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練馬 (練馬区)
東京都練馬区の町名 ウィキペディアから
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練馬(ねりま)は、東京都練馬区の町名。現行行政地名は練馬一丁目から練馬四丁目。住居表示実施済み。
地理
練馬区のやや中央東寄りに存在する。北部を早宮、南部を中村北、豊玉北、豊玉上、東部を桜台、西部を向山と接している。
練馬区役所本庁舎は、豊玉北に所在。豊島園駅は練馬所在だが、としまえんは向山所在。
河川
地価
住宅地の地価は、2025年(令和7年)1月1日の公示地価によれば、練馬1-40-11の地点で57万円/m2、練馬2-17-6の地点で53万2000円/m2、練馬4-23-7の地点で51万6000円/m2となっている[5]。
歴史
要約
視点
地名の由来
沿革
- 8世紀半ばごろ - 武蔵国に乗潴駅が所在(10世紀初頭には消滅)し、その所在には練馬区練馬説と、杉並区天沼説がある。練馬区練馬説における、乗潴駅の所在地は、白山神社付近であると推定されている。
- 1083年(永保3年) - 源義家が練馬白山神社の大ケヤキを奉納したと伝えられている。
- 1281年(弘安4年) - この年の板碑が、白山神社周辺から出土。当時、白山神社周辺に集落が発達していたと考えられている。
- 1868年8月8日(慶応4年6月20日) - 武蔵国豊島郡豊島郡下練馬村は、武蔵知県事松村忠四郎長為の管轄となるが[6]、まもなく古賀定雄に交代[7]。
- 1869年3月21日(明治2年2月9日) - 品川県が設置され、品川県豊島郡下練馬村となる[8]。
- 1870年1月19日(明治2年12月18日) - 品川県内の寄場組合が廃止され、中荒井村を筆頭とする22番組に所属[9]。
- 1872年1月14日(明治4年12月5日) - 東京府に編入され新宿口第22区(戸長・岩堀傳内)の所属となる[10]。
- 1873年(明治6年)3月18日 - 朱引外大小区改正により第8大区7小区の所属となる。
- 1878年(明治11年)11月2日 - 東京府北豊島郡下練馬村となる(郡区町村編制法施行による)。
- 1889年(明治22年)5月1日 - 本区域で、市制町村制施行されるが、地名変更なし。
- 1915年(大正4年)4月15日 - 武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)の練馬駅が開業。
- 1919年(大正8年)10月10日 - 練馬駅北口で、大日本紡績練馬工場が操業開始。
- 1927年(昭和2年)10月15日 - 武蔵野鉄道豊島線の豊島駅(現在の西武豊島線豊島園駅)が開業。
- 1929年(昭和4年)4月1日 - 東京府北豊島郡練馬町となる(町制施行による)。
- 1932年(昭和7年)10月1日 - 東京府東京市板橋区練馬南町となる(東京市編入および板橋区新設による)。
- 1938年(昭和13年)4月 - 中央大学練馬競技場(現在の練馬総合運動場)が開場する。
- 1940年(昭和15年)4月 - 私立豊島ケ岡青年学校が東洋紡織工業練馬工場内に開校。
- 1942年(昭和17年) - 豊島園駅そばに、私立練真中学校が開校。
- 1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都板橋区練馬南町となる(東京都制施行による)。
- 1947年(昭和22年)8月1日 - 東京都練馬区南町三丁目から五丁目までとなる(練馬区設置による[11])。
- 1949年(昭和24年)5月2日 - 練馬区立開進第二中学校が、開進第二小学校内から現在地(現在の練馬二丁目)に移転する。
- 1949年(昭和24年)8月1日 - 練馬授産場を開設。
- 1952年(昭和27年)9月1日 - 練馬区立南町小学校が、開進第二小学校を学区分割して開校。
- 1955年(昭和30年) - 私立練真高等学校が廃校。
- 1955年(昭和30年)4月23日 - 練馬和光保育園が開園。
- 1959年(昭和34年)3月11日 - 練馬南町四郵便局(特定郵便局)を置き、電話通話および和文電報受付事務を取り扱う[12]。
- 1961年(昭和36年)4月1日 - 練馬授産場が改築。
- 1963年(昭和38年)2月1日 - 住居表示を実施し、東京都練馬区練馬一 - 四丁目となる[13]。
- 都内第一号の住居表示実施である。
- 1963年(昭和38年)8月5日 - 練馬南町四郵便局を、練馬二郵便局へ改称する[14]。
- 1966年(昭和41年)7月1日 - 練馬四郵便局(特定郵便局)を置く[15]。
