~1826年、1万石→1万3千石)
下野佐野藩に転封、堅田藩は廃藩 |
朽木藩 |
朽木陣屋 |
朽木稙綱(1636年~1648年、1万石)
朽木家は下野鹿沼藩に転封、朽木藩は廃藩 |
大森藩 |
大森陣屋 |
最上義俊(1622年~1632年、1万石)
嗣子・義智が幼年のため5千石の交代寄合とされ、大森藩は廃藩 |
近江高島藩 |
|
佐久間安政(1600年~1616年、1万5千石→2万石)
信濃飯山藩に加増転封、近江高島は飯山藩領の飛び地となったが、後に佐久間氏は無嗣改易となり近江高島は天領となった |
近江小室藩 |
小室陣屋 |
小堀家(1619年~1788年、1万2460石→1万1460石→1万630石)
不正のため改易・廃藩 |
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守護
室町幕府
- 1335年 - 1336年 - 六角氏頼
- 1336年 - 1338年 - 京極高氏(佐々木道誉)
- 1338年 - 1340年 - 京極秀綱(佐々木秀綱)
- 1340年 - 1351年 - 六角氏頼
- 1351年 - 山内信詮[注釈 5]
- 1351年 - 六角直綱
- 1352年 - 1353年 - 六角義信
- 1354年 - 1370年 - 六角氏頼
- 1370年 - 1377年 - 六角高経(後の京極高詮)[注釈 6]
- 1377年 - 1411年 - 六角満高
- 1411年 - ? - 青木持通
- 1412年 - 1416年 - 六角満高
- 1416年 - 1441年 - 六角満綱
- 1441年 - 1445年 - 六角持綱
- 1445年 - 1456年 - 六角久頼
- 1456年 - 1458年 - 六角高頼(1度目)(六角政頼?)
- 1458年 - 1460年 - 六角政堯(1度目)
- 1460年 - 1468年 - 六角高頼(2度目)
- 1468年 - 1469年 - 六角政堯(2度目)
- 1469年 - 1470年 - 京極持清
- 1470年 - 1471年 - 京極孫童子丸
- 1471年 - 1471年 - 六角政堯(3度目)
- 1471年 - 1473年 - 六角虎夜叉
- 1473年 - 1478年 - 京極政高(京極政経)
- 1478年 - 1487年 - 六角高頼(3度目)
- 1488年 - 1489年 - 結城尚豊
- 1489年 - 六角高頼
- 1490年 - 1492年 - 細川政元
- 1492年 - 1493年 - 六角虎千代
- 1493年 - 1494年 - 山内就綱
- 1495年 - ? - 六角高頼
- 1507年 - ? - 六角氏綱
- 1508年 - ? - 京極高清
- 1511年 - 1518年 - 六角氏綱
- 1518年 - 1552年 - 六角定頼
- 1552年 - ? - 六角義賢
戦国大名
- 六角氏(観音寺城):守護大名から近江南部の戦国大名へ。1568年、観音寺城の戦いで織田信長に敗れて以降衰退
- 京極氏(上平寺城):近江北部の戦国大名。被官の浅井氏に実権を奪われ衰退、後豊臣秀吉に臣従して大名として復活
- 浅井氏(小谷城):北近江の国人から主家の京極氏に代わり戦国大名へ。1573年、小谷城の戦いで織田信長に敗れて滅亡
- 織田信長(安土城):近江平定後、1579年に岐阜城から安土に居城を移す
- 織田政権の大名
- 豊臣政権の大名
2009年12月8日の滋賀県議会一般質問で無所属議員の木沢成人が、県内外での滋賀ブランドを向上させるため、「滋賀県」から「近江県」への改名を提議したことがある[4]。
注釈
『籐氏家伝』の「武智麻呂伝」にある。続日本紀には霊亀2年(716年)5月に在職であったことが分かる。
六角氏頼が出家してしまい、嫡男の義信はまだ幼少だったため、氏頼の弟の定詮(後の山内信詮)が後見として守護に任じられたが、観応の擾乱で足利尊氏と敵対する足利直義方に離反したため、もう一人の弟である直綱に守護に交替させられた(下坂守「近江守護六角氏の研究」(初出:『古文書研究』12号(1978年)/所収:新谷和之 編著『シリーズ・中世西国武士の研究 第三巻 近江六角氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-144-8))。
佐々木氏宗家の氏頼嫡男の義信が先立ったため、佐々木氏傍家の京極氏から養嗣子として高経を迎えた。当初は六角氏の家督と近江守護を継ぐが、氏頼嗣子の満高が立ったため、内紛で実家の京極氏に戻された後に「京極高詮」として京極氏の家督と(近江ではなく)飛騨守護を継いだ。
出典
舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17頁・19-20頁。
櫻井信也「「大津宮」の宮号とアフミの表記」、『近江地方史研究』第32号、1996年。
「旧高旧領取調帳」の記載は大津県。本項では「角川日本地名大辞典」の記述による。
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