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日本の女性皇族、明治天皇皇后 (1849-1914) ウィキペディアから
(しょうけんこうたいごう、1849年5月9日〈嘉永2年4月17日〉 - 1914年〈大正3年〉4月9日)は、日本の第122代天皇・明治天皇の皇后。諱は(まさこ)、のちに(はるこ)。お印は若葉。旧名は(いちじょう はるこ)。
昭憲皇太后 | |
---|---|
第122代天皇后 | |
皇后(中宮) |
1869年2月9日 (明治元年12月28日) |
皇后(皇后宮) | 1869年8月15日(明治2年7月8日)[1] |
皇太后 | 1912年(大正元年)7月30日 |
誕生 |
1849年5月9日 (嘉永2年4月17日) 日本 山城国平安京 一条烏丸東入・一条家 桃花殿 (現:京都府京都市上京区 京都御苑) |
崩御 |
1914年4月9日(64歳没) 日本 静岡県駿東郡静浦村(現:沼津市) 沼津御用邸 |
大喪儀 | 1914年(大正3年)5月24日 |
陵所 |
日本 京都府紀伊郡伏見町(現:京都市伏見区) 伏見桃山東陵 1914年(大正3年)埋葬 |
諱 |
→ |
旧名 |
|
追号 |
昭憲皇太后 1914年(大正3年)5月9日 追号勅定(大正天皇) |
別称 |
→ |
印 |
|
氏族 | 一条家(藤原氏) |
父親 | 一条忠香 |
母親 | 新畑民子 |
配偶者 | 明治天皇 |
結婚 |
1869年2月9日 (明治元年12月28日) |
子女 | なし |
養子女 | 大正天皇 |
身位 | 女御 → 皇后 → 皇太后 |
栄典 | 宝冠大綬章 |
宮廷女房 | 山川三千子 |
欧州の王侯貴族・貴婦人と対峙できるよう近代女子教育を振興し、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力した。皇后として史上初めて洋装をした。明治天皇崩御に伴い皇太后となり、1914年(大正3年)崩御(64歳)。嫡妻として明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした。
嘉永2年(1849年)4月17日、従一位左大臣・一条忠香の三女として誕生。生母は側室の新畑民子[注釈 1]。右大臣・一条実良(1835-1868年)の妹。徳川慶喜の婚約者であった千代君[注釈 2]、疱瘡のため千代君に代わって慶喜に嫁いだ美賀子[注釈 3]とは、義理の姉妹にあたる。
当初の名前は勝子(まさこ)。通称は富貴君(ふきぎみ)、富美君(ふみぎみ)など。安政5年(1858年)6月、皇女富貴宮の諱を避けるため、寿栄君(すえぎみ)と改名した。
美子の父である左大臣一条忠香は、天皇の御深曽木の儀の際に整髪の御役を務めた人物であり、早くから才女として知られた美子は、慶応3年(1867年)に皇后に内定していた。一条邸の跡地には今も美子皇后ご生誕の御産所跡が残されている[2]。
慶応3年6月28日(1867年7月29日)、新帝明治天皇(第122代天皇)の女御に治定。伏見宮家の縁故で、女流漢学者で勤王論者の若江薫子が家庭教師として忠香の娘たちの養育に携わっていたが、「女御を一条家から出すのに際し、薫子は姉を差し置いて妹の寿栄君を推薦した」と言われている。
明治元年12月26日(1869年2月7日)、美子(はるこ)と改名し、従三位に叙位。同月28日(1869年2月9日)入内して次のような女御の宣下を蒙り、即日、皇后に立てられた。
「一条美子女御宣下 女御藤原美子入内立后一件(女御入内備忘定功卿記)」
從三位藤原朝臣美子
右中辨藤原朝臣長邦傳宣
權中納言藤原朝臣公正宣
奉 勅宜爲女御者
明治元年十二月二十八日 中務少輔輔世奉(訓読文)従三位藤原朝臣美子(一条美=はる子 20歳)右中弁藤原朝臣長邦(葉室長邦 30歳 従四位下)伝へ宣(の)り、権中納言藤原朝臣公正(清水谷公正 60歳 正三位)宣(の)る、勅(みことのり 明治天皇 17歳)を奉(うけたまは)るに、宜しく女御と為すべし者(てへり)、明治元年(1868年)12月28日 中務少輔兼左大史小槻(壬生 58歳 正四位上)宿禰輔世奉(うけたまは)る、
―宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料(后妃4)』吉川弘文館所収
この際、天皇より3歳年長であることを忌避して、公式には嘉永3年(1850年)の出生とされた。当初、中世以来の慣行に従って中宮職を付置され、中宮と称されたが、翌年、中宮職が皇后宮職に改められ、称号も皇后宮(こうごうぐう)と改められた。この時を最後に、中宮職は廃止され、中宮の称号も絶えた。
