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山上藩(やまかみはん)は、近江国(現在の滋賀県東近江市山上町)に存在した藩。藩庁は山上陣屋[1]。
ノート:稲垣太清に、このページに関する議論があります。 議論の要約:稲垣太清・太祥・民子3代の代替わりについて |
山上は近江国と伊勢国を結ぶ要衝地帯であった。豊臣氏時代には杉原家次や浅野長政、織田信高らが領していた。徳川氏の時代に入ると元和5年(1619年)10月21日に譜代の家臣である上野高崎藩主安藤重信の領地となった。元禄8年(1695年)5月1日、安藤重博が老中に栄進したため備中松山藩に移封され、山上は幕府直轄領となった。
元禄11年3月7日(1698年4月17日)、若年寄であった稲垣重定が常陸国から移封されたため、山上藩が立藩した。所領石高は1万3000石であった。重定の時代に奉行制度などの藩政が確立したが、第3代藩主稲垣定享の時代には江戸の大火で上下両屋敷が焼失して出費が相次いだため、定享は質素倹約や新田開発を主とした藩政改革を断行したが、効果が見込めず、また定享自身が若死にしたため、失敗に終わった。その後は天明の大飢饉による寒冷で凶作・飢饉が相次いで藩財政は窮乏していった。また、歴代藩主の多くが若年寄や大坂加番、大番頭や奏者番などの要職を歴任したことも、かえって藩財政の出費を著しいものとする遠因となった。
幕末期、第8代藩主の稲垣太清は大番頭や大坂定番、海軍奉行などの要職を歴任して佐幕派の立場を貫いたが、明治維新頃から太清が病に倒れて稲垣太祥が代理として藩政を執り始めた頃から新政府側に与するようになった。そして明治2年(1869年)の版籍奉還で、太清は隠居して太祥が藩知事となった。その後、山上藩では民政局、裁判所、藩校である文武館などが創設されるなどの改革が行なわれたが、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で山上藩は廃藩となって山上県となる。同年11月、山上県は大津県に吸収され、翌年には滋賀県に編入された。藩主家である稲垣氏は、子爵に任じられた。
譜代 1万3000石
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