- 1966年(昭和41年)11月11日 - 学校給食第二総合調理場が開場。
- 1970年(昭和45年)12月21日ころ - 鐘淵紡績練馬工場が廃場となる。
- 1973年(昭和48年)4月1日 - 練馬保育園が開園(厚生文化会館内)。
- 1973年(昭和48年)5月1日 - 厚生文化会館が開館。
- 1974年(昭和49年)10月 - 中央大学練馬グラウンド(現在の練馬総合運動場)を、東京都が用地買収。
- 1976年(昭和51年)6月23日 - 区立豊島園駅西自転車駐車場を開設。
- 1977年(昭和52年)3月 - 鐘淵紡績練馬工場跡地の開発を、株式会社ディベロッパーカネボウが断念し、同地を東京都と練馬区が買収。
- 1977年(昭和52年)4月1日 - 練馬一丁目公園が開園。
- 1978年(昭和53年)6月1日 - 旧中央大学練馬グラウンド(現在の練馬総合運動場)を一般開放。
- 1978年(昭和53年)8月2日 - 鐘淵紡績練馬工場跡地を区民に暫定開放。
- 1983年(昭和58年)4月3日 - 鐘淵紡績練馬工場跡地に練馬文化センターが開館。
- 1985年(昭和60年)6月18日 - 練馬駅前再開発に伴い、練馬一丁目地区市街地再開発準備組合が発足。
- 1991年(平成3年)12月10日 - 都営地下鉄12号線(現在の都営大江戸線)豊島園駅が開業。
- 1993年(平成5年)7月1日 - 厚生文化会館が改築開館。
- 1994年(平成6年)4月15日 - 鐘淵紡績練馬工場跡地に平成つつじ公園が開園。
- 1995年(平成7年)7月18日 - 鐘淵紡績練馬工場跡地に練馬駅北口地下駐車場が開場。
- 1996年(平成8年)10月1日 - 練馬デイサービスセンターが開設。
- 2002年(平成14年)3月31日 - 練馬授産場を廃止。
- 2014年(平成26年)頃 - 学校給食第二総合調理場が閉鎖。
旧小字
地租改正後の記録として残る小字は以下のとおり。左が現町名、右が小字名である。
- 練馬一丁目 - 栗山(くりやま)、谷戶(やと)
- 練馬二丁目 - 栗山、栗山下(くりやました)、糀谷(こうじや)
- 練馬三丁目 - 出頭(でがしら)、谷戶
- 練馬四丁目 - 栗山下、谷戶山(やとやま)
町名の変遷
板橋区成立時の町名改称は以下のとおり[16]。
練馬区成立時の町名改称は以下のとおり。
文化財・遺構・史跡
→「練馬区指定・登録文化財一覧」を参照
治安・風紀の維持
2012年、東京都は練馬一丁目を都迷惑防止条例に基づき、客引きやスカウトのみならず、それらを行うために待機する行為なども禁止する区域に指定した[17]。
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世帯数と人口
2025年(令和7年)4月1日現在(練馬区発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年7月現在)[24]。
交通
鉄道
バス
- 練馬駅北口停留所
- 練馬一丁目停留所(国際興業バス)
- 赤01系統 - 練馬駅行、赤羽駅西口行
- 練95系統 - 練馬駅行、練馬北町車庫行
- 豊島園停留所
- 赤01系統 - 練馬駅行、赤羽駅西口行(国際興業バス)
- 練95系統 - 練馬駅行、練馬北町車庫行(国際興業バス)
- 練47系統 - 練馬駅北口行、成増駅南口行(西武バス)
道路
- 東京都道8号千代田練馬田無線(目白通り)
- 東京都道439号椎名町上石神井線(千川通り)
- 東京都道442号北町豊玉線(弁天通り・大門通り)
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事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[25]。
事業者数の変遷
経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷
経済センサスによる従業員数の推移。
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施設
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練馬一丁目
練馬二丁目
- 練馬区立南町小学校
- 練馬区立開進第二中学校
- 学校給食第二総合調理場
- 練馬二郵便局
- 練馬区立練馬保育園
- 練馬デイサービスセンター
- 中央大学練馬グラウンド
練馬三丁目
練馬四丁目
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その他
日本郵便
脚注
参考文献
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