明治6年6月19日には美子皇后と英照皇太后(孝明天皇准后)が群馬県の富岡製糸場視察のために皇居を出発、道中大雨により一時滞留したが、24日には富岡製糸場に行啓。富岡製糸場は明治5年にフランスから輸入した機械と蒸気機関を導入して操業した官営製糸場であり、全国から応募した士族の娘など500人ほどが工女として働いていた。ここで技術を習得した工女たちは日本各地の製紙工場に技術を広め、日本の機械製糸業の発展に寄与した[5]。製糸場を視察した皇后は「いと車とくもめくりて大御代の富をたすくる道開けつゝ」(糸車が早く回れば回るほど多くの生糸が紡ぎあげられ、この明治の御代の産業が興り、我が国は富を増やす道が開けるのです)という和歌を詠んでいる[5]。また皇后と皇太后は東京への還幸に際して埼玉県の養蚕農家にも立ち寄っている[5]。
井上馨外相の欧化政策の頃、女性の洋装化が進んだ。天皇はじめ男性の洋装化は、欧化政策が始まる前から、各行事の西洋化などに伴って急速に進行したが、女性の洋装化は遅れた。宮中についていえば、明治に入ってから長らく女性の参朝時の制服として定められていたのは「袿袴」(平安時代から宮中で着用されてきた小袿姿を簡略化して動きやすくしたもの)だったが、明治17年(1884年)に宮内卿に就任した伊藤博文は天皇は洋装、皇后は和装というアンバランスな状態に不満で、皇后宮大夫香川敬三を通じて皇后に洋装の説得にあたった。進取の気風に富む皇后は「国ノ為メナレハ何ニテモ可致」と述べていたが、天皇が「ナラヌ」と述べて退け、香川は困却した。これは「男女有別」といった天皇の儒教的・保守的な思想の表れだった。これまでも天皇は宮中を完全に西洋化させることにはしばしば反対を示してきた。たとえば、天皇は、西洋君主のように皇后を自分の隣に並立させることに積極的でなく、皇后には自分の後ろを歩かせ続けたし、玉座において天皇と皇后が同じ高さになることも認めなかった[6]。
天皇の反対のために皇后洋装化はなかなか実現できず、明治19年(1886年)5月19日の宮中正餐の段階でも皇后はまだ和装だった。しかし6月23日にようやく天皇のお許しがおり、皇后の洋服着用が決定した。皇后は7月30日の華族女学校行啓に際してはじめて洋装を着用した。これを境に皇后だけでなく、女官も洋装が目立つようになった。当時の宮中はファッションリーダーでもあり、皇后はじめ宮中の女性たちが洋装化することで、社会に伝播し、日本人女性の洋装化は進んでいった[7][8]。
皇后は女子の洋装化について思召書を出して次のように論じている。昨今の日本女子の和装は、南北朝時代以降の戦乱期が残した悪しき名残であり、今日の文明の世に適していないばかりか、古代の日本女子の服制とも全く異なるものである。欧州服装のように身体に纏う衣と、腰から下につける裳の両方そろっているものが、古代日本の旧来の服制である。よって女性服装の西洋化は実に日本の伝統に合致するのである[9][10]。
皇后がこうした思召書を出したのは、当時宮中の洋装化に反対する意見も多かったためである。東京大学医学部教授で皇室の侍医をしていたお雇い外国人のエルヴィン・フォン・ベルツもその一人で、彼は伊藤博文に「洋服は日本人の体格を考慮して作られたものではないし、衛生上からも婦人には有害である。なにしろコルセットの問題があり、また文化的・美学的見地からはお話にならない」と進言したが、伊藤は「ベルツさん、あんたは高等政治の要求するところを、何もご存じないのだ。もちろん、あんたの言ったことはすべて正しいのかもしれない。だが、我が国の婦人連が日本服で姿を見せると『人間扱い』されないで、まるで玩具か飾り人形のように見られるんでね」と答えている。坂本一登はこの伊藤の発言に注目し、「一国を象徴する皇后の身体表現は、国内向けにあるべき行為の模範を示すとともに、国際政治とも密接に絡み合っていた。すなわちここには、日本が西洋列強の文化人類学的興味の対象となることを拒否し、対等な文明国として扱われることを主張する、切実で断固とした意思表示が存在しているのである」と論じている[11]。
また洋装になった頃から皇后の政治的役割も変化し、従来は関与しなかった男性的な分野にも関わっていくことが増えた。顕著なのは軍事分野である。明治19年11月26日には洋装の皇后が天皇に随って神奈川県長浦を行啓し、巡洋艦「浪速」「高千穂」に試乗し、機砲発射などの海軍演習を観覧している[注釈 4]。さらに水雷試験場では魚形射も観覧している。皇后はここで「水雷火を」と題した「事しあらば みくにのために 仇波の よせくる船も かくやくだかむ」という一首を詠んでいる。皇后が軍事的な和歌を詠むのはこれが初めてであった[10]。
1912年(明治45年)7月30日、明治天皇が崩御し、皇太子嘉仁親王の践祚および皇太子妃節子の立后と同時に皇太后となった。
1914年(大正3年)4月9日午前2時10分、沼津御用邸にて狭心症のため[17]崩御。公式には4月11日同時刻。丸2日ずらされたのは、当時の収賄で司直の手が及びかけていた宮内省内蔵頭である宮内大臣渡辺千秋を急遽更迭させるための措置であった。
同年5月9日、宮内省告示第9号により「昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)」と追号され[注釈 5]、翌年5月1日に、夫の明治天皇と共に明治神宮の祭神とされた。
それまでの皇后は公の場に出ることも公務を担うこともなかったが、明治政府の意向で、美子皇后は欧州の皇后に倣って医療や教育の奨励活動を手掛けた[18]。宮中顧問官として政府が雇ったドイツ貴族オットマール・フォン・モールによると、元宮廷女官だった自身の妻を皇后のもとに週一回通わせ、プロイセン王国王妃兼ドイツ皇后アウグステの活動を皇后に紹介し助言したという[18]。美子は明治維新期の皇后として、社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現:学習院女子中・高等科)や、お茶の水の東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与した。慈善事業の発展に熱心で、東京慈恵医院や博愛社(現在の日本赤十字社)の発展に貢献した。[19]
赤十字の日本国内における正式紋章「赤十字桐竹鳳凰章」は、紋章制定の相談を受けた際、皇后が大日本帝国憲法発布式で戴冠したパリの高級宝飾店ショーメ制作のフランス製の宝冠のデザインが、桐と竹の組み合わせで構成されていた事から、日本近代化の象徴として「これがよかろう」という自身の示唆で、さらに皇后を象徴する瑞獣である鳳凰を戴く形に決定されたという。
1912年(明治45年)、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.にて第9回赤十字国際会議が開催された際、国際赤十字に対して皇后は10万円(現在の貨幣価値に換算すれば3億5000万円ともいわれる。[要出典] 資金としては現在(2021年時点)のおよそ1億1400万円に相当[注釈 6]。)を下賜した。赤十字国際委員会はこの資金を基にして昭憲皇太后基金を創設した。この基金は現在も運用されており、皇后の命日に利子を配分している。
皇后として欧化政策の先頭に立たなければならない立場を強く自覚し、1886年(明治19年)以降は、着用の衣服を寝間着を除いて全て洋服に切り替えた。洋服を率先着用した理由としてもう一つ、「上半身と下半身の分かれていない着物は、女子の行動を制限して不自由である」という皇后自身の言葉も伝えられている。
能楽、美術、工芸の発展にも心を配り、日清・日露戦争に際しては、出征軍人や傷病兵に下賜品を与え、慰問使を送った。和歌や古典文学にも造詣が深く、創作した短歌(作歌)は3万6000首に上るが、その一部は『昭憲皇太后御歌集』に見ることができる。
「皇后」、「皇太后」、「太皇太后」の3つの身位の序列は、大宝律令では「1.太皇太后、2.皇太后、3.皇后」の順と定められていたが、皇族身位令制定によって「1.皇后、2.太皇太后、3.皇太后」の順に改められ、諡号・追号には生前帯びていた身位のうち最高のものをつけることになった。
皇后であった彼女の追号は、本来なら「(しょうけんこうごう)」となるはずだった。だが、崩御時に大正天皇の勅定により贈られた追号は皇族身位令に従っていない「(しょうけんこうたいごう)」であった。
こうなった理由は、孝明天皇の正妻であり明治天皇の「実母」(嫡母)だった英照皇太后の追号が「皇太后」だったことから、誤ってそれに倣って命名してしまったものといわれている。英照皇太后は正妻ではあったものの、立后の意向を示した孝明天皇に幕府が反対して皇后には冊立されず、女御・准三宮のみを宣下され、明治天皇の即位に伴って皇太后とされたので、その追号は正確なものだったが、女御宣下と同時に立后された昭憲皇太后にはこれは当てはまらない。また、皇族身位令自体が1910年(明治43年)に制定され、そのわずか4年後に崩御したので、いまだその内容が充分に定着していなかったことも影響していると考えられる。
昭憲皇太后を祭神とする明治神宮は公式ホームページで「宮内大臣が昭憲さまのご追号を皇后に改めないで、『昭憲皇太后』としてそのまま大正天皇に上奏し御裁可となった」「この上奏の時点で間違いが生じました」として当時の宮内大臣の不手際を挙げている(上述の通り、昭憲皇太后が崩御した4月9日に宮内大臣が渡辺千秋から波多野敬直に交代しており、4月11日に崩御の事実が公表された)。
追号は勅裁(天皇の裁定)により定められたものなので、誤りが判明しても「綸言汗の如し」としてこれを改めることが出来ず、現在に至っている。明治神宮は、1920年(大正9年)と1963年(昭和38年)の2度にわたって「昭憲皇后」への改号を当時の宮内省、宮内庁に要請しているが、いずれも却下されている。
皇族身位令は1947年(昭和22年)に廃止されたが、1951年(昭和26年)に崩御した貞明皇后(皇太后節子)は、旧皇族身位令に準じて生前の最高位が皇后だったことを反映した追号を贈られている。また、2000年(平成12年)に崩御した香淳皇后(皇太后良子)も同様に同令に準じて生前の最高位である「皇后」の追号を贈られている。
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